靺鞨説支持者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)
石井正敏 石井正敏は、渤海の建国前後状況を「およそ次のように理解されている」として、「七世紀の末、かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人の大祚栄は、高句麗滅亡後強制的に移住させられていた唐の営州から一族を率いて東方へ逃れた。唐は追討軍を差し向けたが、軍略に長じた祚栄は靺鞨人やかつて高句麗に属していた人々を率いて迎え討ち、ついに今日の吉林省敦化市付近を根拠地として独立し、震(振)国と号して自立を宣言した」として、「以上が渤海建国前後の状況の通説であり、筆者もおよそこのように理解している」「大勢としては、通説のように考えてよいと思う」と述べており、「渤海は、西暦六九八年に高句麗の遺民大祚栄を中心として、現在の中国の東北地方に建設され、九二六年契丹に滅ぼされるまで存続した、主に靺鞨種族より成る国」「渤海は、かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人である大祚栄によって六九八年に建国」「渤海の建国者大祚栄は靺鞨人であるが、かつて高句麗領内に居住しており、自立後は高句麗人も彼のもとに集まった」「7世紀の末、かつて高句麗に属していた靺鞨人の大祚栄」「渤海は、かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人である大祚栄によって六九八年に建国され、祚栄は七一三年に唐から冊封された」「渤海はいわば『在高句麗靺鞨人』を中心に、高句麗滅亡後建設されたもの」「(『高麗別種』あるいは『附高麗者』と表現されているのは)同じく靺鞨人であっても、すでに高句麗化が進んでいることから、区別されているのであろう」「日本人が渤海は高句麗の継承者、渤海の支配層は高句麗人と認識した背景には、渤海の王族や支配層が高句麗化した靺鞨人という実体があったため」「唐の羈絆を脱した靺鞨人を中心とする渤海が高句麗の旧地に興ったわけである」「大祚栄(あるいは父の乞乞仲象も)が粟末靺鞨人であることは間違いないと思われる。しかしその一方で『高麗別種』あるいは『附高麗者』とされている。すなわちこれらの表現するところは大祚栄をはじめとする王族はかつて高句麗に所属していた靺鞨人、いわば高句麗系靺鞨人(靺鞨系高句麗人)であったということ」そして、大祚栄が「高麗別種」「附高麗者」というのは、日野開三郎が主張している「その附隷の関係が一般の者より格別深密であったために相違なく、…その深密な附隷関係を通して彼等が事実上高句麗人化していたためでなければならぬ」という理解でまず間違いない、と述べている。 森安孝夫 森安孝夫は、大舎利乞乞仲象が保有していた舎利という官職が「父の方が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が知られていない称号をもっている点を考え合わせると、やはり、高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当かと思われる」「その建国の立役者となった乞四比羽が純粋の靺鞨人、大舎利乞乞仲象と大祚栄が高句麗の強い影響を蒙ってはいたもののやはり靺鞨人と考えられること、さらにその初期の本拠となった地方が、従来より靺鞨(勿吉)人の住地であったこと等よりみても、その基盤となった民族が靺鞨人であったことは当然考えられよう」「渤海の建国とはツングース系民族国家の建設、言いかえれば高句麗国の再興をはかったものであって、その中核となり、後の支配層となった王族大氏に代表される旧高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人」「渤海の支配階級を形成していたのが、大氏に代表される旧高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人」「大祚栄の出身については異論が多いが、かつての高句麗国時代から高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当と思われる」と述べている。 浜田耕策 浜田耕策は、大祚栄を冊封するために渤海に派遣された唐の冊封使の崔忻の使命を「宣労靺鞨使」と命じたこと、『旧唐書』は「渤海靺鞨大祚栄」と始まり、大祚栄の所属を「渤海靺鞨」とし、『冊府元亀』外臣部・継襲二では「渤海靺鞨」とあり、『冊府元亀』帝王部・来遠、外臣部・褒異、七一八年二月では「靺鞨渤海郡王大祚栄」と記録されていること、『新唐書』も大祚栄を高句麗に付属した粟末靺鞨人とみており、新旧両唐書ともに大祚栄の政治・文化的所属を高句麗に隷属した靺鞨人と記録していることなど、唐は大祚栄及び渤海を靺鞨諸族のなかの一つの大種族とみていたこと、大祚栄を靺鞨人とみるのは中国史料だけでなく、897年に渤海の席次を新羅よりも上位にして欲しいと唐に要請したのに対し、唐はこれを却下し、旧来のごとくせよと命じたことに関して新羅の崔致遠が作成し、新羅王(孝恭王)から唐へ贈られた国書の『謝不許北国居上表』も大祚栄を高句麗の内部に移住した粟末靺鞨と主張していることなどを理由に「崔致遠がこの上表文のなかで粟末靺鞨族の者とみなすことで、渤海は唐の文化に遅れて浸透した、いわば文化度が低いと主張していることを差し引いても、おそらくこれらの記録の言うように、渤海王家の大氏は靺鞨族のなかでも粟末部の出自であろう」と述べており、「建国は靺鞨諸族を統治していた高句麗の滅亡に始まる。建国の運動は粟末靺鞨の首領のひとり乞乞仲象とその子の大祚栄を中心とした勢力」「高句麗の末期、その中央部にあって高句麗に付属していた粟末靺鞨族の有力な部族の首領(舎利)であった乞乞仲象」「粟末靺鞨族は首領の乞乞仲象と乞四比羽らに率いられ」と述べている。 田島公 田島公は、「渤海は、靺鞨人といわれる大祚栄を中心に、高句麗の滅亡後、遼東地方に強制移住させられていたその遺民が契丹族の反乱に乗じて東走し、現在の中国吉林省を中心に自立して、六九八年に震国王と称したことに始まる」「東北アジアの歴史からみた渤海国の性格については解釈が分かれるところで、渤海は高句麗の継承国であり、朝鮮半島は新羅に統一されていたのではなく、新羅と渤海とに南北に分かれていたと考える説、渤海を中国の一地方政権とみなす説、ツングース系の部族が初めてつくった国家とする説、などがある。建国の中心になった民族集団についても議論があり、最新の研究では高句麗の支配下にあった靺鞨族が中心であると考えられている」と述べている。 田中俊明 田中俊明は、「渤海は698年に靺鞨族の大祚栄が建国し、926年に契丹によって滅ぼされます」「唐の営州に移されていた粟末靺鞨のひとたちが唐の内紛に乗じてもとの本拠地に逃げて震国を建てます。大祚栄が中心で、その地は現在の吉林省敦化を考えられますが、異論もあります」と述べている。 田村晃一 一般的に葬祭文化において保守性が最も強くあらわれる。渤海考古学者の田村晃一は、「渤海の起源について、大祚栄が高句麗の別種であるとする『旧唐書』の説と、粟末靺鞨であるとする『新唐書』の説があって、それ以来現在までこの両説の対立はなくならない。