真珠湾攻撃 損害

真珠湾攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 14:44 UTC 版)

損害

日本海軍

対空砲火で撃墜された九九式艦上爆撃機

攻撃隊ごとの損失機数[178]

機種 第一波攻撃隊 第二波攻撃隊 合計
零式艦上戦闘機 3 6 9
九九式艦上爆撃機 1 14 15
九七式艦上攻撃機 5 0 5
合計 9 20 29
搭乗員 20 34 54
  • 他に損傷74機
  • 完全な奇襲に成功した第一次攻撃隊の損失率は4.9%であったが、アメリカ軍の対空砲火が激しくなった第二次攻撃隊の損失率は12%に跳ね上がり、平均では8.3%となった。
  • 九七式艦上攻撃機は水平爆撃隊の損失は0であったが、低空を低速度で敵艦船に接近しないといけない雷撃隊の方は5機が未帰還となっており、雷撃隊の損失率は12.5%にもなった。この雷撃隊の損失率の高さと対空砲火の激化を見て、源田はこれ以上の雷撃は困難と判断していた[179]
  • 急降下により接敵距離が最も短くなる九九式艦上爆撃機は15機の損失で機種別損失率は11.6%ともっとも高くなった。

所属母艦ごとの未帰還数[180]

艦名 赤城 加賀 蒼龍 飛龍 翔鶴 瑞鶴 合計
零式艦上戦闘機 1 4 3 1 0 0 9
九九式艦上爆撃機 4 6 2 2 1 0 15
九七式艦上攻撃機 0 5 0 0 0 0 5
合計 5 15 5 3 1 0 29
  • 加賀航空隊が最も多くの未帰還機を出したのに対し、瑞鶴航空隊は全機帰還している。

アメリカ陸海軍及び海兵隊

死傷者

カネオヘ基地での戦死者の追悼式

出典[181]

戦死者 負傷者 合計
海軍 2,004 710 2,714
海兵隊 108 69 177
陸軍 222 364 586
合計 2,334 1,143 3,477

艦艇の損失

沈没艦(完全損失艦)

日本軍に撃沈され残骸を晒すアリゾナ
戦艦アリゾナ[182]
被弾:800kg爆弾4・航空魚雷0 - 2
人的損失:戦死者1,177名・負傷者39名
被害詳細 - 命中した800kg徹甲爆弾の内の1発が第2主砲塔横の甲板を貫通し、前部主砲弾火薬庫で爆発。誘爆により艦首が破断、破断部分より大量の浸水があり沈没着底。艦体から漏れ出した重油に引火し大火災が発生、海面上にあった檣楼も炎に包まれ、第1戦艦部隊の司令官および戦艦戦闘部隊司令官である幕僚長のアイザック・C・キッド少将と艦長のフランクリン・ヴァン・ヴァルケンバーグ英語版大佐が戦死。大爆発により爆沈したため、戦死者は1,177名にも上ったが、これはアメリカ海軍の単一の軍艦で戦闘で生じた最多の戦死者数である。艦体損傷がひどかったため、遺族の要望にも関わらず引き揚げは行わず、第3、第5砲塔や対空機関砲、探照灯、カタパルトなどが取り外され、戦艦ペンシルベニアの修理に使用されたり、ハワイの要塞砲として設置されたりした。その後、沈没した戦艦アリゾナの真上にアリゾナ記念館が建設された[183]
サルベージ中のオクラホマ
戦艦オクラホマ[184]
被弾:航空魚雷5 - 9(内1は特殊潜航艇から発射された魚雷の可能性あり)
人的損失:戦死者456名・負傷者30名
被害詳細 - 最初の魚雷が命中してからわずか8分後に転覆した。1999年からの検証で、本艦を転覆させた最後の魚雷は特殊潜航艇が発射した魚雷の可能性があるという研究結果が公表されている[185]。あまりにも転覆するのが早かったため、400名が艦内に閉じ込められた。翌日に艦底をアセチレントーチで焼き切り救助を試みたが生存していたのはわずか32名だけであった。1943年3月に艦体をワイヤーケーブルで引き起こしたが、艦体の損傷が激しく修理は断念、終戦後にアメリカ本土に移送中に沈没した。
標的艦ユタ[186]
被弾:航空魚雷2
人的損失:戦死者64名
被害詳細:本艦は戦艦を改造した大型艦であったため、日本軍が戦艦もしくは空母と誤認し攻撃、魚雷2発が相次いで命中してからわずか10分で転覆、艦内に約70名が閉じ込められたが、救出されたのはわずか1名であった。ユタはコストの面より引き揚げは行われず、海底に沈んだままとなっている。

