宮澤喜一 エピソード

宮澤喜一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 02:15 UTC 版)

エピソード

池田勇人との関わり

宮澤の前半生は池田勇人抜きに語ることはできない。広島県出身の父・裕は同郷で政友会の重要な政治家望月圭介の秘書官を務めたことがあり、また裕の義父(つまり喜一の祖父)小川平吉も望月と親交があった。一方、池田家は広島における望月の有力な支援者であり、望月を介する形で池田家と宮澤家は縁を深め、裕が池田勇人の最初の結婚の世話をするなど、彼らは単に郷里の友人以上の関係となっていった。もともと外務省か内務省を志望していた裕の長男・喜一は、父を通じた池田の強い勧めで大蔵省に入省、以来二十余年に及ぶ池田との縁の始まりであり、とくに戦後池田の秘書官となって以後はその死まで常に側近として仕えた。

政界入りにも池田の意向が大きく働いた。池田通産大臣の不信任に殉じるように大蔵省を退職した宮澤に対して、池田は参議院選挙への出馬を勧めた。この時池田が「2区の俺の地盤と3区の君のお父さんの地盤をあわせれば参議院広島選挙区で当選できるよ」と言ったという逸話が残っている。

官僚であった占領時代に、通訳や渉外担当としてGHQなど米国各機関との折衝に関わって、基地提供を提案したことで知られる池田蔵相の訪米(1950年)やサンフランシスコ講和会議(1951年)、また参議院議員となった後も、再軍備問題を巡る池田・ロバートソン会談(1953年)や、池田の総理大臣就任後の池田・ケネディ会談(1961年)など、戦後日本の針路を決定付ける重要な局面にいずれも池田側近として立ち会ったため、「戦後政治の生き字引」[注釈 1]などといわれる[18]

政治スタンス

ハト派的な政治家とされることが多く、自衛隊の海外での武力行使は自衛の場合に限るべきという見解を基本的には維持していた(「憲法9条が禁じているのは海外での武力行使であり、それ以外は何でも出来る」という逆説的な言い方ではあるが)。それは戦争を知る世代としての思いが背景にある[19]。しかし一貫した親米派・日米同盟論者でもあり、1996年には既に集団的自衛権の限定的行使は合憲であると東大を卒業しながらも述べ、違憲論を「学者バカ」の議論だと批判していた[注釈 2]。国連の常任理事国入り問題に関しては、本人は慎重派と思われるが、推進派の外務事務次官が従兄弟の斎藤邦彦だったこともあり、特に意見を言わなかったという[20]

保守本流の有力者として期待され続け、42歳での経済企画庁長官就任を皮切りに早くから閣僚を歴任していったが、政府経験の豊富さとは裏腹に党務にかかわることは少なく(中曽根総裁の下で、2年間総務会長を務めたのみ)、保守合同以前の吉田派以来の党人派や、池田・大平と同世代の政治家にもっぱら党務は委ねていた。中曽根内閣において、派としてしばしば宮澤の幹事長就任を要求したにもかかわらず、中曽根が一本釣りで田中六助三役入りさせるなどした背景には、中曽根の宮澤嫌いに加え、そうした仕事が向かないと判断されたこともある。また派内掌握については、大平正芳前尾繁三郎に加え鈴木善幸といった有力な政治家がしのぎを削る中、積極的に行動を起こすことは少なく、同世代で早くから派閥を継承した田中角栄や中曽根には大きく遅れをとることになった。宏池会内では、前尾繁三郎と比較的親しく、大平とは微妙な関係であった。佐々木義武伊東正義など大平側近とは、世代間対立もあり総じて関係は悪く、また、田中六助とは一六戦争と呼ばれる抗争を巻き起こしている。伊東らとは後年和解しているが、これは田中角栄や中曾根に対する大平側近の反抗意識の結果、宮澤が担がれたという消極的理由に発する所が大きい。

