宮澤喜一と田中六助
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1951年(昭和26年)のサンフランシスコ講和会議に全権随員として参加するなど、秀才官僚として早くから将来を嘱目されていた宮澤喜一に対し、田中六助が頭角を現したのは1970年(昭和45年)の「大平クーデター」によってである。このとき宏池会会長の前尾繁三郎を激しく非難し、大平正芳に交代させた気運を形成した人物が田中であった。こうして大平側近となった田中は、1978年(昭和53年)の第一次大平内閣で内閣官房長官として入閣、スポークスマンとして「おしゃべり六助」の異名を取った。 宮澤・田中両者とも毒舌家で敵も多く作ったが、秀才肌の宮澤と、侠客肌の田中は、同じ宏池会に属しながら人脈が対照的となる傾向があった。前尾派時代も、上記の通り大平系であった田中に対し、宮澤はあくまで前尾中心の派閥を指向していた。また、宮澤は同じ大蔵省出身の福田赳夫に気に入られていた一方で福田のライバルである田中角栄から嫌われており、逆に田中六助は角栄と中曽根康弘との間を取り持つようなことができた。 1980年(昭和55年)、大平が現職の総理・総裁のまま急死する。それまで宮澤の名前は総裁候補としてしばしば上がっていたが、田中は、それまで主に党務畑を歩んでいて総裁候補として認識されていなかった鈴木善幸を担ぎ出す。鈴木は田中角栄に近い立場として知られていたが、田中六助は岸信介に根回しをし、反角栄陣営の中核であった福田派の了解を得た。これにより田中六助は鈴木内閣成立の立役者となった。 鈴木内閣実現の功労により、田中は通商産業大臣に就任するが、内閣官房長官に起用されたのは宮澤であった。こうして宏池会の後継者をめぐり田中と宮澤のあいだで競争が勃発する。その後、鈴木善幸と宮沢が縁戚関係を結ぶ一方で、田中は中曽根康弘に接近していった。宮澤との競争も加熱し、宮澤が主宰する派閥横断的な議員グループ「平河会」に対抗し、田中も「新世代研究会」を結成するなど張り合った。 1982年(昭和57年)中曽根総裁のもとで、田中は政調会長をつとめる。一方で、分派活動の懸念を受け、宮澤は平河会座長を退き、新世代研究会は活動休止となった。ロッキード事件判決を受けた1983年12月の総選挙で自民党が後退したあとには、幹事長の二階堂進が交代を余儀なくされたが、その後任には宮澤と田中の名が取りざたされ、鈴木や伊東正義ら鈴木派としての宮澤推薦が中曽根康弘に袖にされる形で、田中が就任している。この一連の経緯に憤激した鈴木は二階堂擁立構想に動くこととなる。 しかし田中は幹事長就任後、病にたおれ1984年(昭和59年)東京女子医大病院に入院。二階堂擁立構想は崩れ、中曽根再任となるものの、病床で幹事長職の継続を断念。1985年(昭和60年)1月に糖尿病の悪化に伴う心筋梗塞で死去する。1986年(昭和61年)に宮澤が宏池会会長に就任したことで、「一六戦争」は終わりを告げたのである。
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