沈没艦(復旧艦)

戦艦ウエストバージニア[187]
被弾:800kg爆弾2(1不発)・航空魚雷7
人的損失:戦死者157名・負傷者52名
被害詳細:魚雷の命中により左舷が大きく傾いたため、転覆防止のためと、弾薬誘爆防止のための大量注水で、主甲板まで沈下したが、その後に水平爆撃の800kg徹甲爆弾が2発着弾、内1発が艦橋を貫通した後に第2甲板まで達して炸裂、燃料火災が発生し、浸水もさらに進んだために総員退艦命令が出され、後に着底した。徹甲爆弾の炸裂により艦長のマーヴィン・シャープ・ベニオン英語版大佐が重傷を負い後に戦死している。1942年5月に引き上げられ修理と近代化改装を受けたが、修理中に艦内から20名の遺体が発見された。その遺体が発見された付近の隔壁にはその水兵らが残した文字が刻まれていたが、艦が沈没後、明かりも水も食料もない中で、水兵らが12月23日まで16日間も生存していたことが判明している。修理と近代化改装は1944年7月に完了した。
戦艦カリフォルニア[188]
被弾:800kg爆弾1・250kg爆弾1・航空魚雷2 - 3
人的損失:戦死者106名・負傷者100名
被害詳細:水平爆撃で高度4,000mから投下された800kg爆弾が露天甲板を貫通後主甲板で炸裂、副砲の弾薬庫が誘爆し深刻な火災が発生。その後に、魚雷2 - 3発が左舷に命中、燃料タンクが破裂し大量の重油が流出。また燃料漏れの検査のため5区画でマンホールを開放していたため、命中した魚雷は2 - 3発であったが浸水は急激で、たちまち左舷に7.5°傾斜した。弾薬火災と流出した重油火災で復旧活動は困難となったため、総員退艦が命じられた。しかし艦はすぐには沈まず、日本軍の攻撃完了後に消火活動と救出活動を再開したが、その活動中の12月20日に着底している。
機雷敷設艦オグララ[189]
被弾:なし(魚雷至近爆発)
人的損失:なし
被害詳細:蒼龍雷撃隊より大型艦と誤認されて雷撃されるが、喫水線が浅かったため、魚雷は艦底を通過し隣接して停泊していた軽巡洋艦ヘレナに命中した。しかしヘレナに命中して爆発した魚雷の爆圧で、水面下の船体が破壊されて浸水が始まり大きく傾斜した。横転してヘレナと接触する危険が高まったため、タグボートでヘレナから離れた位置に曳航えいこうしていく途中で転覆した。引き揚げられた後、ドック艦に改修され1944年2月に再就役。

損傷艦(座礁艦)

座礁したネバダ、艦橋下部と主砲塔が火災により黒焦げとなっている
戦艦ネバダ[190]
被弾:250kg爆弾6・航空魚雷1 - 2
人的損失:戦死者52名・負傷者116名
被害詳細[191]:戦艦泊地に停泊中に1 - 2発の魚雷が命中したが沈まなかった。しかしネバダの艦首側に停泊していたアリゾナが大爆発を起こし、流出した重油で大火災が発生したため、火災に巻き込まれないように外洋に脱出することとした。それを日本軍の第二次攻撃隊の急降下爆撃隊23機が発見、大型艦を真珠湾の狭い水路に沈め、軍港の水路を塞ぐことを狙ってネバダに集中攻撃を加えた。6発の250kg爆弾の命中と2発の至近弾で艦は大きく損傷し脱出は不可能となったため、ホスピタルアイランド(避難用浅瀬)に自ら座礁し沈没を回避した。1942年2月に引き上げられ、1942年12月に一旦修理完了し艦隊復帰したが、1943年に再度ドック入りし近代化改修を受けている。
弾薬庫の誘爆により原形を留めないほど破壊され着底した駆逐艦ショー
駆逐艦ショー[192]
被弾:250kg爆弾1
人的損失:戦死者24名
被害詳細:浮きドックに入渠にゅうきょ中であったが、急降下爆撃機の250kg爆弾1が命中。発生した火災で前部の主砲弾薬庫が誘爆し、艦首が吹き飛ばされた。その爆発の規模は戦艦アリゾナの誘爆に次ぐ大きな規模であり、遠くからも視認されている。艦体の損傷は壊滅的であったが、ドック内におり沈没は免れたため、大修理と近代化改装が施され、1942年6月に艦隊復帰した。
駆逐艦ダウンズ[193]
被弾:250kg爆弾2
人的損失:戦死者12名
被害詳細:乾ドック内で改修中に急降下爆撃機により2発の250kg爆弾が命中し火災が発生、火災により魚雷が誘爆し大破、火勢を増した火災は隣接していた駆逐艦カッシンにも延焼した。同じ乾ドック内にいた戦艦ペンシルベニアの火薬庫誘爆防止のため、乾ドックに注水され、隣接していたカッシンが浸水により横転しダウンズに接触、両艦ともさらに損傷が拡大した。修復は困難と思われ、一旦除籍されたが、その後船体の残存部分を本土のピュージェット・サウンド海軍造船所に持ち込んで新造並みの補修を行い、1943年11月再度就役。
駆逐艦カッシン[193]
被弾:なし、ダウンズの火災延焼
人的損失:なし
被害詳細:ダウンズの火災が延焼したのち、大爆発に巻き込まれ大破。乾ドック内への注水で浸水し横転、ダウンズと接触しダウンズと同レベルの深刻な損傷を被る。カッシンも一旦は除籍されたが、ダウンズと同様に大補修により1944年2月再就役。
工作艦ヴェスタル[194]
被弾:800kg爆弾2
人的損失:戦死者7名
被害詳細:アリゾナの横に停泊していたため、水平爆撃の800kg徹甲爆弾が2発、艦尾と艦首に命中。大量に浸水し、沈没は避けられなかったため、タグボートで浅瀬に曳航され、沈没回避のため座礁させられた。応急修理終了後、自艦と他の艦の修理を並行し、1942年2月に修理完了。

