ニセ浪曲師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:38 UTC 版)
浪曲という分野自体の衰え、情報環境の飛躍的発展と共に、ニセ浪曲師の存在も風化してきているが、渾然一体として浪花節語り/浪曲師としての正統性がさほど重要でなかった時代は天狗連や無名な浪曲師が、有名な浪曲師から名前を拝借し、「ニセ浪曲師」として巡業して回ることが度々見られた。例として村田英雄(少年酒井雲と無断で名乗った時期がある)。真鍋によれば、「キク・ヨム・マネル」というゆるやかな連結の実践の中で、素人が大量に生み出され、プロ裸足のセミ・プロが「回路」として生み出されていった(民放史にも残る浪曲天狗道場はこういった土壌の元に生まれた番組、プレ・カラオケと呼べる)。「東三光」を名乗るなど、松平国十郎は名前に拘り続けた。他にニセ物騒動があった大木伸夫。五月一朗が談話で「春日丼梅鶯」と変名を名乗った話をしている。観客の受容史としては、後(戦後)の西部劇の速撃ちガンマンとして「来日」・実演したケニー・ダンカン、やプロレス、ビートたけしが言及し、未だ記憶に残る「エノケソ」(エノケンの偽物)に通底する。
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