宮澤喜一と田中六助とは? わかりやすく解説

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宮澤喜一と田中六助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:55 UTC 版)

一六戦争」の記事における「宮澤喜一と田中六助」の解説

1951年昭和26年)のサンフランシスコ講和会議全権随員として参加するなど、秀才官僚として早くから将来嘱目されていた宮澤喜一対し田中六助頭角現したのは1970年昭和45年)の「大平クーデター」によってである。このとき宏池会会長前尾繁三郎激しく非難し大平正芳交代させた気運形成した人物田中であった。こうして大平側近となった田中は、1978年昭和53年)の第一次大平内閣内閣官房長官として入閣スポークスマンとして「おしゃべり六助」の異名取った宮澤田中両者とも毒舌家で敵も多く作ったが、秀才肌の宮澤と、侠客肌の田中は、同じ宏池会属しながら人脈対照的となる傾向があった。前尾派時代も、上記通り大平であった田中対し宮澤はあくまで前尾中心の派閥指向していた。また、宮澤は同じ大蔵省出身福田赳夫気に入られていた一方で福田ライバルである田中角栄から嫌われており、逆に田中六助角栄中曽根康弘との間を取り持つようなことができた。 1980年昭和55年)、大平現職総理・総裁のまま急死するそれまで宮澤の名前は総裁候補としてしばしば上がっていたが、田中は、それまで主に党務畑を歩んでいて総裁候補として認識されていなかった鈴木善幸担ぎ出す鈴木田中角栄に近い立場として知られていたが、田中六助岸信介根回しをし、反角栄陣営中核であった福田派了解得た。これにより田中六助鈴木内閣成立立役者となった鈴木内閣実現功労により、田中通商産業大臣就任するが、内閣官房長官起用されたのは宮澤であった。こうして宏池会後継者をめぐり田中宮澤のあいだで競争勃発するその後鈴木善幸宮沢縁戚関係を結ぶ一方で田中中曽根康弘接近していった。宮澤との競争加熱し宮澤主宰する派閥横断的議員グループ平河会」に対抗し田中も「新世代研究会」を結成するなど張り合った1982年昭和57年中曽根総裁のもとで、田中政調会長をつとめる。一方で分派活動懸念を受け、宮澤平河会座長を退き新世代研究会活動休止となったロッキード事件判決受けた1983年12月総選挙自民党後退したあとには幹事長二階堂進交代余儀なくされたが、その後任には宮澤田中の名が取りざたされ、鈴木伊東正義鈴木派としての宮澤推薦中曽根康弘袖にされる形で、田中就任している。この一連の経緯憤激した鈴木二階堂擁立構想に動くこととなる。 しかし田中幹事長就任後、病にたおれ1984年昭和59年東京女子医大病院入院二階堂擁立構想崩れ中曽根再任となるものの、病床幹事長職の継続断念1985年昭和60年1月糖尿病悪化に伴う心筋梗塞死去する1986年昭和61年)に宮澤宏池会会長就任したことで、「一六戦争」は終わりを告げたのである

※この「宮澤喜一と田中六助」の解説は、「一六戦争」の解説の一部です。
「宮澤喜一と田中六助」を含む「一六戦争」の記事については、「一六戦争」の概要を参照ください。

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