ニイタカヤマノボレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:50 UTC 版)
1941年(昭和16年)11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化した。 11月13日、岩国航空基地で連合艦隊(南遣艦隊を除く)の最後の打ち合わせが行われた。司令長官の山本五十六大将は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。これに二、三の指揮官が不服を唱えたが、山本は「百年兵を養うは、ただ平和を護るためである。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、ただいまから出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言ったという。 11月17日、山本は佐伯湾にあった赤城を訪れ、機動部隊将兵を激励するとともに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦の重要性を強調している。11月22日、第一航空艦隊司令長官である南雲忠一中将指揮下の旗艦赤城および加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾に集結。出港直前、空母赤城に搭乗員達が集合し、南雲がアメリカ太平洋艦隊を攻撃することを告げた。赤城艦長は山本の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している。11月26日8時、南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾を出港した。 航路は奇襲成立のため隠密行動が必要であった。連合艦隊参謀の雀部利三郎中佐が過去10年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べ、その結果11月から12月にかけては北緯40度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し、困難な北方航路が採用された。 草鹿龍之介によれば、奇襲の一撃で初期の目的を達成できなかった時、もしくは敵に発見され奇襲に失敗した時には、強襲を行う事に定められていた。ただしどこまで強襲を重ねるかについては状況次第であったという。 12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。12月2日17時30分、大本営より機動部隊に対して「新高山登レ一二〇八ひとふたまるはち」の電文が発信された。新高山(二イタカヤマ)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰(3952m)、一二〇八とは12月8日のことで、「Xデーを12月8日(日本時間)と定める」の意の隠語であり、語を「暗号書D」にしたがって5桁数字の符字に置き換えたコード暗号で発信された。真珠湾攻撃に先立ってコタバル上陸作戦が行われることになる陸軍では「日の出は山形」の電報を発信している。日の出がXデー、山形が8日の意。こちらは4桁数字8個の羅列の暗号文で発信された。ちなみに、海軍では戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」や「トネガワクダレ」であったなどと諸説あり、ラジオ・トウキョウの外国向け短波放送プログラムの最後にいつもの詩吟がなかったら、攻撃中止を意味したという補助的手段の話もあるが、はっきりとした史料はない。重責を背負った南雲は航海中、えらいことを引き受けてしまった、断ればよかった、うまくいくかしら、と草鹿に語りかけたと言う。 日本軍はアメリカ軍空母の7隻のうち、真珠湾に停泊していたレキシントンとエンタープライズ以外には、ヨークタウンが大西洋に配備されているという情報しか持たなかったが、真珠湾の動向についての情報は、諜報活動をしていた吉川から喜多長雄総領事を通じて刻々と機動部隊に送られてきた。この情報は南雲らからすれば「絶大な、痒い所に手が届く」と言うぐらいに正確で的確なものであったが、その情報によれば11月28日にエンタープライズが出港、12月5日にレキシントンが出港したため、真珠湾に空母は1隻もいなくなり、南雲は空母の動向がわからない限りは、なるべく早めに真珠湾を叩いて引き上げなければならないと考えた。 12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。現地時間12月7日午前6時45分(日本時間12月8日午前1時45分)、その内の1隻が米駆逐艦ワードに米領海内で発見され国籍不明船として撃沈されている(ワード号事件)。この件は太平洋艦隊司令部に報告されたが、暗号解読の遅れと鯨などへの誤射が頻発していたため重要視されずに終わった。 12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。草鹿は189機が発進したとしているが、爆装の艦攻50機が戦艦を、雷装の40機が戦艦および空母を目標とし、艦爆54機は航空基地を、艦戦45機は空中および地上の敵機を目標と定めていたという。 午前2時45分、第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆80機、艦攻54機、計170機が発進した。草鹿によれば54機の艦攻は航空基地を、80機の艦爆は空母および巡洋艦を、36機の艦戦はやはり敵機を目標と定めていた。なお出港中のエンタープライズやレキシントンを求めて、付近を索敵するなどの案は排され、真珠湾内にある艦船攻撃に全力が向けられた。また攻撃隊を二波に分けているのは航空母艦の飛行甲板の広さや滑走距離による制限である。当時の日本の航空母艦は、搭載する全航空機を全て甲板に並べ、一斉に発進させることはできなかった。 なおこの攻撃に先立ち、陸軍はイギリスの植民地のマレー半島コタバルで奇襲上陸作戦を行っていた。真珠湾とマレーで一方が先行すれば、その情報が直ちに同盟国同士のイギリスからアメリカに伝えられることとなり、他方の奇襲が成り立たなくなると予想された。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバル奇襲上陸作戦開始の2時間遅れとなった。 しかし、結果的に陸軍のマレー上陸の報が、イギリス軍から真珠湾に展開するアメリカ軍に伝達されるのはコタバルへの攻撃開始のはるか後の事になり、その結果真珠湾並びにアメリカ領フィリピンを含む太平洋地域のアメリカ軍の迎撃体制のゆるみに影響することはなかった。
※この「ニイタカヤマノボレ」の解説は、「真珠湾攻撃」の解説の一部です。
「ニイタカヤマノボレ」を含む「真珠湾攻撃」の記事については、「真珠湾攻撃」の概要を参照ください。
- ニイタカヤマノボレのページへのリンク