関係の深いアニメーション監督とは? わかりやすく解説

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関係の深いアニメーション監督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:05 UTC 版)

手塚治虫」の記事における「関係の深いアニメーション監督」の解説

富野由悠季 富野小学生の頃、1年先輩友達の家で雑誌少年」に連載されていた「アトム大使」で初め手塚作品触れ合う。そして小学5年生4月から両親に「少年」を毎月買って貰うようにお願いした。その時のことを富野は「漫画掲載されているような雑誌買ってはいけないというのがうちのテーゼだったんです。それを拝み倒して4月から買ってもらった時に偶然『鉄腕アトム』連載始まっただったんです。本当に衝撃的でした。それまではまだ・・・こんなタイトルあげても若い人分からないかも知れませんが『のらくろ』漫画がつまり戦前漫画ちらちら残ってるですよ。家の中に。そういうものを読んでお茶濁していたという気分ところに、これが来ましたんで、要するに昔の軍隊話でないまったく新し漫画が来た。ということ本当にびっくりしたし、何よりも物語を読まなけれならない、つまり、絵だけを見ていたらすまないぞという物語手塚先生がお描きになったというのが、やはり、いや、これは低俗な漫画ではないという断定子供心にしてくれたという意味ではとてもすごい作品だったという風に思ってます。また、富野手塚の「来るべき世界」にさらにそれを超える衝撃受けたということ語っている。富野は、小学6年生時には「僕は漫画初め女の子知った」と「来るべき世界」のポポーニャ覆面を外すコマ上げた富野日本大卒業後の1964年昭和39年)、手塚治虫設立したアニメ制作会社虫プロダクション入社した富野手塚から直々に鉄腕アトム演出抜擢されアニメ後半演出多く富野が手がけている。富野の初監督作品手塚漫画原作とした「海のトリトン」である。富野手塚治虫振り返りこう語っている「アニメ全部動かさなくても伝えられるということ教えてもらった。」「週ペースものを作ることにすでに現場慣れていましたが、とにかく忙しく演出論などを議論をしている時間はなかった」「虫プロマンガ家アニメーター真似事をしている人が社長であるわけがない早く演出ならない給料安くてやってられない思っていた僕に「演出やらない?」と言ってきた時、ああやはりこの人マンガ家でありクリエイターであって社長ではなかった、と思ったオレ映画観手塚先生映画観違ったから。手塚先生映画観は甘いんじゃないかと思ってた。手塚先生満足した作品はないと思う。」「映画好きに作ってすむものではない。好きだけで作れるとは思わない下さい。それでも作るなら、手塚先生と同じ手の速さ学識持ってほしい。僕もその1分の1くらいになれるように頑張ります。」「(「ジャングル大帝」のシナリオ社内募集コンテ持ち込みした際)それが採用されるというのは、じつはハナからわかっていた。なぜなら、コンテ読める奴はいないのだから、ぼくのコンテだって採用される虫プロコンテ基準は、マンガ絵がはっきりしていればいいのであって映像的な評価意識したものはないから、りんちゃん(=りんたろう)的なコンテであればとおるとふんだのだ」「だからといって手塚先生コンテ読めないことをあげつらうつもりはない」「手塚先生だって、若い連中描いたコンテはなおすし、短編アニメコンテをきらせたら天下一品であるのだが、ストーリー・アニメのコンテ不得手いらっしゃったというのが、ぼくの評価である。こんなエピソード書いたからといってTVアニメパイオニアである事実貶めることにはならないし、マンガ家として天才であることを汚すことにもならない手塚富野監督作品『機動戦士ガンダム』について機動戦士ガンダム以降では子供向けアニメが受けにくくなった」と語っている。 手塚死去した時のことを富野次のように振り返っている「先生亡くなられたと聞いた翌朝、失礼をかえりみず先生お宅にあがりこんで、死に顔拝見できなくとも近くにいたいと願った。その行為は今も恥じていない。師のエキス一万分の一も真似することはできないだろうけど、ここに従うものがいると知ってほしいと思うのは、生きている者の欲である。」 りんたろう林重行りんたろう1963年東映動画から手塚治虫虫プロダクション移籍した。これは東映動画ではやりたかった演出ができなかったためである。りんたろう念願かなって鉄腕アトム」の演出努めた。彼は手塚のことを「偉大なマンガ家であり、寝食を忘れて一緒に仕事をしたチーフ覚えているのは、動画並べて仕事をしていた時のこと。