浪花節語りとは? わかりやすく解説

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浪曲

(浪花節語り から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 06:40 UTC 版)

浪曲(ろうきょく)は、日本明治時代初期から始まった演芸で、「浪花節」(なにわぶし)とも言う[1]三味線を伴奏にして独特の節と語りで物語を進める語り芸(話芸)。一つ30分ほどである。


  1. ^ 「SF作品も本質は意外に浪花節なのではないかと思いました」。プロダクション・アイジー石川光久社長インタビュー『日経MJ』2017年1月4日。
  2. ^ しかし、熊本県立大学理事長の五百旗頭(いおきべ)真(近代日本政治外交史)は昭和天皇の考え方を「浪花節」と例える。「退位させるのは責任があったからであり、責任があった私人となれば戦犯のナンバーワンとして引き出される」と話す。木戸の「封印」は当然だった。『毎日新聞』東京朝刊2017年1月5日3頁「考・皇室:憲法と歩む/7」。
  3. ^ 「音楽、主人公たちが歩く街の情景、浪花節的に片づいたりしない人間関係。さまざまな場面に独特の乾いたにおいがふっと漂う」。『読売新聞』東京夕刊2017年1月27日11頁[映画]破門 ふたりのヤクビョーガミ=松竹ほか 味のある「迷コンビ」。

注釈

  1. ^ 浪曲(浪花節)のNDC分類は最新の10版に於いても、大衆芸能の下にある「779.15」である。
  2. ^ 新幹線以前限定である。
  3. ^ 教養主義とは、文化の享受を通して人格を高めようという考え方である。当時の日本の教養主義の源流は明治時代の修養主義であり、明治末期(二十世紀初め)から特に高学歴者に普及し、高学歴層が自分たち一般庶民から差別化しようする意識から高学歴層に固有の文化となっていった。差別化というのは自分たちを上に置くわけであるから、特権化という方がわかりやすいであろう。古川隆久『戦時下の日本映画』p.25-26。
  4. ^ 「荷風と音楽」『季刊芸術』12(3)p.111
  5. ^ 伝統邦楽界では一般的である「家元制度」に象徴される分派主義(杵屋正邦「一邦楽系作曲家の体験的発言」『科学と思想』1976(10)p.322とは様相を異にしている。
  6. ^ 現代人からすれば「歌う」であるが、詳しくは語りものの項に説明があるので参照のこと。
  7. ^ 浪曲師と曲師がどう呼吸を合わせて演奏しているかは国本武春『待ってました名調子!』に詳しい。東家みさ子(p.46-54)、岩崎節子(p.96-99)、沢村豊子(p.100-103)の項などを参照のこと。
  8. ^ 相三味線は歴史的に配偶者、つまり女房が多かった。このケースは2024年の時点で比率は減っているが、東家一太郎における東家美、三代目広沢菊春における広沢美舟などの例も散見される。
  9. ^ 現代に向かっていく中で、高野東海や山本太一など男性の高名な曲師もおり、また曲師不足に起因するフリー曲師の増加もあり、現在は組合せに特別なものはない。
  10. ^ 『日本浪曲史』南北社版(1968年刊)p.373(中川明徳による補章)は、天龍三郎がギター奏者をつけ始めたことを批判的に書いており、その頃より始まり、一手法として京山幸枝若など上方に定着した様子がうかがえる。
  11. ^ 「コロニア浪曲」。細川に頻出。
  12. ^ 『痴遊雑誌』に転載された「浪花節漫語」の上欄、北村大巴(浪花容峰)の寄稿にもあるように、古くから関西で「浪花節だから浪花(大阪)」と単純化をする傾向が見られる。出典:『痴遊雑誌』復刻2巻p.882。
  13. ^ 東西の境を超えた巡業的屋に似て少ない。出典:『テキヤはどこからやってくるのか?』(ISBN 978-4334037956)p.21。
  14. ^ 『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』にも「うかれぶしさわぎ」という名の今の浪花節とは別の音曲(演者・立花家圓左衛門、富士松ぎん蝶)の収録がある。同じ演者にある「浮世節」の別称であろう
  15. ^ 同時期に寄席に登場したオッペケペーの浮世亭○○こと川上音二郎娘義太夫などと比べても明らかである。
  16. ^ 現在の上野駅構内。1882年(明治15年)11月に閉鎖される。
  17. ^ 明治期に入り火除地となる。明治23年には日本鉄道の貨物駅用地となる。
  18. ^ 采女橋脇に空き地があった
  19. ^ 今の新橋駅日比谷口近辺
  20. ^ 佐竹藩の屋敷跡。現在の台東区台東『竹町の人とくらし(台東区文化財調査報告書 第18集)』台東区教育委員会文化事業体育課、1995。
  21. ^ 本所の津軽藩屋敷跡。今の墨田区緑図書館の近辺
  22. ^ いずれも後に周辺に寄席が出来ている
  23. ^ 中村幸彦1983p.300
  24. ^ 明治5年とする石谷華堤説と明治10年以降とする平林説が主にある。全容については芝清之『浪花節 東京市中・寄席名及び出演者一覧』の冒頭を参照のこと。しかしながら「遊芸稼人」の歴史における重要な明治8年刊『諸芸人名録』に浪花節の名はなく、それ以降に結成されたと具体的に推定できる。
  25. ^ 節談説教の演目と重なり、その影響がうかがえる。
  26. ^ 東京・神田「市場亭」、浅草雷門「新恵比寿亭」が共に開場するのが明治25年。 出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』。
  27. ^ 芸人同士の深刻な対立ではなく、合併興行をする場面も多くあった。
  28. ^ 消えた芸能として挙げた(倉田喜弘などの研究)。
  29. ^ 実際には今でいうブレーン的役割を果たした。
  30. ^ この上京の前、佐世保での公演後に二人は別れ、宮崎は「白浪庵滔天」の名を芸名としても使い、後に伊藤痴遊一心亭辰雄と関西巡業している。
  31. ^ 警視庁統計書』によれば当時1904年の東京市内の寄席は135軒。1日あたりの平均客数は昼席45人、夜席73人。それに対し、東京市内の劇場は大劇場が7座、小劇場が12座存在し、1日あたりの平均客数429人で一幕見を加えると、719人。出典:上田学『日本映画草創期の興行と観客』早稲田大学出版部、2012年3月30日。ISBN 9784657120045 p.70。
  32. ^ 正岡容「雲右衛門以前」は『日本浪曲史』のプロトタイプと呼べる作品である。その集成にもある。
  33. ^ 活動写真大流行「戦争後は火が消えたような活動写真がにわかに復活し、市内至る所に楽隊の囃子賑わしく、興行場はどこも大入り大繁盛。(中略)芝居に飽き、寄席に飽き、浪花節に飽き果て」た結果である。と書かれる状況になる。原典:『東京朝日新聞』1908年8月24日。年表下p.188。
  34. ^ 三波春夫の歌舞伎座公演2年目の1966年谷屋充作『風流奈良丸くづし』
  35. ^ これは創立間もない講談社が速記から創作(今に至る路線である)に転じる重要なきっかけとなる
  36. ^ 『講談社の90年』には、明治44年「講談倶楽部」創刊号には「浪花亭重松」で速記掲載があったが、問題の大正2年の増刊「浪花節十八番」発売記念の浪花節芸者大会に「木村重松」で出演していることが確認できる。
  37. ^ 一部で定説化した「大正6年12月20日付の『都新聞』紙上で初めて使用された」という事実は無いが、直後の年明け大正7年1月3日付には同紙上で記述を発見できる。関西でも大正9年8月18日付の『大阪毎日新聞』にある。その頃既に浪曲の世界を「浪界」と呼ぶ記述は見られ、「浪界」の初出は明治41年6月15日『福岡日日新聞』よりは以前。以上は芝清之『新聞にみる浪花節変遷史』明治編、大正編でも確認可能。
