富士山
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人間との関わりの歴史
古代
古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。「神聖な場所」であるため明治時代まで女人禁制の伝統があり女性が登山する事は長らく禁止されていた。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、摂末社が全国に点在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。こうした歴史から、富士山が世界遺産に登録されたのも、世界自然遺産ではなく世界文化遺産(富士山-信仰の対象と芸術の源泉)としてであった。
古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。
それより後期の時代、イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考えられる。
登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在している。
神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった[51]。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年 – 1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。
江戸時代
江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという[51]。
富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。
明治以後
慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ[52]。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった[51]。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。
富士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市と裾野市と駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市、南都留郡の富士河口湖町と鳴沢村である[53]。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された[54]。
登山史
富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。
和暦 | 西暦 | 内容 | 補足 |
---|---|---|---|
推古天皇6年 | 598年 | 平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述がある。 | 諸国から献上された数百頭の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。 |
天智天皇2年 | 663年 | 役小角が、流刑された伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。 | 役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。 |
貞観17年 | 875年 | 平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。 | 山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。 |
久安5年 | 1149年 | 『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰り返したとある。 | 回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。 |
江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。 | 特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。 | ||
文政11年 | 1828年 | 気圧計による高度測定の試み | シーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬の測量では2603–3732 m[55]とされていたが、この測定では3794.5 mと算出されている[56]。 |
天保3年 | 1832年 | 高山たつが女性として初登頂。 | 女人禁制が敷かれていた時代である。 |
嘉永6年 | 1852年 | 松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初登頂。 | 富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した『袖日記』という古記録に、宮津藩主松平宗秀が富士登山を行った記録がある。『袖日記』の6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されており、これを逸脱したり、たとえ社寺参詣であっても寄り道したりすることは許されない。このため富士に登山を幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。馬返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという地点である。
そこで宗秀は嘉永6年(1852年)6月21日、幕府に秘密裡に登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。 |
万延元年 | 1860年 | 英国公使オールコックが外国人として初登頂。 | 『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本[注釈 20]が寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した[52]。 |
明治4年 | 1872年 | 女人禁制が解かれる。 | 明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられることになる。 |
明治25年 | 1892年 | 英国人のウォルター・ウェストンが登頂。 | 翌年にも登頂した。その後、本を出版して富士山などの日本の山々を世界に紹介した[57]。 |
明治28年 | 1895年 | 野中到が冬季初登頂。 | 2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った[58]。 |
大正12年 | 1923年 | 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山 | 7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された[59]。 |
大正12年 | 1923年 | 秩父宮雍仁親王の登山 | 8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。 |
昭和2年 | 1927年 | 中村テルが冬季女性初登頂 | 1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に[58]。 |
昭和47年 | 1972年 | 富士山大量遭難事故 (1972年)。 | 悪天候による雪崩や低体温症などで24名の死者・行方不明者を出す国内最悪の遭難事故となった。 |
昭和63年 | 1988年 | 浩宮徳仁親王(当時・現今上天皇)の登山。 | 8月1日-2日の登山で、須走口から八合目を往復した[60]。天候の悪化で登頂は断念される。 |
平成20年 | 2008年 | 皇太子徳仁親王が登頂。 | 8月7日に富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂[61]。 |
2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染拡大の影響で4つの登山道(御殿場ルート、須走ルート、富士宮ルート、吉田ルート)が史上初の閉鎖となった[注釈 21][62][63]。
富士山を巡る利権争い
山役銭と内院散銭
