関係の深い漫画家とは? わかりやすく解説

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関係の深い漫画家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:05 UTC 版)

手塚治虫」の記事における「関係の深い漫画家」の解説

藤子不二雄 藤子不二雄二人は、手塚治虫の「新寶島」に衝撃を受け漫画家志した。彼らは学生時代手塚ファンとして手塚ハガキ出し、その返事として「しっかりしたタッチ将来がたのしみです」との直筆ハガキ受け取った。そのハガキには手塚キャラクターの絵と一緒に文字の列が角度変えながら中心に近づくように書かれており、ハガキぐるぐる回しながら文字の列を読むという手塚らしい実に独特なものであった。このハガキが、ますます彼らの漫画家への志に拍車をかける藤子不二雄当初手塚にちなみ、「手塚不二雄」のペンネーム漫画投稿する。しかし余りにも露骨なため、「手塚の足にも及ばない」という意味を込め足塚不二雄」に変更した高校生の頃、二人で手塚実家訪れている。その後藤子不二雄としてデビューし手塚住んでいた「トキワ莊14号室」に入れ替わり入居して暮らすこととなる。手塚お金のない二人のために敷金肩代わりと、漫画を描くための残している。そのため、藤子不二雄初期作品手塚描かれたものである憧れの手塚が住んでいた、トキワ莊14号室に住めたことについて藤子・F・不二雄は、「四畳半というものがこんなに広いものかと感動しました」と語る。藤子不二雄A自身漫画トキワ莊14号室を宇宙のような壮大な情景描いている。その後、たびたび手塚治虫の緊急アシスタントとして手塚仕事手伝っていた。 藤子・F・不二雄は、生涯渡って手塚を「最大漫画の神様」と尊敬し続け自伝漫画書き方の本で手塚絶賛していた。藤子不二雄A同様に手塚尊敬し自伝漫画まんが道」では手塚最大の師として登場させ、「手塚治虫はふたりにとって神であった」「いや、日本中の漫画少年にとってもであった」と頻繁に手塚「神」表現した。現在手塚が「漫画の神様」と称されるのは彼らの影響大きい(それ以前漫画王様といわれてもいた)。藤子不二雄漫画家25周年迎えた際には手塚タッチドラえもんドラえもん風のヒョウタンツギ描いた色紙プレゼントしている。その25周年記念パーティー手塚仕切り二人二次会まで連れて行っている。 手塚藤子不二雄スタジオに突然ひょっこり現れて「ハハハ、来たよ」と特に用事もないのにふらっと訪れることもあった。また藤子不二雄A新宿焼き鳥屋飲んでいると、そのこと聞きつけた手塚やってくることもあったという。手塚藤子・F・不二雄二人で惑星ソラリス」などの映画を見ることもあった。 手塚藤子本の寄稿で「オバケのQ太郎」のことを「おばけという概念これほどまでにキュートに、子どもの世界ひきずりおろして描いた作品以前にないでしょうアメリカには幽霊の子どもを主人公にしたキャスパーという例がありますが、これよりもずっととぼけていて性格づけがみごとです。」「キャラクター描きやすさの点でも、まず、オバQ君にかなうものはありますまい。(日本現在のようなキャラクター漫画流行する前の発言)」と語っている。 手塚治虫漫画七色いんこ」では藤子ドラえもん登場したり、「黄金トランク」では主人公の名前不二雄である。「どろろ」と「バンパイヤ」には「オバケのQ太郎」が登場。「ガチャボイ一代記」では、藤子・F・不二雄藤子不二雄A手塚アシスタントをする様子手塚自身描いている。手塚治虫漫画全集の「ジャングル大帝」のあとがきには、藤子不二雄二人アシスタントしてくれたことに対する、感謝言葉激励書かれている藤子二人結婚式仲人手塚務めた藤子・F・不二雄は、手塚亡くなった時の追悼文で「高校生になって先生のまんがを読み続け……、気がついてみると自分まんが家になっていた」と語っている。 手塚藤子・F・不二雄藤子不二雄Aの3人が住んでいた「トキワ莊14号室」の天井は、トキワ莊解体時に手塚持ち帰っている。その理由は「室内にこんろを持ち込んでご飯炊いたり、煮炊きをした。あの時の煙は天井にしみ込んでいるはず。大家さん頼んで天井板記念に譲ってもらいますとのこと石ノ森章太郎 石ノ(旧:石森章太郎)も手塚治虫の「新寶島」に衝撃受けた中学生の頃、手塚分厚いファンレター出したところ、手塚からさらに分厚い封筒返事届き、ますます手塚ファンになったという。 石ノ高校在学時、手塚連載していた『漫画少年』の投稿投稿をするようになる手塚漫画少年送ってきた石ノのことを、「天才的な少年の絵」と褒めている。そして「鉄腕アトム執筆の手塚に依頼され、石ノ学業中断して手塚アシスタント務めた手塚は回を追うごとに上手くなる石ノの絵を見て舌を巻き、仕事手伝ってもらったと語る。アシスタント経験中は、手塚激務だったはずが石ノ映画に連れ出している。その時の様子を石ノは「ギリギリ仕事のなかで、ある日夜になると編集者目を盗んで、こっそりぼくを映画館に連れて行ってくれた。ぼくだって当時ご多分にもれぬ映画少年である。編集者には申しわけないが、ちゃっかり便乗していた」と語る。そして、手塚編集者紹介したことにより、石ノ漫画家としてデビューすることになったその後石ノ手塚住んでいたトキワ莊住んだ手塚自身漫画に石ノを度々登場させている。石ノ森章太郎結婚式仲人は、遅刻する手塚務めたテレビ映画快傑ハリマオ」の漫画版では手塚原作作画が石ノ共作をした。1959年、石ノ手塚アシスタントだった月岡貞夫とともに手塚治虫身代わりとして東映動画劇場アニメ『西遊記』制作現場派遣された。