富士信安
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/28 09:41 UTC 版)
富士 信安 | |
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肩書き | 富士氏当主 |
別名 | 山城守、大隅守 |
個人情報 | |
死没 |
宝暦10年5月18日(1760年6月30日) |
墓所 |
先照寺 |
宗教 | 神道 |
両親 | 父:富士信時 |
別名 | 山城守、大隅守 |
戒名 | 眞學院殿隠光明徳大居士 |
寺院 | 富士山本宮浅間大社 |
聖職 | 大宮司 |
地位 | |
本拠地 | 駿河国富士郡大宮町 |
先代 | 富士信時 |
次代 | 富士信章 |
退任理由 | 四人合議制の不履行 |
富士 信安(ふじ のぶやす、生年不詳 - 宝暦10年5月18日(1760年6月30日))は、江戸時代の富士山本宮浅間大社の大宮司で、富士氏当主。
略歴
宝永大噴火
信安が大宮司在任中、宝永大噴火が発生した。この際に江戸幕府より祈祷が命じられ、公文・案主・別当らと祈祷を行っている。この功により宝永4年(1707年)12月18日に幕府より銀百枚を拝領している[1]。また翌年には修造料として2000両を賜わっている[2]。
放逐
天和3年(1683年)の「幕府裁許状」によると[3]、浅間大社に係る沙汰は四人合議制[注釈 1]を取ることが記されている。一方で信安と他三人との関係は良好とは言えず、社中の権限に関連して争論が発生することがあった。例えば宝永5年(1708年)には浅間大社の遷宮事業に関連して、信安は別当宝幢院・公文・案主を相手取り寺社奉行へ訴え出るなどしている[4][5]。
そのような中で正徳元年(1711年)に四人による合議を経ず人事を決めたとして、信安は幕府より懲罰を受けている。結果、父信時と共に浅間大社の鎮座地である大宮を去ることとなった。
時代は下り、三代後の大宮司である富士信栄の代に入ると、信栄の後見人・別当宝幢院・公文・案主により追放を取りやめるよう寺社奉行所に申請がなされた。結果として居住地の制限は解除され、富士郡黒田に住むこととなり、生涯を終えたという[6]。
脚注
注釈
- ^ 大宮司・別当宝幢院・公文・案主の四人のこと
出典
- ^ 間瀬久美子「近世朝廷と寺社の祈禱 ―近世的七社七寺体制の成立と朝幕関係―」『千葉経済論叢』58号、2018、30頁
- ^ 浅間神社の歴史 1929, p. 599.
- ^ 浅間文書纂 1973, p. 143-144.
- ^ 浅間文書纂 1973, p. 248-251.
- ^ 建部恭宣「浅間造本殿の特質」『建築史論聚』、思文閣出版、2004、149-151頁
- ^ 浅間神社の歴史 1929, p. 599-602.
参考資料
- 浅間神社社務所『浅間神社の歴史』古今書院〈富士の研究〉、1929年。
- 浅間神社社務所『浅間文書纂』名著刊行会、1973年。
- 富士宮市教育委員会、『元富士大宮司館跡』、2000年
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