考古学には『文字のないところ、墓が歴史を語る』という言葉がある。墓はその墓の被葬者あるいは造営者の属する種族の歴史的伝統を反映するものであり、同時にその時代性をもよく反映する。また、階級社会であれば、階級制をも反映する。この意味で、墓制の研究は種族問題を考える手がかりになる。…王のそのものの墓はいったいどんなものであったろうか。王の属した種族を考えるにはどうしてもこの点を明らかにしなければならない」として、以下のように主張している。 1933年から1934年にかけておこなわれた東亜考古学会による上京龍泉府跡の調査の際、その北西数キロにある「三霊屯」所在の石室墓が調査され、石室はきれいに加工された切石で築かれ、天井は平屋根形であった。内部の発掘は実施せず、古墳周囲の地表面に散在している瓦から、渤海時代のものとした。 1949年に中華人民共和国吉林省敦化市の南方の六頂山古墓群の中腹で貞恵公主墓が発見され、石製の墓誌が出土し、墓誌には「貞恵公主墓□□序」という一文が書かれており、「公主者我 大興宝暦孝感□□□法大王之第二女也 宝暦四年夏四月十四日乙未□□外第 春秋四十諡曰貞恵公主宝暦七年冬十一月廿四甲申陪葬於珍陵之西原」という紀年に関連する一句がある。注目されるのは「珍陵」であり、陵とは王の墓を指す言葉である。貞恵公主墓が発見された当初は、「珍陵」は大欽茂の墓とみられていたが、現在では大武芸の墓であろうとされ、王承礼(吉林省博物館(英語版)館長)は、貞恵公主墓の東にある六号墓を「珍陵」と指摘している。これに対して田村晃一は、「妥当であろう」とする。しかし、六号墓の天井の構造は不明であるから、種族問題に直接的な解答を与えるものではない。 一方、「三霊屯」における最近の調査結果は、渤海の王陵研究に新しい視角を与えるものとして注目される。「三霊屯」所在の石室墓の背後に、新たに二基の古墳があることがわかり、「三霊屯」が三基の古墳からなる陵園であることが判明し、現在では「三陵屯」と改称している。大武芸の墓とみられる六頂山古墓群の六号墓は封土の大きさが直径22mに達し、墓室は切石でつくられており、「三陵屯」の石室墓が切石を使用していること、「三陵屯」の石室墓の古墳の直径が25mくらいであることなど形状・形質の共通点をみると、六頂山古墓群の六号墓が大武芸の墓であったとしても、おかしくはない。 以上から、田村晃一は「(「三陵屯」の)二号墳については、石室が切石で構築され、天井が(高句麗で好まれた)三角持送り法で築かれていること、石室の壁面に女性人物像が描かれていること、人骨や歯牙が多数発見され、児童が多いことなどが明らかにされている。これらのことから、この古墳は王の妻妾の墓と思われ、それが高句麗的手法による墓に葬られていることなどから、王の妻妾は高句麗系であったことが推測される。そして王墓の可能性が高い(「三陵屯」の)石室墓が平天井であったことは、王がむしろ高句麗系ではない可能性が強いことなどを暗示するものといわざるを得ない」と述べている。 藤井一二 藤井一二は、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」が大祚栄を渤海靺鞨、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者」が渤海を粟末靺鞨とするのは『旧唐書』が大祚栄の出自、『新唐書』が渤海の領域の由来を説明しており、唐は黒水靺鞨の南の渤海郡の領域を黒水と区別した呼称であり、「渤海靺鞨」は渤海郡王が領域とする靺鞨或いは靺鞨の中の渤海郡領域とみる認識が存在しており、「渤海靺鞨」の「靺鞨」は『新唐書』の「粟末靺鞨」を指すとみるのが至当であり、粟末靺鞨を主体に建国された「震国」=「渤海郡王」領域に対して「渤海靺鞨」として表示したものであり、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者」を「渤海はもと粟末靺鞨の地であり高句麗に属した」と解釈すれば、渤海は粟末靺鞨を主体に建国され、その粟末靺鞨はかつて高句麗の支配下にあったことを意味する。『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」は「A(国)、(本)B之別種也」は、「高句麗‥夫余別種」(『後漢書』東夷伝七五・高句麗条)、「突厥者‥蓋匈奴之別種」(『周書』列伝四二異域下・突厥条)、「日本国者、倭国之別種也」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷・日本国条)、「室韋、契丹別種」(『新唐書』列伝一四四上、北狄・室韋条)のように「Aは本来、Bの別種(別の種類)」であり、それは系譜の別の種類と解釈され、「A」国の「B」国からの派生を示しており、『新唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」において高句麗の別種としたのは個人ではなく国としての渤海靺鞨と解釈され、高句麗は多様な種族を包括し構成された国であるため、高句麗建国と領域拡張過程において、貊・夫余・沃沮・拘茶・蓋馬などが包摂され、従って高句麗を同一民族・種族による国家とみるのは適当ではなく、貊・夫余・沃沮・拘茶・蓋馬などを含めて高句麗人と表記したものであり、高句麗の645年の安市城における唐との戦い、654年の契丹との戦い、655年の新羅との戦いに際して高句麗と靺鞨が連合軍を結成しており、靺鞨人の一部が高句麗領に編入されていたことは確実であり、唐から渤海郡王を冊立された段階では、渤海領には高句麗時代に北で隣接した粟末靺鞨が組み込まれており、「本高麗別種」は「渤海靺鞨はかつて高句麗を構成した一種族によって建国されたとの意味であり、また『本‥別種』は、歴史的な系譜として『‥国から分岐した一種類』(‥国の系譜を引く別の種類)として理解すべきもの」と述べている。 小嶋芳孝 小嶋芳孝は、「敦化の市街地から西南約二〇キロの大石河南岸の低平な丘陵の上には、周囲の畑地から約七〇メートルの高さに聳える独立丘陵があり、山腹に土塁がめぐっている。この山城は城山小山城と呼ばれ、乞乞仲象らが立て籠った東牟山に比定する説がある。…この遺跡を東牟山に比定することの是非はともかくとして、靺鞨山城の形式をよく残していることは旧国の問題を考える上で重要である」「震国が敦化盆地で興されたとすれば、靺鞨各族との交通の要衝という地勢が背景にあったと思われる」「旧国が牡丹江水系に置かれたという従来の説に従えば、建国時は靺鞨主導で旧国が置かれたが、唐から冊封を受け国内諸制度を整備する過程で高句麗人のノウハウを必要とした渤海は、宮都を図們江水系の顕州に遷して中京顕徳府と号した」「都城周辺の遺跡を見ると、上京の周辺では中京や東京に比べて遺跡の数が少なく、牡丹江の下流域でも川沿いの平地に地方支配の拠点となる土城が点在しているだけである。西古城や八連城の周辺に見られるような鉄や塩、米などの生産は、上京から北の世界では見ることができない。このような生活基盤の差がありながら宮都を牡丹江水系に置き、しかも長期の安定を見た背景には、渤海の社会構造が産業を基盤にしていなかった事を示唆するものである。