関係の深いアニメーション監督
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「手塚治虫」の記事における「関係の深いアニメーション監督」の解説
富野由悠季 富野は小学生の頃、1年先輩の友達の家で雑誌「少年」に連載されていた「アトム大使」で初めて手塚作品と触れ合う。そして小学5年生の4月から両親に「少年」を毎月買って貰うようにお願いした。その時のことを富野は「漫画が掲載されているような雑誌は買ってはいけないというのがうちのテーゼだったんです。それを拝み倒して4月から買ってもらった時に偶然『鉄腕アトム』の連載が始まった月だったんです。本当に衝撃的でした。それまではまだ・・・こんなタイトルあげても若い人は分からないかも知れませんが『のらくろ』の漫画がつまり戦前の漫画がちらちら残ってるんですよ。家の中に。そういうものを読んでお茶を濁していたという気分のところに、これが来ましたんで、要するに昔の軍隊話でないまったく新しい漫画が来た。ということで本当にびっくりしたし、何よりも物語を読まなければならない、つまり、絵だけを見ていたらすまないぞという物語を手塚先生がお描きになったというのが、やはり、いや、これは低俗な漫画ではないという断定を子供心にしてくれたという意味ではとてもすごい作品だったという風に思っています。」また、富野は手塚の「来るべき世界」にさらにそれを超える衝撃を受けたということも語っている。富野は、小学6年生の時には「僕は漫画で初めて女の子を知った」と「来るべき世界」のポポーニャが覆面を外すコマを上げた。 富野は日本大卒業後の1964年(昭和39年)、手塚治虫が設立したアニメ制作会社の虫プロダクションに入社した。富野は手塚から直々に鉄腕アトムの演出に抜擢されアニメ後半の演出の多くは富野が手がけている。富野の初監督作品は手塚の漫画を原作とした「海のトリトン」である。富野は手塚治虫を振り返りこう語っている「アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった。」「週ペースでものを作ることにすでに現場は慣れていましたが、とにかく忙しく、演出論などを議論をしている時間はなかった」「虫プロでマンガ家でアニメーターの真似事をしている人が社長であるわけがない。早く演出にならないと給料安くてやってられないと思っていた僕に「演出やらない?」と言ってきた時、ああやはりこの人はマンガ家でありクリエイターであって社長ではなかった、と思った。オレの映画観と手塚先生の映画観が違ったから。手塚先生の映画観は甘いんじゃないかと思ってた。手塚先生が満足した作品はないと思う。」「映画は好きに作ってすむものではない。好きだけで作れるとは思わないで下さい。それでも作るなら、手塚先生と同じ手の速さと学識を持ってほしい。僕もその1億分の1くらいになれるように頑張ります。」「(「ジャングル大帝」のシナリオの社内募集にコンテを持ち込みした際)それが採用されるというのは、じつはハナからわかっていた。なぜなら、コンテを読める奴はいないのだから、ぼくのコンテだって採用される。虫プロのコンテの基準は、マンガ絵がはっきりしていればいいのであって、映像的な評価を意識したものはないから、りんちゃん(=りんたろう)的なコンテであればとおるとふんだのだ」「だからといって、手塚先生がコンテを読めないことをあげつらうつもりはない」「手塚先生だって、若い連中が描いたコンテはなおすし、短編アニメのコンテをきらせたら天下一品であるのだが、ストーリー・アニメのコンテは不得手でいらっしゃったというのが、ぼくの評価である。こんなエピソードを書いたからといって、TVアニメのパイオニアである事実を貶めることにはならないし、マンガ家として天才であることを汚すことにもならない」 手塚は富野の監督作品『機動戦士ガンダム』について「機動戦士ガンダム以降では子供向けアニメが受けにくくなった」と語っている。 手塚が死去した時のことを富野は次のように振り返っている「先生が亡くなられたと聞いた翌朝、失礼をかえりみず先生のお宅にあがりこんで、死に顔を拝見できなくとも近くにいたいと願った。その行為は今も恥じていない。師のエキスの一万分の一も真似することはできないだろうけど、ここに従うものがいると知ってほしいと思うのは、生きている者の欲である。」 りんたろう(林重行) りんたろうは1963年に東映動画から手塚治虫の虫プロダクションに移籍した。これは東映動画ではやりたかった演出ができなかったためである。りんたろうは念願がかなって「鉄腕アトム」の演出を努めた。彼は手塚のことを「偉大なマンガ家であり、寝食を忘れて一緒に仕事をしたチーフ。覚えているのは、動画机を並べて仕事をしていた時のこと。地震みたいにガタガタガタガタ揺れ出した。