富士信成 (市十郎)とは? わかりやすく解説

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富士信成 (市十郎)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 01:39 UTC 版)

 
富士 信成
時代 江戸時代後期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:市十郎
幕府 江戸幕府
氏族 富士氏
父母 父:富士信清 母:横地安則の娘[1] 
兄弟 富士信乾
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富士 信成(ふじ のぶなり)は、 江戸時代後期の旗本。関東在地の富士氏の一族。

出自

富士信成は富士信清の子である。『寛政重修諸家譜』巻第三百七十九(以下『寛政譜』)に名が見えることから、『寛政譜』成立時には出生していたが、成立時点では家督を継いではいない。

その後信清より相模国武蔵国下総国の各所領を受け継いだ。

所領

相模国鎌倉郡長尾台村

相模国鎌倉郡長尾台村[注釈 1]は、富士信重以来代々富士氏が知行地としていた地である。『新編相模国風土記稿』の長尾台村の条に「今富士市十郎知行す」とあり、『新編相模国風土記稿』編纂時には信成が知行地としていることが知られる[2]

武蔵国都筑郡久保村

武蔵国都筑郡久保村[注釈 2]は、父である富士信清以来知行地としてきた地である。天保年間の「村宿石高帳」の久保村に富士市十郎知行分が確認され[4]、また同時期史料の天保14年(1843年)「保土ヶ谷宿場組合村々石高家数書上帳」の久保村に富士市十郎知行分が見え[5]、信成に継承されている。

武蔵国橘樹郡上小田中村

武蔵国橘樹郡上小田中村[注釈 3]は、富士信良以来代々富士氏が知行地としてきた地である[注釈 4]。少なくとも文政10年(1827年)時点では富士市十郎知行所となっており、信成が上小田中村の領主となっている[6]。また文政12年(1829年)12月の記録に、橘樹郡上小田中村について「富士市十郎様御知行所」とある[7]

旧高旧領取調帳』の作成時点では、上小田中村の富士氏分は114石余であった[8]

下総国千葉郡神久保村

下総国千葉郡神久保村[注釈 5]は、富士信良以来代々富士氏が知行地としてきた地である。慶応3年(1867年)2月「下総国御改革組合限地頭性名井村名郡附帳」の神ノ久保村に富士市十郎分が確認され[9]、信成に継承されていることが分かる。

脚注

注釈

  1. ^ 現在の横浜市栄区
  2. ^ 後の三保町で現在の横浜市緑区[3]
  3. ^ 上小田中村は中原村を経て現在の神奈川県川崎市中原区
  4. ^ 富士信良の通称も、信成と同じく「市十郎」である
  5. ^ 現在の千葉県八千代市

出典

  1. ^ 寛政重修諸家譜』巻第三百七十九
  2. ^ 新編相模国風土記稿 長尾䑓村.
  3. ^ 横浜市市民局総務部住居表示課編『横浜の町名』172頁、1991年
  4. ^ 藤井 1932, p. 14.
  5. ^ 保土ケ谷区 1938, p. 308.
  6. ^ 川崎市史 1994, p. 536.
  7. ^ 品川町史 1932, p. 533.
  8. ^ 角川 1984, p. 282.
  9. ^ 船橋市史 1983, p. 137.

参考文献

関連項目




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