鈴木靖民氏が先に指摘しているごとく、渤海社会は靺鞨の小部族を単位として構成されており、部族長は首領と呼ばれて支配構造に組み込まれていた」「上京龍泉府は高句麗的な産業基盤を否定し、靺鞨の伝統的な生活基盤である交易を国家の基軸としていた」と述べている。 鈴木靖民 鈴木靖民は、「粟末靺鞨の首長の乞乞仲象が、六六八年に滅んだ高句麗の遺民たちとともに、六九六年、遼東半島営州で起こった、契丹人で松漠都督の李尽忠(中国語版)・帰誠刺史の孫万栄たちの反乱に乗じて東走し、則天武后の配下の唐軍を撃退して、六九八年、吉林省敦化市に政権を立てて、振国(震国)と称した。その根拠地はと東牟山といい、のち『旧国』とも呼ばれたが、粟末の居住地であり、多分、乞乞仲象の出身地であったであろう」「大祚栄は、もと高麗(高句麗)の別種とされ(『旧唐書』渤海伝)、あるいは粟末靺鞨の高麗に属したものといわれ(『新唐書』渤海伝)、これが渤海は靺鞨人の国か否かの属族問題の議論のもととなっている。両書の伝えるところから、彼は靺鞨人であっても、彼、ないしその政権が高句麗に深い関係を有していたとみなされたことは疑いない」「中国の人たちから靺鞨と汎称された諸集団(靺鞨七部)のなかで、南部の粟末の首長、乞乞仲象が高句麗の遺民たちとともに遼東半島営州で起こった松漠都督で契丹人の李尽忠たちの唐に対する反乱に呼応して唐軍を退け、698年、牡丹江上流域の吉林省敦化市に政権を立て、振国(震国)と称した。敦化盆地は粟末靺鞨の居住地であり、乞乞仲象の出身地であろう。713年、大祚栄が唐から渤海郡王に封じられ、以後、渤海と号する。彼は乞乞仲象と同一人物か、子であろう」「靺鞨人のなかでも南部の粟末・白山などが連携して成った組織体が公的権力を形成させ、やがて東ユーラシアの構造的中心たる唐の王朝に朝貢し、その冊封を受けることにより政治的経済的文化的関係を結び、遂に国家形成を達成するに至る」「粟末の乞乞仲象と唐風の名の大祚栄は同一か父子かもしれないにせよ、ともに高麗の集団あるいはその政権に関わり深かったことを伝える点は否定できない」と述べている。 旗田巍 旗田巍は、渤海を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られており、1975年の朝鮮史研究会の例会において酒寄雅志による日本と渤海の関係史についての報告後に、「渤海史は朝鮮史でしょうか?」と漏らしたことがあり、これについて酒寄雅志は「今思えば何とも含蓄の深い一言であった」と評している。 林泰輔 林泰輔は、近代学問に接した史学者によって近代的な記述方法で書かれた最初の朝鮮歴史専門書と評される『朝鮮史』(1892年)において、「新羅の統一」という見出しを使用しており、さらにこれを補完した『朝鮮通史』(1912年)では、朝鮮史の系統を「三韓→統一新羅→高麗→李氏朝鮮」としており、渤海は朝鮮史のカテゴリから除外し、渤海は別の章に分けて論述しており、武烈王と金庾信の活躍を強調し、朝鮮半島の統一は新羅によって成されたとして、渤海を朝鮮史の体系から排除した。 那珂通世 那珂通世は、渤海を朝鮮史ではなく満州史としており、日本を渤海の宗主国と規定した。 駒井和愛 原田淑人が主宰した東亜考古学会による1933年から1934年の上京龍泉府の調査に参加した駒井和愛は、調査の目的を「一つにはわが国文化との交流を、また一つには唐代文化の片鱗をうかがうため」であり、それにもまして「靺鞨族の興した国の文化がいかにして当時の文化国たる唐朝のそれを受容していたか」をあきらかにするものであったと述べている。この駒井和愛の発言を敷衍するならば、靺鞨の興した渤海国は、「文化国」=唐の対極にある未開野蛮なものであり、しょせん唐および高句麗文化に従属する文化的植民地にすぎないという観念の発露である。 和田萃 和田萃は、渤海について、「7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された」と述べている。 鈴木俊 鈴木俊は、渤海は、ツングース系の半狩猟半農耕民の靺鞨人を統合、牡丹江の上流域に拠って独立し、唐から渤海郡王に封ぜられ、唐にならって三省六部の制を設け、十五府六十二州の地方区画や五京を定め、文字も漢字を使用し、唐制度、唐文化、唐文物を輸入した、と述べている。 小和田泰経 小和田泰経は、「新羅の神文王は、安勝を傀儡として、高句麗の遺領を支配するつもりでいたのだろう。しかし、高句麗の遺領では靺鞨の成長が著しく、698年には靺鞨の大祚栄が高句麗の遺臣と結んで唐からの自立を図り、渤海を建国し、高王として即位する。こうしたことで、唐も朝鮮を放棄せざるを得ない状況におかれるようになっていったのである」と述べている。 鈴木織恵 鈴木織恵は、大祚栄について、「渤海の初代国王。靺鞨人で姓は大。父は乞乞仲象である。高句麗滅亡後に唐の悪政に抗議して旧高句麗で反乱が起き、これに靺鞨人が呼応した。営州に強制移住させられたことに強い不満を持っていた高句麗移民は乞乞仲象の指導のもと旧高句麗領土への脱出を試みるが、その途中で乞乞仲象は唐軍に撃たれ死亡した。その後、子の大祚栄が父にかわって総指揮をとり靺鞨人と高句麗人を率いて唐軍を破り、旧高句麗の東牟山を王都として震国を建国した。大祚栄はさらに唐軍を撃退して領土を拡大し、七一三年に唐に入朝して独立を認められ、『渤海郡王』に冊封された。これ以後、国名を『渤海』とした。『靺鞨』のルーツは『旧唐書』と『新唐書』では異なる記述のため、高句麗の同種か否かとその評価については現在も論争が続いている」と指摘している。 河合敦 河合敦は、「渤海は六九八年、靺鞨人の大祚栄によって現在の中国東北部を中心に建国された振国にはじまる。最盛期には、いまのロシアと北朝鮮の一部を包括するまでに領土は拡張、中国人から『海東の盛国』とたたえられた」と述べている。 宇山卓栄 宇山卓栄は、「高句麗が唐に滅ぼされた後、満州人は満州に『渤海』を建国します。建国者は大祚栄という人物で、満州人の一派であるツングース系靺鞨族の出身で、自ら『高句麗の遺民』と称していました」「『渤海論争』、韓国の主張は通らない…一方、高句麗が唐に滅ぼされた後、満州人は渤海を698年、建国します。建国者は大祚栄という人物で、満州人の一派であるツングース系靺鞨族の出身で、『旧唐書』によると、自らを『高句麗の遺民』と称していました。靺鞨族とは女真の古い呼び名であり、女真を構成する満州人の一部族です。前段で、『高句麗論争』について述べました。この論争の延長線上に『渤海論争』というものもあります。韓国は建国者の大祚栄が『高句麗の遺民』である限り、渤海は朝鮮の歴史に属すると主張し、中国と対立しています。2006年、韓国のKBSテレビ(日本のNHKのような公営放送)は全134話にも及ぶ歴史ドラマ『大祚榮』を製作・放映し、渤海が民族独自の歴史国家であることを国民に教化しようとしました。しかし、渤海は中国の歴史に属するという捉え方が一般的です。日本の高等学校の世界史の授業でも、渤海は中国の唐王朝の節の中で扱われます。 渤海は国ではなく、唐の領土の一部と見るべきです。大祚栄が渤海を建国した当初、唐と対立し戦いましたが、その後、唐に恭順し、大祚栄は713年、唐により『渤海郡王』に封じられます。渤海は唐の『郡』とされ、大祚栄はその『郡』の王となったのです。