後に、この体験が石ノ東映グループゴレンジャースーパー戦隊シリーズ)等を代表とする、特撮作品原作を担当するきっかけに繋がる。 また、石ノ手塚亡くなる少し前に対談をしており、石ノ手塚のことを「面白おかしく事象表現するだけ、と思われていた漫画というメディアでペーソスのみならず悲劇や深い哲学的な思索まで持ち込んでドラマを描くという試み前人未到事だった。」と彼の業績評価している。手塚対談で石ノ漫画「仮面ライダー」のことを「繰り返し繰り返し読まれもちっと見劣りしない作品」と褒めている。 石ノデビュー後お金のない19歳の頃、手塚内緒で「火の鳥風太郎」という、手塚代表作アイデア使った作品描いている。本作得られ原稿料は、全てオーディオ機器購入するために当てられた。 赤塚不二夫 赤塚不二夫手塚治虫漫画新寶島」「ロストワールド」に出会ったことで、漫画家になることを決意した。彼が18歳の時は長谷邦夫石ノ森章太郎一緒に墨汁一滴』を描く仲間として手塚の家を訪問したその時手塚締め切り追われ忙しいにもかかわらず赤塚達の似顔絵描いたり、ピアノ披露したりして彼らは感銘を受ける赤塚新人漫画家としてデビューした頃、手塚は「赤塚クンりっぱな漫画家なるには一流映画を観なさい、一流小説読みなさい、そして一流音楽聞きなさい」と助言した手塚言葉従い赤塚レコード店行き店員に「一流音楽聞きたいんです。一流レコードくださいと言うが、店員何を渡したらいいのか分からず困ったという。その後赤塚手塚住んでいたトキワ莊暮らした手塚トキワ莊メンバー同様にマンガからマンガ勉強するんじゃないよ。」「一流芝居を見なさい、一流の本を読みなさい」などと言っており、赤塚は「だから僕たち(トキワ莊メンバー)はあの頃、ほとんど酒なんて飲まなかった。そのかわり映画を見に行こう音楽聴こうジャズコンサート行こう小説を読もう手塚先生そうしろって言ったから。」「その時はわからなかった。それで後になってからその意味わかってくる。手塚先生おっしゃってたことは、やっぱりすごく大きいのだ。いい音楽聴きなさい。いい映画を見なさい。いい芝居をみなさい。本当に大事な教えだったんだと今にして改めて思うのだ」と語っている。手塚赤塚をたびたび自身漫画登場させている。それと同時に手塚赤塚ギャグである「シェー」など気に入っていたのか「W3」「火の鳥」など複数の作品使っている。手塚の「ブラック・ジャック」の『アヴィナの島』の回では赤塚の「天才バカボン」のパパ登場する赤塚トキワ莊時代手塚アシスタント務めたことがある。また赤塚雑誌企画で「赤塚不二」のペンネームで、『鉄腕アトムなのだ!』という手塚作品パロディ漫画描いている。その中には火の鳥ヒョウタンツギなどが登場。その表紙には「わたしにこのマンガをかかせた手塚治虫先生にこの1編をささげますと書かれている水野英子 水野英子も、小学3年生時に手塚治虫漫画衝撃受けて漫画家志す水野16歳の頃に手塚会いたい伝えて東京行き手塚出会った数年後水野上京して手塚住んでいたトキワ莊住人となる。水野女性少女漫画家草分け先駆けとなったそれまで少女漫画はほとんどの場合男性描いていた。) 水野手塚振り返って次のように語っている。「私が初め先生漫画出会った時のショックをどう言い表したら良いでしょう。そこには絢爛たるファンタスティック・ワールド広がっていたのです!SF西部劇ミステリーおとぎ話次々と繰り広げられる見も知らぬ魅惑的な世界街中本屋さん駆け巡り、一冊とも見逃すいとするのがあの頃の私の日課でした。やっと買い求めた本を、家に持ち帰るのももどかしく読みながら歩いているうちに夢中になって家の前を通りすぎてしまった事。親が死んでも泣かなかった私がジャングル大帝ラストシーンではもう何も見えなくなるぐらいショック泣いてしまった事…」「私は、ついに自分漫画描こう決心し漫画家への道歩み始めました十七歳上京し、とうとう本物先生にお会いできた時の感激銀座喫茶店にこやかに優しく私を迎えて下さった先生まぶしさ手塚先生最初に入居なさったというアパートトキワ莊に、当時新人実力者たちといっしょに住むことができた嬉しさ!」手塚水野のことを自著で「天才児水野英子と書いている。 横山光輝 横山光輝も、手塚治虫の「メトロポリス」に感銘を受け漫画家志す。しかし、高校卒業後は一旦就職した手塚ある日大阪東光堂の社長に連れられスマートな青年出会う社長はその青年神戸銀行勤めていると言い社長は「うちでデビューさせよう思いますが、どうでっしゃろ?」と聞いた手塚彼の作品読み、「売れるかも知れませんな」と褒め、その青年漫画家としてデビューすることになった。その青年こそが横山光輝である。横山その後手塚原作とし「黄金都市」「ターザン洞窟」など作画した。手塚横山を「かれほど"彗星のように"という形容のあてはまる男はいない」と絶賛している。「鉄人28号」は『少年誌上手塚の「鉄腕アトム」と人気二分する大ヒットとなったサンケイ新聞記者として工業関係取材経験のあった横山は、「最初大きくしかできず、それから小さくなる」と考え手塚治虫『鉄腕アトム』意識して鉄人28号大型ロボットにしたとも語っていた。プライベートでも手塚横山付き合いあったようで、横山東京に来たばかりの頃には、手塚がいろいろアドバイスしていた。横山手塚アシスタント経験している。 手塚亡くなった際、横山は「いつも僕は手塚さん作品参考にしてものを考えてきましたから、すべての作品から影響受けてます。技法の点で言えばアングル取り方がとても上手だった。影を後ろのばしたり、壁に大きく写したり。若いころはよく食事ごちそうになったしたものです。やさしくて、とても他人に気を使う人でしたよ。」