  38. ^ 当時、流行していた天才少年浪曲師が楽屋に増えた事に対する言葉だという異説あり。
  39. ^ また1930年(昭和5年)10月に浪花節「大和魂・国勢調査」吉田大和之丞、コロムビア。年表下。
  40. ^ 二代目東家楽遊の浜町御殿や鼈甲斎虎丸の中野御殿、また、初代雲月の唐津の大邸宅の一帯が「雲月町」と呼ばれていた例、戦後に寿々木米若の伊東温泉割烹旅館「よねわか荘」など。また、大和之丞(二代目奈良丸)が中心となって1935年(昭和10年)京都で大石神社を創建した例がある。
  41. ^ その様は、梅中軒鴬童『浪曲旅芸人』などに詳しい
  42. ^ 他に、当時レコードを活用し音楽(主にクラシック)の講演(今でいうレコードコンサート)をしていた田辺尚雄のエピソード。明治末年には「地方の講演は」「学校の講堂でやる」。「蓄音器を一台」準備を頼むと「レコードは浪花節か端唄か民謡」しかないが用意しときますと返事されたという。初めて聞く交響曲やピアノソナタ、オルガン曲に非常な驚きを示したと。田辺尚雄『明治音楽物語』p.301)
  43. ^ 日蓄は内憂(ラジオの脅威)外患(電気吹込という新システムを利用した外国レコードの参入)を抱えていた。出典:『昭和演歌の歴史』p.74欄外
  44. ^ a b 1924年秋に常務理事に就任した新名直和が打ち出した番組編成方針により、浪花節はその人気が排除の対象となる。新名は「放送の目的は、教養・報道・娯楽」であり「この鼎の三本足が相俟ってやっていくべきものと思うが、その中で最も中心となるべきものは教養である」との見解を表明するとともに、当時根強い人気を誇っていた浪花節をはじめ、小唄や常磐津などを「社会の悪」として放送しない方針を打ち出した。このためニュースに続いて、当初逓信省が想定していた伝統音楽や伝統芸能のいくつかも番組の候補から脱落した。原典:「座談会・放送事始」での新名の証言。『放送文化』1960年3月号.また浪花節は、宮家から放送の要請があるまで一度も放送されないほど徹底して除外されていた。(日本放送協会編『放送五十史年資料編』日本放送出版協会、1977年)出典:戸ノ下達也/長木誠二『総力戦と音楽文化』p.198
  45. ^ 国会図書館「れきおん」に多数録音が残されている
  46. ^ 吉川潮『江戸っ子だってねえ 浪曲師廣澤虎造一代』日本放送出版協会。1998年10月24日。ISBN 978-4140053089。「第7章 血煙田島町」p.168-189
  47. ^ 戦時ラジオのプロパガンダによる戦争責任を考える論文に愛国浪曲が1文字も無い。
  48. ^ 大会の存在自体に疑問符
  49. ^ 存在自体に疑問符が付く
  50. ^ またこう書く人もいる。「日本はポツダム宣言にもとづいて連合国に占領されることになった。(中略)天皇自ら天皇の人間宣言を行い、平和主義に徹し(中略)昭和20年9月13日、GHQの民間情報教育部(局)からの通達につぎのような内容が含まれていた。『尚演芸放送に関しては地方放送に於ても実施するを認められ居るも之が取扱に付ては当分の間純娯楽的なるものを主とし講談、浪曲、放送劇等に於ても軍事的好戦ものはなさざること』」p.238「この占領政策によって、義理人情や義侠の精神などの日本固有の価値観が否定された。浪曲はこの急速に衰退することになった。だが、戦前、戦中を生き抜いてきた日本人の価値観がそう簡単に消え去るものではなかった。日本人の底に流れる心情の世界を代弁する浪曲・浪花節はやがて、流行歌の形式を借りて新境地を開拓し義理人情の世界を表現するようになる」p.239欄外『昭和演歌の歴史』戦後の民放ラジオによるラジオ浪曲ブームを軽視し、敗戦とともに浪曲は終わった、とする立場
  51. ^ 「銭形平次」(ラジオ東京 - 文化放送)は異例の長期間にわたる番組であった。脚本は全て国友の自作
  52. ^ 1.漫才学校 ABC 57.5 2.浪曲ごもくめし NJB 44.8 3.浪曲演芸会 NHK 41.3 4.お好み演芸会 NHK 40.3 5.明色歌謡ゲーム ABC 38.9 6.ラジオ浮世亭 ABC 38.1 7.アベック歌合戦 NJB 38.1 8.ラジオ寄席 NHK 38.0 9.おしゃれクイズ ABC 36.2 10.三つの歌 NHK 35.7 11.浪曲名人会 ABC 35.7 12.五九童のおばあちゃん NJB 35.0 13.お笑い街録 ABC 34.8 14.アチャコの自叙伝 34.4 15.歌の二人三脚 ABC 34.4 16.お蝶さん NJB 33.3 17.お好みヒット・メロディ ABC 32.9 18.浪曲シリーズ NJB 32.5 19.浪曲トクホンアワー ABC 31.2 20.のんき裁判 NJB 31.1 (55年2月『3社共同調査』より) 原典:朝日放送社史編修室『朝日放送の50年 Ⅰ本史』p.60 出典:辻一郎『私だけの放送史』p.26。なお52.12.20に朝日放送は新日本放送、電通大阪の3社共同で放送調査委員会を設け、翌年1月21日から1週間にわたって、阪神地区の「ラジオ聴取状況調査」をおこなっている。これは民放ではじめての本格的なマーケット・リサーチであり、調査対象を世帯でなく個人としたのが特色であった。『朝日放送の50年 Ⅰ本史』p.65
  53. ^ 流しであるが、小沢昭一『日本の放浪芸』p.352-354
  54. ^ (関西で)「昭和20年代半ば、浪曲は急速に人気を失った」と明記あり。ワッハ上方『上方演芸大全』p.58
  55. ^ その間、入門者がいなかった訳ではないが、浪曲界に居続け大成した者はいない。
  56. ^ 多くの一門芸脈(鼈甲齋など)の消滅に悪影響は現れている。
  57. ^ 多くは大学卒業など他の演芸同様に高学歴化が進む。例として木村勝千代(木村松太郎門下)は10歳で松太郎に入門し、その後専修大学文学部国文科を卒業しており、学業と並行し浪曲師としても活動している[222]
  58. ^ 実際に一番弟子の玉川わ太(わだい)、二番弟子の玉川き太(きだい)は落語芸術協会の前座としても所属し、特にわ太は2023年7月17日の浅草演芸ホール夜の部の開口一番で『阿漕ヶ浦』を演じた(曲師は太福も担当する玉川みね子が務めた)。太福のツイートによれば、(落語主体の東京の)定席寄席で浪曲師の前座が開口一番を演じたこと自体が初めてであったという[226]
  59. ^ この特徴的な声については、『日本の古典芸能 9 寄席』p.44に中村幸彦による説明がある。
  60. ^ 正確には、よく言われるような(理想的な)浪曲師の声としてのシオカラ声・しわがれ声・ダミ声は誤り。
  61. ^ 現在の西洋音階が絶対視される状況に於いての「美声」とは違う。
  62. ^ 音声ファイル 32分00秒付近
  63. ^ コピー芸という批判的な文脈が未だ使われる。出典:『東京人』380号p.43-46
  64. ^ 虎造節は、時の試練を越えて保存会が結成・活発な活動がなされている
  65. ^ BGM 国本p.11
  66. ^ 一話を一段と呼ぶ
  67. ^ それを逆手に取ったのが、初代京山幸枝若の巧みな芸であった。実際には無いのに「この後続きはレコードで」などがある。出典:国本p.84
  68. ^ 「本日のお外題は」という形で演題名を紹介することも多い
  69. ^ 読みのみ一定していて、表記に揺れが見られる場合はカタカナで表記するルールに基づく
  70. ^ 主に歌舞伎大向う義太夫の慣習からの移行と考えられる。
