軽井沢 避暑地・別荘地として(文学・記録とともに)

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軽井沢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 09:05 UTC 版)

避暑地・別荘地として(文学・記録とともに)

避暑地別荘地としての軽井沢は、外国人避暑地を起源として130年以上の歴史を有しており、その長い歴史の中で国内外の数多くの人々を魅了してきた。

生涯にわたって軽井沢を愛した小説家堀辰雄は、この地を「美しい村」と表現し、当地を舞台とした同名の小説を1934年に発表した。この「美しい村」という名称は、2006年以降は町の観光ビジョンにもなっている。

気候風土

気候

軽井沢周辺の標高は1000メートル前後であり、ケッペンの気候区分(トレワーサの気候区分)によれば、亜寒帯湿潤気候湿潤大陸性気候)に属し、科学的には北欧の一部や東欧カナダなどと同じく分類される。一年のなかで最も気温が高くなる8月の平均気温は20.8℃(最高 : 26.3℃、最低 : 17.1℃)で、東京の8月の平均気温26.9℃(最高 : 31.3℃、最低 : 23.5℃)よりも6℃程度低く、快適なの気候である(数値は1991年から2020年までの期間における気象庁の統計データより)[15][16]。なお、軽井沢町としては最も古い気象記録である、物理学者カーギル・ギルストン・ノットが1891年8月に軽井沢駅を観測地点として計測した1ヶ月間の統計データでは、平均気温が21.3℃であった(比較対象の東京駅は25.7℃)[17][注 2]

この冷涼な気候は古くから心身の健康に良いとされ、「#外国人避暑地と別荘の起源」でも述べたように宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーは、この地を「屋根のない病院」と称した。またこの健康的な気候が、軽井沢の魅力として古くから第一に語られるところであり、軽井沢で行われるあらゆる余暇や文化活動の原動力になっている。

私はそういう長い散歩によって一層生き生きした呼吸をしている自分自身を見出した。それにこの土地に滞在してからまだ一週間かそこいらにしかならないけれど、この高原の初夏の気候が早くも私の肉体の上にも精神の上にも或る影響を与え出していることは否めなかった。
堀辰雄『美しい村』[19](1934年)
詩人室生犀星氏は、「軽井沢では煙草を吸うのも贅沢だ」ということを云って、この高原で吸う煙草の味のうまさを讃美していたが、清浄な凉気のなかで読む物語の味いも、下界で読むのとは、自から異っているらしい。
正宗白鳥『軽井沢にて』[20](1942年)

ただし、軽井沢の夏の気温は、確かに冷涼ではあるものの、国内の他の避暑地や欧米の亜寒帯湿潤気候、西岸海洋性気候に属する地域に比べると、平均的もしくは比較的温暖な部類に入る。真夏の晴れた昼間の時間帯(最高気温時)に直射日光が当たると汗ばむほどの体感となるのは、近年の温暖化の懸念に始まったものではなく、当時の文献でも度々言及されている[注 3]。堀辰雄は、1932年発表の軽井沢を舞台とした随筆のなかで、以下のように記している。

高原の日中はなかなか暑い。(中略)別荘の裏には大きなの林があるが、今日はあんまり暑かったので、がその木蔭から出られずに一日中啼いていたそうである。
堀辰雄『エトランジェ』(1932年)

もっとも、最高気温となる時間帯は一日のなかでも限られており、加えて後述のの影響から夏の日照時間も決して長くないため、避暑地としての魅力を損なわせることはなかった。

with its comparatively cool summer weather, its cold refreshing nights, its heavy air-clearing showers, its southern aspect, and its position close to some of the most picturesque mountain scenery of Japan, Karuizawa leaves little to be desired as a summer retreat.(その比較的涼しい夏の天候、その冷たく爽やかな夜、その空気を綺麗にする激しい雨、その南方の景観、そして日本の最も絵画的に美しい山岳風景のいくつかに近い位置にある軽井沢は、夏の隠れ家としてほぼ完璧である。)
カーギル・ギルストン・ノット『Notes on the Summer Climate of Karuizawa』[17](1891年)
霧に包まれた小径

夏季は、全体として降水量が多いほか、天気の変動が激しく、を伴った夕立が頻繁に見られる。有島武郎は「軽井沢の雷は一つの名物であり、豪快なものの一つ」とし[21]菊池寛も「軽井沢特有の雷雨」と記している[22]。また年間を通して最も特徴的なのは、霧の発生であり、碓氷峠による上昇気流の急激な気圧・温度低下によって、軽井沢一帯は1年のうち約1/3が霧に包まれる[23](特に、東の碓氷峠に近づくにつれてその影響は大きくなる)。それは程度によっては一寸先も見えないほど深くなり、かつての地元の炭焼きの老人は別荘地でしょっちゅう道に迷っていたという[24]。幻想的な風景をつくり出し、また涼気をもたらすとして、訪れる者には大きな魅力として映った。芥川龍之介は、軽井沢の霧を「仏蘭西幽霊に似ている」と表現した[25]。この霧の多い気候を活かして栽培した野菜が『霧下野菜』と名付けられ、2010年に商標登録されている[26]

こういった雨や霧の影響もあり、湿度は予想以上に高くなる。東京の年平均相対湿度が65%であるのに対し、軽井沢は80%となっている[15][16]。ただし、気温が低いために不快感をもたらすことは少ない。また湿度が高いことで、地面や日陰の石にが拡がっている様子は、軽井沢の代表的なイメージとなっている。シダ植物が自生しているのも特徴的である。

