出版の経緯
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出版者のジョン・ノートンが、プリースト博士という人物にフランドルの医師・植物学者レンベルト・ドドエンスの最後の著作『ペンプタデス』の翻訳を依頼していたが、翻訳者は完成前に死去した。ジェラードは翻訳を引き継ぎ終わらせると、植物の配列をドドエンスのものからマティアス・デ・ロベルのものに改め、自分の著作としてThe Herball or Generall Hiftorie of Plantes.のタイトルで出版した。アグネス・アーバーは、ジェラードはこの本の冒頭でプリースト博士の翻訳原稿は散逸したと書いているが、「『よく考えぬいた嘘』だったとしか考えられない」と述べている。
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出版の経緯
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「アメリカン・スプレンダー (コミック)」の記事における「出版の経緯」の解説
米国のコミックブックは伝統的にファンタジー・アドベンチャーのようなジャンル・フィクションで占められてきたが、ピーカーはコミックというメディアでより広い表現が可能だと感じていた。 子どもだったころ、40年代のコミックを読んでいたんだが、しばらくすると飽き飽きしてしまった。どれも型通りだったからな。何かがコミックの向上を妨げていると思った。そして60年代の初めにロバート・クラムの作品を読んだんだ。あいつがフィラデルフィアからクリーブランドに移ってきたころだ。すぐ近所だったんだぜ。「コミックっていかしてるな」と思ったよ。――ハービー・ピーカー ピーカーが好んで発言する決め文句にもコミックの可能性についての信条が現れている。「コミックは言葉と絵だ。言葉と絵があれば何でもできるだろう?」 1972年にクラムの訪問を受けたピーカーがストーリーのアイディアを見せたところ、クラムはそれらの作画を引き受け、ほかのアーティストにも誘いをかけようと申し出た。1975年には、ピーカーはコミックブックの製作と自己出版を行う意思を固めていた。
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出版の経緯
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序文によると、ローゼンベルクは1917年に同書の着想を得、1925年にはほぼ完成していたが、様々な障害のため1930年まで発行が遅れたという。発行当時、ローゼンベルクは党機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」の主筆を担当しており、ナチ党の文化政策方面の責任者であった。ローゼンベルクはこの本を党員向けではなく、未だ世界観を形成していない人物を対象にしているとしている。
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出版の経緯
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「交響曲第1番 (ブルックナー)」の記事における「出版の経緯」の解説
1893年、「初版」が出版された。この初版はウィーン稿に基づくものであった。下記原典版が出版されるまで、この曲はウィーン稿の形でのみ知られていた。 1935年、ハース校訂の原典版が出版された。ハースは最終的にリンツ稿・ウィーン稿の両方を校訂し出版し、校訂報告も添えた。もっともリンツ稿については1877年時点の、細部の改訂を行った後の譜面をもとに校訂していることをハースは明らかにしている。なお、一部の書籍には、ハース版とリンツ稿を同義にとる誤解がみられる。正確には「ハース版の出版で、リンツ稿の存在が明らかになった」と言うべきである。 その後ブルックナー協会の校訂がノヴァークに移り、1953年にリンツ稿に基づく原典版を出版した。さらに引き続き1979年、ウィーン稿に基づく原典版を出版した。もっともこれらは、ハースが校訂したものをほとんどそのまま使用、細部の校訂を行っただけであった。また後者については、実際の校訂者の名前から「ブロッシェ版」とも称される。 ブルックナー協会からは、その後、1994年にアダージョ・スケルツォの異稿が出版された。この異稿は、この交響曲のリンツ稿のために書かれながら、最終的に採用されなかったと思われる譜面であり、1865年稿のアダージョはコーダが未完成で1866年のアダージョは最後のコーダだけ新しく作られている。アダージョについては現行アダージョと同じ旋律を用いながら、その後の展開方法が異なる。1865年のスケルツォはトリオは現行のものと同一旋律をもちいているが、スケルツォの主部は全く別の音楽となっている。 このほか、従来出版されてきたリンツ稿から1877年の改訂要素を除去し、1866年の純粋な第1稿を復元・演奏する試みもなされている。ハースの校訂報告をもとにしてキャラガンが1866年稿を復元し、これはティントナー指揮、ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団の演奏でCD録音された(ナクソスから発売されている)。しかし現時点で、ブルックナー協会からの出版には至っていない。
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出版の経緯
