しんじゅわん‐こうげき【真珠湾攻撃】
【真珠湾攻撃】(しんじゅわんこうげき)
戦争 | 太平洋戦争(大東亜戦争) | |
年月日 | 1941年12月8日(日本時間) | |
場所 | オアフ島真珠湾 | |
交戦勢力 | 大日本帝国 対 アメリカ | |
結果 | 日本軍の勝利・太平洋戦争勃発 | |
戦力 | 日本海軍 | 空母6隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴) 戦艦2隻(比叡、霧島) 重巡洋艦2隻(利根、筑摩) 軽巡洋艦1隻(阿武隈) 駆逐艦9隻(谷風、浦風、浜風、磯風、陽炎、不知火、秋雲、霞、霰) 特殊潜航艇(甲標的)5隻 艦上航空機350機(零戦78機、九九式艦爆129機、九七式艦攻143機)他 |
連合国軍 | 戦艦8隻(カリフォルニア、メリーランド、テネシー、アリゾナ、オクラホマ、ウエストバージニア、 ペンシルベニア、ネバダ) 重巡2隻(ニューオーリンズ、サンフランシスコ) 軽巡6隻(デトロイト、ホノルル、セントルイス、ヘレナ、ローリー、フェニックス) 駆逐艦30隻 その他艦艇48隻 カタリナ哨戒機14機 基地航空機399機 | |
損害 | 日本海軍 | 航空機部隊:未帰還機29機、損傷機79機、戦死55 特別攻撃隊:未帰還5隻、戦死9、捕虜1 |
連合国軍 | 戦艦5隻、駆逐艦2隻、標的艦1隻沈没、戦艦、巡洋艦各3隻中破、航空機188機破壊、155機損傷 、戦死2,345、民間人27 |
1941年(昭和16年)12月8日(現地時間では7日の早朝)、日本海軍がハワイ・オアフ島のアメリカ軍各基地へ対して仕掛けた攻撃。太平洋戦争開戦の引き金となった戦闘でもある。
特に真珠湾軍港に対する攻撃が目的であり、激しかったためこう呼ばれる。
作戦名は「ハワイ作戦」、戦闘後に日本が決定した当該戦闘の正式名称は「ハワイ海戦」。
尚、艦載機の集中運用という航空母艦の運用法を定着させた戦いでもある。
作戦立案の主体となったのは山本五十六大将(当時連合艦隊司令長官)と源田実参謀と言われ、アメリカ海軍の大基地、真珠湾軍港に停泊する戦艦及び航空母艦を開戦とともに撃滅し、アメリカ国民の戦意を無くしたところで早期講和へ持ち込む算段だったと言われる。
まだ日本海軍の中に大艦巨砲主義が大きな勢力を持っており、さらに図上演習でも散々な結果だったため、当初は海軍内部で反対意見が強かったが、山本五十六の「この作戦が認められなければ、自分は司令長官を辞任する」という強い意志のため決行されることとなった。
決行に先立ち、諜報員として吉川猛夫を送り込み、湾内の状況を逐一報告させるとともに、国内では極秘裏に参加兵力の編成、搭乗員の猛訓練、遠浅の真珠湾にあわせた浅々度魚雷の開発、詳しい作戦の立案等が行われた。
空母は当時の日本海軍の全正規空母である「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」が参加し、その搭乗員は大ベテランにさらに鹿児島県錦江湾で猛訓練を積ませた最高の人員を集めた、まさに日本海軍の総力に近い陣容だった。
要となる九七式艦上攻撃機の雷撃隊の隊長に村田重治少佐、水平爆撃隊隊長に淵田美津夫中佐(飛行隊総指揮官兼任)、九九式艦上爆撃機による急降下爆撃隊隊長に江草隆繁少佐、零式艦上戦闘機による征空隊隊長に板谷茂少佐が任命され、航空機の総勢は実に355機に及んだ。
そして11月26日に単冠湾に集結していた参加兵力は真珠湾に向けて出航。12月1日までに対米交渉がまとまれば引き返す予定だったがまとまらず、「ニイタカヤマノボレ1208」の電文によって機動部隊司令長官・南雲忠一中将に作戦決行が申し渡された。
日本時間12月8日午前1時45分、第一次攻撃隊183機が真珠湾に向けて出撃。
それとほぼ時を同じくして、先行していた潜水艦隊から特殊潜航艇「甲標的」5隻が湾内への突入を図ったが、駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」に発見され、全てが沈没ないし座礁することとなり、乗組員10名中9名が戦死、1名が捕虜となった。
航空隊は午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、全機突撃を意味する「ト連送」を淵田機が送信し、さらに23分に「奇襲成功」を意味する「トラ・トラ・トラ」が旗艦赤城に送信された。
当日偶然にも空母が全艦出払っており、湾内にはいなかった為に攻撃は戦艦へと集中し、また各飛行場も徹底的にたたかれた。この時に送信された、"Pearl Harbor air raid. This is no drill"(真珠湾空襲さる。これは演習ではない。)はあまりにも有名である。
その後第二次攻撃隊が進入、流石に戦闘態勢を整えた米軍相手に多少の損害を出すこととなったが、止めを刺すかのように米軍に大損害を与えた。
先ず戦艦「オクラホマ」が魚雷5本と800kg徹甲爆弾多数を被弾し大破転覆。
続いて「ウェストバージニア」が左舷に魚雷6~7本受け、さらに800kg爆弾2発命中、沈没した。
次にアリゾナが魚雷1本を一番砲塔付近に受けた後、800kg爆弾4発を四番砲塔側面と一番・二番砲塔間の右舷に被弾、うち1発が前部弾薬庫まで貫通し爆発、轟沈した。
これが「悲劇の戦艦」と現在まで語り継がれる所以である。
他「カリフォルニア」が魚雷3本と800kg爆弾1発、250kg爆弾至近弾4発を受け対空砲弾が誘爆し着底。