加藤紘一は大平側近として知られ、個人としての宮澤は加藤よりも河野を後継に望んだとされるが、いわゆるKK戦争における宮澤の煮え切らない態度は、河野洋平の離脱による派閥分裂を招いた。加藤の乱では、田中六助直系の古賀誠と結ぶ形で、加藤を失脚させている。加藤の乱では、大平女婿の森田一は加藤に就いており、宏池会内抗争の系譜が現代まで影響を及ぼした側面もある。

総理退陣直前、田中秀征の仲介で次期総理となる細川護熙軽井沢で8月17日に会談して、政権政党の交代に伴う国政の混乱回避を図った[21][22][23]。のみならず、2009年に田中が明らかにしたところによると、細川は頻繁に宮澤と会って政権運営について指南を受けており、細川政権は実質的に宮澤との共同運営だった。非自民連立政権の内実に関する重要な証言である。田中秀征は師事した宮沢喜一元首相の冷静で俯瞰的な判断力を高く評価している[24]

早坂茂三の『宰相の器』によると、田中角栄は「彼(=宮澤)は秘書官だ。秘書官としては一流だった。しかし、それだけだ。政治家ではない」と評したという。

石原慎太郎は政治家として宮澤を敬遠しており、著書『国家なる幻影 わが政治への反回想』(上・下、文藝春秋のち文春文庫)で批判している。

2005年に出版された『ハト派の伝言―宮澤喜一元首相が語る政治的認識』(中国新聞社刊)では、当時の小泉純一郎首相に対して、靖国神社参拝について国民に対する説明責任を果たしていないと批判したり、憲法改正問題について国民の間で議論が尽くされていないと指摘し、国際協力についても、日本は自衛隊による武力協力よりも経済的協力が得意分野だと指摘するなど、当時の自由民主党で主流になっていた政治的指向を批判していた。そのため現実主義者としての政治家の顔を覗かせていたといえる。

気性

穏和そうな外見もあり、大人しめの印象を与えるが、それとは裏腹に負けず嫌いで毒舌家な一面も知られている。

車中で池田蔵相と宮澤秘書官の議論が感情的になり、外は土砂降りなのに池田が宮澤に「降りろ!」と怒鳴り、宮澤も「降りません!」と最後まで食い下がったこともあった[25]。池田の通夜において、宏池会事務局長で後に大平正芳のアドバイザーを務める伊藤昌哉が、宏池会会長の前尾繁三郎に対して「宏池会から総理総裁候補を群生して出すようにしてほしい」と述べたとき、宮澤が「それはおかしい。池田の後は複数ではなく単数だ」(あくまで前尾中心の派であるべきとの意)と口をはさんだことから、宮澤と伊藤の応酬が取っ組み合い寸前まで至り、前尾が仲裁して収まったこともある[26]。1970年代の外務大臣在任時、ソ連の古強者グロムイコ外相との北方領土交渉では、のらりくらりと話をはぐらかそうとするグロムイコを恫喝して席につかせたという伝説がある(『北海道新聞』でグロムイコが「なんと頑固か」と述べた)。また1984年3月、当時64歳だった宮澤は立正佼成会の会長秘書を騙る自称「ジャーナリスト」の男(当時54歳)とホテルで面会、ナイフを突きつけられた上、30分にもわたる取っ組み合いをし、灰皿で殴られるなど全治3週間の負傷をしながらも、一人でその男を取り押さえたという事件がある。

一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や、自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家小森龍邦による「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒した。『芸備人権新報』(1999年9月10日号)には、「(小森)……ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだという べきでしょうね……宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだったでしょうね……」とある。

御厨貴によると宮澤は頭が良過ぎて他者を見下したような態度を取るため慕う人があまりにも少なかったという[13]

数々の放言

宏池会の政治家として酒豪ないし酒乱の逸話が存在する。宮澤の死後、長女・啓子は、文藝春秋に掲載された随筆の中で、「皆さんご存知のとおり、父は酒乱でした」と書いている。