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リア・ウィルムスハースト(Rea Wilmshurst)は20世紀の初め頃に雑誌に発表されて以来、読者の目にふれないままになっていたモンゴメリ作品の目録を整備した。本書はそのなかからクリスマスと新年にちなんだ作品を選んで編纂された物で、元々は雑誌のクリスマス号や新年号向けに書かれた小作品である。それ以外に『赤毛のアン』と『アンの幸福』からもクリスマスにちなんだ話が加えられている。
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出版の経緯
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1287年、建長寺で『禅門宝訓』が開版される。 1288年、山城国(京都府)三聖寺で東山湛照が『虎丘隆和尚語録』等を刊行する。 1329年以後、元よりの渡来僧、竺仙梵僊が『拾遺偈頌集』を出版する。 1340年 - 1370年代、春屋妙葩らにより禅籍多数が出版される。『圜悟心要』(1341年) 『夢中問答集』(1344年) 『景徳傳燈録』(1348年) 『輔教編』(1351年) 『禅源諸詮集都序』(1358年) 『蒲室集』(1359年) 『五灯会元』(1368年) 『仏鑑禅師語録』(1370年) 『仏光国師語録』(1370年) 『宗鏡録』(1371年) 『元亨釈書』(1377年) 『初祖三論』(1387年) 『少室六門』 その他にも、『論語』、『論語集解』、『毛詩鄭箋』、『大学章句』、『古文真宝』等の外典も出版された。だが、応永中(1394年 - 1428年)あたりから往時の盛行が影をひそめ、応仁の乱より後は、全く刊行されなくなってしまった。 典拠管理 NDL: 00562577
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出版の経緯
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「交響曲第3番 (ブルックナー)」の記事における「出版の経緯」の解説
1878年および1890年、レティッヒ社から「初版」が出版された。前者は1877年稿を、後者は1889年稿を基にしているが、弟子の校訂が加わっているとも言われる。 ローベルト・ハース主導の国際ブルックナー協会の第1次全集編纂においては、この第3交響曲の校訂譜を残せないままハースが失脚し、主幹校訂者がレオポルト・ノヴァークに移ることとなった。ただしその際、ハース校訂譜の版権が東ドイツに残った関係から、戦後フリッツ・エーザーが東ドイツにて、ハースの意志を受け継いでこの第3交響曲の校訂を行った。これは「エーザー版」と呼ばれ、通常、第1次全集の範疇に含められる。この楽譜はヴィースバーデンのブルックナー出版から出版された(1950年)が、現在絶版である。このエーザー版は、第2稿を元に校訂していた。 国際ブルックナー協会の校訂作業がノヴァークに代わった後、ノヴァーク校訂によるこの曲の楽譜が次々と出版された。まず1959年に、第3稿に基づくノヴァーク版が出版された(ノヴァーク版第3稿)。つづいて1977年にノヴァーク版第1稿、1980年にはアダージョ第2番、さらに1981年にノヴァーク版第2稿が出版された(アダージョ第2番は1876年に作曲されたと思われる、緩徐楽章の異稿であり、第1稿と第2稿の中間段階のものと思われる)。ノヴァークの死後レーダーが1995年に校訂報告書を出版し、異稿問題は一応の学問的決着をみた。
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出版の経緯
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「ザ・ストーリー・オブ・ア・バッドボーイ」の記事における「出版の経緯」の解説
『ザ・ストーリー・オブ・ア・バッドボーイ』 は1869年、Ticknor and Fields社のジュブナイル雑誌『Our Young Folks』に発表された。そして一年後に単行本として出版された。
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出版の経緯
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「ニュルンベルク年代記」の記事における「出版の経緯」の解説
『年代記』は1493年7月12日、ニュルンベルクでラテン語で出版された。同じ年の12月23日にドイツ語訳が出版された。ラテン語で1400~1500冊、ドイツ語で700~1000冊が出版された。1509年の本の奥付には、この時までにラテン語として539刷、ドイツ語として60刷が出版されたことが書かれている。現在、ラテン語本が約400冊、ドイツ語訳本が約300冊が残っている。挿絵が着色された本も多く、この着色専門の業者もあったほどだった。その挿絵だけがオールド・マスター・プリント (Old master print) として水彩で着色されて売られたことも多い。また、挿絵だけが切り取られて売られることもあった。 印刷・出版は、画家アルブレヒト・デューラーの代父母(後見人)、アントン・コーベルガーが行った。コーベルガーはデューラーの生まれた1471年、金細工職人をやめて印刷家・出版家になり、ドイツの初期の出版家として最も成功した一人となった。最終的には印刷機24台を所有し、リヨンやブダペストなどドイツの諸都市に多くの支店を出した。
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出版の経緯
