契丹と西遼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:29 UTC 版)
カラ・ハン朝は後に東西に分裂し、東カラ・ハン朝は金に敗れて西遷してきた遼の皇族耶律大石率いる契丹族によって12世紀に滅ぼされた。彼ら契丹族がトルキスタンに建てた王朝はカラ・キタイまたは西遼などと呼ばれている。カラ・キタイはさらなる勢力拡大を目指し、西トルキスタンに割拠していた西カラ・ハン朝を攻撃して服属させるとともに、その援軍として現れたセルジューク朝の軍に大勝して中央アジアでの覇権を確立した。結果、天山ウイグル王国やホラズム・シャー朝を影響下に置くこととなった。 中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。他言語話者がテュルク語に変更するにはテュルク語でイスラーム教を布教するのがもっとも効果的なのであるが、西トルキスタンでは定住民がすでにムスリムであったり、遊牧民と定住民の住み分けがなされていたり人口が多かったために東トルキスタンほど急速にテュルク化が起きなかった。西トルキスタンの場合は、ホラズム・シャー朝、カラキタイ、ティムール朝、シャイバーニー朝といった王朝のもとでゆっくりとテュルク化が進んでいった。
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