と語った手塚生前、「横山さんはいろんジャンル仕事されましたが、この『鉄人28号』と『伊賀の影丸』それに『三国志』三つは、エポックメーキングなものでしょう娯楽マンガ功労賞があれば、横山さんにぜひ一番にさし上げるべきではないか思います」と発言している。 松本零士 松本零士も、小学2・3年生の頃、学級文庫手塚治虫描いた本を読んで漫画家志した。それは手塚の「新宝島」「キングコング」「火星博士」「月世界紳士であった松本は、「手塚さん漫画それまでのどんな漫画よりもスピーディでかっこよかった。おそらく、当時全国漫画少年たちが度肝抜かれたのではないか」と語る。松本手塚連載していた『漫画少年』の投稿常連になる。そして高校生の時、それを見た手塚から「テツタイコウ テツカ(手伝い請う手塚)」の電報受け取る。松本最初イタズラかと思ったが、それはイタズラではなく本当に手塚が緊急のアシスタント求めた電報であった。そこで松本は緊急アシスタントとして出向いて手塚手伝いながら、漫画家について根掘り葉掘り質問した。この出来事は、松本プロ漫画家目指す思い強めた松本プロ漫画家になり、上京してからも手塚とは親交があり、手塚一人突然に松本下宿先訪れ、窓の外から「おーい松本君メシ食わせるから、出てこーい。」と誘ったこともあったという。 松本手塚と気が合ったのは、お互いあけっぴろげだからと語っている。 手塚漫画ばるぼら」には松本零士モデルにした「松本麗児」という登場人物登場し漫画家本の収集家という設定で、物語重要な場面で関わってくる。 また松本は、日本初30テレビアニメシリーズとなった鉄腕アトム」にも縁がある松本は「鉄腕アトムですが、実は私も関係しているんです。試写会前日夜中手塚さんから私の下宿に『助けてくれ!』と電話があり、『映写機壊れて編集できない』というので、私の映写機持って行ったんです。アトム第一話後半は私の映写機編集して試写会行っているんですよ。」と語っている。「私と手塚さん、それと石ノ森章太郎氏の3人は自称アニメマニアという仲。将来アニメ映画作ろうという夢を持っていて、お互いにいろいろな機材資料を貸合っていたんですがお二人とも亡くなってしまってお二人から借りた機材もまだ持っているんですが、今では遺品になってしまいましたね。」とも語る。 松本は熱心な手塚治虫作品コレクターでもあり、手塚自身持っていなかった初期作品全て所有し、1冊数百万値段付けた新宝島」の初版本持っている2013年には、手塚治虫未発表原稿個人的に発見したことでニュースにもなった。 永井豪 永井豪も、手塚治虫影響を受け漫画家志したと語る。「僕の人生手塚先生作品から始まった。」 とも言い彼は子供の頃手塚治虫漫画をよく読みいつも衝撃受けていた。永井初め手塚治虫アシスタントになるために手塚プロダクション出向いたが、あいにく手塚連絡付かず代わりに知人紹介され石ノ森章太郎の下で仕事手伝うことになった永井自身半生振り返り私の少年時代手塚作品と過ごす時間が最も幸せな時間だった。学校イヤなことがあった時も、手塚漫画が私の心をいやしてくれた。自分手塚先生のように漫画家なりたい考えたのは自然の成り行き。そして私は漫画家になった。しかし手塚先生にはなれなかった・・・永井豪になってしまった」と語る。またアンソロジーコミックブラック・ジャックALIVE』で永井豪ブラック・ジャック描いた時にはブラック・ジャック永井豪自身学生時代の手塚をいっしょに登場させ、ブラック・ジャック学生時代の手塚に「お前は漫画家より医者向いている」と発言すると、手塚治虫キャラ全員永井豪存在消えかかった(もしも手塚治虫漫画家になってなかったら永井豪漫画家になっていなかったという表現)。 永井デビュー後は、手塚プライベートでも親交があった。手塚永井複数一緒に旅行しており、SF作家クラブメンバー旅行したり、サンディエゴのコミックコンベンションに出かけたことがあるロスでは二人っきりで映画シャイニング」を見た手塚永井に対して「豪ちゃん、短編をたくさん描きなさい。短編は大事ですよ」といつもアドバイス送っていた。 永井結婚式では手塚スピーチをおこなっている(『コミックボックス1989年5月号に当時写真掲載されている)。 古谷三敏 古谷も、手塚漫画新宝島』を読んで漫画家志した。彼はその時の様子次のように語っている「ぼくも子供の頃手塚先生の『新宝島』を読んで衝撃受けたひとりですそれまで漫画比べてスピード感があって、ストーリーも絵も、今まで日本にない。ディズニー映画のようなアメリカナイズされた文化垣間見た感じがしました。何百回読んだかわかりませんし、『新宝島』を読んで漫画家になろうと決めたんです。ぼくのデビュー作みかんの花咲く丘』も手塚先生漫画をずいぶんと参考にしています。その後古谷手塚アシスタント経験した手塚アシスタント給料を渡す際に「かならず映画観るんだぞ」と言いながら笑顔1000円渡していた(その頃レストラン定食50円食べられる時代であり、映画見てお釣りが来る)。古谷はいつも喜んで映画見ていた。アシスタント中、徹夜明け手塚ホテルから出てきた時に「おれは手塚治虫一緒に歩いているんだ」と嬉しくなったという。 さいとう・たかを さいとう・たかをも、手塚治虫憧れて漫画家目指した。手塚治虫の「新宝島」を読み、「紙で映画作れる!」と興奮したという。昭和30年頃の学生時代には漫画家志望者として手塚治虫自宅尋ねた。しかし、運が悪く手塚は既に東京上京していたため、さいとう手塚に会うことはできず、手塚の母と二言三言話しただけで帰ることになったこの頃さいとうは、手塚のような丸っこい絵柄であったその後さいとうは「手塚憧れて漫画家目指したが、手塚調の丸っこいタッチの絵が描け現在のになった」と証言している。