神風特別攻撃隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 02:36 UTC 版)
戦果
艦艇
陸軍「と号部隊」によるものと合わせた戦果は下記の通りとなる[242][243][201][202][244][245][246][247][248][249][250][251][252][253][254]。
艦種 | 船体分類記号 | 撃沈艦 | 除籍艦[注 7][255] | 損傷艦[注 8] |
---|---|---|---|---|
戦艦 | BB | 16隻 | ||
正規空母 | CV | 21隻 | ||
軽空母 | CVL | 5隻 | ||
護衛空母 | CVE | 3隻 | 1隻 | 16隻 |
水上機母艦 | AV | 4隻 | ||
重巡洋艦 | CA | 8隻 | ||
軽巡洋艦 | CL | 8隻 | ||
駆逐艦 | DD | 15隻 | 8隻 | 91隻 |
護衛駆逐艦 | DE | 1隻 | 1隻 | 24隻 |
掃海駆逐艦 | DM | 2隻 | 7隻 | 26隻 |
輸送駆逐艦 | APD | 4隻 | 3隻 | 17隻 |
潜水艦 | SS | 1隻 | ||
駆潜艇 | SC・PC | 1隻 | 1隻 | 1隻 |
掃海艇 | AM・YMS | 3隻[注 9] | 16隻 | |
魚雷艇 | PT | 2隻 | 4隻 | |
戦車揚陸艦 | LST | 5隻 | 15隻 | |
中型揚陸艦 | LSM | 7隻 | 1隻 | 4隻 |
上陸支援艇 | LCS | 2隻 | 13隻 | |
歩兵揚陸艇 | LCI | 1隻 | 7隻 | |
タグボート | AT | 1隻 | 1隻 | |
魚雷艇母艦 | AGP | 1隻 | ||
ドック艦 | ARL | 2隻 | ||
病院船 | AH | 1隻 | ||
タンカー | AO・IX | 1隻 | 2隻 | |
攻撃輸送艦 | AKA・APA | 18隻 | ||
傷病者輸送艦 | APH | 1隻 | ||
防潜網設置艦 | AKN | 1隻 | ||
輸送艦 | 7隻 | 35隻 | ||
合計 | 55隻 | 22隻 | 359隻 |
特攻の戦果は諸説ある。航空特攻で撃沈57隻 戦力として完全に失われたもの108隻 船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻 軽微な損傷206隻とする説[256]。航空特攻で撃沈49隻 損傷362隻 回天特攻で撃沈3隻 損傷6隻 特攻艇で撃沈7隻 損傷19隻 合計撃沈59隻 損傷387隻とする説[202]、航空特攻によるアメリカ軍のみの損害で、66隻が撃沈ないし修理不能、400隻が損傷など諸説ある[257]。
アメリカ軍は、フィリピンで特攻により大きな損害を受けた教訓として、沖縄戦においては沖縄本島近海で作戦行動をとる主力艦隊や輸送艦隊を包み込むように、半径100㎞の巨大な円周上に、レーダーを装備したレーダーピケット艦を配置し早期警戒体制を整えることとし、その専門部隊として第51.5任務部隊(司令官フレデリック・ムースブラッガー代将)を編成した[258]。同任務部隊は駆逐艦103隻を主力とする206隻の艦艇と36,422人の水兵で編成されている大規模なものであり[259]、このなかで19隻の駆逐艦がレーダーピケット艦任務のために対空レーダーと通信機器が強化されて、専門の戦闘指揮・管制チームが配置された[260]。各特別艦の戦闘指揮・管制チームは、上陸支援艦隊第51任務部隊司令官リッチモンド・K・ターナー中将が座乗する揚陸指揮艦エルドラドに設けられた戦闘指揮所(CIC)と連携し、第51任務部隊の護衛空母群や第58任務部隊の正規空母・軽空母群の艦載機及び陸軍や海兵隊の地上機による戦闘空中哨戒(CAP)の管制・指揮を行った[261]。さらにレーダーピケット部隊は駆逐艦や高速輸送艦(輸送駆逐艦)1隻に対し、対空装備を満載した上陸支援艇、掃海艇、駆潜艇などの小型艦2隻を最小単位として編成されており、二重に主力艦隊や輸送艦隊を取り囲んでいた。高速空母艦隊の第58任務部隊も輸送艦隊と同様に、高速空母隊の周りに警戒駆逐艦を配備し早期警戒に当たらせていた[262]。
