契丹の侵入から国を守る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 10:16 UTC 版)
「顕宗 (高麗王)」の記事における「契丹の侵入から国を守る」の解説
詳細は「契丹の高麗侵攻」を参照 顕宗の時代には契丹(遼)の侵入が2度あった。1度目は即位の際の政変を理由にした侵入で、開京が陥落した。しかし契丹が侵入した真の理由は、高麗と宋(北宋)の関係を断ち切り、高麗に返還した江東6州を取り戻すためだった。契丹は高麗に入朝を要求し、高麗側はこれを受け入れた。しかし契丹軍が退却した際にはこれを攻撃し、その後一度も入朝をしなかった。 契丹は1018年に10万の軍勢で再び高麗に侵攻した。この時の理由は、高麗が江東6州を返還せず、宋と結んで契丹に入朝しないことであった。高麗側は契丹の侵略を予想し、20万の兵力を動員して、姜邯賛を中心に契丹軍と戦った。1019年2月、興化鎮で契丹軍を退けたが、契丹軍の一部が開京に向けて進撃すると、契丹軍の後方を囲んでいた蕭排押は退却を決めた。契丹軍が亀州に着いた時、高麗軍は総攻撃を敢行し、姜邯賛は契丹軍を殲滅した。この戦争は『亀州大捷』と呼ばれる。 その後、高麗と契丹の国交は回復し、貿易も盛んになった。しかし高麗は1125年に契丹が滅亡するまで入朝をすることはなく、江東6州の返還にも応じなかった。
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