  71. ^ もちろん例外もあり、雲右衛門は入道姿で舞台をこなした例、同様に東武蔵や玉川勝太郎が袈裟姿で高座をこなした例もある。
  72. ^ 芝居における引幕、落語における後幕、相撲の化粧回しと同じくファンが浪曲師に送る物があり、寄贈者名が記してある事が多い。浪曲師個人で所有。国本p.137
  73. ^ 更に「浪曲大会」などの格式張った舞台になると、テーブルの両サイド、離れた位置にさらに小さなテーブルを置き、松の盆栽を置く。
  74. ^ 関西では一風亭初月、関東でも沢村豊子・佐藤貴美江・玉川みね子が、時おり出弾きを披露する。
  75. ^ 曲師を隠すのは、明治時代活躍した桃中軒雲右衛門が、曲師をしていた美しい妻を観客が狙わないように隠したことに由来するという俗説があるが、実際にはそれ以前に美当一調が始めた。出典:安田宗生編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
  76. ^ 三味線を持つ曲師は、ついたて無しに右隣に座る。
  77. ^ 最初は釈台を使ったが、後には釈台もなく語った [265]
  78. ^ 落語家との共演が多い玉川太福がテーブル掛けを座り高座用に畳み、披露している。
  79. ^ 浪曲作家は浪曲史研究家を兼ねるケースが非常に多く、その著作数は多い
  80. ^ 京山若丸作。広島県矢野村に住む貧しい小作農夫、松岡のもとに召集令が下り、病気の妻と幼子2人を残し戦地へ。周囲は冷たく、高利貸に罵倒されて誰の助けもなく、仕事先の組頭にも残す家族の世話を断られる。妻は夫の心残りを察して、2人の子供も殺して自分の元へ送ってくれと書き遺して自殺していた。悲しみのうちに松岡が子供に手をかけようとする間一髪、ただ一人の理解者である警官が飛び込んで松岡を諭す。様子を聞いていた高利貸も飛び込んで非を詫び、松岡は出征していく。日露戦争後の社会の疲弊と成金の出現を痛烈に批判した全く架空の話だが、そのリアルさゆえモデルの松岡を名乗る男ができるほどヒット。関東では東家楽燕、関西では天光軒満月がそれぞれ脚色して受け継ぐ。出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.292欄外
  81. ^ また関西テレビの節に浪曲ジャンルの出演者として鉄砲光三郎も入れられている。放送演芸史p.297。なお、章末の放送演目一覧表には独立して「音頭」の項目がある放送演芸史p.314
  82. ^ 昭和30年から50年ごろまで、東西のコマ劇場で大勢の観客を集めた公演には必ずといっていいぐらい劇中劇があった。誰でも知っている芝居の名場面のパロディで、コメディアンと演出家の腕のみせ所だった。劇中劇にもいろんな切り口があるのだが浪曲(フシ)劇は必ずうける定番であった。当然のことだが浪曲劇は浪曲がうまくないとおもしろく展開しない。浪曲がまだまだ盛んなころだったから、笑いものにされるために出てくれる浪曲師などいるわけはない。というわけで劇中劇の浪曲劇は、コメディアンで浪曲のできる人がいないと成立しないから、いまではやれなくなってしまった。あのころは堺駿二が見事な節で、「港家小柳丸の実弟だもの」と教えてもらって納得した。玉川良一さんは家号の通り玉川一門で、〽利根の川風、タモトにエレテエ・・・・・・をギャグにしていたぐらいだから浪曲劇はお手のものだった。雁之助さんは五条家金玉師匠が組んだ浪曲劇の一座でやっていたというから本物である。一度だけねだって雁之助さんが劇中劇で「神崎与五郎・東下りの場」を浪曲劇でやってもらったことがある。 浪曲師・芦屋雁之助 三味線・岩崎節子 神崎与五郎・宮川大助 茶店の婆さん・間寛平 馬子丑五郎・芦屋小雁 馬の足・芦屋雁平 という配役である。 沢田隆治『私説大阪テレビコメディ史』p.23-24
  83. ^ 戦中である1943年(昭和18年)末に発表された大日本興行協会の全国統計によると、浪曲専門の一座は255座、浪曲・漫才の座は49、浪曲及び舞踏は4、浪曲劇専門は41、時代劇と浪曲劇を併演するものは12。出典:『実録 浪曲史』p.118 ★要確認
  84. ^ 戦前はこちらが詳しい
  85. ^ キネマ旬報年間ベストテンには、戦前に浪曲でもおなじみの主人公の映画がいくつかランクインしているが、「浪曲映画」は戦前戦後を通して数少ない。参考サイト
  86. ^ 浪曲そのままのタイトル、浪曲師でもある2代目友衛のヒット曲であるが、歌謡浪曲の特徴は備えておらず、その点もあってか浪曲の範疇には取られないことが多い.
  87. ^ 本調子であり、浪曲とは異なっている
  88. ^ 司会の芦川淳平が書いた『浪曲の神髄』に放送リストがある
  89. ^ いずれも1クール(3ヶ月)程度の短いもので、テレビでも人気が定着したとは言い難い
  90. ^ 浪曲を愛好してそのもの真似をやりたがるのは、農村を含めた全国の庶民だった。『ものまねの歴史』p.219
  91. ^ 浪曲の世界ではまず先人の節まねから入り、徐々に自分の節使いを創造していくのが常道である。節まねは特別なものでなく、今でも二代目東家浦太郎など、高座の余興で披露する場合がある。
  92. ^ 「雲右衛門の弟子で雲太夫といった人が、(柳亭)左楽さんの門下になって、信楽を名乗った。本名を鈴木政吉という。今西の正蔵がこしらえた『墓誌』に出ております」出典:三遊亭円生『寄席切絵図』(引用者補足:桃中軒雲太夫といえば東家楽燕のことであり、おそらく芸談の類であろう)
  93. ^ 弟子筋に当たる古今亭志ん輔が継承し現在も寄席で演じることがある
  94. ^ 言わずもがなだが、地元の清水次郎長伝→虎造→森の石松の連想が強力に働いたと思われる。
  95. ^ 小、坊については修行中を表す意味が強く、その名を持つ浪曲師だけを集めた大会もしばしば開かれた。(唯1999, p. 90)
  96. ^ =東西の両協会(日本浪曲協会と浪曲親友協会)への名前登録の有無
  97. ^ 東三光は本来、京山華千代初代春野百合子の師匠の名前である。

出典

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  2. ^ 出典:小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』「浪曲」秩父久方
  3. ^ 公益社団法人浪曲親友協会「浪曲とは」
  4. ^ 日本浪曲協会主催で度々開かれる大会等イベントは「笑う浪花節vs. 泣く浪花節」
  5. ^ 東京人』380号、p.16
  6. ^ または浪曲家(ろうきょくか): 三波美夕紀『昭和の歌藝人 三波春夫――戦争・抑留・貧困・五輪・万博』(さくら舎、2016年5月14日 ISBN 9784865810523)p.25
  7. ^ 国本、p.43-44
  8. ^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』付属冊子。p.23
  9. ^ 稲田、2014、p.123
  10. ^ 山折哲雄【「歌」の精神史】第3回「浪花節と演歌」『中央公論』2005年7月号
  11. ^ 「一時期はこの国の大衆演芸のトップを占め、黄金時代とよばれる全盛期を、なんどもくり返しつかんだことの浪花ぶしなのに、この国の知識人からひどくうとまれさげすまれて来た浪花ぶしである」(大西、p.8)
  12. ^ 稲田、2014、p.122。主に雲右衛門、楽燕の亜流による『義士伝』『乃木将軍』などの押しつけがましさによると推測されている。
  13. ^ 『定本』p.26.
  14. ^ 『定本』p.25.