さいとうは後に「劇画」と呼ばれる分野開拓貢献し手塚大きなライバルとして、彼の漫画家生命大きく揺るがしたさいとう辰巳ヨシヒロ達と工房立ち上げ、「打倒手塚だ!」と言った時は、実はさいとう以外は全員熱心な手塚ファンであったため、「お前なに身の程知らずなことを言っているんだ」と言われたという。 さいとうは、後に手塚漫画過去からの声」で共作をしており、その時原作手塚作画さいとうであった。『ビッグコミック』では、四大作家競作として石ノ森章太郎藤子不二雄Aさいとう・たかを手塚治虫の4人で競作をしている。 さいとう手塚亡くなった時に今まで目標とし、登っていた大きな山が突然なくなったような気がします」と語った辰巳ヨシヒロ 手塚の「新宝島」に衝撃受けて漫画家志した辰巳当時振り返り手塚治虫という初め目にする作者作品これまでの漫画常識根本から覆す画期的な世界構築していた」、「ぼくにとって手塚治虫神様にも匹敵する存在になっていた」と語っている。少年時代辰巳宝塚の手塚の家を訪問したこともある。手塚辰巳優しく自室招き入れ辰巳持参した4コマ漫画読み長編描きませんかこれから4コマ発表する場所がだんだんなくなります。ぜひ長編描きなさい」と助言した。これは辰巳にとって大きな助言になる。またジャングル大帝第一話連載前のカラーページを手塚見せてもらい、身震いし度肝抜かれたと語っている。その後辰巳漫画家としてデビューし手塚鉄腕アトム影響受けた鉄腕げん太」という漫画描いた。しかし、数年後敢えて手塚治虫とは別の「まんがではないまんが」を模索するうになるその結果辰巳劇画開拓者になった。「劇画」という呼び名辰巳考案したのである辰巳は『劇画宣言』という内容封書いくつか書き手塚にも送った。しかし、手塚その後辰巳対し商業主義になっていく劇画風潮に対して忠告した。また手塚文藝春秋漫画賞受賞したさいとう・たかを佐藤まさあきと共に辰巳授賞式招待し1982年には辰巳フランス旅行途中から同行したこともあった。 つげ義春 小学4年生のころに手塚治虫マンガ熱中しはじめる。新刊が出ると本屋へ走る日々であった貧しさのため母に買ってもらうことはできず、3か月1度くらい帰ってくる泥棒義祖父待ちわび、買っていたが、その間に本が売切れてしまうのを案じ手持ちおもちゃおもちゃ屋売ってお金工面した。それでも手に入らないときは、万引きをしようと本屋の前をうろうろするほどであった16歳の時、一人部屋空想したり、好きな絵を書いていられる職業として漫画家になることを志す当時トキワ荘住んでいた手塚治虫訪ね原稿料の額などを聞き出しプロになる決意強める。 白土三平 貸本時代白土は、手塚似た絵の漫画描いていた。白土初期作品「嵐の忍者」では手塚スターシステムキャラクター登場するなど、その影響を見ることができる。白土は、「紙芝居をやっていたころ。いわゆるユーモアマンガで手塚さん勉強した。」という。手塚そのこと言及しており、「たとえば白土三平氏やつげ義春氏のかつての作品が、円熟した時代のものにくらべてきわめて手塚的であるのは、おそらくはぼくの漫画教科書として使ったであったイミテーション望んでいたわけではないはずだ」と語っている。白土徐々に手塚的な作風止め劇画作家へ転向し手塚最大ライバルとして立ちはだかった劇画ブーム起きると、白土率いる「ガロ」に対抗して手塚は「COM」を立ち上げた手塚は「白土三平氏が登場してから、子供漫画には重厚なドラマリアリティイデオロギー要求されるようになった」と語っている。手塚漫画ネオ・ファウスト」では、登場人物白土漫画読み内容から教訓得ようとするシーン登場する白土手塚亡くなった際に、「気がついてみたら、私もいつかこの世界で飯を食っていたのだが、手塚さんは我々の偉大な先輩であると共に多く日本人にとって忘れえぬ人でありつづけるだろう。人の運命とはいえ、実に残念である。」と発言している。 大友克洋 大友子供の頃からの手ファン語っており、特に少年時代は「鉄腕アトム」のアニメを見るため、放映時間になると決まって家に帰っていたという。またマーブルチョコも、アトムのおまけのシール欲しさによく買っていた。「僕は手塚作品最初に好きなのは鉄腕アトムなんだけどビッグX好きだし、高校生の頃は火の鳥読んでいた」とも語り手塚治虫漫画全集全巻揃えている。大友克洋は、高校生の頃に火の鳥連載していた手塚治虫雑誌COM」に漫画投稿している。デビュー初期作品FIRE BALL」では敵のコンピューターの名前にアトム」を使っている。 また大友代表作AKIRA」の最終巻の最後ページには、本作手塚捧げるとの一文がある。大友は、手塚作品原作とする劇場用アニメーション映画メトロポリス』で脚本担当している。2005年監督作品スチームボーイ』のタイトルも、「鉄腕アトム」の英語版タイトル「アストロボーイ」を意識したのである舞台挨拶では「スチームボーイ手塚さんがやろうとしていた世界観意識した」と語った雑誌ユリイカ』の大友特集号で、手塚は「僕はデッサン基礎をやっていないから、こんな絵を見せられてはたまらない。一も二もなく降参する」と大友画力賞賛している。 また手塚は「大友克洋さんの出現によって、劇画トドメをさされてしまいました少ないけれど確かな線によって、白っぽい画面のままで、劇画上のリアリティ出せることが証明されてしまったのです」と述べ劇画衰退大友一因があるとし、その功績高く評価している。 手塚大友パーティー招待した際は「ボクはあなたの絵見ましたマンガをね、虫メガネ見たけど、それでもデッサン狂っていませんね。スゴイですよ!」と大友のことを絶賛している。大友はそれに対して「でも僕は手塚先生のようなデフォルメされた絵はかけないんですよね」と語ると手塚は「僕は描こう思えば誰の絵でも描けるけど、諸星大二郎のような絵と星野之宣のような絵は描けない」ということ大友洩らしている。 