日本軍はアメリカ軍のレーダーピケットラインを寸断するために、レーダーピケット艦を優先攻撃目標の一つとしており、また出撃した特攻機もアメリカ軍の大量の迎撃機に阻まれて、最初に接触するレーダーピケット艦を攻撃することが多く[263]、その消耗は激しかった[264]。ニミッツはアーネスト・キング海軍作戦部長に「直衛艦艇と哨戒艦艇を1隻ずつ狙い撃ちにする特攻機により、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、スプルーアンスとターナーは2人とも、(アメリカ軍が)投入可能な駆逐艦及び護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある点を指摘している」と請願し[207]、ドイツ海軍のUボートを制圧していた大西洋の駆逐艦や護衛駆逐艦が続々と沖縄に派遣された[265]。アメリカ軍は、レーダーピケット艦が沈められた時に生存者の救出を図るため、レーダーピケット艦の周りを小型艇でびっしりと囲ませていた。そのような小型艦艇は「棺桶の担い手」と呼ばれ、実際に、特攻で粉砕されたレーダーピケット艦の生存者を救出し、遺体を収容している[266]。
レーダーピケット艦は特攻機を早期発見するという本来の任務のほかに、結果的に特攻機を引き付ける役割となってしまい、特攻機は何度もレーダーピケット艦に対する攻撃に集中し、大破して沈没寸前の艦にまで執拗に体当たりを繰り返した[267]。特にレーダーピケットラインの中枢で、「ブリキ缶」「スモールボーイ」などの俗称で呼ばれていた駆逐艦の損害は大きく[268]、「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」と皮肉を言われるほどで[269]、やけになった駆逐艦の乗組員が、駆逐艦の艦尾に大きな矢印をつけて「日本の特攻隊員よ、空母はこの方向です!」と示したほどだった[267]。 沖縄戦中にアメリカ海軍は駆逐艦17隻(航空特攻15隻、特殊潜航艇1隻、陸上砲撃1隻)を沈められ、18隻が再起不能の損傷を受けて除籍される甚大な損害を被ったが(輸送・掃海等の用途特化型の駆逐艦を含む)、その中でもレーダーピケットライン専門部隊であった第51.5任務部隊の損害が最も大きく、11隻の駆逐艦と付属艦5隻の計16隻が沈没、50隻が損傷し、水兵1,348人が戦死、1,586人が負傷した。これは第51.5任務部隊でピケット任務に就いていた駆逐艦のうち42%が沈没もしくは損傷するといった甚大な損害であった[270]。レーダーピケット艦は、文字通り自らを犠牲にして主力艦隊や輸送艦隊を特攻から守り切った。その働きぶりはアメリカ海軍より「光輝ある我が海軍の歴史の中で、これほど微力な部隊が、これほど長い期間、これほど優秀な敵の攻撃を受けながら、これほど大きく全体の為に寄与したことは無い」と賞されている[271]。
レーダーピケット艦の多大なる犠牲を目の当たりにして、アメリカ海軍はより有効な特攻対策を迫られることとなった。その対策とは『CADILLAC』と呼ばれた早期警戒機とデータリンクシステムを結合させた新システムであり、これまでレーダーピケット艦が担っていた役割を早期警戒機が担い、機上レーダーで特攻機を探知すると、そのデータをビデオ信号に変えて、旗艦空母のCICの受信機上にリアルタイムで投影するようにした。このデータリンクにより、旗艦空母は自らのレーダーが探知できていない目標に対しても効果的な対策を講じることができた[272]。早期警戒機としてAN/APS-20早期警戒レーダーを搭載したTBM-3Wが開発され、データリンクシステムも1945年5月にはテストを終えて、1945年7月からエセックス級空母各艦に設置されていったが、本格的に運用する前に終戦となった。この必要に迫られて開発された極めて先進的なシステムは、その後もさらに洗練されて現在のアメリカ軍空母部隊にも受け継がれている[272]。
人員
特攻機が狙った目標を目ざして、冷静かつ事前に立てた計画に従って急降下する光景は、アメリカ軍水兵に大きな衝撃を与え、太平洋戦域の連合軍兵士にパニックを引き起こした[157]。このように特攻の効果は、艦船の撃沈、撃破といった物理的な効果に加えて、アメリカ海軍を主体とする連合軍兵士に、多数の死傷者や精神疾患といった多大な人的損失をもたらした[273]。連合軍の艦船は、たった1人の死を顧みない攻撃によって数百名以上の人員が危険に晒されており、「日本軍の機体とパイロットが100%失われたとしても、我々が耐えられない損害を当たえるのに十分だったであろう。」と評価していた[274]。