  15. ^ 『定本』p.26.「文反故」
  16. ^ 墨東奇譚』で浪花節嫌いを明言している。
  17. ^ a b 「日本から抹殺すべきもの」アンケートに「浪曲」と回答。『群像』1950年2月号。(唯1999, p. 326)
  18. ^ 1942.7.7 聖戦5周年楽壇総動員大演奏会、交響詩曲「皇軍頌歌」作詞三好達治、作曲山田耕筰・諸井三郎・山田和男・尾高直忠・市川都志春、於国技館、主催東京日日新聞、陸海軍軍楽隊、後援陸海軍省、情報局」ラジオ放送された。『日本近代芸能年表(上)』p.120、『下』p.299。
  19. ^ 「久保田万太郎先生は『私は浪花ぶしといふものが大嫌ひである』と明記。(以下略)『定本』p.26
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  21. ^ 中野朗『変奇館の主人』響文社、1999年11月、310頁。 
  22. ^ 『清水みなとの名物は―わが心の劇団ポートシミズ』
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  40. ^ 「平成の浪曲時代がやってきた!」『東京人』380号p.12
  41. ^ 「落語に続け」浪曲人気復活、自由な表現で活気づく日本経済新聞』2017年5月8日夕刊16面
  42. ^ a b 『浪曲は死んだ』から2年、木馬亭には若い女性客が増加」『週刊ポスト』2017年9月15日号
  43. ^ 真鍋2017p.6
  44. ^ 秩父重剛『浪花節大全』p.3
  45. ^ 雲右衛門は凱旋の頃にはフシを関東節から九州の芸も取り入れ、関西節の低調子に切り替えた。出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.287。
  46. ^ 唯1999, p. 12.
  47. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.8。木魚を用いてリズミカルに歌うのが、特に「阿呆陀羅経」といわれた。
  48. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』
  49. ^ その源流として古くから伝わる節談説教声明。さらなる源流として大陸伝来の京調(きょちん)、打鈴(だいしん)。出典:三波春夫『歌藝の天地』p.
  50. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.9。内容は尽くし物や芝居の段物、「色里名寄せ」「役者づくし」「小春紙治紙づくし」「鎌倉山(佐野の隠れ家)」「女盗賊(笠松峠)」「尾張源内(明石鉄砲)」「巡礼殺し(八鬼山峠)」等がある。
  51. ^ 『定本』p.37-44
  52. ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.284。浪曲の章は執筆:芦川淳平
  53. ^ 出典:倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代―「遊芸」から「文化」へ』p.152
  54. ^ 中村(1983)p.302-303。なお、1)蝶浮連節=浮れ節=チョンガレで興行届を同じ代表が書いている。2)届けに浅草在の「浪花節」の鑑札の写しがある(届けの年月日不明)。
  55. ^ 江戸東京で「ウカレブシ」の呼称では駄目な理由をきちんと説明した文献は関東側には一つとしてなく、雑誌『上方』144号(1943.(1))の「関西浪花節の今昔」に「江戸名物の都々逸、大津絵、甚句、などが『浮かれ節』として」あったためとあり、これが明確な説明である。出典:『日本近代歌謡史』p.2258-2260。
  56. ^ 「明治7年麻布の寄席「福井亭」に春日井松之助・八木亭清歌が出演したことが端緒」という異説あり。『万有百科大事典 3』p.385.文責は河竹登志夫
  57. ^ 異説として、神田橋の寄席「渡辺亭」。出典:高橋博『大衆芸能』p.95。
  58. ^ 1873年(明治6年)には両国広小路の見世物小屋が禁止された 出典:海野弘『東京の盛り場』(2000)p.22
  59. ^ 小沢昭一『写真集 昭和の肖像<芸>』(ISBN 4480876324)p.13.
  60. ^ 『定本』p.203に伊藤高麗右衛門の記載あり。
  61. ^ 唯1999, p. 4-6.
  62. ^ 唯1999, p. 26.
  63. ^ 原典:大我居士『貧天地飢寒窟探検記』(飢寒窟編)p.14、出典:上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
  64. ^ 唯、p.9。「雲入道一代」『二六夕刊』1912年(大正元年)8月27日 - 9月4日まで7回?6回連載を確認済み。
  65. ^ 『上方芸能』(136)p.28
  66. ^ 明治25年に番付あり。『定本』p.78
  67. ^ 『定本』p.83
  68. ^ 出典:『近代日本芸能年表 上』p.95。『萬朝報』『読売新聞』など当時の在京紙の多くの紙面に残っている。
  69. ^ その場に実地見学でいた一心亭辰雄の回想録によれば、講談の邑井貞吉が『南部坂』をやったという。(上記新聞記事に講談の出演記載無し)駒吉は『仙台の鬼夫婦』を演った。(『浪花節一代』, p. 63-65)
  70. ^ 吉川潮『江戸っ子だってねえ 浪曲師廣澤虎造一代』(1998年刊)p.22によれば、明治26年。柳亭左楽を筆頭に落語・講談連合から開催に強硬に反対する意見が出たが、円遊の仲介で手打ちになったという。
  71. ^ 「○猶敗北の例をいはば、浪花節といふもの、都の中央にては大ろじといふに折々かかるのみなりしが、この程は宴席の余興にも召されて、これが寄席に旦那様奥様の黒の羽織を見ること、敢えて珍しからずと聞く」。発表は『太陽』明治30年10月号、確認済み。出典:坪内祐三編『明治の文学 15 斎藤緑雨』(筑摩書房 2002年)p.410。
  72. ^ 大円朝こと三遊亭圓朝も出演した大店である。出典:三遊亭圓生『寄席切絵図』。
  73. ^ 1885年(明治18年)3月下席には早くも美弘舎東一、浪花亭駒吉が出演している。出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』。
  74. ^ 萬朝報』1900年(明治33年)10月13日付。出典:兵藤『<声>の国民国家・日本』。確認済。
  75. ^ 『うなる』p.106
  76. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』によれば明治24年。
  77. ^ 浪花亭駒子(一心亭辰雄)の回想録。(『浪花節一代』, p. 24-25,70-71)。
  78. ^ 正岡容『日本浪曲史』p.180-181「明治31年、浪花節界は感情的にもつれ、愛進舎、共盛会の二派に分かれ、三十五年和解したがさらに同志会が生まれ、この派には楽遊や小楽や小福や重子(初代重正)も属したが(以下略)。
  79. ^ 活動写真の日本初は1896年(明治29年)11月17日
  80. ^ 松竹株式会社『歌舞伎座百年史 資料編』p.53
  81. ^ 安田宗生 編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
  82. ^ 唯1999, p. 334.
  83. ^ 来日したグラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグによる。以下はその復刻版。『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』TOCF 59051。
  84. ^ 原典:『朝日新聞』1906年10月2日。(唯1999, p. 10-11)
  85. ^ コトバンク「源氏節」
  86. ^ 唯1999, p. 39.
  87. ^ 秩父久方によれば「当時の壮士演説会のようすを模倣し、芸能的にショーアップしたものであろう」出典:「浪曲」『日本大百科全書』18巻p.531。
  88. ^ 岡本和明『俺の喉は一声千両』
  89. ^ 寄席の入場料が十の時代に、一等一円の料金を取り、最初の5日間で費用を回収、それ以降は入場料がそのまま利益という近代興行界最大の快挙であった。出典:倉田喜弘「浪曲」『日本音楽大事典』平凡社
  90. ^ 派手な宣伝は相当なもので、東京市中に「日本一の奈良丸」とビラなどで告知、関東の浪花節語りは一斉に反発しビラを叩き落として回ったという逸話が残る。出典:『定本』p.139。
  91. ^ 1908.2.11 浪花節、吉田奈良丸、新富座、宣伝文句の「日本一」で浪花節界紛糾(~2.25)[二六新報]『年表』上、p.140。
  92. ^ 1908年(明治41年)6月15日。『福岡日日新聞』によれば当年13歳。
  93. ^ 1910年(明治43年)6月27日。『福岡日日新聞』によれば12歳。
  94. ^ 1911年(明治44年)9月29日。『河北新報』によれば13歳。
  95. ^ 成人し、後に娘が天津羽衣
  96. ^ 唯1999, p. 8の表2.