損傷艦

乾ドックに停泊中に攻撃を受けた戦艦ペンシルベニア 。手前の駆逐艦ダウンズとカッシンは魚雷の誘爆により大破・着底
戦艦テネシー[195]
被弾:800kg爆弾2(内1不発)
人的損失:戦死者6名・負傷者200名
被害詳細[196] - 水平爆撃の800kg徹甲爆弾が第1主砲塔と第主3砲塔に着弾。第3主砲塔に命中した爆弾は砲塔の天蓋を貫通し爆発、第3主砲塔を破壊し砲員を殺傷した。第1主砲塔に命中した爆弾は天蓋を貫通できず、弾殻が粉砕したため火薬が飛び散り爆発しなかった。損傷は軽微だったので、1942年8月には修理完了して一旦艦隊復帰したが、1943年に再度ドック入りし近代化改修を受けている。
戦艦メリーランド[197]
被弾:800kg爆弾1・250kg爆弾1
人的損失:戦死者3名・負傷者14名・他に偵察に出撃したOS2U水上偵察機が墜落しパイロット1名戦死[198]
被害詳細:第1次攻撃隊の水平爆撃機の800kg徹甲爆弾1発が艦首に命中、直径3.7m、深さ6.1mの破口が生じた。第2次攻撃隊の急降下爆撃機では250kg爆弾が10番フレーム付近に命中、6.7mほど侵徹したあと爆発し、浸水が発生したことにより船体が前方に1.5mほど傾いた。[199]しかし損傷は軽微であったため、横で転覆したオクラホマの救出活動を行い、多くの生存者を救出した。1942年6月一線に復帰。
戦艦ペンシルベニア[200]
被弾:250kg爆弾1
人的損失:戦死者28名・負傷者30名
被害詳細:ドックで補修中であった際に急降下爆撃機の250kg爆弾1発を被弾。短艇用甲板を貫通し第9副砲の砲郭内で爆発。修理の際にオクラホマとアリゾナから取り外した主砲を搭載し、1942年4月から8月まで訓練と巡察をした。
軽巡洋艦ロウリー[201]
被弾:航空魚雷1 - 2
人的損失:負傷者数名
被害詳細:艦体中央部に1 - 2発魚雷命中、傾斜したが艦内の重量物を投棄するなどのダメージコントロールで転覆を逃れた。艦の損傷は大きかったが戦死者は出なかった。1942年7月艦隊に復帰。
軽巡洋艦ヘレナ[189]
被弾:航空魚雷1
人的損失:戦死者20名
被害詳細:機雷敷設艦オグララを狙った魚雷がオグララの艦底を通り越してヘレナに命中。機関室に浸水し、一時は停電となるなど損害は大きかったが沈没には至らず。1942年9月艦隊に復帰。
軽巡洋艦ホノルル[189]
被弾:250kg爆弾至近弾1
人的損失:なし
被害詳細:海軍工廠岸壁に停泊していたが、急降下爆撃機の投下した250kg爆弾が岸壁の突提に着弾し爆発。その衝撃で鋼板接合部のリベットが弛緩し浸水、一時的に第2主砲塔への通電ができなくなった。
駆逐艦母艦ドビン[202]
被弾:250kg爆弾3至近弾
人的損失:戦死者1名・負傷者2名
被害詳細:至近弾のうち一発が艦尾の真下で爆発。断片と衝撃で無線室が破損し死傷者が生じた。
水上機母艦カーティス[203]
被弾:250kg爆弾1・体当たり1機
人的損失:戦死者21名
被害詳細:第二次攻撃隊の急降下爆撃機による250kg爆弾が1発命中。水上機格納庫が破壊された。また、対空砲火で損傷した蒼龍艦爆隊の丸山賢治三飛曹と桑原秀安二飛曹の搭乗機が体当たりを行い、クレーンとアンテナを破壊した[204]