少々、難しい言い方をすると、大祚栄は唐の羈縻政策により、自治権を与えられた現地首長という立場でした。また、大祚栄は子を人質として唐に差し出しています。渤海の『郡』としての扱いは唐の滅亡まで続きます。大祚栄が『高句麗の遺民』であったとしても、彼が自ら、中国の一部になることを最終的に選択したという事実から見れば、渤海は中国の歴史に属すると言えます」と述べている。 池内宏 池内宏は、「唐代に於いて靺鞨の諸部族を打ち固めた渤海国」「渤海国滅亡の後ち再び政治上の統一を失った靺鞨族」「粟末靺鞨の酋長大祚栄は、唐の則天武后の久視元年(A.D.700)、長白山の北方なる瑚爾喀河の上流の地に拠り、国を振と號した」「然かも乞四比羽と祚栄とは李尽忠の営州に反せし時東方に遁走したる靺鞨にして、之をしも尽忠の餘黨となすこと能はざればなり」「而して女直と渤海人とは明かに区別せらるれども、本来人種上の相違の存せしにはあらず。女直は即ち唐代の靺鞨にして、彼等を支配したる渤海人は所謂『渤海靺鞨』として亦た靺鞨人に外ならざりしなり」「然るに上にいえる如く忽汗の称が亦た華爾騰湖にも竜泉府にも適用せられしを以て之を観れば、それ等は何れも唐人の便宣的称呼にして、渤海靺鞨の土名にはあらざるべし」「女真はいうまでもなく隋唐時代の靺鞨であって、則天武后の時、もと靺鞨人であった大祚栄が渤海国を建設するに及び、其の領内に編入せられた。渤海国は半島統一以後の新羅と時代を同じくし、これと我が国との間に特別なる国際関係のあったことは周知の事実である」「渤海時代の土民であった靺鞨が、女真の名で新たに頭を擡げだした」「渤海国の風俗を叙べたる『松漠紀聞』の一条に『婦人皆悍妬、大氏興他姓相結』といえるは、靺鞨族の間に此の風習の存せしことを証するものなる」「完顔部の威力は、世祖より康宗に至る四主の間に、満州及び高麗の長城外の女直の諸部族に及びしことを知れり。実に是等の四主は、渤海国滅亡の後、始めて女直民族統一の大業を遂げたるなり」「阿骨打は彼れの挙兵の初め渤海人及び係遼籍女直を招諭し、渤海人に対しては『女直・渤海本同一家』といいて其の来帰を促せりという。渤海国の大氏と生女直の完顔氏とは其の祖を同じくせざること勿論なれども、渤海人と女直とは共に古への靺鞨にして、元と同一種族なれば、一時の方便としては亦た斯くいうを得べし」「女真民族の間に於いて、渤海国は思想上容易く滅びざるなり。完顔氏の始祖の兄を隣境の大国たる高麗に留まれりとなしたる祖宗実録の編者が、渤海の古都の附近を其の弟の徒住地に擬せしは、即ちこれが為めならずんばあらず」と述べている。 今西龍 今西龍は朝鮮史編修会の1930年8月22日に開かれた第4回委員会の席上、「朝鮮史の起源と密接な関係がある民族」を広く編纂するようにとの希望を述べた崔南善に対して、「渤海も朝鮮史に関係のない限りは省きます」と返答している。今西龍は、論文「檀君考」のなかで、檀君は本来扶余・ 高句麗・ 満州・蒙古などのツングース族のうちの扶余族の神人であり、元来韓民族の神ではないと述べる。すなわち韓民族の神は天より降り、浄地よりでるものであって檀君王倹のように帝釈桓因の子桓雄と熊女の間に生まれた子とするような人獣交媾によることはなく、檀君神話はツングース系の高句麗の伝説であるとする。その上、大倧教の檀君の制誥とする「三一檀誥」のなかに、大興三年の跋や天統一七年三月三日、盤安郡王野勃(大祚栄の弟)の奉勅の序、任雅相(大武芸の舅)の奉勅註解などを載せているが、「大興は渤海大欽茂の年号なれども、(中略)みな烏有のものにして、実に怪訝を極めたるものという可し」として、渤海にかかわる年号・人物にたいして不信感を示しており、ツングース族の渤海は朝鮮の歴史にかかわりのあるものをのぞいて、史料の蒐集を否定した。 矢野仁一 戦前に刊行された朝鮮通史である矢野仁一と稲葉岩吉の共著である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』(1935年)では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない。 橋本増吉 橋本増吉は、「(『旧唐書』靺鞨伝)この文は隋唐時代の靺鞨全体のことを書いた筈であるが、実は当時最も強かった黒水靺鞨の事が主になっていると思われる。これらの記事によっても隋唐時代の(渤海国)建国前の靺鞨人は未だ原始的な生活をなし、文字もなければ、文化といわれるほどのものもなく、遊牧や漁撈等の生業を営み、冬は穴居生活をなしていたことが察せられる」「粟末靺鞨は唐代に渤海国を興し、尤も強しといわれた黒水靺鞨は後に女真と呼ばれ、金という大国を建てたのである」「渤海国を建てた粟末靺鞨のことは、前の旧唐書の渤海靺鞨伝があるから、これを左に引用してその建国の次第を明かにしよう。…次にその内容について吟味して見よう。前文に渤海の建国者『大祚栄は高麗の別種』とあり、新唐書には『渤海は本と粟末靺鞨』としてある。これは思うにその人民は粟末靺鞨で、大祚栄その人は高句麗の別種という意味であって、高句麗も半分は満洲族であるから、その別種といえば、事実上靺鞨と同様のものであったであろう」と述べている。 浦野起央 浦野起央は、「渤海は、698年から926年にかけ、中国東北から朝鮮半島北部、そしてロシアの沿海地方にかけて存在した国家で、唐、新羅、日本間の通行の要所であった。『新唐書』によれば、本来、粟末靺鞨で、高句麗に従っていた。渤海は、遼東半島と山東半島の内側にあって、現在、黄河が注ぎ込む湾状の海域を指す名称である。初代国王大祚栄が河北省渤海郡の郡王に任ぜられたことで、その国の国号となった。690年即位の武則天は遼寧に強制移住させられていた契丹の暴動に乗じて、粟末靺鞨人が高句麗の残党とともに、高句麗の故地に進出し、東牟山に震国を樹立し、713年大祚栄が唐に入朝し、渤海郡王に冊封され、その後、同国は、著しい軍事膨張を続けた」と述べている。 津田左右吉 津田左右吉は、「祚栄が営州を脱し契丹に入り、かくて遠く東方に来れるは何等かの縁故が其の地方にありし故なるべし。此の地方は『勿吉考』の終に述べしが如く隋書に所謂白山部なるべく思はるるが、祚栄が太白山の東北に来りて居城を築きしは此の地方が彼の故郷なるが故にして、彼は白山部の靺鞨なるにはあらざるか。こはもとより一片の想像に過ぎざるも、上に述べしが如く白山部の靺鞨が高麗の滅亡と共に唐に入れりとせられ、而して唐はかかる夷民を営州に置くが慣例なりしより見れば、初め高麗に属し、後に営州に住せし祚栄を以て白山部の靺鞨なりとするは故なきにあらざるなり。彼が靺鞨にして高麗人ならざるは、高句麗の遺民の営州に置かれしこと無きにても推知せらる。旧唐書に『高麗別種』といへるは、高麗に役隷し其の滅亡と共に唐に降りしものなるが故にして、従ってまた其の白山部に属せしを暗示するものの如し。(『別種』の語は支那の史籍に於いて塞外民族の由来を説くに当り慣用せらるる語法にして杜撰なるもの多ければ必ずしも之に拘泥するを得ずと雖も、かく解すれば極めて恰好の説明たるなり。また新唐書渤海伝には『渤海本粟末靺鞨、附高麗者』とあれど果して信ずべしや否や疑なき能はず。