特攻による連合軍の人的損失については複数の研究があり、その数値が異なる。戦死者8,064名負傷者10,708名合計18,772名とする説[275]、戦死者12,260名、負傷者33,769名とする説などがある[276]。アメリカ軍の公式記録等の調査から、特攻によるアメリカ軍の戦死者6,805名負傷者9,923名合計16,728名とする説[202]、戦死者7,000名超とする説などがある[277]。一方で、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、航空特攻による日本軍の戦死者は、海軍2,548名、陸軍1,355名、計3,903名であり、戦死者であれば2倍前後、死傷者では4倍以上という損害を連合軍に与えており、また、平均すると、特攻機1機の命中ごとにアメリカ軍将兵40名が死傷したという統計もある[257]。特攻のように、味方が失った人命より敵の死者の方が多いという例は、太平洋戦争においては稀であるという指摘もある[278]。
アメリカ海軍の太平洋戦域での戦闘における(除事故・病気等の自然要因)死傷者のアメリカ軍公式統計は、特攻が開始された1944年以降に激増し、1944年から1945年8月の終戦までで45,808名に上り、太平洋戦争でのアメリカ海軍の死傷者合計71,685名の63.9%にも達したが(1945年の8か月だけでも26,803名で37.4%)[279]、1944年以降のアメリカ軍艦船の戦闘による撃沈・損傷等は約80%以上が特攻による損失である[253][254][280]。
その内、特攻が開始された1944年10月以降の、アメリカ海軍兵士の直接の戦闘による戦死者だけでも下記の通りとなる[281]。
戦域 | 戦死者 | 負傷により後日死亡 | 小計 |
---|---|---|---|
フィリピン戦域 | 4,026名 | 270名 | 4,296名 |
硫黄島戦域 | 934名 | 48名 | 982名 |
九州沖戦域 | 963名 | 6名 | 969名 |
沖縄戦域 | 3,809名 | 219名 | 4,028名 |
1945年7月以降日本近海戦域 | 1,103名 | 14名 | 1,117名 |
合計 | 10,835名 | 557名 | 11,392名 |
また上記の海軍以外でも、輸送艦などに乗艦していた、陸軍・海兵隊の兵士や輸送艦の船員なども多数死傷し、またイギリス軍、オーストラリア軍、オランダ軍、ソ連軍など他の連合軍兵士も多数死傷している。
特攻による被害艦は、重篤な火傷を負った負傷者が多い事も特徴であった。航空燃料で生じた激しい火災による火傷の他に、特攻機や搭載爆弾の爆発で生じる閃光による閃光火傷を負う負傷者も多かった。フィリピンで特攻で大破した軽巡洋艦「コロンビア」では100名以上の閃光火傷の負傷者が生じている[282]。後送される特攻による負傷者は、包帯を全身に巻かれミイラの様になっており、チューブで辛うじて呼吸し、静脈への点滴でどうにか生き延びているという惨状であった[283]、また、火傷が原因で後日死亡する負傷者も多かった[注 10]。特攻による多大な人的損失に頭を悩ますアメリカ海軍は、水兵に対して「対空戦闘に必要最低限の人数以外は退避させる」「一か所に大人数で集まることを禁止」「全兵員が長袖の軍服を着用し袖や襟のボタンをしっかりとめる、顔など露出部には火傷防止クリームを塗布する」「全兵員のヘルメット着用義務化」「対空戦闘要員以外はうつ伏せになる」など事細かに特攻による兵員の死傷の防止策を指導していた[284]。
有効率
フィリピン戦 | 沖縄戦 | 合計 | |
---|---|---|---|
特攻機損失数 | 650機 | 1,900機 | 2,550機 |
命中もしくは有効至近命中[注 11] | 174機 | 279機 | 475機[注 12] |
有効率 | 26.8% | 14.7% | 18.6% |
1944年10月 | 1944年11月 | 1944年12月 | 1945年1月 | 1945年2月 | 1945年3月 | 合計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