航空機の損失

破壊されたフォード島の格納庫とアメリカ軍機
破壊されたボーイングB-17
破壊された航空機の残骸を利用して陣地を構築し日本軍の攻撃に備えるアメリカ陸軍兵士

出典[205]

撃破 損傷 合計
陸軍航空隊 96 128 224
海軍航空隊 92 31 123
合計 188 159 347

陸軍の主要戦闘機・爆撃機の機種別損失数

出典[206]

機種 配備機数 撃破 損傷 撃破・損傷合計
B-17爆撃機 12 4 4 8
B-18爆撃機 33 12 10 22
A-20攻撃機 12 2 5 7
P-40戦闘機 99 42 30 72
P-36戦闘機 39 4 19 23
合計 209 64 82 146

海軍の種類別損失数

出典[207]

航空機の種類 損失数
戦闘機 13
急降下爆撃機 26
哨戒爆撃機 46
偵察機 1
雑用機 3
練習機 1
輸送機 2
合計 92

他に、日本軍機動部隊発見のためにエンタープライズより発艦したF4Fが燃料補給のためにフォード基地に着陸しようとしたところ、日本軍機と誤認した兵士らから集中砲撃を浴びて4機が撃墜され3名のパイロットが戦死している[208]

日本海軍側の戦果判定

機動部隊は連合艦隊に対し、主力艦2隻轟沈・4隻大破・巡洋艦4隻大破との無電を送っている[122]

攻撃直後、各空母の攻撃隊は敵艦船に与えた損害を下記のとおり報告している。雲や火災の煙による推定も多く入ったものであった[209]

赤城
水平爆撃隊が戦艦に命中4以上、雷撃隊は戦艦3に対し命中11本。急降下爆撃隊は戦艦に命中、オマハ級に命中1。
加賀
水平爆撃隊がアリゾナ、カリフォルニア、メリーランドに計4発以上、雷撃隊はアリゾナ、テネシーに各4本命中。急降下爆撃隊はカリフォルニア型を含む戦艦3隻に相当数命中と推察。
蒼龍・飛龍
総合して水平爆撃隊は戦艦に1発命中轟沈、戦艦に2発命中大爆発轟沈、雷撃隊は戦艦3隻に合計11本命中、内1隻轟沈(水平爆撃隊と重複)、重巡に3本命中。急降下爆撃隊は軽巡2に合計5発、入渠中駆逐艦に命中1。
翔鶴・瑞鶴
飛行場攻撃に専念しており艦艇への戦果なし。

民間人の被害

日本軍は、市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が事前に厳重に言い渡されていた。実際にアメリカの女性インストラクター・パイロットであるコーネリア・フォートが、飛行訓練生と訓練のために搭乗していたインターステート カデット英語版機が日本軍攻撃隊とオアフ島上空で遭遇したが、日本軍機に視認されていたにも拘らず攻撃を受けなかった[210]

そして、彼女はすぐに真珠湾の湾口に近いジョン・ロジャース民間空港に着陸したし、追撃してきた零式艦上戦闘機は、機体と滑走路に対して機銃掃射を行い、それから逃れるために彼女と訓練生は物陰へと走った[211][212]。空港の管理者が死亡し、その朝飛行していた民間機のうち2機が帰還しなかった[213]。攻撃当時、真珠湾の近くで9機の民間航空機が飛行していたし、そのうち3機が撃墜された[214]