大平正芳が総理に就任した頃、宮澤は酔った勢いで「大平君が総理・総裁とは滑稽だ」と言い放ち、これを伝え聞いた大平は宮澤と口を利かなくなった。2人は元同僚で池田勇人の秘書官時代からの仲だったが、宮澤は池田の盟友で東大の先輩である前尾繁三郎黒金泰美に近く、大平が前尾が継承した宏池会を実力で奪い取った経緯があることから、微妙な関係にあった。秘書官時代も大平が渉外を担当し、政策を宮沢が主に担当していたことや、東大卒の宮沢が、苦学して東京商科大学(現・一橋大学)を卒業後に大蔵官僚となっていた大平を軽視していたという説もある。大平の方が宮澤よりも9歳年上で、派内の人望も大平が勝り、池田も宮澤以上に大平を好んだといわれる。宮澤が大平に時折みせた屈折した優越感は、そうした政界における劣等感の裏返しでもあった。

海部俊樹が首相在任中には、「海部さんは一所懸命おやりになっておられるけど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」と発言し、この発言を伝え聞いた海部はいたく立腹したという[27]

田村元には「酒を飲んだ時の宮澤なら十年早く政権取れていた」と言われたことがある[13]

「人に会うと学歴を聞く」などと言われ、出身大学にまつわる放言も多かった。東京農学校東京農業大学の前身)出身の金丸信について「偉い方ですよ。大学を出ているんですね。知ってました?」と皮肉を言い、竹下登については「あの方、県議出身でしょう。あのころ早稲田は無試験でした。僕の義父(伊地知純正)が商学部の部長でしたから嘘ではありません」などと酒席で語ったのを田勢康弘が伝えている[28]

また、金丸に対しては、1991年の総裁選を控え、経世会の支持が死活的に重要だった時期にも関わらず、面会すると第一声、「金丸先生は農大を出ていらっしゃる。そいつはお出来になりますなあ」と言い放ったという。金丸がいい気分であったはずがないが、「まあ表門から入って裏門から出たようなもんですがね」ととぼけ、悩んだ末に「国民の声」を考え、総裁選では宮沢を支持した[29]。竹下もまた、無試験のネタを直接宮澤に言われたこともあり、「あれは許せない」と怒っていたという[30]

番記者にも出身大学を訊き、東京大学卒でも法学部卒ではない場合、「ほう、近頃じゃあ法学部じゃなくても東大って言うんですか」などと嫌味を言い、その後、マス・メディア各社の間で、宮澤の番記者を東京大学法学部の卒業者にする動きが見られた。

宮澤政権下では学歴に関する宮澤の過去の言動が批判され、大蔵省キャリア新卒採用者に占める東大学生の上限を全体の半数程度とすることとなった。

日韓W杯招致に尽力

旧制中学時代にサッカー経験があり、サッカー好きで国内である大きな試合にはよく顔を出していた。このため1994年(平成6年)12月に発足した超党派のワールドカップ招致国会議員連盟の議員会長に就任した(副会長、森喜朗久保亘小沢一郎)。超党派というのはこれ以前、1992年(平成4年)3月に小沢らを中心に国会議員招致委員会が、これに先んじて発足したものの、新進党主導で運動が始まったことで自民党が反発、運動は盛り上がらなかったため。1994年(平成6年)の超党派招致連盟の発足で政界も一致団結し、大きな運動となっていった[注釈 3]

世界中を駈けずり回ったのは長沼健日本サッカー協会会長(当時)らだったが、国際的にも顔が広い宮澤も多くの国を訪問し、実現に向けて協力を行った。また共催に向けての重要な局面に於いてもアドバイスを送り、最終的に日韓共催を決断した鳩首会談に長沼、岡野俊一郎川淵三郎小倉純二衛藤征士郎釜本邦茂と参加し、共催を後押した[31]