なお同伝には舎利乞乞仲象とあるが、地理志なる安東都護府の属州に舎利州ありてそが靺鞨の部落名なるが如く思はるれば、乞乞仲象の故郷は此の舎利州ならんかとも推せらるれど確信し難く、且つ舎利州の位置も知る能はず)」「而して旧唐書に『白山部素附於高麗、因收平壤後、部眾多入於中國』と見え、新唐書にも同じ記事あれば、概ね高句麗に隷属せしなるべく、此の関係は隋代もしくは魏代よりして既に然りしならんか。されば隋・唐の高句麗戦役に当りて麗軍に参加せし靺鞨の多数は此の部のものなりしに似たり」として、「靺鞨人たる祚栄」と記している。 新野直吉 新野直吉は、「渤海というのは、ツングース系の靺鞨族が建てた国です。かつて渤海国が支配していたナホトカヘ行って、日本人と同じモンゴロイドであるアジア人を探したがほとんどいないんです」「渤海の建国は日本の和銅年間、ちょうど出羽国が生まれた時代です。その前は震という国で、これは藤原京の時代です。靺鞨の大祚栄という人物が国をおこしました。範囲は吉林省、黒竜江省と沿海州で、サハリンは入っていません」「(渤海の国の人たちは、人種的には) ツングース系の靺鞨族といわれている北方アジア人です。農耕民族ではなく、狩猟民です。一方、沿岸部にいる人々は漁民です」と述べている。 原田淑人 1933年4月の外務省記録によると、原田淑人は「渤海国ハ純然タル満州民族ノ建国ニ係ルモノニシテ、而モ史上事跡ノ明瞭ナラザルモノ多キヲ以テ、三カ年ヲ期シテ満州各地ニ亙リ、ソノ遺跡タル都城址ヲ調査致度」と東京城の調査を計画した。『やまと新聞』は、「既に文華咲き乱れ 隣邦に一頭地を抜いた満州国の前身 渤海の話 日・渤の親善は古く 使節を受くる事三十五回 千二百年の昔」のような見だしで東京城の発掘成果を報じ、原田淑人は「二百有余年に亙る此彼両国従来の内に渤海人で我国に帰化する者も多く、我国人が渤海に帰化した者も少なくなかった。従って日満両国人の血は千二百年の昔から繋がっていたので、今更日満親善を事新しく説立てるなど寧ろおかしい位にも思われる」との談話をよせている。 齋藤甚兵衛 齋藤甚兵衛は、「日本道と称せられた竜原府を経由して往来したと称されるにつけても、其の遺蹟と考察された半拉城は日満両国にとって貴重なる遺蹟と云えよう」「最後の使節であった裴頲が、醍醐天皇の延長八年悲壮なる決意を以て来朝し、其の回復を謀ったと思惟される史実を回想し、千載後、露国其の満州侵略を返撃し、其の独立を援助指導し、渤海の系統をひかせらる皇帝を上に戴き五族協和の王道満州帝国は建国早くも十周年を迎えて其の洋々たる繁栄は近世史上の偉観とも称すべく、更に日満華三国同盟の締結によって真の三国の旧交が復活されたことは蓋し歴史的必然の勢であったと云えよう」と述べている。 藤田豊八 藤田豊八は、「そのころ滿洲には渤海といふ大國がありましたが、太祖はつひにこれを攻め亡してしまひました。こゝにこの渤海の話をいたします。滿洲の東北部に靺鞨といふ種族がありました。それには七部ありましたが、その中粟末水すなはち松花江畔に據つた粟末靺鞨がもっとも勢力を得、それに大祚榮といふ人が出て國を建てました。後唐から渤海郡王に封ぜられたので渤海をもつて國號と定めました。この國がさかんに唐と交通し、その文化の輸入につとめたことは前に申したとほりであります。…宋が、國運振はぬながらも、北方の遼、西北方の西夏と相對してゐる間に、また北方に一つの別な勢力が現れてまゐりました。それが女眞です。滿洲に據つた靺鞨の話は、前に渤海の所で申しました。その七つの部の内、黒水すなはち今の黒龍江のほとりにゐた靺鞨を黒水靺鞨と申しますが、その部の内に女眞といふ部がありました。この女眞部は初めは渤海に從ひ、後遼の興るに及んで遼に屬してゐました。ところが阿骨打といふものが出て、たま/\遼の國威の衰へたのに乘じてこれに叛き、女眞諸部を一統して皇帝となり、國を金と稱しました」と述べている。 吉田東伍 日清戦争勃発前年の1893年12月に出版された吉田東伍が著した『日韓古史断』は、渤海を第五編第五章の高麗の項であつかい、「粟末部大部人乞乞仲象太白山に走り壁を樹て奥婁を阻む子祚栄を帥ひ東牟山を保ち靺鞨乞四比羽の衆を併せ、十余万人、遂に桂婁の故地に拠り唐の辺兵を破り自立して王と為り、国は震と号し」たと述べており、渤海建国者を粟末靺鞨の祚栄としている。 山田信夫 山田信夫は、「いくつもの大部族にわかれていた靺鞨のうち、とくに有名な7部族は靺鞨七部とよばれた。そのうち、先進的だった南部の粟末部と白山部とは高句麗に服属したが、その他はそれに対立していた。7世紀後半、唐に攻められ高句麗が滅亡すると、その旧領の南部は新羅に、遼東方面は唐に入ったが、北方の大部分は放置されていた。698年、靺鞨系高句麗人の大祚栄が、そこに震国を建てた。713年には唐もそれを承認し、彼を渤海郡王に封じたので、この国は渤海とよばれるようになった。…遼の阿保機は、渤海の故地を直轄領とはせず、東丹国をたてて長子に支配させたが、やがて放棄した。その頃から旧渤海の住民はジュルチン(Jurchin 女真)、ジュルチ(Jurchi 女直)とよばれた」と述べている。 宮脇淳子 宮脇淳子は、「六九八年から九二六年まで、のちの満洲南東部から朝鮮半島北部を領域とした渤海国の、一般の国民は靺鞨人で、支配層は、靺鞨系をふくめて高句麗の遺民だった。唐は六六八年に高句麗をほろぼすと、平壌に安東都護府を置いて、高句麗の旧領土を支配しようとした。また、唐に抵抗した高句麗人数万人とこれにこれに協力した靺鞨人を、営州に強制移住させた。…渤海の支配層は中国的教養を身につけ、仏教を信仰し、唐に多数の留学生を送り、国書は漢文で書いた」「698年に現在の中国吉林省延辺朝鮮族自治州の敦化において震国を建てます。やがて唐もその勢力を認めざるを得なくなり、713年に唐の皇帝・玄宗は大祚栄を渤海郡王にして冊封体制に組み込みました。実際の渤海郡は別の地域にあるのですが、日本でいえば○○守のような称号で、これが渤海という国名の由来になっています。…『大祚榮』というドラマは、渤海も韓国人が建国した国だと主張するためにつくられたドラマですが、高句麗末期の宰相・淵蓋蘇文など実在の人物を配しながらも、やはり荒唐無稽なドラマに仕上がっていました。歴史上の人物の名前を使ってフィクションを史実にすり替えるのは、韓流歴史ドラマの得意技です。特にドラマ内では、盛んに大祚栄と高句麗との関係の深さを強調していて、例えば大祚栄の父親が高句麗の将軍だったり、大祚栄が淵蓋蘇文と親しかったりしていましたが、もちろんそのような史実はありません。韓国としては、渤海が自国の歴史の一部であると主張するためには、高句麗と密接な関係があったかのように、脚本では様々な『工夫』が必要になるのです。もっとも、高句麗自体が古朝鮮という架空国家の存在を前提にした『朝鮮民族の国』ですから、いくら高句麗に関連付けたところで、渤海が韓国人によって建てられた国であるという証明にはなりません。そもそも、渤海国の国民の多くは靺鞨人であって、支配層が靺鞨系を含む高句麗の遺民だったというだけの話です。さらに、大祚栄という人物自体、渤海建国以前のプロフィールは全くといってよいほどわかってません。『旧唐書』や『新唐書』によれば、大祚栄自身が高句麗系靺鞨人、あるいは靺鞨人そのものであるとも記されています。にもかかわらず韓国では、渤海と統一新羅を『朝鮮の南北朝時代』などと学校で教えています。