「テネシー」が800kg爆弾2発(1発不発)と「アリゾナ」の火薬庫の爆発に巻き込まれ中破。「メリーランド」が800kg爆弾と250kg爆弾1発ずつ、至近弾多数を受けて中破擱座。
「ペンシルバニア」は乾ドッグ内で250kg爆弾1発を受けて小破。
「ネバダ」は砲撃しながら湾を出ようとしている間に左舷への魚雷1発と250kg爆弾6発以上を受けた後、湾口をふさいで沈むのを恐れてホスピタル・ポイントで自力で座礁した。
他標的艦「ユタ」、敷設艦「オグララ」が沈没、軽巡洋艦「ヘレナ」「ローリー」「ホノルル」、駆逐艦「カッシン」「ショー」「ダウンズ」、工作艦「ベスタル」、水上機母艦「カーチス」が損傷した。
航空機はフォード・ヒッカム・ホイラー・バーバス・カネオヘ・ベロース各飛行場合計して231機が損傷、うち完全喪失は188機、迎撃に上がって撃墜された数は17機と報告されている。
なおこの時迎撃に離陸した主力はP-36とP-40だったが、殆ど零戦の前に歯が立たなかったようだ。
アメリカ側人的損害は戦死2402名、戦傷1382名に上っている。
逆に日本軍の損害は航空機29機、特殊潜航艇5隻、人的損害戦死64名とアメリカに比べ微々たる物だった。
この責任を取らされ、当時の太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将は辞任させられ、その名誉はつい最近まで挽回されていなかった。
一方日本ではこの大勝利に大いに沸き、新聞・ラジオなどの報道を独占し、戦死した特殊潜航艇乗員は「九軍神」として祭られた。
ところが外務省の手違いから宣戦布告が攻撃を開始後となってしまい、この事実が「汚い奇襲」とアメリカ国民に受け取られ、戦意を喪失させるはずだったこの作戦は逆に結束を固め、戦意を向上させる結果となってしまった。
また、この作戦によってアメリカ太平洋艦隊の戦艦のほぼ全てが行動不能に追い込まれたが、真珠湾は水深が浅く、また港湾設備が無傷に近かったために「オクラホマ」(移送中に沈没)と「アリゾナ」(後部三番・四番砲塔のみ引き揚げた後除籍)以外の戦艦は後にサルベージされ戦線に復帰している。
この事件は今でも、「ルーズベルト大統領はこの攻撃があることを知っていてあえて隠していたのではないか」「日本軍は燃料タンクやドックを第三次攻撃で破壊すべきではなかったのか」等等、数々の研究がなされ、多数の本も出版され、また映画の主題にも度々上っている。
ちなみに、「ニイタカヤマノボレ」のニイタカヤマは当時日本一の標高を誇った台湾の新高山(現:玉山 標高3952m)の事だとされている。
真珠湾攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 02:56 UTC 版)
真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、旧字体:眞珠灣攻擊、英: Attack on Pearl Harbor)は、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、第二次世界大戦において大日本帝国海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った[1]、航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による攻撃である。当時の日本側呼称は、布哇比(ハワイ)海戦、布哇比(ハワイ)作戦と言う。
注釈
- ^ 万が一、暗号文が解読された時の保険の意味で、隠語「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を予め定めていた。
- ^ 真珠湾作戦を含む海軍全般の作戦の詳細は、すでに大海令として全海軍部隊・部署に対して布告済であり、この電文の眼目は、それら作戦の発動の基準となる日時についてであって、このような、日時を伝える電文となった。
- ^ 竹内将人の『ある海軍少佐の戦時日記:真珠湾攻撃からミッドウェー海戦まで』には、単冠湾での通信参謀の説明として、「東京からの海外放送中に、『山川草木転荒涼』の詩吟放送が三回あれば、ホノルルの放送中に同一波長でB放送(内地からの対外宣伝)の符号を入れるという合図である。」とある。
- ^ 敵の防御が効力を発揮する前に攻撃可能であると空中指揮官が判断した場合。
- ^ 草鹿は自らの手記で、何のためらいもなく引き上げを進言したとしている。理由としては機動部隊の立ち向かう敵はまだまだある、また既に所定の目的は達成していることを挙げ、後年指摘されている残敵の
殲滅 ()や港湾施設の破壊、敵空母の探索などは下司 ()の戦法であると断じている。 - ^ この信号をそれとなく催促したものとする意見もある[165]。吉岡参謀は、準備完了を知ら帰投せた信号が山口が再攻撃を具申したというものに伝説化したのだろうと語っている[163]。
- ^ エドワードも第二次世界大戦では海軍軍人として軍務についていた。エドワードの兄マニング・キンメルは潜水艦ロバローで日本軍に撃沈され戦死
- ^ 後述の#損害の項目にあるように、カリフォルニアとウェストヴァージニアは修理に長期間を要し、1944年まで実戦に参加することができなかった。
- ^ ミッドウェー破壊隊は省略
- ^ 第二水雷戦隊所属
- ^ 第五航空戦隊所属
- ^ a b 第三潜水隊所属
- ^ 特殊潜航艇関係のみ
- ^ うち1名は機上戦死した艦攻隊第4中隊第2小隊3番機の菅谷重春二飛曹(偵察員)
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