英語屋の面目

「政界随一」と謳われた宮澤の英語力だったが、海外留学や英語の専門教育を受けた経験などはない。本人によると、東大時代に日米学生会議の日本代表の一人に選ばれて渡米したところ、それまで勉強してきた英語がほとんど使い物にならないことが分かり、一念発起して本格的に英語の勉強を独学で始めることにしたのだという。日中戦争から第二次世界大戦中にかけて、英語が「敵性語」として一般には排斥されていた時代にも、手に入る洋書や英字誌は片っ端から読むようにした。戦後の占領が始まると、GHQとの交渉ができる大蔵官僚として引っ張りだこになり、毎日のように英語を使う日々が続いたという。

議員になってからも、議員会館の食堂やロビーでは英字新聞や英字誌を読んでいるのが常だった。あるとき背後から、いきなり強い口調で「日本の国会議員なら、日本語の新聞を読みなさい!」と叱咤されたことがある。宮澤が振り向くと、そこには当時まだ新人議員だった浜田幸一が眉を吊り上げていた。しかしいちゃもんを付けた相手が宮澤と気づいて、今度は浜田の方が大いに慌てた。そんな浜田に向かって宮澤は、「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞ぐらいはお読みなさい」とやり返している。浜田はこれに感化されて、しかし自分は英語はまるでダメなので、代わりに息子の浜田靖一をアメリカの大学に留学させることにしたという[注釈 4]

外国首脳や大臣との会談の席では、外交プロトコル上は必ず通訳を同席させることが決まりごとになっているが、宮澤はそれでもなどの首脳とは、いちいち通訳の言うことを待たずに一対一で会話を主導した。あるとき大臣として外遊した際、同行した別の閣僚に付いていた通訳に不安を感じた宮澤は、その一言一句をしっかりと横耳で聞いていて、誤訳があると間髪入れずに訂正を入れたという逸話もある。そうした完璧主義が災いしてか、宮澤の英語力を煙たがる官僚や代議士が永田町には少なくなく、特に宮澤嫌いだった田中角栄からは「英語屋」と呼ばれて通訳並みに見下されていた。

宮澤が総理在任時の1992年1月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が来日した。2日目の総理官邸での晩餐会の席上、ブッシュが突然隣に座っていた宮澤の膝の上に嘔吐した上、椅子から崩れるように倒れるという椿事が起こり、しかもその映像が全世界に配信されたため、各方面に衝撃が走った。翌朝、官邸に詰めかけた内外の報道関係者を相手に、宮澤は一人で記者会見に臨み、30分近い状況発表と質疑応答のほとんどを英語で行った。宮澤の説明は、現在の大統領の容体から、来日前からインフルエンザで体調不良だったこと、日中に皇居内で明仁天皇皇太子徳仁親王を相手にテニスをしたことで体力を消耗していたこと、そして晩餐会席上の様子や食事の内容に至るまで、極めて詳細かつ専門的なものだったが、その語り口は沈着冷静でいかにも堂に入った様子だった。前代未聞の大統領の醜態に蜂の巣を突いたような状態になったアメリカのメディアも、膝に吐かれた当の総理本人が淡々と説明しているの見て、これなら心配はないだろうとすぐに落ち着きを取り戻している。次のクリントン大統領は宮澤と一度だけ会談しているが、その際この時の宮澤の対応ぶりを賞賛している。

国際会議や交渉の場を重ねるうちに宮澤はフランス語の必要性を痛感して、中年を過ぎてからその勉強を始めている。本人は「志半ばで終わった」としているが、官僚、国会議員、閣僚、そして総理と、長年にわたって多忙な日々を送っていたにもかかわらず、常日頃から仕事の合間には勉強を怠らなかったことは多くが認める宮澤の徳目の一つである。

皇室

宮中における内閣の認証式の際、明仁天皇を前にした宮澤は極度に緊張していたという。他人に対して時に尊大な態度を取ることもあった宮澤だったが、皇室尊重の念は人一倍強かったものとされる[注釈 5]

漢詩

英語通とされるが、宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んで漢詩を引用する。宮澤は「わたしは英語通となっていますが、実は小さいころ漢学を習いましてね、どちらかといえば東洋的な思想が好きなんです。その漢学に王道と覇道というのがあるんです。つまり総理大臣という一国の宰相になるには自分でなろうとしてなるものでなく人から押し上げられて就く天命みたいなものだと思ってます。人を押しのけてまでというのは、わたしの性にあいませんね」と述べている[32]