そして、日本軍の攻撃により、ハワイの民間人に68名の死亡者と35名の負傷者が出ている。これは、日本軍が意図して行ったものではなく、民間人犠牲者の多くは軍施設内にいた政府関係者か作業などに従事していた際に巻き添えとなったものである。しかし、アメリカの激しい対空砲火の弾片や不発弾が真珠湾より15kmも離れたホノルル市街にも降り注ぎ、死傷者が生じている。この被害は当初、アメリカ軍側のプロパガンダで日本軍の攻撃によるものと報じられたが、実際には、ホノルル市街に落ちた日本軍の爆弾は、97式艦上攻撃機の爆弾投下機誤作動による1発だけであった[215]。降り注ぐ不発弾や弾片でホノルル市街では40回もの爆発があり、50万ドルの経済的損失と33名の民間人が犠牲となった[216]。その中には多くの日系人も含まれていた[217]。また翌8日にはアメリカ軍機が4隻の漁船を日本軍船舶と誤認して銃撃し、6名の漁師が射殺されている[218]

アメリカ軍基地以外の市街地での民間人死亡者

出典[217]

場所 死亡者数
ホノルル 33
パールシティ 1
ワヒアワ 2
ワイパフ 1
合計 37

注釈

  1. ^ 万が一、暗号文が解読された時の保険の意味で、隠語「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を予め定めていた。
  2. ^ 真珠湾作戦を含む海軍全般の作戦の詳細は、すでに大海令として全海軍部隊・部署に対して布告済であり、この電文の眼目は、それら作戦の発動の基準となる日時についてであって、このような、日時を伝える電文となった。
  3. ^ 竹内将人の『ある海軍少佐の戦時日記:真珠湾攻撃からミッドウェー海戦まで』には、単冠湾での通信参謀の説明として、「東京からの海外放送中に、『山川草木転荒涼』の詩吟放送が三回あれば、ホノルルの放送中に同一波長でB放送(内地からの対外宣伝)の符号を入れるという合図である。」とある。
  4. ^ 敵の防御が効力を発揮する前に攻撃可能であると空中指揮官が判断した場合。
  5. ^ 草鹿は自らの手記で、何のためらいもなく引き上げを進言したとしている。理由としては機動部隊の立ち向かう敵はまだまだある、また既に所定の目的は達成していることを挙げ、後年指摘されている残敵の殲滅せんめつや港湾施設の破壊、敵空母の探索などは下司げすの戦法であると断じている。
  6. ^ この信号をそれとなく催促したものとする意見もある[125]。吉岡参謀は、準備完了を知ら帰投せた信号が山口が再攻撃を具申したというものに伝説化したのだろうと語っている[126]
  7. ^ エドワードも第二次世界大戦では海軍軍人として軍務についていた。エドワードの兄マニング・キンメル潜水艦ロバローで日本軍に撃沈され戦死
  8. ^ 後述の#損害の項目にあるように、カリフォルニアウェストヴァージニアは修理に長期間を要し、1944年まで実戦に参加することができなかった。
  9. ^ ミッドウェー破壊隊は省略
  10. ^ 第二水雷戦隊所属
  11. ^ 第五航空戦隊所属
  12. ^ a b 第三潜水隊所属
  13. ^ 特殊潜航艇関係のみ
  14. ^ 階級は作戦時のものであり特進前。
  15. ^ 実際に機動部隊に乗務していた電信員が引き抜かれ、打鍵時の癖まで機動部隊のそれと同じであった。
  16. ^ 今野によると、リカルド・シュライバー。
  17. ^ ただし、その時点では日本海軍の真珠湾攻撃はまだ山本五十六の腹案にとどまり、知っていたのは山本のほかに大西瀧治郎及川古志郎しかいなかった。今野は、ペルー公使の情報の出所に関して、1940年に松尾樹明という人物が出版した『三国同盟と日米戦』という書籍において、「日米開戦は不可避で、その場合日本は開戦劈頭に真珠湾を攻撃してハワイを占領するべき」と記されている内容の影響を指摘している[232]
  18. ^ スティムソンの日記[239]、ビアードらの仮説、トーランドの仮説(ビアードらへの反論)[240]。トーランドはこの反論が証拠のない仮説であると認めつつも、ルーズベルトが誤ったとするよりは論理的・公平であると判断している(トーランドによる事前察知説[241])。
  19. ^ 国民には孤立主義が念頭していた時候であった。そのため、当時は欧州戦線とは距離をおいていた。また、戦況としてはドイツがイギリスより優位であり、イギリスはアメリカの支援を望んだが、国民は干渉を望まなかった。詳しくは「第二次世界大戦#1940年」を参照。
  20. ^ マッカラムの人物像としては日本語に堪能かつ日本で育った人物であり、軍のなかではとりわけ日本の情勢と国民に詳しかったという。

出典

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