山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭[注釈 22]を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭[注釈 23]は相当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという[64]。内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」[注釈 24]と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている[65]。須走は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている[66]。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている[51]。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあった[67]。
新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」[注釈 25]と「吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある[68]。
元禄の争論
元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏[注釈 26]らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された[69]。
安永の争論
安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争論[注釈 27]が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済[注釈 28]も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された[注釈 29]。
この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった。
注釈
- ^ 剣が峰の最高地点の標高。なお、二等三角点「富士山」の標高は、3775.51 mである(2014年4月1日標高改算)。
- ^ a b c 二等三角点の標高は3775.51 m。基準点成果等閲覧サービス・富士山(甲府) - 国土地理院(2015年10月24日閲覧)
- ^ 日本の活火山で3000 mを超えるのは、富士山・御嶽山・乗鞍岳の3つである。
- ^ 日本が玉山(新高山)のある台湾を領有していた時期を除く。
- ^ 1936年(昭和11年)2月1日に指定。山の上部がその特別保護地区、周辺が特別地域及び普通地域になっている。また車両の乗り入れ禁止区域が設定されている[3]。
- ^ (例)「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 不尽の高嶺に雪はふりける」山部赤人 (『万葉集』)。「不二」は「日本最高峰の並ぶものの無い」の意とされる。他に「布士」や「布自」の字を当てている書籍もあった。
- ^ 竹取物語の最後の章では、帝が、家臣にかぐや姫から授けられた不老不死の薬を駿河国にある天に一番近い日本で一番高い山の山頂で燃やすよう命じるという描写があり、結びは「そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山を「ふじの山」とは名づけける。」校訂者脚注「つわもの(士)をたくさんつれて登ったから、士に富む山、即ち富士の山と名付けた、という洒落。同時に不死の薬を燃やしたので「ふし山」の意を込める。」[5][要文献特定詳細情報]。
- ^ フチ=フンチは「火」ではなく「老婆」の意味である[要出典]。
- ^ ただし、地形図上に印刷されている標高値は小数以下1桁で示されている。
- ^ 2等三角点「富士山」の標高は3775.51 mである(注:この数値は2014年4月1日現在)。最高地点はこの三角点から北へ約12 mのところにある岩の頂上であり、その高さは、三角点より0.61 mだけ高い(この0.61 mの数値は1991年の観測)。
- ^ 以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-8),2014(-7.2),2019(-5.7)」
- ^ 以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-5),2006(-3.4),2008(-4),2010(-0.6),2014(-4.3),2019(-2.8)」
- ^ 以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(13.9),2006(14.6),2008(16.7),2010(15.3),2014(16.3),2019(16)」
- ^ 以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-27.8),2006(-26.3),2008(-25.6),2010(-27.1),2014(-24.8),2019(-22.2)」
- ^ 以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-11.2),2006(-9.9),2008(-10.4),2010(-6.8),2014(-10.3),2019(-8.8)」
- ^ 以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-33.2),2006(-32.3),2008(-33.2),2010(-30.2),2014(-30.1),2019(-30.4)」
- ^ 以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(6.3),2006(6.9),2008(6.7),2010(8.8),2014(6.7),2019(7.4)」
- ^ 以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(<0 °C最低277,<0 °C最高205),2006(<0 °C最低277,<0 °C最高205),2008(<0 °C最低277,<0 °C最高207),,2014(<0 °C最低271,<0 °C最高216),2019(<0 °C最低198,<0 °C最高166)」
- ^ 以下の数値は資料不足値の為未記載1970(64),1984(60),1986(60),1990(60),1991(61),1992(60),1995(58),1996(53),1997(58),2000(62),2001(60),2004(56),2007(59),2014(94),2019(63)
- ^ 文書では「不士大宮不士本宮淺間大宮司不士亦八郞」とある。
- ^ 両県は、7~9月の開山期間を通じて四つのルートがすべて閉鎖されるのは、少なくとも静岡県が3登山道の管理を始めた1960年以降、初めてではないかと説明した。18日に静岡県が管理する富士山の3登山道の5合目から頂上までを、開山期間に当たる7月10日~9月10日の期間、閉鎖する方針。登山客の密集で感染が懸念されるため。ルート上の全ての山小屋も休業する。山梨県は「吉田ルート」も同時期に閉鎖すると15日に発表。富士山は夏山閉鎖となる見通し。
- ^ 入山料のような概念。
- ^ 内院は噴火口を指し、この噴火口に散銭する行為(お金を投げ入れる行為)が行われていた。そのお金を得る権利である。
- ^ 現在の静岡県駿東郡小山町。
- ^ 現在の山梨県南都留郡富士河口湖町の河口御師などからなる地域。「川口」と表記される場合もある。
- ^ 文書では富士帯刀(富士信安)とある。他案主・公文など。
- ^ 小田原藩を通して幕府に伝えられ、寺社奉行の松平忠順に訴状が提出された。
- ^ 富士大宮司。文書では富士中務とある。
- ^ 他に薬師堂の開帳や内院散銭はこれまでと同様とするなどが決定された。
- ^ 甲府盆地西部からの眺めとされている。
- ^ 近世の甲斐国絵図類においては甲斐国の姿を山々に抱かれた霊的な場として表現する傾向が見られるが、富士山は八ヶ岳や白根山(北岳)とともに冠雪した白い山として描かれる神格表現で描写され、特に富士山は三峰形や雲上の表現、登山道の省略など特に神格表現が際立っている点が指摘される[89]。
- ^ 1970年に映画化、主演は石原裕次郎。
- ^ 富士宮市柚野(ゆの)地区より。
出典
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