また、総理退陣の時の心境として、王昌齢の「一片の氷心玉壷にあり」を挙げた。

揮毫

「財務省」の銘板

中央省庁再編で大蔵省が財務省と名称変更されることになると、当時蔵相だった宮澤は「コンピュータの楷書体の文字の中からいろいろと注文をつけながら」(当時の武藤敏郎事務次官の談)書体を選定[33]した。それまで門前にかかっていた「大蔵省」の銘板は、新憲法下で初の蔵相を務め宮澤の師でもあった池田勇人の筆によるものだった。宮澤が選定した銘板は、その後2016年(平成28年)に財務大臣の麻生太郎が自ら揮毫するまで掲げられた[34]

ある時、達筆で知られる宮澤が「政界で一番書く字が上手なのは岸(信介)さんでしょう」と述べると、政治部の記者が「田中(角栄)氏や福田(赳夫)氏や大平(正芳)氏の書く字はどう思われますか」と質問した。すると宮澤は小首をかしげて「あなたは、あれが字だと仰るんですか?」と切り返したというエピソードがある[35]

小説

宮澤は城山三郎の2つの小説のモデルになっている。学生時代の宮澤をモデルにしたのが『友情力あり』、大臣時代をモデルとしたのが『官僚たちの夏』に登場する「矢沢経済企画庁長官」である。

やる

総理時代、テレビ朝日サンデープロジェクト』に出演し、田原総一朗から政治改革法案問題に関して「今の国会(1993年通常国会)でやるのか」と訊かれ、「私はやるんです。この法案(政治改革関連法案のこと)を何としても成立させたいんです」と冷静な宮澤にしては珍しく気色ばんで答えた。これがきっかけとなって自民党内が混乱し、1993年の政界再編の引金となったといわれる(参照:嘘つき解散[注釈 6]

感想

森内閣で国土庁長官扇千景が作業服の地味さに苦言を呈し、もっと見栄えの良いものにするよう部下に指示した。その後、新しい作業服を扇自らが着用してマスコミに披露したが、その件について感想を求められた宮澤は「あの方は何を着ても似合うから」と答え、その場を沸かせた。一方、2000年5月の「神の国発言」のときは、やはり記者会見で首相の発言に対するコメントを求められた際に、「神様は大蔵省の管轄外だから」と返答して記者団の笑いを誘った。