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「公用文の書き表し方の基準 資料集」の記事における「出版の経緯」の解説
昭和20年代から昭和40年代にかけて文部省から「国語の改善と国語教育の進行に関する施策を普及徹底する」ことを目的として『国語シリーズ』のいう名称のシリーズものが刊行されており、その中の「基礎資料を収集すること」を目的としていた資料編の最初の1冊として1954年(昭和29年)に公用文をはじめとする国語政策の関する資料を収録した『公用文の書き方 資料集』が刊行されていた。この書籍は収録されていた資料の改訂に伴って1964年(昭和39年)まで何度か改訂版が出版されていた。本書は1974年(昭和49年)に「当用漢字音訓表」および「送り仮名の付け方」の改訂版の制定を受けてこの『国語シリーズ』の『公用文の書き方 資料集』を全面改訂する形で出版されたものである。
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出版の経緯
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既にデビュー小説が出版され、舞台脚本『1月16日の夜に』がブロードウェイで成功していたにもかかわらず、ランドは『水源』の出版社を見つけるのに苦労した。『われら生きるもの』を出版したマクミラン出版社は、ランドに前作以上の宣伝を要求されると、この新しい小説の出版を拒否した。ランドの代理人は、他の出版社にこの作品の出版を持ちかけ始めた。1938年、アルフレッド・エー・クノッフ(Alfred A. Knopf)社は本作品の出版契約に署名したが、1940年10月の時点でランドが原稿を4分の1までしか完成できなかったため、ランドとの契約をキャンセルした。他にも複数の出版社から出版を拒否され、ランドの代理人はこの小説を批判し始めた。ランドはこの代理人を解雇し、自分で出版社を探し始めた。 ランドがパラマウント映画(Paramount Pictures)で映画脚本家として働いていた時、彼女の上司のリチャード・ミーランド(Richard Mealand)が、彼女に出版会の知り合いを紹介することを申し出た。ミーランドは彼女をボブスメリル社の担当者に引き合わせた。同社に雇われたばかりの編集者、アーチボルド・オグデン (Archibald Ogden)は、この作品を気に入った。しかし2人の社内レビューアーは、この作品に矛盾する評価をした。1人は「偉大な作品だが、売れないだろう」と述べ、もう1人は「ゴミだが、売れるだろう」と述べたのである。オグデンの上司でボブスメリル社社長のD・L・チェンバーズ(D.L. Chambers)は、この作品の出版を拒否することに決めた。チェンバーズの決定を知ると、オグデンは本社に「もしこれがあなたの希望にかなう作品ではないなら、私はあなたの希望にかなう編集者ではありません(If this is not the book for you, then I am not the editor for you.)」と電報を打った。オグデンの強い抵抗により、1941年、ボブスメリル社はランドと本作品の出版契約を結ぶことを決めた。ボブスメリル社が出版を決める前に、12の出版社が本作品の出版を拒否した。 ランドはこの作品に『セコハン人生』(Second-Hand Lives)という仮タイトルを付けていたが、オグデンはこのタイトルでは物語の悪役側が強調されてしまうと指摘した。ランドは代わりに「The Mainspring」(主動力)を提案したが、このタイトルは最近別の本に使われたばかりだった。ランドは類語辞典を引き、「mainspring」の類義語として「fountainhead」を見つけ、これをタイトルにすることにした。 『水源』は1943年5月に出版された。売れ行きの出足は鈍かったが、評判が口コミで広がり、ベストセラー・リストをゆっくりと上昇していった。。最初の出版から2年以上が経過した1945年8月には、「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙のベストセラー・リストで6位になった。 1971年には、ランドによる新しい序文が入った25週年記念版がニューアメリカン・ライブラリー(New American Library)から出版された。1993年には、50週年記念版がボブスメリル社から出版された。この版には、ランドの相続人のレナード・ピーコフ(Leonard Peikoff)によるあとがきが追加された。2008年までに、本作品は英語版だけで650万部以上売れ、複数の言語に翻訳された。
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出版の経緯
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「わがいのち月明に燃ゆ」の記事における「出版の経緯」の解説
林の戦死後、同期生が林の家族に秘密裏に戦死を伝え、その際没収されないように隠していた林の日記を兄に渡した。林の日記は4冊に分かれていたが、後半の2冊が貸し出されたままで所在不明となっており、林の同期である第14期飛行予備学生会が刊行した『あゝ同期の桜』の編纂に携わっていた友人の努力で原本がそろう。兄の出版の意図は「戦時下の青年が真実探求の誠実な努力をつくしたか、その一端をあきらかにすること」であった。雑誌「展望」 に発表された後に出版された。新版再刊もされている。
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出版の経緯