  97. ^ つまりレコードも上・中流階級から普及し、隠れるように浪花節を聴いたのである。(『日本近代歌謡史』, p. 3, 別冊付録「日本流行歌大系・略史」)
  98. ^ 山口亀之助『日本レコード発達史』p.164
  99. ^ 倉田喜弘『日本レコード文化史』
  100. ^ 明治26年頃には「どんどん節」は流行っている「たいちようドンドン節」。円車の節を織り込んだ「新どんどん節」は明治44年に流行。歌詞も掲示。歌本あり。(『日本近代歌謡史』, p. 2237,2267-2279, 下巻)
  101. ^ 「奈良丸は、美しく語り、歌った。大衆はひたすら恍惚と聴き惚れた。その感激が、かの笹やぶしの流行となった。俗にいう奈良丸くずしである。〽笹やささ、ささは要らぬか煤竹を、大高源吾は橋の上浪花節〽あした待たるる宝船」但しこの流行は大正3年。浪花節の流行歌としては、三河家円車のどんどん節に遅れること数年である」定本p.140
  102. ^ 大正3年から4年。(『日本近代歌謡史』)
  103. ^ 『日本のうた 第一集 明治・大正』p.221によれば、最後の一節が奈良丸の浪花節の節調をそのまま採り入れている。また三番の歌詞「月が出た出た月が出た/セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」はのちの『炭坑節』の元となった。出典:「東京のうた.84 奈良丸くずし」『朝日新聞』1968年5月1日
  104. ^ 『ものまねの歴史』p.216
  105. ^ 山口亀之助『レコード文化発達史』録音文献協会〈昭11〉、1936年、21頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1231268  なお『定本 日本浪曲史』によれば、これは幟に書かれた演者本人が吹込みをしたものではなく、鼈甲斎雲竜による節まねであったという。
  106. ^ 1913.8.17このころ雑誌『講談倶楽部』が浪花節を掲載、講談師は反発して講談の提供を止めようと決議[二六新報]。典拠:『近代日本芸能年表』上p.158
  107. ^ 講談社社史編纂委員会『『講談社の90年』』、60-61頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003569348-00 
  108. ^ 背景には、浪花節がその社会的地位を一足飛びに上げていく中で、そのネタ元として、講釈師の高座やその速記本を大いに利用していたこともある。(唯1999, p. 303)
  109. ^ 法律新聞
  110. ^ NHKで「浪花節」から「浪曲」へ言い換えるようになったのは1957年(昭和32年)のことである。『放送演芸史』p.61
  111. ^ 正岡容『日本浪曲史』p.135、井上剣花坊川柳
  112. ^ 『定本』p.116
  113. ^ 上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
  114. ^ 安田宗生『国家と大衆芸能』p.13
  115. ^ 『大阪朝日新聞』1920年(大正9年)8月21日付、『都新聞 同年8月23日付など
  116. ^ 1920年10月レコード「国勢調査」吉田奈良丸.東洋蓄
  117. ^ 奈良丸の渡米は1917年(大正6年)。3月8日サイベリア丸で鹿島を立ち、5月13日SFユーイングフィールド野球場にて邦字紙『新世界』主催読者大会で口演。7月8日ウィルソン大統領に単独面会、後の首相・原敬の後押しで。その後アメリカ・ビクターで吹き込み。出典:『浪曲の神髄』p.97-105。
  118. ^ 唯1999, p. 25.
  119. ^ 移民一世を中心に第二次世界大戦後も一定の人気を保ち続け、「コロニア浪曲」と呼ばれる現地制作のレコードも作られた。出典:細川周平『遠きにありてつくるもの―日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』みすず書房 2008年。
  120. ^ 『世界大百科』
  121. ^ 1912年(明治45年)3月17日、神田・市場亭にて「安中草三」を6時間に及ぶ通し読みをし、一躍名を上げた。出典:『二六新報』1912年3月15日夕刊、同3月20日夕刊。
  122. ^ 日蓄は大正14年6月、帝国蓄音器、三光堂、東京蓄音器の3社を合体させ、合同蓄音器が発足した(8月3日設立)同様にスタンダード蓄音器、イーグル蓄音器が統合した。出典:『昭和演歌の歴史』p.75欄外
  123. ^ (『日本近代歌謡史』, p. 3794-3795)
  124. ^ 音楽評論家中村とうようは、レコードが本格的に商品になった時期を1927年から1929年にかけてとみている。真鍋2017 p.91
  125. ^ 大正15年晩秋、ニッポノホンから発売された「君恋し」がヒットし始める。出典:『昭和演歌の歴史』p.74。この前の時期の表。
  126. ^ 歴史的音源
  127. ^ 1921(大正10)12.4報知童謡音楽会「青い眼の人形」本居みどり、帝劇、主催報知新聞〔報知〕年表上p.188
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  131. ^ コトバンク
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  140. ^ コトバンク
  141. ^ コトバンク
  142. ^ a b 公開実験放送の段階にも登場している。東京・上野不忍池で1924年(大正13年)10月30日に東家楽燕の「南部坂雪の別れ」 原典:南利明「”浪花節“放送局の実態 草創期のJOCK」『放送研究と調査』1983年10月号p.56.(唯1999, p. 不明)
  143. ^ 唯1999, p. 48表5に、日本近代芸能年表下p.76で補正.
  144. ^ 1926年4月13日、逓信省聴取者嗜好調査(人数)講談1054、落語1018、浪曲756、義太夫749、ラヂオドラマ707、上記以外の邦楽2550、洋楽338。年表下p.79
  145. ^ http://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E3%81%AE%E7%8C%AB%E9%A8%92%E5%8B%95
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  148. ^ 堀江誠二『悪声伝 広沢瓢右衛門の不思議』p.171
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  150. ^ 『浪花節一代』, p. 283-288, 雲井吉雄「浪曲学校と私たち」.
  151. ^ 「日露戦争後、沸騰的に浪花節が勃興して市中の各席は殆どが浪曲の寄席となった時代から見ると全く夢のようです、現在では市中には浪曲専門の寄席が見られなくなりました、従って語る人々も地方へ地方へと流れ込んで、残された者こそ、全く選り抜きの大看板だけとなりました。この人達はレコードに、放送に、浪曲映画や、浪曲名人会と相当に発展をしております。近く東家楽燕が、九段に浪花節学校を創立して、後進を養成している、その第一回公演が過般、九段小劇場で開催されました、その夜楽燕に逢って抱負を聞きましたが誠に結構なことと思っております。現在一流の浪曲家としては、楽燕、虎丸、重友、大蔵、重勝、武蔵、友衛、虎造、米若、綾太郎、勝太郎、栄楽等であります」出典:青山光太郎編『大東京の魅力』1936年(昭和11年)1月1日発行、東京土産物協会 コレクション・モダン都市文化31 p.259「浪花節」の部分。
  152. ^ 放送演芸史p.7
  153. ^ 世界大百科
  154. ^ 「この七色の声という歌い文句は、テイチクの専属の時から使われはじめたもので、その第一作が昭和10年の「乃木将軍涙の墓参」。ついで11年に発売した萩原四朗作「銅像を洗う女・杉野兵曹長の妻」が大ヒットし、女性の浪曲レコードはあまり売れないとのジンクスを見事に打ち破った。以来、<七色の声>は一人立ちし、雲月の代名詞となり一世を風靡した」 (唯1999, p. 356)
  155. ^ 「浪曲は取って置きの隠し芸だった」(唯1999, p. 84, 「宰相の趣味」)
  156. ^ 1938年(昭和13年)8月29日から3日間の二代目天中軒雲月の襲名5周年記念独演会や、1940年(昭和15年)8月28日、29日の春日井梅鴬独演会など 出典:『歌舞伎座百年史』p.272,284,289,298
  157. ^ 1942年(昭和17年)には欠くこともなく毎月劇場での浪曲大会が続いたという(唯1999, p. 112)
  158. ^ 放送演芸史p.41
  159. ^ 講談落語協会が禁止演目を浅草妙本寺のはなし塚に葬ったのは1941年10月30日のことであった。(唯1999, p. 104)
  160. ^ 原本である『日本浪曲史』p.16「昭和十五年晩夏、廣澤虎造興行問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件のごとき、以上、説述した浪曲家が伝統生活中の、最も悪質に属する部分の残滓のあらわれと見てよいであろう」
  161. ^ 『定本日本浪曲史』p.30
  162. ^ 詳細については猪野健治『興行界の顔役』ISBN 9784480039798冒頭を参照
  163. ^ 唯1999, p. 97,103.
