芸術の源泉とは? わかりやすく解説

芸術の源泉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:58 UTC 版)

富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の記事における「芸術の源泉」の解説

富士山和歌歌枕としてよく取り上げられるまた、『万葉集』中には富士山詠んだ歌がいくつも収められている。 「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士高嶺降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌反歌)である。 また、この反歌のその次に作者不詳長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を 雪もち消ち 降るを 火もち消ちつつ…」(巻3・319大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)消し、(山頂に)降るを(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時富士山火山活動行っていたことがうかがえる。 『新古今和歌集』から。富士の煙が歌われている。 風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな 西行 (#1613) 都人にとって富士遠く神秘的な山として認識され古典文学では都良香富士日記』が富士様子伝承記録している。 『竹取物語』は物語後半富士舞台となり、時の天皇かぐや姫から贈られ不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山山頂燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話記している。なお、富士山麓静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している。 ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケース少ない。富士は甲駿の国境位置することが正確に認識されているが、古代においては駿河国帰属していたため古典文学においては駿河側の富士題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。 富士山絵画平安時代歌枕として詠まれ諸国名所を描く名所絵成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士描いた名所絵屏風画題として描かれていたと考えられている。現存する最古富士図は法隆寺献納宝物である延久元年1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒乗った太子富士駆け上る姿を描いたもので、富士中国山水画風の山岳図として描かれている。 鎌倉時代には山頂三峰分かれた三峰富士描写法確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学成立とともに舞台となる富士描かれ富士信仰成立に伴い礼拝としての富士曼荼羅』も描かれた。また絵地図などにおいては弧状緑色着色された他の山に対して山頂白く冠雪した状態で描かれ特別な存在として認識されていた。 室町時代の作とされる絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵重要文化財)には富士山とその富士山登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社湧玉池描かれており、当時の様子思わせるのであるまた、富士山三峰富士描かれている。 江戸時代には明和4年1767年)に河村岷雪絵本『百富士』出版し富士図の連作というスタイル提示した浮世絵ジャンルとして名所絵確立すると、河村岷雪影響受けた葛飾北斎晩年錦絵木版多色摺)による富士図の連作版画冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した多様な絵画技法を持つ北斎大胆な構図遠近法加え舶来顔料活かした藍摺点描などの技法駆使して中でも富士描き、夏の赤富士描いた凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波富士描いた神奈川沖 浪裏』などが知られるまた、歌川広重北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版し広重甲斐国をはじめ諸国旅して実地スケッチ重ね作品活かしている。『東海道五十三次でも、富士山題材にした絵が多く見られる北斎広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポット認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士画題として開拓していった。 葛飾北斎作『凱風快晴』(左)と『神奈川沖波裏』(右) 浮世絵描かれ富士山西洋美術にも影響与えた葛飾北斎歌川広重の浮世絵通じヨーロッパでいわゆるジャポニスム風潮がおこり、たとえばフィンセント・ファン・ゴッホ作品タンギー爺さん』には、浮世絵歌川広重冨士三十六景』)の模写という形で背景富士山描かれている。 富士日本画をはじめ絵画作品工芸写真デザインなどあらゆる美術モチーフとして扱われている。日本画においては近代殖産興業などを通じて富士日本象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ絵画においては伝統引き継ぎつつ近代的視点描かれ富士山絵画制作された。また、鉄道・道路網など交通機関発達により数多く文人・画家避暑地保養地としての富士山麓滞在し富士題材とした作品製作しているが、富士描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎洋画においては和田英作などがいる。 富士山麓滞在した作家数多くいる。武田泰淳富士山麓精神病院舞台とした小説富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子山梨県嘱託地質学者であった母方石原家モデルに、富士望みつつ激動の時代過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記したまた、北麓地域出身文学者として自然主義文学者の中村星湖戦後在日朝鮮人文学者李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士描いており、中村星湖地域文芸振興にも務めている。 太宰治昭和14年1939年)に執筆した小説富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ山梨県富士河口湖町御坂峠にはこの一節刻んだ文学碑建っている。直木賞作家である新田次郎富士山頂測候所勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様描いた直木賞受賞作強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々富士まつわる作品執筆している。 高浜虚子静岡県富士宮市沼久保駅降りた際、美し富士山見て句を詠んだ駅前にはその句碑建てられている。 「とある停車場富士裾野竹の秋/ぬま久保降りる子連れの花の姥」

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