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百田が2014年3月4日、リーガロイヤルホテルの「光琳の間」にて行われた、やしきたかじんを偲ぶ会「TAKAJIN MEMORIES 2014 あんたのことが ICHIZUに やっぱ好きやねん」に招待されていた。しかし、元々の予定がありキャンセルする予定が、スケジュールが空いたので、会に出席し家鋪未亡人(家鋪さくら)に初めて出会った。その一週間後、家鋪さくらからのメールで会って話をしたい旨を受け、直接会い、生前「たかじんが百田のファンであった」こと、「僕の本を出して貰うなら百田に助けてもらう」と言うメモを見せられ、看護記録等のメモを読込み、家鋪さくらと話込み、決まっていた仕事を半年後倒しをして、メモに書かれていた出来事を関係者に裏付け取材を行ったとされる。
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出版の経緯
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『狂気の山脈にて』は、40歳であった1931年にわずか1か月で書き上げられた。短編小説の多いラヴクラフトでも『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』(1927-1928年)に並ぶ長編小説として知られている。"At the Mountains of Madness " というタイトルは、ダンセイニのSF怪奇短編小説 "The Hashish Man and Other Stories "(1996年)の台詞 "And we came at last to those ivory hills that are named the Mountains of Madness...". から採られた。 ラヴクラフトは、自信作となった『狂気の山脈にて』を、かねてより寄稿先としてきた人気のパルプ・マガジン『ウィアード・テイルズ』に持ち込んだ。ところが、解雇された前任者に替わって同誌を立て直したファーンズワース・ライト編集長は商業主義を高度に追及する人物で、ラヴクラフトの作風を「無駄に長すぎる」「難解すぎる」と低く評価しており、先代編集長のようには採用してくれなかった。ライトの商業主義に怒り、酷く落胆するラヴクラフトは、知人宛ての手紙で断筆をほのめかすほどであった。もっとも、ライトの立場からすれば、自身の編集方針はかねてから明らかにしており、作家達の誰にも短く分かりやすい作品を求めていたところに長く分かりにくい本作であるから、避けがたい判断ではあった。同誌におけるラヴクラフトの過去作にはそれなりの支持者がおり、ラヴクラフトのことをライトが軽く見ていたわけではなかったが、本作に光が当たるような環境ではなかった。 それから数年後の1936年、小腸癌を患って余命幾許もなくなったラヴクラフト45、6歳の時、『狂気の山脈にて』は老舗のパルプ・マガジン『アスタウンディング・ストーリーズ』に掲載される運びとなった。同誌に原稿を送ったのは本人ではなく、友人ジュリアス・シュヴァルツ (en) であった。ラヴクラフト自身は一度拒絶された原稿を他誌に提出することを嫌っていたが、体調が芳しくないラヴクラフトをおもんばかった友人達が彼のストックしてきた原稿を何とか発表させてやろうと奔走したお蔭であって、ほかにもいくつかの作品がこの時期に出版された。 これらは『アスタウンディング・ストーリーズ』の編集長フレデリック・オーリン・トレメイン (en) の新規開拓精神に溢れた編集方針によって実現した朗報であった。彼は1933年12月号で「異なった発想(英:thought variant)」を編集方針として表明し、使い古された冒険譚よりも独創性と自由な発想を重視する姿勢を明文化していたのである。保守的な編集者達に拒絶されて埋もれている作品の発掘にも熱心であった同誌は、1935年末までにSF雑誌界のリーダーに躍り出ていた。そのような流れのなかでのラヴクラフト作品の採用であった。もっとも、『狂気の山脈にて』は、トレメイン編集長によって綴り字・段落・句読点に至るまで大幅に校正されたうえに一部は割愛されてしまった。そのため、ラヴクラフトはまたも失望することになった。この時、同誌はラヴクラフトに315ドル(今[いつ?]の3000ドル程度)を支払っている。このように、初出こそ本人の納得できない形での発表であったが、のちに『狂気の山脈にて』の評価は高まり、代表作の一つに挙げられることになる。
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出版の経緯
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「チャタレイ夫人の恋人」の記事における「出版の経緯」の解説
1926年、ゼネストをきっかけに、故郷の炭鉱の悲惨な状況を目にしたロレンスは執筆を開始、第一稿では完成作に比べ、より直接的に階級問題が主題とされていた。改稿を繰り返すうちに性愛が主題となり、性描写が増え、検閲で一般的な出版が困難だと考えたロレンスは、1928年チラシを作成し私家版として作品を公開。その後、海賊版が生まれたこともあり、1929年に性描写部分を削除した修正版を出版社から発行した。 イギリスで初めて無修正版が発行されたのは1960年であり、猥褻文書として告訴されるが、証人としてE・M・フォースターらが出廷し、無罪となった。 日本では1935年(昭和10年)に、修正版が伊藤整訳で健文社から初めて日本語訳されて出版された。無修正版は1950年(昭和25年)4月に同じく伊藤整訳で小山書店から発行されたが、2ヶ月後に警視庁に摘発され発禁処分になった(チャタレー事件)。この時点で、すでに各国でも次々と発禁処分となっており、フランスは英語版だけが許されている状態であった。1957年(昭和32年)に被告側が最高裁判所で敗訴し絶版となった。その後、1964年(昭和39年)に新潮社から、伊藤整訳で性描写部分を削除した版が発行された。 その後、時代の変化や英米での無罪判決も受け、1973年(昭和48年)に、講談社から羽矢謙一訳で無修正版が初めて発刊。1996年(平成8年)には新潮社から伊藤整訳・伊藤礼補訳で、削除部分を補った「完訳」版が発行された。