  164. ^ 軍事浪曲の延長で作られた 兵藤p.238-239
  165. ^ 真鍋p.162-163
  166. ^ 唯1999, p. 96本文・表14.
  167. ^ 読売新聞社データベース。キーワード「愛国浪曲」で確認
  168. ^ 同盟通信社アーカイブズ 同盟旬報 第4巻 第32号(通号123号)A25_0432_123(065)p.3531にて確認
  169. ^ 正岡容『日本浪曲史』浪曲史年表に1939年と1940年に分かれて記載(p.426)年譜的信頼性に足りない根拠。1939年分記載は長谷川伸『函館紺血碑』 - 広沢虎造、長田幹彦『涙の船唄』 - 寿々木米若、白井喬二『筑紫の博麻呂』 - 東家楽燕、武田麟太郎『天下の糸平』 - 玉川勝太郎、久米正雄『血を嗣ぐもの』 - 冨士月子、藤森成吉『長英の新出発』 - 春日井梅鶯、子母沢寛『十四日の月』 - 木村友衛、尾崎士郎『村上六等警部』 - 酒井雲、長谷川時雨『桜ふぶき』 - 春野百合子、浜本浩『東天紅』 - 京山幸枝。1940年分記載は佐藤春夫『大場鎮の一夜』 - 梅中軒鶯童、倉田百三『まごころ』 - 宮川松安、三上於菟吉『雲に鳥無常剣』 - 広沢晴海、菊池寛『近衛篤麿』 - 松風軒栄楽、木村毅『シンガポールの白梅』 - 東武蔵。
  170. ^ 『新聞集成 昭和編年史』に記載無
  171. ^ 戊辰戦争における幕府側の戦死者を弔った柳川熊吉の義憤とそれを容認した官軍の寛大さを語る真鍋p.162
  172. ^ 新民謡をつくりだす情話文学者と米若の真鍋p.163
  173. ^ 愛国浪曲になった名作小説一覧(国会図書館蔵)
  174. ^ 筑波山の乱に加わった田中平八の伝記を扱った真鍋p.162
  175. ^ 負傷した兵士、落合が看護婦、千代の献身的な介護と輸血により生き延びる物語.真鍋p.177
  176. ^ 赤十字社の資料による従軍看護婦の物語 (唯1999, p. 97)
  177. ^ 蘭学者高野長英を扱った真鍋p.162
  178. ^ 水戸藩士らの尊王攘夷思想に基づいて勃発した天狗党の乱をとりあげた真鍋p.162
  179. ^ 神風連の乱をとりあげた真鍋p.162
  180. ^ 松本上等兵夫妻と一家の大黒柱を戦争で失った板井家との交流を描いた真鍋p.176
  181. ^ 大場鎮の攻略で、日本兵がある民家に突入すると、中国人の赤ん坊がとりのこされていた。兵士たちが面倒をみていると、その兄の少年がやってきて、日本兵の親切に感激する。そして日本兵を信頼した少年は、そのときの隊長が負傷したと聞くやただちに駆けつけて看護し、少年は後日その隊長にひきとられて立派に成人したという 兵藤『声の国民国家・日本』p.229
  182. ^ 観音信仰と奇跡譚がからんだ父娘の愛情物語真鍋p.162
  183. ^ 井伊直弼の家臣でありながら、水戸学を学び、勤王思想を掲げる武士を主人公とする真鍋p.162
  184. ^ 商家の主従関係を扱った美談真鍋p.162
  185. ^ 青空文庫
  186. ^ ベルリンオリンピックで金メダルを獲得した孫基禎の物語である真鍋p.163
  187. ^ 紙芝居屋の戦死美談真鍋p.163
  188. ^ 参考
  189. ^ 歌川光『愛国浪曲小説集』大衆文芸社、1941年。JP番号 44008870。序の部分
  190. ^ 正岡1968p.316「但し上演した大半は棒読みにちかく(中略)清吉など、さぞや片腹痛かったろう」
  191. ^ 真鍋p12
  192. ^ 1941年(昭和16年)朝日新聞中央調査会が行った「地方娯楽調査資料」があり、浪曲はやはり全国的に人気を得ていた事がわかる。出典:『近代庶民生活誌 第8巻 (遊戯・娯楽)』に収録
  193. ^ 小島貞二『こんな落語家がいた 戦中・戦後の演芸視』p.168-171
  194. ^ 戦後に日本文化放送(今の文化放送)(当時はキリスト教会の意向が強く反映された局であった)開局の際、浪曲を番組に採るか否かで論争が起きたジャパンタイムス、文藝春秋1950年5月号。結局、浪曲番組は開局時から放送することで決着する。(唯1999, p. 217)
  195. ^ 帝劇社史ページによれば1940年9月情報局に徴用される
  196. ^ 1942年3月に帝国劇場は返還される
  197. ^ 唯1999, p. 101.
  198. ^ ヨミダス歴史館にて確認。1941.01.31
  199. ^ 原典:中川明徳「浪曲口三味線」(唯1999, p. 49)
  200. ^ 唯1999, p. 110.
  201. ^ 出典:『帝国劇場100年のあゆみ』p.89
  202. ^ 出典:『大衆文化事典』浪曲の項(芝清之)(弘文堂、1991年、p.858)
  203. ^ 唯1999, p. 67.
  204. ^ CCDから禁止演目など具体的な指示通達を受けたことがわかっている(唯1999, p. 155-156)
  205. ^ 芸能人の長者番付 東京財務局調査 朝日新聞 1949年4月12日付に三門博、広沢虎造、春日井梅鶯の名
  206. ^ 唯1999, p. 176.