もちろん渤海の建国と統一新羅とは何ら関連はないですし、当然ながら韓国とも何の関係もありません。シナ王朝が冊封した国は全てシナの地方政権だというような中国の主張もどうかと思いますが、韓国の言う南北朝時代というのも史実には当てはまらないのです。…韓国の理屈としては、仮に靺鞨人だろうと何だろうと、高句麗に住んでいたからには靺鞨系高句麗人だということになるのかもしれません。ただし、そもそも高句麗が韓国史に属するかどうかにも異論があるわけで、それは置いておくとしても、その論理だと、日本統治時代の朝鮮半島の人間は朝鮮系日本人だったわけだから、韓国は日本人が建国したってことになりますけど、それでいいですか、と言わなければなりません。国民国家史観というのはかくももろいもので、現実の歴史は必ずしも韓国人の望むようなものではないのです。それは誇大妄想的な歴史ドラマをいくらつくろうとも変わることはありません」と述べている。 和田清 和田清は、『旧唐書』と『新唐書』の渤海に関する史料的価値は「旧唐書の価値は新唐書のそれよりも遥に低いようである」と評しており、『旧唐書』の記事は冊府元亀の記事と一致しているが、唐との交渉の一面だけでありそれ以外は何も伝えておらず、しかし『新唐書』は『旧唐書』にはない『新唐書』にのみある記事が極めて多く、それは唐の遣渤海史張建章の手記『渤海国記』を利用しているためであり、「それは大抵渤海国内の内情に関することのみである。例えば、渤海内部に行われた歴代国王の諡号や年号や、何王の時どの地方が経略されたとか、もしくは国内の行政区割・官制や地方の名産のこと等がこれである。これによって始めて我々は渤海の国情の大略を察知することが出来る」として、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」は矛盾しているようにみえるが、「渤海が高句麗の余類を以て唐初の擾乱に乗じて起こったことは疑問のないことで、だからこそその日本に朝貢するや、自ら『高麗の旧居を復し、夫余の遺俗を有つ』といい、自らも高麗国王と称し、我が国でもこれを待つに高麗国王を以てした」のであるが、「しかし高麗の別種といってその同類とはいはなかった。この時高麗の遺族は遼東の安東都護府の管下にあつて遼西の朝暘(営州)に居たのは寧ろ靺鞨の余類であった。そうして渤海の国祖はその遼西の朝暘から起こったのである。そうして見れば、『新唐書』に明白に『本粟末靺鞨附高麗者』とあるのがやはり正しいのではないか」と述べており、それは『新唐書』が渤海自らの消息を伝へているとみられるためであり、この場合「両唐書の所伝は必ずしも矛盾ではない。『本粟末靺鞨附高麗者』が即ち『本高麗別種也』と解釈出来るからである」と述べている。 鳥山喜一 鳥山喜一は、『五代会要』巻三十は「渤海本号靺鞨。蓋高麗之別種也」と伝えており、これは靺鞨が発展して渤海になったことを伝えたものであり、『旧唐書』「大祚榮者、高麗別種也」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨、附高麗者姓大氏」の記事は「静かにに考えると、これは相背反し、相矛盾するものではなく」、新旧唐書はいずれも渤海が靺鞨族の国であるとしており、「『旧唐書』は大祚栄すくなくとも大氏という渤海の建設者を出した家系の説明に重点を置いたものであり、新唐書はむしろ渤海国の民族的組成面に力点をおき、支配者の家系はこれを従的に取扱ったものと見られはしまいか」として、『旧唐書』「高麗別種」から導かれる帰結は「大祚栄はもとより純粋な高句麗人ではなく、靺鞨族の出身であったが、高句麗との関係-その版籍にあったのは、その父祖にも泝るもので、そういう環境に育った人物と想定させることとなろう」と述べている。この場合、大祚栄が李尽忠の反乱に乗じて、遼西から遼河へ東走するときに、その根拠地を求めるならば、自らの故地になることは自然の情であり、大祚栄が太白山(白頭山)の東北から来て居城を築いた根拠地が元々は白山靺鞨の住地だったことから「彼の故郷なるが故にして、彼は白山部の靺鞨なるにはあらざるか」「わたくしは大祚栄はもと白山靺鞨の出身で、古く高句麗に服事していた家の出身であったと推定する」、高句麗滅亡後に白山部は粟末部の支配におかれたのではないか、『旧唐書』「高麗の別種」と『新唐書』「高麗に附せしもの」は「高句麗への服事関係が古くからあったと見ることにも関連して、白山部というものを強く押し出させることになりはしまいか」と述べている。 稲葉岩吉 稲葉岩吉は、「渤海の始祖は、乞乞仲象といった。この乞乞は、『女直』の初音であると考える。乞四比羽の乞四亦た然り、同じくChi-Chi,Chi-suで、粛慎よりの音転とみてよいものと思う。かつてわたくしは、東鑑の異体文字の頭一字を二字に分解しChi-Chi,Chu-Chuとなし、それは女直(女真)であるとしたが、新唐書が、乞四比羽にのみ靺鞨の酋としているのは当たらない、乞乞仲象も同一種人であったのである。それは、仲象の子祚栄を同じく靺鞨といっているので判る」「新唐書渤海列伝の書き出しに、『渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏』といい、他書も略は同一であるが、わたくしは、この大氏は、靺鞨の訳字であり、靺鞨大氏は、いわゆる畳言であるとする。靺鞨は、梵語のマハ(Makha、大の意)に相当し、かれら女真の種類は、巨酋をば、マハ即ち大人といった、それ故に祚栄を指してマハ祚栄と呼び、マハの部衆であるから、当時の支那人は、靺鞨々々と指称したのである。マハなる尊称の佛名よりであることは、釈教東伝の既に悠久なりしを証示し、北魏の昔にも遡り得べく、渤海では、遂に君主を可毒夫といった、可毒夫はクトクトの対音で、蒙古の呼図克図(中国語版)のごとし。かくて多くの寺院関係の遺物の、東京古城より見出されるのは、毫も怪むに当たらない。かの清の太祖ヌルハチを、朝鮮で、建州衛馬法大人と認めたということなどを思い合わせると、一層興味があろう。故に、わたくしは、大祚栄は、女真人の巨酋であって、この巨酋を中心として渤海国は成立したものと考える」「旧唐書を見ると、『大祚榮者、本高麗別種』とし、新書は、『渤海本粟末靺鞨附高麗者』とし、五代会要また同一の文字を掲げ、記事は、不一致ながら、建国者の出自に、高句麗の色彩の附著していることは、注意すべきである。つまり、唐の勢力のいかようがであるかを體認した長白山以東の種人即ち女直の大人たちは、叛旗を上げ、之に高麗の亡人が馳せ加わったという姿である」「渤海の主権者及び支配階級は、松花黒龍両江の女直人をもって占めていたらしいが、その文化は、幾分、高麗人に占められていた」と述べている。 日野開三郎 日野開三郎は、「当時粟末・白山等の濊貊系靺鞨と奥地の高句麗遺衆とを統合していた渤海国」「渤海は節度使発展期たる開元天宝時代を通じて渤海靺鞨と呼ばれ、純通古斯系の上述靺鞨と対立する一団の靺鞨勢力として扱われ、且つ最も有力な代表的靺鞨と見なされていた。単に靺鞨と称して渤海国を指している事例はすこぶる多い」「白山靺鞨は粟末靺鞨(北流松花江本支流域に居住)とともに高句麗に征服さられ、久しくその直轄領民として協力し来った同種族人である。ところで新唐書巻二一九渤海伝には渤海本粟末靺鞨。