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出版の経緯
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元々『夢』は、コペルニクスの地動説を擁護するために、「地球の居住者にとって月の運行がはっきりと見ることができるのと同じように、月面の観測者は惑星の運行を理解することができる」と提唱する学位論文として始められた。20年近く後に、ケプラーは物語に夢の枠組みを加え、さらに10年間かけて彼の騒がしい経歴と彼の知的な進歩の段階を反映させた注釈を著述した。 「夢」の内容とケプラーの現実の生活との間にはいくつもの類似性が見られる。ドゥラコトゥスはティコ・ブラーエの元でかなりの期間働いているが、ケプラーもまた、皇室数学者となる前にティコの元で働いている。ケプラーは、魔女の疑いをかけられて逮捕された母の自由を勝ち取るために5年間を費やした。母の死後、ケプラーは彼の物語を説明するための注釈を書いた。 彼の死後、息子のルードヴィヒ・ケプラーによって遺作として出版された。
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出版の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:38 UTC 版)
2014年の春に、著者の南による「境訪問クリニック」と題した長編小説の原稿が人を介して編集者のもとに届けられる。現役医師が執筆した「看取り専門の女性医師」を主人公とする作品という点に興味を抱いて手に取った編集者は、医師ならではのディテールのリアルさ、面白さと文章の上手さから読み進め、著者が訴えたい「終末期医療」の在り方への強いメッセージに胸打たれて本作の出版を決意する。同年6月からおよそ2年かけて打ち合わせが行われ、連作形式にしたりミステリ要素を入れたりするといった改稿が施される。当初から「看取りのカルテ」という仮タイトルがつけられていたが、南のメッセージをオリジナルに表現するものとして、「サイレント・ブレス」というタイトルに決まる。2016年9月8日に単行本が幻冬舎より書き下ろしで刊行される。単行本の装丁は、印南貴行による。 2018年6月21日、南がNHKの『ラジオ深夜便』に出演し、人生の最期の迎え方について語ったところ、大きな反響があったことから文庫化が決まる。2018年7月12日に『サイレント・ブレス 看取りのカルテ』と改題し、文庫版が幻冬舎文庫より刊行される。文庫版の装画は、坂内拓による。 著者の南は、「死は『負け』であるとする考え方のもとで医療に携わっていた時期もあるが、終末期の患者と向かい合う中で徐々に考え方が変わり、その間に学んだことをミステリーも交えて描いたのが本作である」との旨を語っている。
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出版の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 11:12 UTC 版)
1940年に渡米したナボコフは教職のかたわら、この作品を1948年から書き始め、1953年には完成させた。しかし、性的に倒錯した主題を扱っているため、アメリカでは5つの出版社から刊行を断られた。ナボコフの代理人はさまざまな出版社に足を運び本を読んでもらい、各出版社の編集者は作品のテーマを見抜いてはいたようだが、そのあまりに難解な内容から、これは読者には「ポルノ」にしかみえないという理由で出版を拒んだ。結果、初版はポルノグラフィの出版社として有名なパリのオリンピア・プレスから1955年に出版されたが、グレアム・グリーンらの紹介により読書界の注目の的となった。アメリカでは1958年に出版されベストセラーになった。イギリスでは、作家らが刊行を促す署名運動を起こし、1959年に出版された。 『ロリータ』はこれまでにフランスやイギリスなどで発禁処分を受けており、ニコラス・キャロライズなどが編集した「百禁書―聖書からロリータ、ライ麦畑でつかまえてまで」ではロリータに対する批判や発禁処分になった経緯などが書かれている。また、ナボコフ自身による評論「『ロリータ』 について」があり、この作品の本質を見てもらいたいというナボコフの考えや、作品の性的な部分についての自身の考えが書かれている。 日本語版は、1959年に大久保康雄(の名義を借りた高橋豊)訳[要出典](河出書房新社→新潮文庫)が、2005年に若島正による新訳(新潮社→新潮文庫)が出された。
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出版の経緯