大友が一番好きな手塚キャラは、屈折して影のあるロック・ホーム語り大友脚本を手がけたメトロポリスには、原作では登場しないロック・ホームが、重要な役柄映画全編登場する大友1993年NHKラジオ日曜喫茶室 鉄腕アトム贈り物」に出演した際に、大友作風生まれたことについて以下のように語っている。「僕は高校の頃から映画が好きで映画ばっかり見てましたけど、手塚さん作った漫画っていうのは非常に映画的漫画なんですよね、昔の漫画比べると。のらくろだったり、その、昔の古い漫画ありますけど、それに比べると非常に映画的カメラアングルをこったり、カット割りみたいなのが素晴らしい。それをやっぱりもう一度やってみたいなっていうのが、昔みたいイマジネーション漫画描いてみたり、映画カット割りに非常に近い、まあ手塚さんがそう作ったから当たり前なんですけど、それはありましたね、それを自分もやってみたくなっちゃう。」「僕は手塚さんみたいに枚数描けないんで線の数で勝負している。」また手塚大友のことを『降参すると言ったことについては「俺なんかをそんな風に言っていいのかなと思った」という。大友手塚から漫画パーティー誘われ時のことは、「女房電話出て手塚治虫から電話が来たよ』って言われて非常にビックリした」と語っている。 大友2014年アニメビジエンスNo.3大友タッチ鉄腕アトム描いた萩尾望都 萩尾高校2年生の頃に手塚漫画新撰組」に出会い、強い衝撃を受け漫画家志した。その強い衝撃様子を彼女はこう語る「『新撰組』のクライマックスシーンは、言うまでもなく花火のあがる河原での決闘シーンだ。このシーン重要なのは、それまで十郎支え育んできた彼の正義情けが、熱意が、信頼が、ガラガラ崩壊していく様が描かれているからだ。親友大作は実は長州スパイだった。敵を斬れと土方歳三命じられた丘十郎苦しみつつ歩く大きなコマがある。そのコマには大きなふきだし三、四個あり、新撰組という集団利益忠誠と、個人意志友情との間に引き裂かれてゆく、まさにダブルバインド落ちた十郎苦しみめんめんつづられているハズであった。しかしそれは私の思い込みであった実際セリフは二行しかない。"大作・・許してくれ"。この二行は私にとって二百行にも価した。このシーンはぐっさりと私の心にくいこみいまだにその衝撃忘れることができない。」「実のところ、私はそのショックで、十七時に漫画家になる決心をしてしまった。」萩尾はこれを読んだ後、1週間ぐらいボーっとしたという。 その後萩尾漫画家なり手塚と雑誌対談をしたことも何度かある。手塚萩尾作品11人いる!に対して11人いる!なんてのはスペース・オペラとしての傑作だ思っているんです」と評価している。萩尾手塚全作品所有しているほどの大の手塚ファンであり、手塚亡くなった時には次の様に語った。「私は手塚先生写真持っているサイン本持ってる直筆の絵も持ってる。でももう何もいらないから手塚先生長生きしてほしかった。悲しい。一体、どうしたらいいの手塚先生返事して下さい。」 里中満智子 里中は、小学校入学直後創刊されたばかりの『なかよし』で手塚作品夢中になり、愛読していた。しかし、彼女はそれだけでは物足りず貸本屋通い詰め手塚作品むさぼるように読んでいたという。貸本置いてないものは必死お小遣いをためて買い、友人の兄から借りたりした。その中で『鉄腕アトム』に特に夢中になった。悪いことをしようとした時にも「アトムならこんなことをしない」と自分言い聞かせた里中は「グレりしない生きてきたのはアトムのおかげ。アトム生み出した手塚先生のおかげ」と語る。しかし、彼女が小学5年生のころに悪書追放運動起こり鉄腕アトム」も悪書として批判されることがあった。里中は「こんなことでは漫画滅ぼされてしまう!守りたい!」と思い漫画家目指す里中16歳若さ漫画家になった1972年里中イベント移動のため、手塚二人きり新幹線乗ることとなり、大阪まで3時間、手塚一緒に語り合ったその時の様子里中は「酸欠状態で心臓バクバクだったが、手塚先生優しかった」と語る。その中で手塚は「今後何を描きたいか」という質問で「究極エロティシズム描きたいエロティシズムって素晴らしいですよ!」などと語り当時若い女性であった里中は、どう受け答えしていいかわから困ったという。しかし「聞いているだけで幸せでした」とも語る。その他に手塚は、妻との新婚時代のことや、息子のことについてなどを語った南部正太郎 手塚が「マァチャンの日記帳」などの新聞連載始めた頃、同時期に長谷川町子の「サザエさん」(『夕刊フクニチ』)、南部正太郎の「ヤネウラ3ちゃん」(『大阪新聞』)などの新聞連載漫画始まっていた。手塚は『大阪新聞を介して南部知り合いもう一人武田将美を加えて「スリー・メンズ・クラブ」というグループ結成、たびたび3人で映画漫画について話し合うなどしていた。当時南部の『ヤネウラ3ちゃん』の人気圧倒的で、3人組意味する「スリー・メンズ・クラブ」の「スリー」を3ちゃんの3のことだと思う人多かったという。 馬場のぼる 馬場のその穏やかな人柄もあり、手塚親し友人一人として交際手塚葬儀では加藤芳郎とともに弔辞読んだ手塚作品一つ七色いんこ」では馬場のぼる絵本作品11ぴきのねこ」を馬場のぼる作品として物語の鍵に使っている。また、手塚早くから馬場キャラクターとして自作登場させており、中にはフィルムは生きている」の宍戸梅軒や「W3」の馬場先生のように重要な役柄起用されケースもある。「W3」で重要な役柄抜擢され理由馬場手塚に対して「ねえ、たまにはルンペンよりいい役にしなさいよ」と言ったことによる馬場自分モデル馬場先生が「たいやきは しっぽの中のアンコで ねうちがわかるんだぞ」という場面関心寄せている。