出版の経緯と弾圧
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「エミール (ルソー)」の記事における「出版の経緯と弾圧」の解説
ルソーは1757年末に『エミール』執筆を計画し、翌1758年末頃にこの作品を書き始めた。1760年10月頃には原稿を完成させ、それを保護者のリュクサンブール夫人に預けた。 出版は1762年5月。しかし出版直後から、特に第4編の「サヴォワの助任司祭の信仰告白」が問題視され、キリスト教勢力を中心とする激しい弾圧にさらされた。 具体的には、まず6月に本の押収、パリ大学神学部(ソルボンヌ)による告発、パリ高等法院による有罪判決と逮捕令が続き、ルソーはスイスへの逃亡を余儀なくされる。 8月にはパリ大司教ボーモンが教書で弾劾した。これに対し、ルソーは1763年3月『パリ大司教クリストフ・ド・ボーモンへの手紙』で反論したが、事態は好転しなかった。ルソーにとって、「男性と女性が共通して持っているものはすべて種に属し、...それらを区別するものはすべて性に属している。」ルソーは、女性は「受動的で弱い」、「ほとんど抵抗せず」、そして「男性を喜ばせるために特別に作られる」べきであると述べている。しかし、彼は「人は順番に彼女を喜ばせるべきである」と付け加え、「彼の強さの唯一の事実」の関数として、つまり厳密に「自然な」法則として、「愛の法則」を紹介する。 エミールで探求された他のアイデアと同様に、ルソーの女性教育に対する姿勢は、当時の「既存の感情を結晶化した」ものであった。18世紀の間、ルソーが提唱する適切な領域内にとどまることが奨励されたため、女性の教育は伝統的に、縫製、家事、料理などの家庭の技能に焦点を当てていた。ルソーの女性教育の簡単な説明は、おそらくエミール自体よりもさらに大きな近代的な反応を引き起こした。たとえば、メアリ・ウルストンクラフトは、『女性の権利の擁護』(1792)の「女性を哀れみの対象にした作家の何人かに対する非難」の章のかなりの部分をルソーと彼の議論に当てている。 女性の権利の擁護におけるルソーの主張に答えるとき、ウルストン・クラフトは彼女の作品の第4章でエミールを直接引用している。 「女性たちを男性のように育ててみればいい」とルソーは書く。「女性たちが男性に似せようとすればするほど、女性たちは男性をそれほど支配しないことになるだろう。」これがまさに私が目指すポイントである。私は女性たちが男性を支配することを望んではいない、むしろ、彼女たち自身の支配者になってほしいのだ。[要ページ番号] フランスの作家ルイーズ・デピネー(1756年から1年半、ルソーの保護者だった)の『エミールとの会話』(Conversations d'Emilie)は、ルソーの女性教育に対する見方に対する彼女のそれの相違点を鮮明にしている。彼女は、女性とはルソーが言うような自然な違いではなく、女性の教育が社会における女性の役割に影響を与えると信じていた。 ルソーはまた、彼の『社会契約論』の簡潔な版を本に含めることによって、第5篇のエミールの政治的育成に触れている。彼の政治論文『社会契約論』は『エミール』と同年に出版され、同様に一般意志に関する物議を醸す理論のために政府によってすぐに禁止された。ただし、エミールでのこの作品の版では、王権と統治の間の緊張については詳しく説明していないが、代わりに読者に元の作品を紹介している。
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