附高麗者。姓大氏。云々。とあり、旧唐書巻一九九渤海伝にも渤海靺鞨大祚榮者。本高麗別種也。高麗既滅。祚榮率家屬徙居營州。とあるによれば粟末靺鞨人もまた駆遷せられ、営州に置かれていたものの如く解せられる」「『高麗別種』とは高句麗人化していた粟末靺鞨人を現した語と思われる」「靺鞨国或いはその略称としての靺鞨は、渤海国またはその前身たる震(振)国を指す」「ところで粟末・白山両靺鞨の裔に一部の高句麗遺民が加わって震国を建てると、その国勢は遽に強大となって靺鞨中の最強勢力に発展した。やがてこの国の王は唐から渤海郡王に封ぜられ、よってこの国は中国人に渤海靺鞨と呼ばれた。震→渤海は満州通古斯系諸族、即ち靺鞨諸族の間に懸絶した実力を有して覇を称えていたため、単に靺鞨といえば諸靺鞨の代表的勢力たるこの国を指し、この国はまた単に靺鞨と呼ばれていた。但し他の靺鞨と混同する恐れのある場合、或いは峻別する必要のある場合は渤海靺鞨と呼ばれていた。そしてやがて靺鞨の名を棄てて、もっぱら渤海と称せられるようになるのであるが、それは渤海靺鞨に対立していた他の諸靺鞨を征服して渤海国民に編入統一して終わったからである」「聖暦二年に先立つこと三年、万歳通天元年に勃発した営州の契丹人李尽忠・孫万栄等の叛乱を機として営州の城傍に居た靺鞨人大祚栄は満州に逃入し、粟末・白山両靺鞨と高句麗人とを糾合して大震国を建てた」「靺鞨(震国)」「(『通典』巻一八六にある「靺鞨暇遐方。更為鶏肋。」の一句は)この靺鞨とは靺鞨諸族全体と見るよりも、大祚栄の勢力を指しているものと解すべき」「大震国、即ち後の渤海国を建て、またその支配層を構成したのは高句麗人と粟末・白山両靺鞨であった」「震国が出現して靺鞨諸族を代表する強大な勢力となり、さらに名を渤海国と改めて他の靺鞨諸族に懸絶した発展を遂げると、靺鞨には従来の総名としての用法のほかに、この新興勢力たる震→渤海を特定的に指す用法をも生ずることとなった」「渤海はこの両地区の高句麗人と粟末・白山両靺鞨人とが一体となって建国し、後に北方の純通古斯系靺鞨諸族をも併合して国勢を張ったものである。王家は粟末靺鞨出身の大氏、これに次ぐ国の右姓は高氏であった。粟末・白山両靺鞨は高句麗人と同血・同語の同種族(濊貊種)であり、久しく高句麗に服していたのが今や渤海国民として一体となり、かくて次第に相混融して渤海人に帰一して行った。渤海王家は粟末の出身であったが、国の指導階級として最も勢力を有していたのは高句麗の王族高氏を中心とする高句麗系渤海人であった」「唐の則天武后の万歳通天中、営州城傍の契丹人が乱を作し営州を占領すると、そこにいた高句麗人・粟末靺鞨人の各集団はそれぞれ酋長に率いられて同族の住む満州奥地に遁入した。この時、粟末靺鞨人を率いていた酋長が大祚栄で、彼はやがて高句麗人集団をも収め、今の敦化附近と推測せられる地に拠って建国し、国号を震と称した」「唐人は渤海人をこれら諸靺鞨と対置して渤海靺鞨と呼んだ。隋以来、中国人は高句麗人以外の在満純通古斯系諸族をすべて某靺鞨と呼んで来たので、渤海人をも他の靺鞨と対置して渤海靺鞨とと呼んだものと思われる。かくて渤海人は渤海靺鞨と呼ばれたが、その内容はかつての粟末、白山両靺鞨と高句麗人とより成っていたのである」「渤海の始祖大祚栄及びその一党は粟末靺鞨人であるが、遼東に入ってそこに住みつき、高句麗に協従して活躍しつつ著しく高句麗人化していたものと解せられ、それが唐の営州に連れ去られ、後に脱走して敦化地区に逃入し、そこで建国したものである」「小高句麗国の王家高氏は大高句麗以来の王統で、渤海国の王家たる夫余系粟末靺鞨出身の大氏にとってもとの主筋の家柄」「小高句麗の王室高氏は大高句麗以来の高氏の嫡統であったのに対し、渤海の王室大氏はかつての大高句麗の隷民粟末靺鞨の出身」「渤海の始祖大祚栄は、旧唐書巻一九九渤海伝に『本高麗別種也』とあり、新唐書巻二一九渤海伝に『本粟末靺鞨附高麗者』とある如く、永らく高句麗に投じて高句麗人化していた粟末靺鞨の出身であった」「渤海の始祖大祚栄は粟末靺鞨の出身であり、またこの国を建国し支持した民族は濊貊系たる粟末・白山の両靺鞨と高句麗人とであったが、その主力をなし大多数を占めていたのは粟末・白山の両靺鞨であった。従って彼等が合体して渤海国なる一勢力を構成した際、これが靺鞨族の集団として渤海靺鞨と呼ばれたことになんら不思議はない」「渤海が小高句麗を抹殺して名実ともにその本土としなかった理由は判らないが、小高句麗の王家高氏は粟末出身の渤海王家大氏にとって旧の主筋に当たり、この渤海国の内部においても高氏が一大巨姓として支配層の中に大きな力を占めていたことがその重要な一因であったのではないかと思われる」と述べている。 田中聡 田中聡は、「その時期には、もっと南方においては渤海という国ができます。『隋書』の「靺鞨伝」に出てきた粟末部、粟末靺鞨といわれる集団を主要勢力として建国された国ということになるんですね。だからこれらの史料を比較することによって、この地域において靺鞨と呼ばれる非常に多様な人々の含まれている集団が、どんなふうに移動したり変化しているのかということを考えることができるというのが、その主張の重要な点なわけです。…靺鞨の諸部はもともと7つぐらいに分かれ、それぞれが大河の水域を支配するかなり大きな勢力で、文化的にはツングース系とアジア系が両方混じっているといわれるんですが、渤海が建国することによって分断されます。特に南部の方にいた諸部は、渤海という国を造る主体になっていくわけですけれども、それができてしまうと、今度はもっと東や北の方にいた諸部が、渤海に阻まれてなかなか中国、唐の国に対して使いを派遣することができない状況になってくる。拂涅とか虞婁、越喜、それから鉄利といった集団は、これは時々中国と通ずることがある」「おそらくそれは、この時期に高句麗という朝鮮の北部を支配していた国が滅び、渤海という国ができて、中国東北地方に対する強い支配を確立するということで、隋代までの靺鞨の七部といわれる諸部が再編される」と述べている。 小川裕人 『旧唐書』「渤海靺鞨大祚栄者,高麗別種也」、『唐会要』巻九六渤海「渤海渤海靺鞨,本高麗別種,後徙居營州,其王姓大氏,名祚榮,先天中封渤海郡王,子武藝」、『五代会要(中国語版)』巻三十「渤海本號靺鞨,蓋高麗之別種也」とある。『新五代史』四夷附録はこれに従い、『宋会要(中国語版)』も「渤海本高麗之別種」とし、『宋史』もこれに従っているが、『旧唐書』は後晋時代に成り、『唐会要』は宋初に成り、『五代会要(中国語版)』『新五代史』は宋代に成り、『唐会要』は唐代に一部が編纂されたが(徳宗時に蘇冕が四十巻を編纂、武宗時に崔鉉が続四十巻を編纂、建隆時に王溥が百巻を成した)、『唐会要』の渤海本文は貞元八年閏十二月からはじまっているため、この部分は崔鉉が徳宗貞元年間以後の記事を集めて成したものとみられる。蘇冕の書に渤海はなく、『唐会要』渤海序も蘇冕によるものではなく、崔鉉あるいは王溥によるものである。したがって中国において大祚栄を「高麗別種」としたのは唐末以後である。 日本の遣唐使は安全のため、渤海経由で中国に往復することが多かったことから、日本の遣唐使の渤海に対する知識が中国にもたらされ、その知識が中国において指導的地位を占めたことが推測される。