注釈

  1. ^ これらの体験の多くは、著書『東京―ワシントンの密談―シリーズ戦後史の証言・占領と講和〈1〉』(中公文庫)に収められている。
  2. ^ 佐瀬昌盛『集団的自衛権』(PHP新書)参照。また2001年に行われたサンフランシスコ講和会議50周年の式典では、会議出席者唯一の生存者としてスピーチを行い、「個別的自衛権の論理的延長として、集団的自衛権を位置づけることを提案する」と述べ、部分的な集団的自衛権の行使を容認すべきだと主張、それを日米関係の21世紀への遺言であるとした。
  3. ^ この時、誘致の「顔」を宮澤に譲るよう小沢に頭を下げに行ったのが、当時文教族の中堅だった麻生太郎だった(讀賣新聞、2009年2月22日、4頁)。
  4. ^ 浜田がテレビや雑誌のインタビュー、著作などでたびたび紹介しているエピソード。
  5. ^ 『聞き書 宮澤喜一回顧録』(岩波書店、2005年)でも、昭和天皇への尊敬の念を語っている。
  6. ^ 田原はこの件について「結果として宮澤さんに迷惑を掛ける事になってしまった」と宮澤の死後、雑誌『リベラルタイム』で語っていた。
  7. ^ 日比谷高から早大を経て建築家になった(『文藝春秋』2010年10月号)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 宮澤喜一 略歴
  2. ^ 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』48頁
  3. ^ 城山三郎著『友情力あり』
  4. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 206頁
  5. ^ 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』69頁
  6. ^ 『新・護憲宣言:21世紀の日本と世界』朝日新聞社、141頁
  7. ^ 戸川猪佐武小説吉田学校』、小坂徳三郎田中角栄への説明として記述
  8. ^ 伊藤昌哉 『自民党戦国史』中巻 朝日文庫 pp.242-248 、毎日新聞記者から著者への確認取材による(1985年、原著1982年)
  9. ^ 伊藤昌哉 『自民党戦国史』下巻 朝日文庫 p.85 (1985年)
  10. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P25
  11. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P35
  12. ^ 銭其琛著濱本良一訳『銭其琛回顧録:中国外交20年の証言』3,p129、東洋書院、2006
  13. ^ a b c d 文藝春秋2018年二月号、~竹下から安倍まで~ 総理17人のベスト3 御厨貴後藤謙次、167頁
  14. ^ 冨森叡児『戦後保守党史』(岩波現代文庫、2006年)352頁
  15. ^ 戦後初の自衛隊海外派遣は、海上自衛隊のペルシャ湾派遣である。
  16. ^ 八幡和郎『歴代総理の通信簿』(PHP新書)宮沢の項
  17. ^ “宮沢喜一元首相が死去”. 朝日新聞. (2007年6月29日). http://www.asahi.com/special/07-08/news2/TKY200712010200.html 2020年1月21日閲覧。 
  18. ^ 6月号 「宮沢喜一と戦後日本」 - 三井物産戦略研究所 | 寺島実郎の発言[リンク切れ]
  19. ^ 田中秀征「自民党本流と保守本流」P123
  20. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P117
  21. ^ 田中秀征の一筆啓上 第36回「宮沢先生の思い出 前代未聞 倒閣した細川内閣に引き継ぎ」 2007年7月2日
  22. ^ 田中秀征「自民党本流と保守本流」P118から119
  23. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P115~116
  24. ^ 田中秀征「判断力と決断力」まえがき
  25. ^ 伊藤昌哉 『池田勇人とその時代』 朝日文庫 (1985年)p.284
  26. ^ 伊藤昌哉『自民党戦国史・上』 朝日文庫(1985年)pp.14-17
  27. ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(新潮新書、2010年)
  28. ^ 「宮沢さんの無愛想の魅力」『FACTA』2007年8月号
  29. ^ 岡崎守恭『自民党秘史』(2018年、講談社現代新書)
  30. ^ 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』(文春文庫)
  31. ^ 宮沢喜一氏(元首相)が老衰のため死去 - おくやみ : nikkansports.com 私の履歴書 川淵三郎 W杯共催と宮沢氏の思い出 - 六川亨のフットボール覚書 『新時代へのキックオフ』仮野忠男著、角川書店、2001年9月。 『サッカー批評』長沼健回顧録、32号、33号、34号、双葉社、2006年-2007年。
  32. ^ 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 204頁
  33. ^ 平成12年12月21日. 武藤事務次官記者会見の概要
  34. ^ 財務省、新しい看板に。麻生氏が揮毫 産経新聞2016年6月6日
  35. ^ 田勢康弘『豊かな国の貧しい政治』
  36. ^ (3ページ目)DAIGO×宮澤エマ「おじいちゃんは総理大臣。家族に〈政治家になれ〉と言われたことは?」|芸能|婦人公論.jp” (日本語). 婦人公論.jp. 2020年9月2日閲覧。
  37. ^ 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』49頁
  38. ^ 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 445頁
  39. ^ 福山誠之館・宮沢裕
  40. ^ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』 442頁
  41. ^ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』 446-447頁
  42. ^ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』 447頁
  43. ^ 特定商取引法に基づく広告表示有限会社クラブサー
  44. ^ a b c d 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』59頁
  45. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』』 209頁
  46. ^ a b c d 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 205頁
  47. ^ 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 209頁
  48. ^ 広瀬隆『私物国家 日本の黒幕の系図』 (光文社、2000年、362頁)





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