特攻を試みた機数 | 43機 | 73機 | 97機 | 99機 | 17機 | 27機 | 356機 |
特攻機命中 | 18機 | 28機 | 33機 | 42機 | 8機 | 11機 | 140機 |
特攻機命中率 | 42% | 38% | 34% | 42% | 47% | 41% | 39% |
有効至近命中 | 7機 | 11機 | 13機 | 22機 | 2機 | 4機 | 59機 |
有効至近命中率 | 16% | 15% | 13% | 22% | 12% | 15% | 17% |
有効率 | 58% | 53% | 47% | 64% | 59% | 56% | 56% |
艦船損傷数 | 17隻 | 26隻 | 30隻 | 42隻 | 4隻 | 11隻 | 130隻 |
艦船沈没数 | 3隻 | 2隻 | 11隻 | 3隻 | 1隻 | 0隻 | 20隻 |
特攻の高い有効性について、アメリカ海軍は下記のように分析していた[287]。
- 特攻は、アメリカ軍艦隊が直面した最も困難な対空問題である。
- 今まで有効であった対空戦術は特攻機に対しては効果が無い。
- 特攻機は撃墜されるか、激しい損傷で操縦不能とならない限りは、目標を確実に攻撃する。
- 操縦不能ではない特攻機は、回避行動の有無に関わらず、あらゆる大きさの艦船に対して事実上100%命中できるチャンスがある。
特攻と通常攻撃との有効率の比較
特攻の有効率は高いながらも、特攻に一番近い攻撃法である急降下爆撃の日本軍主張の命中率と比較すると見劣りし[288]、特攻の戦術としての有効性は決して高くはなかったと主張する者もいる[289][290]。ただし下表のとおり、特攻の有効率と比較するために急降下爆撃の命中率として引用されることの多い[291]、太平洋戦争初期の日本軍主張の急降下爆撃の命中率は、攻撃を受けたアメリカ軍やイギリス軍の被害報告に基づく実際の命中率とはかけ離れていた[292]。
艦爆攻撃数 | 日本軍主張命中弾 | 日本軍主張命中率 | 実際の被弾数 | 実際の命中率 | |
---|---|---|---|---|---|
真珠湾攻撃で湾から脱出をはかるネバダに対する攻撃 | 23機[293] | 21発(内不確実13)[294] | 58.5%から65%[295] | 5発[296] | 21.7% |
セイロン沖海戦で2隻の重巡洋艦に対する攻撃 | 53機[297] | 46発[297] | 88%[288][297] | 19発[298][299][300] | 35.8% |
珊瑚海海戦で2隻の空母に対する攻撃 | 33機[301] | 18発[302] | 53%から64%[295] | 3発[303] | 9% |
ミッドウェー海戦でヨークタウンに対する攻撃 | 18機[304] | 6発[305] | 33.3% | 3発[306] | 16.6% |
日本軍主張の命中率は過大ではあったが、それでも太平洋戦争の序盤は多大な成果を上げていたことにかわりはなく、アメリカ軍も「彼ら(日本軍)の開戦初期の成功は、非常によく訓練され、組織され、装備された航空部隊が連合軍の不意をついて獲得したものであった」と評価していた[307]。しかし、ミッドウェーの敗戦からソロモン諸島などでの航空消耗戦で弱体化していく日本軍航空戦力を「日本軍の航空戦力がソロモン諸島、ビスマルク諸島、ニューギニアで消耗されると、それらに匹敵する後継部隊を手に入れることができなくなり、日本の空軍力は崩壊しはじめ、ついに自殺攻撃が唯一の効果的な戦法となった。」と評価していた[308]。
日本軍の航空戦力の弱体化に対して、アメリカ軍側の防空システムは1943年までの日本軍との諸海戦の戦訓により各段に進歩しており、特に1943年以降大量に就役したエセックス級航空母艦の艦隊配備が進歩を加速させた[309]。エセックス級空母各艦は航空母艦群の旗艦となり、搭載された対空捜索用SKレーダー、対水上捜索・航空機誘導用SGレーダー、航空管制用の測高用SMレーダー、予備の対空捜索用SC-2レーダー[310]、射撃用のレーダーとしてMk.37 砲射撃指揮装置と一体化した距離測定用Mk.12レーダーと、高度測角用Mk.22レーダー[311] を活用した戦闘指揮所 (CIC) が、迎撃戦闘機の誘導や新兵器VT信管を駆使した対空射撃など、対空戦闘を総合的に統制し[312]、マリアナ沖海戦では一方的に日本軍通常攻撃機を撃墜し、殆どの日本軍通常攻撃機がアメリカ軍艦隊に到達することができず、命中弾は戦艦サウスダコタへの1発のみと、のちに「マリアナの七面鳥撃ち(The Marianas Turkey Shoot)」と揶揄されたぐらいに、対空システムは完成の域に達していた[313]。
