宮澤内閣の番頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:00 UTC 版)
1992年12月に宮澤改造内閣で法務大臣に就任。派閥に属していないにもかかわらず一本釣りにあった格好で、第3次中曽根内閣で内閣官房長官を務めて以来となる久々の入閣であった。当初は行政改革の担当としての入閣の打診であったが中曽根内閣の経験からこれを断り、既に高齢であることから後藤田にとって負荷が「軽い」ポストを希望したことにより、官僚でのキャリアで習得した法務の知識が活かせる法務大臣を充てがわれたという経緯であった。しかし1993年4月に副総理兼外務大臣の渡辺美智雄が病気のため辞任すると、法相としては異例ながら副総理を兼務し、大物大臣として閣内において存在感を示した。 法相在任中は、1989年11月の死刑執行から死刑執行停止状態(モラトリアム)が続いていたことについて「法治国家として望ましくない」との主旨の発言をし、1993年3月に3年4ヶ月ぶりに3人の死刑囚に対する死刑執行命令を発令した。法相在任中に、警察庁長官として事件解決に携わった連合赤軍事件の永田洋子と坂口弘の死刑が確定した時期であったことも注目された。ロッキード事件においては田中の公判検事であった吉永祐介を検事総長に起用するという人事を承認した。またカミソリといわれた官僚時代と異なり、法相就任後は好々爺の雰囲気をかもし出し国民からも親しまれた。 しかし、選挙制度改革をめぐり、かつて政治改革に共に取り組んだ羽田孜らのグループの造反により宮澤内閣不信任決議案が可決される。羽田・小沢一郎らは自民党を離党し、新生党を結党。また、同じく政治改革を推進してきた武村正義・鳩山由紀夫らのグループは、内閣不信任案には反対票を投じたものの、羽田らに次いで離党し、新党さきがけを結党した。1993年7月18日の解散総選挙の結果、自民党は羽田派の集団離党によって過半数を割りこんでいた自民党は議席を伸ばせず、55年体制が終焉した。 選挙責任を問われた宮澤の後任の自民党総裁として後藤田を推す声が再び上がったが、このころ心臓発作を起こして一時入院していたこともあって固辞し、宮澤と相談のうえで河野洋平を指名することとした。その結果河野が総裁に就任し、後藤田はその指南役を務めた。
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