中国人が渤海を「高麗別種」とみるようになったのは、日本の遣唐使が渤海経由で中国に行くようになって以後である。 『旧唐書』『唐会要』における編纂の序ではなく、当時の名称を正確に伝えていると推測される『冊府元亀』は、高句麗と渤海は明らか区別されており、渤海は「靺鞨」あるいは「渤海」としている。当時、大祚栄を冊封するために唐から渤海に派遣された冊封使崔忻の使命は「勅持節宣労靺鞨使鴻臚卿崔忻」としており、当時の唐人が渤海を靺鞨と称していたことは確実である。 『唐書』渤海伝は「睿宗先天二年,遣郎將崔訢往冊拜祚榮爲左驍衛員外大將軍,渤海郡王,仍以其所統爲忽汗州,加授忽汗州都督」とし、続いて「自是始去靺鞨號,専称渤海」とあり、『文献通考』および『三国遺事』が引用する通典もこれを記している。これについて、渤海は唐よりの封號「渤海郡王」と称して、靺鞨を附称しなかったことは、神亀四年にはじめて通交した時の日本史料にもみられることから明らかであり、渤海人は先天二年に「渤海郡王」に封ぜられた頃以後は、単に「渤海」と號して「靺鞨」とはしておらず、開元年間に至るまで靺鞨と称したのは渤海人ではなく唐人とみられる。『冊府元亀』巻九七の朝貢開元九年十一月條に「渤海郡靺鞨大首領,鉄利大首領,拂涅大首領,契丹蕃郎将倶来朝,並拜折衝,放還蕃」とあり、来朝した渤海を靺鞨としておらず、「渤海郡靺鞨」と記している。『冊府元亀』巻九七・朝貢開元十年十一月條に「渤海遺其大臣味勅計来朝,並献鷹」、『冊府元亀』巻九七・朝貢開元十二年二月條に「渤海靺鞨遣其臣加作慶」、『冊府元亀』巻九七・朝貢開元十三年正月條に「渤海遣大首領烏借芝蒙」とあり、『冊府元亀』巻九七・朝貢開元十四年に再度「渤海靺鞨」とするが、天宝以後は大体は渤海とのみ記しており、「靺鞨」を附したものはほとんどなく、以上から、唐人は渤海を最初は「靺鞨」と称したが、その後、「渤海郡靺鞨」、そして「靺鞨」または「渤海」と呼ぶに至っている。 『冊府元亀』巻九七一開元二年二月條に「是月拂涅靺鞨首領失異蒙,越喜大首領烏施可蒙,鉄利部落大首領闥許離等来朝」とあり、払涅靺鞨、鉄利靺鞨、越喜靺鞨などの靺鞨諸族の朝貢は、開元二年二月がはじめであり、その後は開元年間にしばしば来朝している。開元元年頃に渤海に附していた「靺鞨」の称は、払涅靺鞨、鉄利靺鞨、越喜靺鞨などの靺鞨諸族が来朝した開元二年以後はないため、唐人の渤海に対する名称変遷はこれらの靺鞨諸族の来朝と関係している。唐人はこれらの靺鞨諸族と渤海とを区別する必要性から「渤海郡靺鞨」と記し、次いで「渤海」あるいは「渤海靺鞨」と称するに至ったとみられる。また『冊府元亀』巻九七四・褒異開元七年六月條に「靺鞨渤海郡王大祚栄卒」とあり、『冊府元亀』巻九七一・朝貢開元九年十一月條に「渤海郡靺鞨大首領」とあるのは、名称変遷の過渡をなすものとみられる。 『新唐書』は粟末靺鞨を高句麗に隷属していたものとしており、『文献通考』も同様であるが、『新唐書』『文献通考』に根拠がないとは考えられないため、粟末靺鞨は高句麗のなかに在ったと推測され、大祚栄の建国の地は白山靺鞨の故地である。『旧唐書』に「靺鞨之衆及高麗餘燼,稍稍歸之」「祚榮驍勇善用兵,靺鞨之衆及高麗餘燼,稍稍歸之」とあるように、大祚栄の部下に高句麗遺衆がいたことは疑いはないが、これが「靺鞨」と称されていたことを鑑みると、靺鞨諸族が主要分子であったとみるのが妥当である。 靺鞨は唐に服していただけでなく、高句麗にも服しており、高句麗軍の主要部として、唐に抗していたことが『唐史』に記されている。したがって、高句麗と靺鞨は対唐関係は同様であることから、渤海が高句麗人であるならば、唐に対して靺鞨と偽称することに利益はない。『冊府元亀』巻九六四に「玄宗先天二年二月拜高麗大首領高定伝為特進,是月封靺鞨大祚栄為渤海郡王」とあり、唐は、靺鞨大祚栄と同じように、高句麗人である高定伝に対しても「特進」という称号を授与しており、大祚栄が高句麗人であるならば、自ら高句麗人と称しても不利益になる情勢ではなく、大祚栄が高句麗人であるのを、靺鞨人と偽称したという憶測は深入り過ぎている。 以上から、小川裕人は「渤海国建国者の主要分子が、靺鞨族であっても、少しも支障ないのである」「渤海国の治者階級は粟末・白山両靺鞨より成る所謂渤海靺鞨に高句麗の遺衆の混じったものがその主要分子を成し、之に漢人分子の幾分かが文化的指導者或は担当者として加入して居たと見られる」「隋初から靺鞨七部の中に数えられた粟末・白山両部に属するを主要分子として成った所謂渤海靺鞨に高句麗の遺衆を加えたもの」「女真系民族の政治的に活躍したのものは最初には渤海があり、次に小規模ながら烏惹・鉄利の相次いだ覇業があり、更に金・清の大国家的活動があった」「靺鞨族の武力を主動力とする渤海建国」と述べている。 新妻利久 新妻利久は、『旧唐書』に「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。萬歳通天年、契丹李盡忠反叛、祚榮與靺鞨乞四比羽各領亡命東奔、保阻以自固。盡忠既死、則天命右玉鈐衛大將軍李楷固率兵討其餘黨、先破斬乞四比羽、又度天門嶺以迫祚榮。祚榮合高麗、靺鞨之衆以拒楷固;王師大敗、楷固脱身而還。屬契丹及奚盡降突厥、道路阻絶、則天不能討、祚榮遂率其衆東保桂婁之故地、據東牟山、築城以居之。祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之。聖暦中、自立爲振國王、遣使通於突厥。其地在營州之東二千里、南與新羅相接。越熹靺鞨東北至黑水靺鞨、地方二千里、編戸十余萬、勝兵數萬人。風俗瑟高麗及契丹同、頗有文字及書記」とあり、『新唐書』は「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁之東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹。築城郭以居、高麗逋殘稍歸之。萬歳通天中、契丹盡忠殺營州都督趙文翽反、有舍利乞乞仲象者、與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走、度遼水、保太白山之東北、阻奧婁河、樹壁自固。武后封乞四比羽爲許國公、乞乞仲象爲震國公、赦其罪。比羽不受命、后詔玉鈐衛大將軍李楷固、中郎將索仇撃斬之。是時仲象已死、其子祚榮引殘痍遁去、楷固窮躡、度天門嶺。祚榮因高麗、靺鞨兵拒楷固、楷固敗還。於是契丹附突厥、王師道絶、不克討。祚榮即並比羽之衆、恃荒遠、乃建國、自號震國王」とあって『旧唐書』より詳細であり、「両書の記事によって、渤海建国の祖は大祚栄で、その民族は靺鞨と高句麗の遺民とであったことが知られる。又大祚栄父子は靺鞨一方の豪酋で、その祖は早くから高句麗に服属していたことも知られる。これが旧唐書に、『高麗之別種』と記され、新唐書に『附高麗者姓大氏』と記された所以」であり、「乞乞仲象と共に一方の首領として唐軍と戦ったが、戦利あらずして唐軍に降参し、そのために、乞四比羽及び部民の靺鞨人と共に、営州に徒されたことが知られるし、又営州に徒されて唐の監視下に置かれたことによって、靺鞨族中でも有力な豪酋であったことが推想できる」と述べている。
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