日本軍が特攻を主要戦術として採用した背景をアメリカ軍は、マリアナ沖海戦以降の航空作戦の苦境で「大本営に、陸海両空軍が正規の航空軍としては敗北したことが明白になったとき絶望的戦術として使用した」「自殺攻撃が開始された理由は、冷静で合理的な軍事的決定であった。」と分析していた[314]。
1944年10月~1945年1月 | 1945年2月 | 1945年3月 | 1945年4月 | 合計 | |
---|---|---|---|---|---|
アメリカ軍艦艇の射程内に入った日本軍機合計 | 1,616機 | 123機 | 219機 | 978機 | 2,936機 |
その内、特攻機 | 376機 | 18機 | 42機 | 348機 | 784機 |
その内、通常攻撃機 | 1,240機 | 105機 | 177機 | 630機 | 2,152機 |
特攻機命中 | 120機(命中率31.9%) | 8機 | 10機 | 78機 | 216機(命中率27.6%) |
通常攻撃命中 | 41機(命中率3.3%) | 1機 | 10機 | 6機 | 58機(命中率2.7%) |
特攻機 | 通常攻撃機 | |
---|---|---|
艦艇に1発の命中弾を与えるために必要な攻撃機数 | 3.6機 | 37機 |
命中率 | 27% | 2.7% |
艦艇に命中弾を与えるまでの損失機数 | 3.6機 | 6.1機 |
これらの統計の結果でアメリカ軍は、通常攻撃機を全て特攻機に回したならば、この間の通常攻撃機による79発の命中弾が792発(792機)の命中になったであろうと分析している[316]。
米国戦略爆撃調査団の公式報告書では「日本軍パイロットがまだ持っていた唯一の長所は、彼等パイロットの確実な死を喜んでおこなう決意であった。 このような状況下で、かれらはカミカゼ戦術を開発させた。 飛行機を艦船まで真っ直ぐ飛ばすことができるパイロットは、敵戦闘機と対空砲火のあるスクリーンを通過したならば、目標に当る為のわずかな技能があるだけでよかった。もし十分な数の日本軍機が同時に攻撃したなら、突入を完全に阻止することは不可能であっただろう。 」と述べられている[317]。通常の航空爆撃と異なり、対空攻撃によって特攻機の乗員が負傷したり機体が破損するなどしても、特攻機は命中するまで操舵を続けるため、投下する爆弾や魚雷を避けることを前提とした艦船の回避行動はほとんど意味がなかった[284]。
台湾沖で、神風特攻新高隊の零戦2機の特攻攻撃を受け大破炎上、144名戦死203名負傷の甚大な損害を被り、自らも重傷を負った空母「タイコンデロガ」のディクシー・キーファー艦長は、療養中に『アマリロ・デイリー・ニュース』の取材に対して「日本のカミカゼは、通常の急降下爆撃や水平爆撃より4 - 5倍高い確率で命中している。」と答えている[318]。また、「通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。」とも述べている[177]。また、イギリスの軍事評論家バリー・ピッドは「日本軍の神風特攻がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう」「アメリカ軍の海軍士官のなかには、神風特攻が連合軍の侵攻阻止に成功するかもしれないと、まじめに考えはじめるものもいたのである」との記述をしている[319][320]。
アメリカ軍は、特攻が通常の航空機による攻撃より優れている点としてイラスト付きで下記を挙げている。(画像参照)[284]。
この有効率の高さを、対零式艦上戦闘機空戦戦術「サッチウィーブ」の考案者でもあった、第38任務部隊航空参謀のジョン・サッチ少佐は「我々が誘導ミサイルを手にする以前の誘導ミサイルであった」「人間の脳と目と手で誘導され、誘導ミサイルよりさらに優れていた」「時代の先を行く兵器であった」と分析していた[321]。 太平洋戦争終戦後相当年数を経た1999年作成のアメリカ空軍報告書においても、特攻機は現在の対艦ミサイルに匹敵する誘導兵器と評価されて、アメリカ軍艦船の最悪の脅威であったと指摘されている。そして特攻機は相対的には少数でありながら、アメリカ軍の戦略に多大な変更を強いており、実際の戦力以上に戦況に影響を与える潜在能力を有していたと結論づけている[322]。
