劇画ブーム
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1965年(昭和40年)、当時のトップ漫画家であった手塚治虫がいわゆる「W3事件」で「週刊少年マガジン」の連載を降板するという事件が起こった。編集長の内田勝は手塚の抜けた穴を埋めるべく、貸本劇画で活躍していた劇画家に執筆を依頼。これらの劇画は読者の高い支持を得て、以降、マガジンは劇画路線を推進していくことになる。 劇画の人気を見てとった他の出版社からも次々と劇画雑誌が創刊される。1966年(昭和41年)創刊の「コミックmagazine」(芳文社)を皮切りに、1967年(昭和42年)創刊の「週刊漫画アクション」(双葉社)と「ヤングコミック」(少年画報社)、1968年(昭和43年)創刊の「ビッグコミック」(小学館)、「プレイコミック」(秋田書店)などが挙げられる。それらの雑誌には、貸本から商業雑誌に移行後もヒットを飛ばした、さいとう・たかをや佐藤まさあき、彼らのスタッフだった川崎のぼるや、南波健二、小池一夫、劇画調に作風を変化させた永島慎二や白土三平、つげ義春、新世代の梶原一騎や宮谷一彦、バロン吉元、池上遼一、上村一夫らが執筆し人気を博した。 労働者階級の若者がメインターゲットの読者であった劇画は、当時盛んであった学生運動の熱狂と同期し、社会的なブームを巻き起こすことになる。貸本劇画誌を前身として1964年に創刊された「ガロ」(青林堂)は全共闘世代の大学生の愛読誌であった。1970年(昭和45年)3月31日によど号ハイジャック事件を起こした赤軍派グループの宣言「われわれは明日のジョーである」は当時の劇画の若者に対する影響力を物語っている。
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