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文藝春秋発行の『別册文藝春秋』編集者であった浅井茉莉子が2011年に、プライベートで文学フリマを訪れていた又吉と出会ったことで小説を依頼するようになり、短編小説を2作発表。浅井が2013年に『文學界』編集部へ異動したのに伴い新作の執筆を依頼し、2015年2月号に掲載された。発売前から「タレントが純文学作品で主要文芸誌デビュー」と話題になっていたが、発売初日の1月7日にインターネット各書店では軒並み品切れ状態となり、8日に7000部、9日にはさらに2万3000部の再増刷が決定し、累計は4万部に達した。『文學界』の増刷は1933年の創刊以来、資料に残る範囲で初めてである。又吉自身は文芸誌での連載作品がここまでの注目を集めるとは思っておらず、作品の反響に戸惑ったという。 2015年3月11日に同社から単行本として発刊された。装画は西川美穂で、彼女の2011年の絵画作品『イマスカ』が又吉自身の即決により採用された。装丁は大久保明子。 2015年8月時点で、単行本の累計発行部数は239万部を突破した。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を抜き、芥川賞受賞作品として歴代第1位、文藝春秋刊行物として歴代第2位の単行本部数となった。また、電子書籍版は10万ダウンロードを突破し、文藝春秋刊行物として歴代第1位となった。2017年2月時点では、累計発行部数は単行本が253万部、文庫本が30万部。 芥川賞受賞作2作品を全文掲載し、受賞者インタビューや選考委員の選評も掲載される『文藝春秋』9月特別号(8月7日発売)は110万3000部と「異例」の発行部数となった。同誌の歴代第2位の記録となる(第1位は、綿矢りさ『蹴りたい背中』、金原ひとみ『蛇にピアス』の掲載された2004年3月号の118万5000部)。 2015年8月21日に芥川賞贈呈式が開催され、又吉はあいさつで、執筆活動と芸人の両立について「どっちが上ではなく両方必要」と述べた。 又吉は、出身校の関大北陽高校(大阪市)のサッカー部に、芥川賞の賞金100万円で製作したユニホームを寄贈した。 2016年6月3日、台湾の出版社の三采文化(さんさいぶんか)社より、台湾での翻訳版の発売を開始。 2017年5月、中国の人民文学出版社より中国での翻訳版を発行。翻訳者は神戸国際大学の毛丹青教授。同年6月に上海で行われた記念イベントに又吉本人が出席。
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出版の経緯
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「吟遊詩人ビードルの物語」の記事における「出版の経緯」の解説
2007年7月に原書の第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』が発売され、シリーズは完結した。ローリングは第7巻に登場する『ビードルの物語』を文字とイラストも手書きで7冊作り、そのうち4冊は友人・知人にプレゼントした。うち2冊は、英米版それぞれの担当編集者が受け取っている。7冊全てにそれぞれ違う献辞がつき、革装丁でムーンストーンの装飾が施された。 最後の1冊は、ローリングとエマ・ニコルソン男爵夫人が設立した慈善団体チルドレンズ・ハイレベル・グループ (CHLG) の支援に充てるべく、2007年12月13日にサザビーズのオークションにかけられた。当初3万から5万ポンドで落札されると予想されていたが、美術商 Hazlitt, Gooden & Fox の代理のもと、Amazon.com が195万ポンド(約4億5000万円)で落札した。これは現代文学の手書き原稿として、J・K・ローリングの著作として、そして子供向け書籍として最高の落札価格だとサザビーズは述べている。 Amazon.comは他国版を含むAmazonのウェブサイトに、この1冊の写真や内容を含むレビューなどを掲載し、また各国で公開展示を行なった。日本では2008年7月23日から7月27日に伊勢丹新宿店で、同年7月30日から8月3日にジェイアール京都伊勢丹で公開展示が行なわれた。これに先立ち、Amazon.co.jpの『ハリー・ポッターと死の秘宝』を予約した人のなかから抽選で選ばれた20人が、予約特典イベントとしてこの原書の中身を閲覧することができた。 さらにAmazon.comは『ハリー・ポッター』シリーズのイギリス版の出版社Bloomsbury、アメリカ版の出版社Scholasticとともに、『吟遊詩人ビードルの物語』の新版を発売することを決めた。ローリング直筆のイラストはそのままに、さらに解説が加筆されている。Amazon限定版には通常版にはない挿絵も掲載されている。 『ビードルの物語』は2008年12月4日に発売された。出版元は前述の慈善団体:CHLGとし、売り上げは当団体に全額寄付される。英語版だけでなく各国語版も発売され、収益の大半がCHLGに寄付されている。
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出版の経緯
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「自然哲学の数学的諸原理」の記事における「出版の経緯」の解説
この本が出版されたきっかけ・動機としてはエドモンド・ハレーとのやりとりがあるという。1684年の夏、ハレーがケンブリッジ大学を訪問した折に「惑星が距離の平方に反比例する力で太陽に引き寄せられると仮定した場合、惑星が描く曲線はどのようなものであろうか?」とニュートンに質問したことだという。この質問に対してニュートンは「楕円だろう」と即答した。ニュートンはそれ以前に自分自身でそうした計算を試みたことがあり、すでに答えを得ていたのだという。 そしてニュートンは1684年11月頃、ハレーに「回転している物体の運動について」という論文を送付した。これを読んだハレーがニュートンにこの論文を含めたニュートンの力学研究の成果を出版することを薦め、同論文はプリンキピア第一巻の骨子となり、1687年の夏頃、500ページ余りの初版が出版されることとなった。なお、ニュートンにはキリスト教的で神による秩序立てられた世界観を示そうとする神学的な動機があったことも明らかになっている。いずれにせよ、ニュートンのこの書物への情熱、精進は凄まじいもので、18か月に及ぶ執筆期間中は食事も忘れるほどの極度の集中ぶりだったという。 1687年に初版が出版され、1713年には第二版が、1726年にヘンリー・ペンバートンが編纂した第三版が出された。