また、当時の対空砲火は敵機に命中させて撃墜を狙うというより艦を攻撃しやすいコースから退かせることを主目的としており、現代の対空システムからイメージされるほど撃墜率は高くなかった。そのため、もとより生還を期さない上に通常の爆撃・雷撃とは異なるコースからでも攻撃が可能となる特攻機に対してはほとんど効果が無かった。
- ^ これは猪口の証言によるものであり、戦史叢書56 1972, p. 108によれば、大西瀧治郎がフィリピンに出発する前に軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際に「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島、朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されており、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない。本文(歴史>創設の項目)を参照。
- ^ 高空を高速で侵入し、防御火力が厚い戦略爆撃機に対する枢軸国防空戦闘機による体当たり攻撃の例としては、震天制空隊(日本)やエルベ特別攻撃隊(ナチス・ドイツ)を参照。
- ^ 戦闘901航空隊飛行隊長で、のちに芙蓉部隊の指揮官として有名となった美濃部正少佐が、自分が偵察飛行を行ったので誤報であることが判明したと戦後に出版した著書『大正っ子の太平洋戦記』(方丈社)などで主張しているが、事件後に現地調査した軍令部参謀奥宮正武中佐は玉井の偵察飛行で判明したと証言している。
- ^ このコンセプトは米内光政海軍大臣によるものと言われる[62]。
- ^ この証言は、大西瀧治郎が公言したものではない。角田和男が小田原俊彦大佐から聞いた話である。大西自身は終戦講和に強く反対したことから、この証言に懐疑的な見解を持つ研究者もいる[63]。
- ^ 甲飛10期生は、神風特攻隊の創始者を大西ではなく玉井と見ている。その理由として「編成は現場を熟知している玉井によって既に作られていたような手早い段取り、組み合わせだったこと[87]」「玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早い段階から体当たり攻撃を提唱し、甲飛10期生に『もう特攻しかない』『必ず特攻の機会をやる』と話していたこと」を挙げている[88]。
- ^ アメリカ本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦。
- ^ 損傷艦は延べ数
- ^ アメリカ海軍、イギリス軍、ソ連軍各1隻。
- ^ 護衛空母「セント・ロー」は沈没時に113名戦死したが、その後に負傷が原因で30名が死亡。
- ^ 有効至近命中はアメリカ軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上。
- ^ 合計が合わないが原資料のまま。
- ^ 船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約1⁄3にあたる
- ^ 第二次世界大戦中におけるアメリカ軍の駆逐艦の撃沈破艦の約半数が、大戦末期にわずか10ヶ月間の特攻による損害であった。
- ^ シュブリックに突入した機体の機種は公式記録上は不明であるが、シュブリックが特攻された時間、5月29日0:13に沖縄に突入した航空機は、28日19:13から夜間出撃した第三次白菊隊11機以外になく(白菊は沖縄到達まで約5時間の飛行時間)白菊の戦果と推定される。
- ^ 当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失ったりしていると信じられていた。
- ^ 護衛空母「サンガモン」のこと。1945年5月4日に特攻により大破して戦線離脱しそのまま除籍された。
- ^ 吉田 2017, p. 「特攻隊」.
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