契丹との戦い
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開元21年(733年)、幽州長史、御史中丞、営州都督、河北節度副大使、河北採訪処置使になる。この頃、契丹と奚が例年、攻め込んできており、趙含章、薛楚玉といった前任者たちは防ぐことができない状態であったが、張守珪はしばしば出撃し、全て勝利におさめた。そのため、契丹の可汗・屈烈と衙官・可突干は、偽って降伏した。張守珪は、その虚偽を察し、管記右衛騎曹の王悔を派遣し、さぐらせた。契丹は本営を西北に向かわせ、突厥に使者を送り、王悔を殺そうとしていた。そこで、王悔は可突干と権力を争っていた契丹の李過折を誘い、夜間に屈烈と可突干を斬らせた。屈烈ら一党は全て殺され、残りは全て降伏した。張守珪は、屈烈と可突干の首を洛陽に送った。 開元23年(735年)、張守珪は洛陽に詣でたため、玄宗は酒宴を開き、詩賦で褒め称えた。輔国大将軍、右羽林大将軍、御史大夫が加えられる。
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