  207. ^ (唯1999, p. 306) TBSに入局し、スポーツアナウンサーとして活躍した虎造の息子、山田二郎(虎造節継承会)も談話で言っている
  208. ^ 「関東全地域・夏期 民放在京3局 高聴取率番組 昭和32年度」(唯1999, p. 261.表32右)
  209. ^ NHK調べ。表の前年、昭和31年度も。1位浪曲天狗道場(火)ラジオ東京19.6%、2位浪曲名人席(日)ラジオ東京14.4%、3位浪曲学校(木)文化放送14.2%、8位銭形平次(月)ラジオ東京9.6%、10位浪曲玉手箱(金)ニッポン9.1% (唯1999, p. 261.表32左)
  210. ^ 兵藤裕己『声の国民国家・日本』p.12
  211. ^ 宮崎学「ヤクザと芸能の世界」『ヤクザと日本』ちくま新書 p.112
  212. ^ 小沢昭一『放浪芸雑録』「トクダシ小屋のトクちゃんの一代記について/語り手=徳ちゃん」
  213. ^ 大利根勝子『浪曲波乱万丈!』(DVD) での告白
  214. ^ 1965年(昭和40年)から1993年(平成6年)までは毎年開催 出典:松竹(株)・(株)歌舞伎座「歌舞伎座百年史」平成7年(1995年)発行
  215. ^ 唯p.219表23 NHK調べ
  216. ^ 『日本浪曲大全集』
  217. ^ この時期の新聞記事に頻繁に出てくる
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  219. ^ 「メロディーとともに (7)「浪曲・次郎長伝」『神戸新聞』1999年6月4日付夕刊、3面。
  220. ^ 「十二 惜しかった玉川福太郎の事故死」『定本日本浪曲史』p.288-289
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  228. ^ 国本p.70
  229. ^ これはただただ怒鳴る。そうしてカラカラに声を嗄らしてしまう。そこをいよいよふた調子も三調子も張り上げて、血を吐く思いで歌いつづける。すると枯れがれに枯れつくした底の底のまた底の方から滾滾と美しい声の泉が噴き上げて来る。即ちそれが、自分の研がれ、磨かれ、鍛え上げられたほんとうの「声」なのだ。-正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.357-358
  230. ^ ジャンルは違うが、以下一例。「すると先生は「まず声の訓練をせよ」とおっしゃいました。ごうごうと落ちる滝、ざあざあと流れる川、どうどうと打ち寄せる波、そういうものに向かって、それらの音に敗けない声でお経をせよ。三日か四日で声はつぶれるが、それでも出ない声でやる。そのうちのどから血が出る。それでもまだやる。そうして三十日か四十日たったころに何日も何日もしゃべっても決して枯れない声になる。本格的な布教師になるならば、それに耐える努力をしなければならないがどうか、というわけです」-祖父江省念『節談説教七十年』p.69
  231. ^ また、声をよくするためにナメクジを呑み込む話は広沢瓢右衛門などがしている。出典:『悪声伝』
  232. ^ 颯田琴次『かたい声、やわらかい声』日本放送出版協会 1976。以降近刊無し
  233. ^ 「『台詞の不味い』という点では『両横綱』であった米若と春日井梅鶯について、房前は『タンカを吹き飛ばしてお釣りの来る』ような『素晴らしい』声とフシを二人はもっていたと評している」真鍋2017p.85
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  240. ^ 北川純子は現役の曲師でもあり、東西の寄席に出演している。おもな発表論文に北川純子「関東節の浪曲における三味線」『大阪教育大学紀要 第I部門 人文科学』第60巻第1号、大阪教育大学、1-18頁、ISSN 038934482020年4月28日閲覧 
  241. ^ 北川純子「日本音楽における「間(ま)」概念の検討-浪曲三味線の現場から」『大阪教育大学紀要 第I部門 人文科学』第59巻、大阪教育大学、1-12頁、ISSN 038934482014年4月26日閲覧 (大阪教育大学)がある
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  250. ^ 正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.342-343 もそれを裏書きする
  251. ^ 大西p.11
  252. ^ (唯1999, p. 374, 「関東ではケレン読みは天下を取れないといわれた。しかしケレンも立派な芸であり、特にケレン読みの少ない現在、再認識されるべきである」)
  253. ^ 国本p.11
  254. ^ 安藤鶴夫『巷談本牧亭』(1964)にも記載あり。
  255. ^ 大西p.14
  256. ^ 国本p.82
  257. ^ 瓢右衛門ブームによって浪花節の断末魔にポッと灯がともったようであるが(中略)傍流も傍流だったケレン浪曲―滑稽味、諧謔味のつよい、いわば都会的センスの浪花節だったからである。出典:小沢昭一「浪花節と私」『うなる』p.40
  258. ^ 「飄右衛門さんの語る明治ネタの滑稽浪曲は大阪でも東京でも大いに受けて、これでまた浪曲が息を吹き返すのではないかとふと思った程だったが」大西p.17
  259. ^ 稲田2014p.
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  261. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』p.76-77
  262. ^ 国本p.174,付属CD『待ってました 名調子!』題名通りに掛け声講座あり。
  263. ^ 国本武春がイベントでサングラス姿やクマのプー太郎に扮した例さえもある。国本p.116,121
  264. ^ 国本p.136
  265. ^ 唯1999, p. 169-170.
  266. ^ a b 国本p.155
  267. ^ 「ネタを 借用」『東京人』380号p.54 リード部分。
  268. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)の主な浪花節演題などを基に、現代化した一覧である
  269. ^ レコード初発は1928年5月「次郎長と黒駒」ヒコーキ。年表下p.28.「森の石松」1934年1月コロムビア.
  270. ^ 2代目の初発は1934年8月「天保水滸伝・平手造酒」ポリドール。年表下p.41
  271. ^ 初発は東海林太郎を受けての1935年10月ポリドール。年表下p.43
  272. ^ 初発は1940年2月「唄入り観音経・吉五郎地蔵の由来」(御門名義)キング。年表下p.54
  273. ^ 文化デジタルライブラリー
  274. ^ どの組織にも属さない一匹狼がやくざ世界のしがらみの中でがんじがらめになりながらもなお意地を貫き通して生きていく。決して颯爽としたヒーローではない。世間に逆らい、苦しみながらそれでも旅鴉の生き方をまっとうしようとする。その傷だらけの姿が胸を打つ。p.6.一匹狼の渡世人が、清純で無垢な女のために命を賭ける。これが股旅もののパターンになる。p.14.股旅ものは長谷川伸にはじまるという。p.6川本三郎『時代劇ここにあり』平凡社、2005年10月1日。ISBN 9784582832693
  275. ^ 1936年8月タイヘイ年表下p.45
  276. ^ レコード初発は1915年12月日蓄。年表下p.10
  277. ^ 初発1924年6月オリエント。年表下p.21
  278. ^ 初発は1931年1月ビクター。年表下p.34
  279. ^ 多くの傑作選に残る。『極め付この節この一番 名浪曲・関東節編』等
  280. ^ 1934年8月リーガル年表下p41
  281. ^ 2代目。初発は1911年1月「義経安宅落」日蓄。東家楽遊が1911年2月「大石東下り」日蓄。初発は1911年4月「大高源吾」日蓄年表下p.8
  282. ^ 1912年11月初発。ライロフォン(ドイツ輸入盤)
  283. ^ 初発は1922年1月、帝蓄。年表下p.17
  284. ^ 初発は1933年12月ポリドール。年表下p.40
  285. ^ 1934年8月タイヘイ年表下p.41
  286. ^ 初発は1924年4月「乃木将軍・孝子辻占売り」オリエント年表下p.22
  287. ^ 二代目雲月が本格的なスターダムにのし上がったのは1935年(昭和10年)に発表した「杉野兵曹長の妻」であったといわれる。1935年夏に台本が書き下ろされ、秋に発表されたと記されている。その後、時をおかずに、1936年1月分新譜として「銅像を涙で洗う女 杉野兵曹長の妻」(テイチク1765-68)が発売されたと推測される。 真鍋2017 p.230
  288. ^ 1932年3月「軍神誉の三勇士」初代天光軒満月、タイヘイ。
  289. ^ 1932年5月東家楽声、太陽。
  290. ^ 1932年6月、吉田奈良丸、ビクター。以上年表下p.36
  291. ^ 初発は1939年9月テイチク年表下p.53
  292. ^ 初発は1930年5月「丸橋の附回し」パーロフォン年表下p.34
  293. ^ 「怪僧善達」ニットーレコードNitto 3543-3544 http://78music.web.fc2.com/nitto.html
  294. ^ 1925年(大正14年)浪花節「壷阪寺」浪花亭綾太郎、ライオン。年表下p.23
  295. ^ 北川論文によりダブルチェック済。
  296. ^ 水野悠子『江戸・東京娘義太夫の歴史』p.4-5
  297. ^ レコード初発は1940年「灰神楽道中」ポリドールp.54
  298. ^ 初発1926年3月日蓄。年表下p.24
  299. ^ レコードの初発は1926年6月「安中草三郎・久保田の最期」日蓄。年表下p.26
  300. ^ 第一弾は1940年8月18日「夢の鉄兜」。和田肇のピアノに田中佐知子の琴も加わった。(唯1999, p. 100)
  301. ^ 唯1999, p. 270-272.