先生は調子に乗ってくると貧乏揺すりをするクセがあった。あとは音楽に造詣が深かったこと。朝からコンテをかきつつベートーベンの第5(運命交響曲)をかけていた。商業主義でアニメがどんどん大きくなり、先生が本来やりたかったアニメとどんどんかけ離れていった。でも先生は悩みながらアニメを手放さなかった。プライベートなフィルムを作ってバランスを取っていたんだと思う。でも、最後までどの作品にも満足しなかったのではないか。」と語る。 杉井ギサブロー(杉井儀三郎) 杉井は幼少の頃より手塚作品を読んで育った。彼はこう語る「手塚先生の『新宝島』に出会ったのは7歳の時。その紙のザラザラした感触も覚えている。手塚先生のマンガはほかのマンガと違って、読むというより映画を見ているという印象だった。」「僕は手塚マンガから映画の作り方を教わった。」「手塚先生と初めて会ったのは20代初め。小学生の頃からファンで雲の上の人だったけど、冷静に考えると先生もまだ30代。30代の若者が20代の若者を集めて作ったのが虫プロだった。一番教わったのは、エンターテインメントというのはチャレンジだということ。常にチャレンジしていないと古びてしまう。だから同じことを繰り返してはいけない。先生はホントにマンガが好きだったんだろうか、マンガではなく映画が好きで、映画を書いていたんじゃないかと思う。」 手塚は杉井のことを「ギッちゃん」と呼んでいた。 出崎統 出崎は小学4・5年生の頃より手塚治虫に憧れて漫画を描いて育った。その後、虫プロに入社する。彼は次のように語る「僕は手塚治虫にあこがれ、マンガ家を目指して挫折して、偶然虫プロに入ることができた。先生を目の前にしてもこちらからアクションを起こすことなんてできなくて。何か思い出を作っておけばよかったと後悔してる。一度、アトムのコンテを見せた時『出崎君、エンターテインメントを忘れないで』と言われた。僕は暗い話が好きでそんなのばかりやっていたから。それからずっと、エンターテインメントって何だろう、と考えて、今日まで来てしまった。マンガでもアニメでも手塚作品の主人公はいつも悩んでる。そこにひかれたから、僕も『ロボットとは?』『人間とは?』とアトムをいつも悩ませた。それで『エンターテインメントを忘れないで』と言われちゃったけど、反権力で心の中に葛藤を抱えている、そういう主人公にあこがれ、僕もそういう作品を目指している。」 高橋良輔 高橋も幼少の頃より手塚治虫に憧れて育ち1964年に虫プロへ入社した。「私も手塚先生のファンで、別世界の人と思ってた。虫プロの試験でお会いして「ホンモノだーっ!」って思った。神様みたいな存在だったのが、一緒に働いているとどんどん「ちょっと年上のただのオジサン」になっていった。徹夜して机の下に寝ていると何か圧迫感があって、見たら隣で先生が寝ている。手塚先生と添い寝しちゃった。後になって自分のスタジオを高田馬場に持った時、手塚プロも高田馬場にあったので、たまに坂道なんかで会うと声をかけていただき、ますますオジサン度が強まった。亡くなってからは、今度は偉大さが強まってきた。自分が生きて出会った、いちばん偉大な人、という思いを強くしている。「アトム」の後、30分のテレビアニメが増え、手塚アニメの人気が一時下がった。すると先生は大人向けの長編を作って大ヒットさせた。業界がまたそういう方向を食いつぶしていると、2時間という枠のアニメを今度はテレビでやった。開拓者、挑戦者だった。その遺志を継いで何とか新しいものを作っていこうと頑張っている。」「今仕事してみると、『先生が生きていたらどういう風に言ってくれるのかな』とか、先生のチェックがないということがね、あらためて『先生が亡くなっちゃったんだなあ』と。そういう意識の仕方ですね。」 ちなみに、高橋の監督作品「装甲騎兵ボトムズ」の主人公キリコは手塚の作品「ブラック・ジャック」の登場人物から取られている。 宮崎駿 宮崎は手塚のアニメーション作品に対し批判的であった。手塚の訃報に際し、宮崎は手塚の漫画史における功績に敬意を表しつつも、アニメーション作家としての手塚を、店子を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じ旦那芸であると痛烈に批判し、手塚がリミテッド・アニメーションとフルアニメーションの違いもろくに理解せず喧伝していたことなどに触れ、「アニメーションに関しては(中略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べ、「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない」と総括した。 