手塚馬場九州旅行に出かけた折、飛行機内で手塚が「鳥人大系」を描いていると「よくペン走るなあ」と馬場呆れたという。馬場手塚のことを「手塚さん現れて、どんどん人気上がっていったんですね。そうして人気上がるにつれ雑誌手塚調の絵が氾濫するわけです。」と語り手塚訃報の際には「言うべき言葉も見つかりません。40年付き合いでした。開拓者精神旺盛な人で、鉄腕アトムアニメテレビで初めてやったのが手塚さんでした。今月1日手塚亡くなったのは9日)にお見舞い行きましたが、眠っておられてお話をすることはできませんでした。だいぶ痩せられて、危ないとは思っていましたが・・・。本当に偉大な方をなくしました」と語った小島功 手塚昭和30年以降に「大人漫画」の世界進んだ際に、大人漫画家の「若手作家どうしとして交流が始まる。小島は、手塚しらない「酒と女の世界」の指南役となり、手塚銀座夜の街誘った。のちに二人とも漫画集団」の一員となり、交流が深まる。また、大人の女が描けない」漫画家だった手塚は、小島漫画グラマー女性キャラクター模して大人女性像を描くようになったまた、小島主導した1963年の「日本漫画家協会」の設立にも、「児童漫画家の代表」として賛成して支援したやなせたかし 1960年代から晩年まで親交があった。手塚劇場アニメ千夜一夜物語』(1969年)に当時まだ大人漫画家として活動し現在ほど有名でなかったやなせを美術監督として起用しキャラクターデザインもやなせに依頼している。そのお礼として手塚ポケットマネー出して、やなせの原案よるアニメ映画やさしいライオン』を制作した大藤信郎賞受賞)。 やなせは手塚のことを自著アンパンマン遺書」にて次のように記している「当時小学生漫画がうまいというのは、手塚治虫マネがいかにうまくできるということだった。」「手塚治虫という名前は、ぼくも風のたより聞いてはいたが、それはまった別世界できごとで、ぼくには無関係だった。」「ある日電話鳴った『もしもし、やなせさん、手塚治虫です』『あ、どうも』『実はね、今度虫プロ長篇アニメをつくることになったんですよ』『はあ、大変ですね』『それで、やなせさんにキャラクターデザインお願いしたいんです。ひきうけていただけますか』『いいですよ』『それじゃね』だいたいこんな風な会話だった。手塚治虫その頃は既に漫画の神様に近く名声確立して収入は僕のX倍もあったが、ぼくとはまった世界ちがったから、ほとんど関心はなかった。」「それなのに何故ぼくに電話してきたのか。わけが分からない漫画家冗談が多い。これは手塚治虫冗談だと思って、すっかり忘れていた。ところがある日、また虫プロから電話かかってきた。」「手塚治虫はもう遠くの国へ逝ってしまったが、ぼくは改め聞きたい手塚さん、なぜぼくに依頼したんですか?』」「ところが千夜一夜興行的に大ヒットするのである。そして手塚さんはぼくに言ったヒットお礼に、何かアニメーション短編自由につくってください』『え、ほんとですか』『制作費はぼくのポケットマネーから出します。』ということで、ぼくは、はじめてアニメーション手がけることになった。とにかく自分でつくれる作品ということで、既にラジオでやっていて、脚本音楽もできているやさしいライオン選んだ千夜一夜山本暎一やり方見ていたので、大体のことは解ったし、絵コンテ手塚治虫並べて描いたので要領はつかめていた」。 やなせは「千夜一夜物語前後を境に、子供向け作品描いていた手塚大人向け作品作ることが増え逆に大人向け作品描いていたやなせが子供向け作品作ることが増えたことを『運命交錯』と表現している。 2009年江戸東京博物館開催された「手塚治虫展」では、「ぼくが学んだのは、手塚治虫人生対す誠実さである。才能努力しても、とてもかなわないが、誠実であることはいくらかその気になれば可能である。もちろん遠く及ばないにしてもいくらか近づける手塚治虫氏はその意味でぼくの人生師匠である。」というやなせのコメント紹介された(やなせは手塚より9歳年長である)。 寺田ヒロオ 寺田手塚トキワ莊一緒に暮らしていた。トキワ莊漫画家続々集まってくるのは、手塚藤子不二雄二人に14号室を譲ってからであるため、手塚寺田二人で住んでいた期間を「トキワ荘前史」と表している。寺田手塚部屋向かい合わせだった。手塚寺田は歳が3つほどしか違わず手塚寺田を「テラさん」と呼んでいた。寺田手塚のことをこう語る「今のようにアシスタント使って漫画を描くというスタイルは、手塚治虫さんが最初でしょう手塚さん登場少年漫画世界革命的に変わりましたそれまでは、どちらかと言えば舞台的な作り方だったのが、彼以来映画的なものに変わってまったんです。背景細かく書き込むようになったし。かなり複雑なストーリーのものが漫画世界現れたものも手塚さん以降でしょう。」手塚自著寺田のことを「寺田ヒロオ氏は児童漫画にかける情熱すさまじく高邁な信念をもって作品描き、『スポーツマン金太郎』や『背番号0』などの名作出した。その信念終始一貫変わらなかった。ぼくの尊敬する漫画家タイプの人である」と語っている。手塚劇画ブームの際、自身劇画を描くなど対抗し乗り切ったが、寺田はそれができず児童漫画を貫くも、全く面識のない劇画作家さいとう・たかを)に自分描いた原稿送り付け、「あなたはこんな物を描いていては駄目だ。漫画を描くならば、こういった物を描きなさい」と、一方的に諭した事もあったという。寺田漫画打ち切られ寺田自宅引きこもりがちになる。1981年NHK特集現代マンガ家立志伝』で、トキワ莊メンバーが同莊会を開くという内容番組放送されたが、寺田は来なかった。その時手塚は「テラさんは?」