  302. ^ a b c ワッハ上方編、織田正吉「漫才」『上方演芸大全』p.58
  303. ^ 事実関係は『東京人』380号p.22-23 リード文が「歌謡浪曲の村田英雄と三波春夫」
  304. ^ 稲田2014。p.186
  305. ^ また関東においても、三門博玉川福太郎などがレコードを出している
  306. ^ 矢野誠一『昭和の演藝二〇講』p.148
  307. ^ 「芸人」を「芸能人」というようになったのは、たしか戦前の昭和十五、六年ごろだったように記憶している。時の情報局が考え出したように思うから、つまり’’官製語’’である。‘‘芸’’と’’人’’の間に‘‘能’’が加えられたからといって、たちまち有能になったわけもあるまいが、そそっかしい芸人は芸能人とよばれることで、ハクがついたように嬉しがった者もあったらしい。出典:高橋博『大衆芸能』教育史料出版会、1980年。p.3
  308. ^ 「以降、浪花節は、ほかの演芸を圧して人気はうなぎのぼり(中略)まさに大衆芸能の王座を占めており 」小沢昭一『ものがたり芸能と社会』白水社、1998年11月。ISDN 9784560039885。p.201
  309. ^ 「かつての「日本人」なら誰も知っていた物語である。だが、それらに登場するヒーローやヒロインの名も、既に私達には耳遠いものになりつつある。浪花節は今日ではほぼ忘れられた、ひと昔まえのサブカルチャーである」兵藤『<声>の国民国家・日本』p.242
  310. ^ 朝日放送の浪曲の項目には「浪曲と同根のものである河内音頭は」とある。放送演芸史p.188-189
  311. ^ 『まるごと三味線の本』p.146
  312. ^ 現在でも時折、定席以外の場で見られる。出典:『上方伝統芸能あんない』浪曲の章、『待ってました 名調子!』、『浪曲定席 木馬亭よ、永遠なれ。 芸豪烈伝+浪曲日記』
  313. ^ コラム:節劇|大衆芸能編・寄席|文化デジタルライブラリー
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  316. ^ 澤田隆治「昭和三十年代、ギャグの基盤に浪曲があった」『東京人』380号p.67
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  318. ^ 林正之助によれば1935年(昭和10年)吉本はJ.O.スタヂオ及び日活と提携し、寿々木米若、篠田実による浪曲トーキーを公開した:出典『上方笑芸の世界』「宮川左近ショー」p.124
  319. ^ 小島貞二『力道山以前の力道山たち』三一書房、1983年。に掲載されている力道山道場開きの礼状に「吉本映画 社長林正之助」の名。
  320. ^ コトバンク
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  322. ^ 同年芸術祭賞受賞 (PDF)
  323. ^ 浅沼圭司他編『新映画事典』美術出版社、1980年9月20日。佐藤忠男「日本映画の体質」p.370
  324. ^ 「トーキー初期には、ジャズを取り入れた映画が作られるいっぽう、浪曲映画も盛んに作られた。浪曲は要所要所がフシがついた語りになっている語りものである。さらにまた、西洋音楽の形式はとっているが感覚的、内容的には伝統的な語りものに近いと考えられる歌謡曲が発達し」出典:佐藤忠男『増補版日本映画史1』岩波書店、2006年10月6日。p.12
  325. ^ 出典:『実録 浪曲史』、ムービーウォーカー、jmdb日本映画データベース
  326. ^ 稲田2014p.187
  327. ^ 『歌藝人』p.192
  328. ^ 1961年(8月1日-28日興行)は谷屋充作「桃中軒雲右衛門とその妻」「名月綾太郎ぶし」など。『歌舞伎座百年史』p.286他
  329. ^ 都はるみの「唸り」は弘田三枝子の演歌調ジャズヴォイスの影響を受けたオリジナルな唱法である。菊池清麿『昭和演歌の歴史』p.309
  330. ^ 以上、「六〇年代――歌謡曲・演歌の時代」p.291-326『昭和演歌の歴史』を参考にした
  331. ^ SPレコードレーベルに見る 日蓄-日本コロムビアの歴史には、京山小円奈良丸の写真入りレーベルが納められている。写真入りレーベルは本文中にもあるようにセールスが確実に見込める限られた物だけ発行された
  332. ^ 浅草・イサミ堂のページには浪曲演者一覧があり、より深く浪曲を知りたい人には便利である。
  333. ^ 浪曲(ろーきょく)と(河内、江州)音頭(おんど)で「ローオン」である。出典:『日本一あぶない音楽 河内音頭の世界』p.193
  334. ^ p.7-72。1909年から1952年までのレコード初発
  335. ^ 石田信夫『安来節』中国新聞社 1982年 p.201-
  336. ^ 津軽三味線に明治期テーブル掛けがあった記述は国本p.111
  337. ^ 芝清之の労作「浪花節 ラジオ・テレビ出演者一覧」を参照のこと
  338. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.46-77などにスポンサーの盛衰(日本電建他)含め詳しく載っている。
  339. ^ 唯1999, p. 108-109,228-231, 「ラジオの専属契約」.
  340. ^ 他に「浪曲歌合戦」ABC(民放連1958年第6回ラジオ視聴者参加番組部門佳作)など『朝日放送の50年 Ⅲ資料集』p.28
  341. ^ 当時ラジオからテレビのディレクターに転じた澤田隆治の証言。「昭和三十年代、ギャグの基盤に浪曲があった」『東京人』380号p.66
  342. ^ スポット
  343. ^ 得意は木村重松木村重友初代港家小柳丸など 出典:桂文楽『あばらかべっそん』
  344. ^ 大正10年に浪曲から落語家に転じ、没年昭和2年3月2日。出典:『古今東西落語家事典』。
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  348. ^ 井上宏編『放送演芸史』世界思想社 1985年
  349. ^ その代表となる広沢虎造の「清水次郎長伝」のまねをする人は(引用者補足:素人でも)、戦前・戦後を通じて非常に多かったのだ。『ものまねの歴史』p.228
  350. ^ 『ものまねの歴史』p.225-227
  351. ^ 元は浪曲「清水次郎長」の本座村の為五郎のタメゴローである。澤田隆治『東京人』380号p.67
  352. ^ 高田文夫『東京人』380号p.22
  353. ^ 浪花節の粗探しで、昭和初期の新作。戦後はやらなかった。保田武宏『志ん生全席 落語事典』大和書房、2008年1月25日。p.251
  354. ^ 『談志百選』p.390-391には広沢瓢右衛門から「鈴が森」「佐野山」他の稽古をつけてもらったことを書いている
  355. ^ 瀧口雅仁『落語を観るならこのDVD』ポット出版、2009年11月7日。ISBN 978-4780801316
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  358. ^ ワンピース世界研究所『ワンピース探究王』第4章 ・『ワンピース』侠客ヒーロー考(新大将「藤虎」から垣間見える尾田先生の「男気」とは!?。
  359. ^ 小池一夫『小池一夫のキャラクター創造論 : 読者が「飽きない」キャラクターを生み出す方法』
  360. ^ 好きが高じて『次郎長三国志』のDVDのパッケージにイラストが使われた
  361. ^ フジテレビ『ちびまる子ちゃん大図鑑DX』
  362. ^ マンバ通信
  363. ^ 大村克巳『「はだしのゲン」創作の真実』
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  365. ^ ドラマの友「越路吹雪物語」20回
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  371. ^ 『まるごと三味線の本』p.146-148
  372. ^ お披露目済でいくと、倍音をキーワードに活動する東家孝太郎
  373. ^ 寺岡呼人×八代亜紀「ブルースはね、私ずっと言い続けてきてるんですけど、浪曲なの。物悲しいリズムと悲しい言葉がね」 https://natalie.mu/music/pp/yashiroaki02
  374. ^ VOXXXに収録
  375. ^ 解説
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  380. ^ 巡業した浪曲師自身を持ち上げたお手盛りの番付も多く、そこは御愛嬌であるとされる。
  381. ^ この節は、稲田和浩『浪曲論』彩流社 2013年 ISBN 978-4779119088、正岡容著 大西信行編 『定本日本浪曲史』岩波書店 2009年 ISBN 978-4000242639 を参考にした。
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