地震みたいにガタガタガタガタ揺れ出した先生調子に乗ってくると貧乏揺すりをするクセがあった。あとは音楽造詣深かったこと。朝からコンテをかきつつベートーベンの第5(運命交響曲)をかけていた。商業主義アニメがどんどん大きくなり、先生が本来やりたかったアニメとどんどんかけ離れていった。でも先生悩みながらアニメを手放さなかった。プライベートなフィルム作ってバランス取っていたんだと思う。でも、最後までどの作品にも満足しなかったのではないか。」と語る。 杉井ギサブロー杉井儀三郎杉井幼少の頃より手塚作品読んで育った。彼はこう語る「手塚先生の『新宝島』に出会ったのは7歳の時。その紙のザラザラした感触覚えている。手塚先生マンガはほかのマンガ違って、読むというより映画見ているという印象だった。」「僕は手塚マンガから映画作り方教わった。」「手塚先生初め会ったのは20代初め小学生の頃からファン雲の上の人だったけど、冷静に考えると先生もまだ30代30代若者20代若者集めて作ったのが虫プロだった。一番教わったのは、エンターテインメントというのはチャレンジということ。常にチャレンジしていないと古びてしまう。だから同じことを繰り返してはいけない。先生ホントマンガ好きだっただろうかマンガではなく映画が好きで、映画書いていたんじゃないかと思う。」 手塚杉井のことを「ギッちゃん」と呼んでいた。 出崎統 出崎は小学4・5年生の頃より手塚治虫憧れて漫画描いて育ったその後虫プロ入社する。彼は次のように語る「僕は手塚治虫あこがれマンガ家目指し挫折して、偶然虫プロに入ることができた。先生目の前にしてもこちらからアクション起こすことなんてできなくて。何か思い出作っておけばよかった後悔してる。一度アトムコンテ見せた時『出崎君、エンターテインメント忘れないでと言われた。僕は暗い話が好きでそんなのばかりやっていたから。それからずっと、エンターテインメントって何だろう、と考えて今日まで来てしまった。マンガでもアニメでも手塚作品主人公はいつも悩んでる。そこにひかれたから、僕も『ロボットとは?』『人間とは?』とアトムをいつも悩ませた。それで『エンターテインメント忘れないでと言われちゃったけど、反権力心の中葛藤抱えている、そういう主人公あこがれ、僕もそういう作品目指している。」 高橋良輔 高橋幼少の頃より手塚治虫憧れて育ち1964年虫プロ入社した。「私も手塚先生ファンで、別世界の人と思ってた。虫プロ試験でお会いして「ホンモノだーっ!」って思った神様みたいな存在だったのが、一緒に働いているとどんどん「ちょっと年上のただのオジサンになっていった。徹夜しての下に寝ていると何か圧迫感があって、見たら隣で先生寝ている。手塚先生添い寝しちゃった後になって自分スタジオ高田馬場持った時、手塚プロ高田馬場にあったので、たまに坂道なんかで会うと声をかけていただき、ますますオジサン度が強まった亡くなってからは、今度偉大さ強まってきた。自分生きて出会った、いちばん偉大な人、という思い強くしている。「アトム」の後、30分のテレビアニメ増え手塚アニメ人気一時下がった。すると先生大人向け長編作って大ヒットさせた。業界またそういう方向食いつぶしていると、2時間というアニメ今度テレビでやった。開拓者挑戦者だった。その遺志継いで何とか新しいものを作っていこうと頑張っている。」「今仕事してみると、『先生生きていたらどういう風に言ってくれるのかな』とか、先生チェックがないということがね、あらためて『先生亡くなっちゃったんだなあ』と。そういう意識仕方ですね。」 ちなみに高橋監督作品装甲騎兵ボトムズ」の主人公キリコ手塚作品ブラック・ジャック」の登場人物から取られている。 宮崎駿 宮崎手塚アニメーション作品対し批判的であった手塚訃報際し宮崎手塚漫画史における功績敬意表しつつも、アニメーション作家としての手塚を、店子集めてムリやり義太夫聴かせる落語長屋大家と同じ旦那芸であると痛烈に批判し手塚リミテッド・アニメーションフルアニメーション違いもろくに理解せず喧伝していたことなどに触れ、「アニメーションに関しては(中略これまで手塚さん喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べ、「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない」と総括した一方で手塚テレビアニメ黎明期『鉄腕アトム』安価な予算作ったことが、日本におけるアニメの製作費が低くなる前例となってしまった件については、日本経済成長遂げていく過程では必然のことであり、「引き金引いたのが、たまたま手塚さんだっただけ」とする立場取っている。 