と語り寺田が来ないことを知ると、「ああ、惜しい・・」と残念がる姿が放映された。寺田その後トキワ莊メンバーとはほとんど会わなかったものの、1990年自宅旧知の仲間を呼んで宴会をした後、自室引きこもる生活を続け1992年死去している。 福井英一 福井柔道漫画イガグリくん』(『冒険王1952年 - 1954年連載) は連載時絶大な人気誇っており、当時手塚福井最大ライバル見なしていた。ライバルとしてだけではなく手塚描いた38度線上の怪物」には福井登場し福井描いたイガグリくん』には手塚登場するコマがあるなど交流もあった。しかし、酔った福井手塚に「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」とふっかけ口論となり、手塚返答に「稼ぐばかりが能じゃねえ、子供だ、子供のことをちったァ考えてみろ」「金のために描いているしか思えねえ、この大阪人め!」と罵倒したこともある。1954年頃、手塚は『漫画少年連載の「漫画教室」の中で、良くないストーリー漫画の例として『イガグリくん』を模した作品登場させて福井怒りを買い、福井抗議受けて馬場のぼる仲裁謝罪している。手塚翌月の「漫画教室」に、漫画先生福井馬場らしきシルエット人物にやり込められている様子描いて謝罪の意を表した。そのしばらく後に福井過労急逝しており、手塚死去の報を受けて競争相手がいなくなったことに「ホッとした」という感情覚えそのこと自己嫌悪陥った記している。手塚直後アシスタントしてもらっていた高校生時代石ノ森章太郎ハガキ出している。「福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀帰途だ。狭心症だった。徹夜したんだ終わって飲み出て倒れた出版社殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほどくわしく知らせるから…」その手紙を受け取った石ノは、手塚悲しみが行間からにじみ出てようだった語っている。その後手塚漫画世界を滅ぼす男」で空に浮かぶ福井の形にして、自身追悼気持ち漫画の中であらわした。その穏やかな生前福井の顔の形をしており、頭の上部には天使の輪の形をした付いていた。手塚福井亡くなったことによるショックで、手塚福井連載していた「漫画少年」に『あと2年漫画家辞める』とまで発表し漫画家辞め医者目指すつもりであった水木しげる 水木しげるデビュー当時漫画手塚治虫のような作風漫画しか売れず、「私は(手塚治虫を)ライバルだと思ってやってきた。若い時から漫画界君臨してきた彼に対して屈折した思いもあった」「手塚さんコンクリート塗装大きな道を闊歩してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路つまずきながら歩いてたようなものだ」と自著水木さんの幸福論』で語っている。 『週刊少年マガジン』編集長だった内田勝によると、1965年から同紙で連載開始された水木妖怪漫画墓場の鬼太郎」を目にした手塚は、その内容から受けたあまりの衝撃に、自宅階段から転げ落ちたという。やがて「ゲゲゲの鬼太郎」改題された同作品によって「妖怪ブーム」が起こると、手塚はこれを意識して「どろろ」を発表している。一方水木作品には棺桶職人主人公にした短編一番病」 があるが、これは手塚によく似た主人公が一番になろうとばかりして酷い目に会う、という物語である。また水木作品元にして、手塚地元である宝塚ファミリーランド「ゲゲゲの鬼太郎」アトラクション開催されていた事に対し手塚難癖取られても仕方がない発言行ったという。 水木雑誌インタビュー手塚のことを直接名指ししたわけではないが、「水木サン水木一人称)はいつでも自分がオモチロイと思ったものだけを描くんです。誰かウケるものを描こうなんて考えたともない。そんなことを考えて描く人は三流ですよ」と語っている。 水木長女尚子は父・水木しげる妖怪漫画よりも、かわいい絵を描く手塚大ファンだった。水木次女悦子は「姉が手塚さんマンガをかなり読んでいたことを水木は気にしていたようです」と話している。また水木の娘が水木に対してお父ちゃん漫画には未来がない手塚漫画には未来があると言うと水木は「これが現実なんだ!おれは現実描いているんだ!」と激怒したという。水木の娘が手塚からサイン貰った時は『お父ちゃん雑なサイン違って丁寧に描いてくれた!』と言い水木ガッカリさせている。一方手塚息子の眞は、幼少期『ゲゲゲの鬼太郎』ファンで、父親漫画よりも好んでおり、水木の娘と好対照であった。後に眞が制作した映画妖怪天国』は水木影響受けており、手塚治虫水木しげる両人ともゲスト出演している。手塚によると、この映画への出演は眞から「水木特別出演してほしいが、個人的に知っているか?」という相談受けたところから始まった手塚はこれに対して「ああ、いろいろつき合って貰ってるよ」と返答した、と記しており、手塚水木漫画家としての交友持っていたことがうかがえる手塚漫画I.L」には主人公I.Lの顔がモンスターになるシーン水木登場するその時水木I.L関心寄せた台詞語っている。同じく手塚漫画三つ目がとおる」の「ガイコツ・ショー」の話では、テレビ局乗り込んだ写楽達の場面で水木登場し三つ目小僧付いて語っている。受け手であるタレントは「水木センセイお話こわかったですねー」と返答。「火の鳥 鳳凰編」では茜丸様々な生き物生まれ変わった夢を見る場面で、夢から目覚めた時の吉備真備水木登場人物ねずみ男」の姿に変わっている手塚水木自分漫画登場させる時は水木電話許可を取るようにしていた。週刊少年マガジン1969年3月30日号の企画で、漫画家とその妻の集合写真撮った時は、手塚水木二人仲良く並んで撮影している。 