一方で、手塚がテレビアニメ黎明期に『鉄腕アトム』を安価な予算で作ったことが、日本におけるアニメの製作費が低くなる前例となってしまった件については、日本が経済成長を遂げていく過程では必然のことであり、「引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけ」とする立場を取っている。 漫画作品に関しては後の2009年のインタビューにおいて、7歳の時に読んだ『新宝島』に「言い難いほどの衝撃」を受けたことを明かし、「僕らの世代が、戦後の焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界、目の前が開けるような世界だったんです。その衝撃の大きさは、ディズニーのマネだとか、アメリカ漫画の影響とかで片づけられないものだったと思います」と語っている。また、その後の「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」のSF3部作にも虜になっていたことも認め、「モダニズムとは、繁栄や大量消費と同時に、破壊の発明でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅で行き着いたのが手塚さんだった」と評している。当初、漫画家を目指していた宮崎がアニメーターに転じたのは、絵が手塚の亜流に見えてしまうからであったという。また、手塚のアニメについて、従来の評価は変わらないとした上で「僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べている。 雑誌の寄稿文では「十八歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみこんでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。ぼくは全然真似した覚えはないし実際似てないんだけど、描いたものが手塚さんに似ていると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。それに、手塚さんに似ていると自分でも認めざるをえなかったとき、箪笥の引き出しにいっぱいためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて、基礎的な勉強をしなくてはとスケッチやデッサンを始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて…。」と語り、その後のインタビューでは「僕は、手塚さんとはずっと格闘してきましたから。それは『恩義』だけれど、そんな言葉で語れるほど簡単なものじゃありません」とも語っている。 宮崎は東映動画に入社した年である1963年に手塚治虫が原案を務めた『わんわん忠臣蔵』にアニメーターの一人として参加している。1977年には同じく手塚治虫原案の『草原の子テングリ』でレイアウトを務めた。 手塚は宮崎の『ルパン三世 カリオストロの城』に対し「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と『ぱふ』のインタビューで語っている。 1981年には手塚と宮崎との合作『ロルフ』も予定されていた。手塚はアニメージュの紙面上で次のように語っている。「『ロルフ』---この有名なアングラ・コミックを宮崎さんが長編アニメにしたいという執念をぼくにもらされたのは、もう半年くらい前のことです。『じゃりン子チエ』の追い込みも終わった前後のことで、どうしてもこれだけは国際的アニメに作り上げたいという夢を、大塚康生氏とともに語られました。ぼくたちは、この夢の実現を目ざして、どんなに時間がかかっても成就したいと思っています。それにはT社の社長および原作者の強力なご援助がなければできないことです。コケの一念で実現させたいと思います。宮崎さんは、きっととてつもないもの凄い映画に作り上げられることでしょう」。この合作は実現しなかったが、ロルフの企画は名前と形を変え『風の谷のナウシカ』となった。 手塚は『風の谷のナウシカ』が大ヒットしたのを見て、「凄く悔しがっていた」と元アシスタントの石坂啓が述懐している。また、手塚は晩年にアニメーターで元トキワ荘住人の鈴木伸一とともに『天空の城ラピュタ』を観たという。映画を観た後、手塚は鈴木に「面白かった?」と聞き、「は、はい。」と答えた鈴木に対し「そうかな?」と述べ、宮崎をライバル視していたという。 宮崎は2011年に刊行された著書『本へのとびら』の中で、これまでの手塚への発言について「手塚さんは今の僕より若くして亡くなった方ですから、僕より若い人なんだ、とこのごろは思っているんです。年寄りがとやかく言うことではありません。」と述べている。
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