漫画作品に関しては後の2009年インタビューにおいて、7歳時に読んだ新宝島』に「言い難いほどの衝撃」を受けたことを明かし、「僕らの世代が、戦後焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界目の前開けるような世界だったんです。その衝撃大きさは、ディズニーマネだとか、アメリカ漫画影響とかで片づけられないものだった思います」と語っている。また、その後の「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」のSF3部作にもになっていたことも認め、「モダニズムとは、繁栄大量消費同時に破壊発明でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅で行き着いたのが手塚さんだった」と評している。当初漫画家目指していた宮崎アニメーター転じたのは、絵が手塚亜流見えてしまうからであったという。また、手塚アニメについて従来評価変わらないとした上で「僕は手塚さんがひどいアニメーション作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べている。 雑誌寄稿文では「十八歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけない思ったときに、自分しみこんでいる手塚さん影響どうやってそぎ落とすか、ということ大変な重荷なりました。ぼくは全然真似し覚えはないし実際似てないんだけど、描いたものが手塚さん似ていると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。それに、手塚さん似ている自分でも認めざるをえなかったとき、箪笥引き出しいっぱいためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて基礎的な勉強をしなくてはスケッチデッサン始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて…。」と語りその後のインタビューでは「僕は、手塚さんとはずっと格闘してきましたから。それは『恩義だけれど、そんな言葉語れるほど簡単なものじゃありません」とも語っている。 宮崎東映動画に入社した年である1963年手塚治虫原案務めたわんわん忠臣蔵』にアニメーター一人として参加している。1977年には同じく手塚治虫原案の『草原の子テングリ』でレイアウト務めた手塚宮崎『ルパン三世 カリオストロの城』対し「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と『ぱふ』のインタビュー語っている。 1981年には手塚宮崎との合作ロルフ』も予定されていた。手塚アニメージュ紙面上で次のように語っている。「『ロルフ』---この有名なアングラ・コミックを宮崎さん長編アニメにしたいという執念をぼくにもらされたのは、もう半年くらい前のことです。『じゃりン子チエ』の追い込み終わった前後のことで、どうしてもこれだけ国際的アニメ作り上げたいという夢を、大塚康生とともに語られました。ぼくたちは、この夢の実現目ざして、どんなに時間かかって成就したいと思ってます。それにはT社の社長および原作者強力な援助なければできないことです。コケ一念実現させたい思います宮崎さんは、きっととてつもないもの凄い映画作り上げられることでしょう」。この合作実現しなかったが、ロルフ企画は名前と形を変え『風の谷のナウシカ』となった手塚『風の谷のナウシカ』大ヒットしたのを見て、「凄く悔しがっていた」と元アシスタント石坂啓述懐している。また、手塚晩年アニメーターで元トキワ荘住人鈴木伸一とともに『天空の城ラピュタ』を観たという。映画を観た後、手塚鈴木に「面白かった?」と聞き、「は、はい。」と答えた鈴木対しそうかな?」と述べ宮崎ライバル視していたという。 宮崎2011年刊行され著書『本へのとびら』の中で、これまでの手塚への発言について「手塚さんは今の僕より若くして亡くなった方ですから、僕より若い人なんだ、とこのごろ思っているんです。年寄りとやかく言うことではありません。」と述べている。

※この「関係の深いアニメーション監督」の解説は、「手塚治虫」の解説の一部です。
「関係の深いアニメーション監督」を含む「手塚治虫」の記事については、「手塚治虫」の概要を参照ください。

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