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出版の経緯
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「交響曲第2番 (ブルックナー)」の記事における「出版の経緯」の解説
1892年、ドブリンガー社から初版が出版された。これは、1892年までの改訂に加え、さらに弟子の校訂が加わっていると言われる。 その後、国際ブルックナー協会の原典版編纂により、1938年にハース版が出版された。ところがこのハース版は、1877年稿をベースにし、一部1872年稿を採用したものとなっていた。ローベルト・ハース自身そのことを明記して出版したが、このような校訂姿勢はのちにレオポルト・ノヴァークが批判するところとなった。 国際ブルックナー協会の校訂作業がノヴァークに代わった後、まず1965年に、1877年稿に基づくノヴァーク版が出版された。これはハース版から1872年稿を排除したものである。当時は単に「ノヴァーク版」と称されたが、後述の通り、後に1872年稿が出版されたため、これは「第2稿」とも呼ばれるようになった。ノヴァークは1872年稿の校訂・出版も計画していたが、それを実現せず1991年に死去した。 その後、ウィリアム・キャラガンがこの交響曲の校訂を引き継ぎ、1872年稿・1873年稿を校訂するとともに、1877年稿を再校訂した。1872年稿・1873年稿については、1991年にクルト・アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団がCD録音した。これらが収録されたCDの解説書には、キャラガン自身によるこれらの稿の解説が含まれていた。2005年には、国際ブルックナー協会から1872年稿が出版され「第1稿」と呼称するようになった。同時にそれまで出版されていたノヴァーク版第2稿もキャラガンが再校訂し、「1877/1892年稿」と称して出版されるようになった。 キャラガン1872年稿は第1、第4と緩徐楽章において、ハース版・ノヴァーク版との大きな違いがある。またスケルツォ楽章の順番が緩徐楽章と入れ替わっており、第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章が置かれている。 ハース版として出版された譜面には、第2楽章・第4楽章に (vi-) (-de) と記されて囲まれた箇所がある(vi-から-deまで飛べ。つまりその部分は演奏を省略せよ、という意味)。これは1877年稿では本来存在しない部分であり、ハースもそのことを明記していた。ノヴァーク版第2稿は1877年稿を再現したとはいえ、ハースが (vi-) (-de) で囲った部分の譜面はそのまま残した形で出版した。 なお、キャラガン1872年稿と1873年稿は第4楽章の後半~終結部に大きな違いが存在する。現在の出版譜は「1872年稿=第1稿」「1877/1892年稿=第2稿」として扱われている。1873年稿については現時点では未出版である(ただし、出版されている1872年稿の中で、一部言及・併記されている)。キャラガン1872年稿が出版後、若手指揮者を中心に、ここ数年でキャラガン1872年稿での演奏・録音が増えている。
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出版の経緯
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「交響曲第4番 (ブルックナー)」の記事における「出版の経緯」の解説
作曲者は1886年時点で、第2稿に基づく楽譜の出版を企てたが、これは実現しなかった。 実際に出版された楽譜としては、1889年に、第3稿に基づく楽譜がグートマン社から出版されたのが最初である。当初はもっぱらこの版でのみこの曲が演奏されていた。 最初に出版されたことから「初版」、後述の原典版に対比する意味で「改訂版」・「改変版」などと呼ばれている。 国際ブルックナー協会(英語版)校訂による楽譜は、1936年に出版され、その後内容修正のうえ1944年に再出版された。これは第2稿(1878/80年稿、1878年稿の第4楽章を1880年稿で置き換えたもの)に基づくものであった。出版当初は初版との対比もあって「原典版」とも称された。また当時の校訂者の名をとって「ハース版」とも称された。この版の出版にともない、初版での演奏が次第に廃れていった。一時期はこのハース版による演奏が主流であった。同時に「初版=改竄版」との認識が広まることとなった。なおハース版として広く出版されたのはこの第2稿(1878/80年稿)であったが、実際にはハースの校訂によりそのほかにも、1878年稿の第4楽章も出版され(全集の付録資料として、この楽章のみ)、さらに第3稿(1888年稿)の出版も計画がされていた(これは実現しなかった)。 戦後、国際ブルックナー協会の校訂作業がノヴァークに引き継がれたことにより、それに基づく楽譜が順次出版された。まず1953年には1878/80年稿に基づく楽譜が出版された(ノヴァーク版第2稿)。続いて1874年稿(第1稿)が、1975年にノヴァーク版第1稿として出版された。1878年稿の第4楽章についても1981年に出版された(この楽章のみ)。さらにノヴァーク引退後の2004年には、ベンジャミン・コーストヴェット(フランス語版)の校訂により第3稿が出版された(コーストヴェット版第3稿)。