上記のように「手塚水木不仲である」ということ語られることもあるが、水木本人後年書籍手塚との不仲否定している。 諸星大二郎 手塚賞応募作である「生物都市」を手塚筒井康隆とともに絶賛し、この作品満場一致手塚から手塚賞送られた。諸星および星野之宣鼎談した際、手塚は「僕は諸星さんの絵だけは描けない」と発言している。手塚漫画ルードウィヒ・B」では、諸星のことをみなもと太郎坂口尚などと共に天才」と評価し、「自分大事にして自分個性出していく者が結局強いんですよ。どこでも通用するんすよ。こういうのが自分個性で勝つんすよ」と主人公ルードウィヒに語らせている。 いしかわじゅん イベントいしかわ吾妻ひでお一緒に手塚同席した際、「この2人若手の間では神様みたいな人」と手塚紹介されことがあるその時いしかわは「神様神様といわれるのは妙な気分であった」と語る。またその時手塚は「いしかわ氏はぼくの影響を全然うけてないからなー」と語りいしかわは「(そんなことないですよ。あなたの影響受けていない漫画家なんていませんよ)」と心の中語った。またいしかわは「七色いんこ」中のキャラとして登場させたいとのこと手塚から電話もらったことがある。「七色いんこ」に登場した際のいしかわは、吾妻ひでおキスをするという役柄であった手塚いしかわ作品憂国に対していしかわ氏の憂国なんかおもしろいよね」と発言もしている。 いしかわ手塚亡くなった際に「今朝起きた手塚治虫死んでいた」「歴史上の人は死なない思っていた。生死超越した存在だとばっかり思っていたのだ」とそのショック語った寺沢武一 寺沢は特に手塚ファンという訳ではなかったが、たまたま週刊少年チャンピオン連載していた「ブラック・ジャック内のアシスタント募集広告見て手塚プロダクション作品投稿するその時手塚プロダクション採用担当者の判断により不採用となったが、後日手塚治虫直々に寺沢の絵を見たところ寺沢の絵を気に入り手塚アシスタント採用された。ジャンプコミックス寺沢『コブラ』第1巻には、手塚あとがき寄稿している。手塚その中で「じつは、助手募集したとき、どういうわけか寺沢くんは選にこぼれてしまっていた。あとから気づいたぼくは、大慌てで彼を採用しなおした。こんなすごい絵がかける人をなんで見落とすんだ!こうして四人採用者に彼が一人加わり、それが結果的に、彼がトッププロの道へ進むきっかけつくったのだった。」「彼の絵は緻密で、丹念で、しかも美しかった。ことに背景を描かせると抜群だった。」「ジャンププロ第一作載せたということは寺沢くんにとって大成功だと思う。」と寺沢のことを絶賛している。当時寺沢手塚専属アシスタントをしていたにも拘らず一人だけ残業をせず、「これから自分創作活動するんで帰ります」と 早めに帰宅していたが、手塚寛容扱っていた。理由は「彼はとても才能のある子だから、一日でも早くアシスタント卒業してデビューして欲しかったとのこと寺沢は、手塚火の鳥原稿カッターで切り、構図変えているのを見て「うわっこんな風に発想するのか!」と驚いたという。また寺沢手塚のことを「僕の思いつき先生面白がってくれた。きっとそういう新しい血が欲しかったんだと思う」「手とり足とり教えてくれたわけじゃないがすごくいい時間もらった。僕にとって金に換算できない貴重な経験だった」と語っている。 あだち充 あだちは、高校在学中手塚雑誌COM』に投稿していた。そしてCOM新人賞において、「少年」が手塚によって佳作2位選ばれた。以後COM』の読者コーナーにしばしば登場。あだちは手塚死去した際に『週刊少年サンデー上で次のような追悼文寄せた。「亡くなられ2月9日は僕の誕生日でした。鉄腕アトム誕生の年に生まれた僕としては、手塚先生影響計り知れません。虫プロ主催雑誌COM』がなかったら漫画作品いたものも描かなかったでしょう心からご冥福お祈りいたします。」 夏目房之介 夏目小さな出版社勤めながら、自分漫画いろんな人に送っていた。そうすることによって仕事がくるかと思っていたが、これは彼曰く全然当て外れであった。しかし、手塚治虫から夏目へと直筆ハガキ届き、その中には24Pのものが一番面白かった存じます」とわざわざ夏目作品褒めるものであった。このことに夏目は「信じられない」と語る。1977年夏目実際に手塚出会った時には「ああ自費出版送っていただいて。あの本ね、面白いから編集者貸したそれきり返してくれないんです。週刊朝日ヤングコミック仕事拝見してますよ」と手塚言われ夏目感銘受けている。同時に「怖い人だ」という感想述べている。これは当時無名新人であった自分作品にもチェック入れてくる手塚プロ意識に対して尊敬畏怖をこめてそう評している。 手塚死去の際、夏目次のように語っている。「亡くなったことを知ってから、あちこち連載片っ端から追悼文書いた書いているうちは比較冷静なのに、書き終えてみると、みぞおちのあたりから痙攣馳せのぼってきて泣く。『うぉっうぉっうぉっおっおっ』と、まるでオットセイである。幼いころからのいろんなことが、いちどに手塚さんむかってほとばしったみたいな泣き方で、これを書くたんびにくりかえのである」「手塚さんの死を知ってから、表層的には平静だった私が月刊コミックトム遺作ルードウィヒ・B掲載誌)に追悼文書き最後に手塚さんさようなら』と記した途端に泣いた」「手塚治虫さんは、私などにとって好きとか嫌いとか、影響受けたとか受けないとか、そういう表層的存在ではなかった。だから、作品ひとつだけあげろと言われると『そんなことができるもんか!』と、どなりかえしたくなる」

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