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出版の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/17 15:43 UTC 版)
神吉は、1956年夏、中国の旅客機に乗った際、中国の日本人戦犯が軍事法廷で審判されるという『人民日報』の記事の中に、戦犯が自分たちの犯した罪を謝罪し、今後、平和のために尽くすと書かれていたことに興味を覚えた。そこで、中国の新聞記者などのつてを頼り、82編、400字詰め原稿用紙1,589枚に及ぶ戦犯の手記を入手した。当時、戦後12年がたって、改めて戦争に対する反省の念への議論の契機となることを願い、この本を出版する決心をしたという。
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出版の経緯
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「新源氏物語 (田辺聖子)」の記事における「出版の経緯」の解説
『源氏物語』冒頭部分から「幻」巻までの部分は、『新源氏物語』として雑誌『週刊朝日』において1974年(昭和49年)11月発行の第79巻第49号から1978年(昭和53年)1月発行の第83巻第4号にかけて169回にわたって連載された後、1978年(昭和53年)から1979年(昭和54年)にかけて全5巻で新潮社から単行本として刊行され、1984年(昭和59年)5月に新潮文庫に収録された。 上記に含まれない『源氏物語』第三部(匂宮三帖及び宇治十帖)についても当初から含める予定であったが、上記の『新源氏物語』とは別に『新源氏物語 霧ふかき宇治の恋』として雑誌『DAME』において1985年(昭和60年)10月発行の第2巻第10号から1987年(昭和62年)7月発行の第4巻第7号まで22回にわたって連載されたが、同号をもって同誌が休刊したために「宿木」巻の途中までで中断することとなった。その後、残りの部分は書き下ろしで執筆されて1990年(平成2年)5月に新潮社から「新源氏物語 霧ふかき宇治の恋」として上下2巻で単行本として出版され、1993年(平成5年)11月に、上下2巻で新潮文庫に収録された。 1993年(平成5年)8月に新潮社から刊行された全1冊本『新源氏物語』および2004年(平成16年)に集英社から出版された『田辺聖子全集 全24巻』の第7巻および第8巻の2巻に収められた『新源氏物語』では、この「霧ふかき宇治の恋」を含めた『源氏物語』全体の現代語訳を「新源氏物語」としている。
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「プラトニック・セックス」の記事における「出版の経緯」の解説
過去をネタに脅迫を受け金銭の支払いまでしていた飯島は、所属事務所をワタナベエンターテインメントへ移籍するにあたり当時副社長であった渡辺ミキに相談したところ、公表すれば脅迫されなくなると説得されたことによる。
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かつてのアンのように恵まれない境遇の子供たちの物語をリア・ウィルムスハーストが500を超えるモンゴメリの作品から選んで編纂した。ほとんどの物語は『赤毛のアン』より前に書かれている。雑誌や新聞に発表された物を再収録したもので、アンは登場しない。
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出版の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/07 19:02 UTC 版)
この日記は、息子のスチュワート・マクドナルドに託され、モンゴメリ自身の遺言により封印されていたが、1981年にオンタリオのガルフ大学に寄贈された。1985年から2004年にかけてこの日記を研究したメアリー・ルビオ、エリザベス・ウォータストン両教授により編纂されたものが5巻組としてオックスフォード大学出版局から出版された。 日本では篠崎書林が翻訳権を得たが編集部が解散し出版社が立風書房に変更されたという事情により、最初の『モンゴメリ日記1』を出し直す方が続編の『モンゴメリ日記/十九歳の決心』や3冊目の『モンゴメリ日記 (1897~1900)愛、その光と影』よりも後になっている。 日本語訳は英文の原書の第1巻の途中までが3冊に分けて発行されている。出版都合にて原書の日記に収録されていた当時の写真は日本語訳本では大半が割愛され代わりに巻頭にはプリンスエドワード島等の写真と訳者の解説が加えられた。
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出版の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/08 19:38 UTC 版)
遺稿の整理をしていたスチュアートは発見した未発表原稿を含む14篇の短編を The Road to Yesterday として出版した。
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