In addition to the heavier rainfall at Karuizawa there are the morning and evening mists already spoken of. Nevertheless in spite of this appearance of greater wet there is not the least doubt as to the healthiness of the place in summer.(軽井沢では降水量が多いのに加えて、朝と夕方の霧の発生については既に述べてきた通りである。それにもかかわらず、このように湿り気が強いように見えるにもかかわらず、夏の場所としての健全性については疑いの余地がない。)
カーギル・ギルストン・ノット『Notes on the Summer Climate of Karuizawa』[17](1891年)
軽井沢特有の少し湿気を帯びた、すがすがしい山の風が、部屋の中を吹き払っている。
菊池寛『貞操問答』(1934年)

は4月下旬から5月いっぱいまでで、の開花に始まり、山野草の芽吹き、そして初夏の新緑へと続く。は9月下旬から11月初旬頃までで、10月に入ると紅葉の季節を迎える。四季のなかで最も期間が長いのはであり、11月中旬から4月中旬頃まで、平均気温は10℃を下回り、樹木の落葉期が続く。ただし降雪量はさほど多くなく、年最深積雪量は毎年30cm程度である[15]。かつては冬に軽井沢を訪れる者は少なく、その寂しい様子が夏の賑やかな様子と対比されて小説などに描かれることが多かった。戦後に入り、通年型リゾートへの脱皮が図られたことで、スキー場スケートリンクなどの冬用スポーツ施設や通年営業の店舗が充実し、冬でも多くの人々が訪れるようになった。しかしそれでもなお、冬季休業の営業形態を取っている店舗は未だ少なくなく、滞在客も夏に比べると明らかに減少するため、現在でも冬の軽井沢は鄙びた寒村の一面を見せる。

動物

河川が多く、地勢植生(後述)も豊かなため、軽井沢には数多くの動物が生息し、それもまたリゾート地として大きな魅力をもたらしてきた。『日本野鳥の会』の創設者である中西悟堂は、軽井沢・星野の地を富士山裏磐梯と共に『日本三大野鳥生息地』と呼んだ[27]フランス人作曲家オリヴィエ・メシアンは、1962年に演奏会への出演のため初来日し、その際にフランスの鳥類学者の勧めで『軽井沢 野鳥の森』を訪問、それにより『7つの俳諧』の中の1曲「軽井沢の鳥たち」が誕生している[27][28]。 その『軽井沢 野鳥の森』は、1974年に、全国で初めて国設の「野鳥の森」として指定されている。旧軽井沢にある雲場池は、かつて冬場に白鳥が飛来してきたことから、外国人から"Swan Lake"(白鳥の湖)と呼ばれていた。近年では、土地開発に伴う環境破壊により、軽井沢で観察される野鳥の数は年々減少しているという報告もあり[29][注 4]、複数の団体が環境保全に努めている。『日本野鳥の会』によって、「浅間・白根・谷川」の一部を構成する地域として「重要野鳥生息地」にも選出されている。星野リゾートが設立したエコツーリズムの専門家集団『ピッキオ』の施設は、『軽井沢 野鳥の森』に隣接しており、野生動植物の保護・研究が行われている。

陸生哺乳類は豊富に生息しており、ニホンカモシカヤマネなどの天然記念物も見られる。ニホンリスは町内で比較的多く見られ、町獣に指定されている。ツキノワグマニホンザルイノシシなどは、人間に危害を加える恐れがあるため、町や『ピッキオ』らによって、日夜観察が行われている[30]。その成果は「4年間クマによる人身被害ゼロ」であり、害獣との共生を可能にしている。この「軽井沢モデル」を、新潟県の企業が評価し、導入する動きもある[31]

昆虫類は、寒冷地のため全体的に小型な傾向にあるが(逆ベルクマンの法則)、比較的豊富に見られる。初夏になると、カエルのような特徴的な鳴き声を発するエゾハルゼミが高原の夏の到来を告げる。に関しては、明治期の一部文献において、蚊が「いない」ことが軽井沢の魅力の一つとして語られていたが[32][33]、軽井沢以上に寒冷な地域でも蚊の生息は確認されていることから[34]、温暖化の影響を考慮したとしても、当時から生息していた可能性はある。現状としても、蚊は生息しているものの、寒冷地のため、他地域に比べて対策を講じる必要性は少ない。魚類としては、イワナヤマメなどのほか、希少なホトケドジョウの生存も確認されている。爬虫類両生類については、寒冷地のため観察される種類に限りがあり、注目して取り上げられる機会は少ない[35]

The botanist, the bird-lover, and the entomologist all find themselves in the happiest of hunting-grounds.(植物学者、野鳥愛好家、そして昆虫学者は皆、最も幸せなハンティング・グラウンドにいることに気付きます。)
エドワード・ビビアン・ガテンビー[注 5] 『Karuizawa and Nojiri』[37](1935年)

景観(植生)の変遷

1884年頃の軽井沢(現在の『軽井沢プリンスホテルスキー場』付近から撮影)
広大な風景が残されている南軽井沢(発地地区風越付近)

避暑地草創期であった明治時代の軽井沢は、木々が少なく、原野の占める割合が高かった。軽井沢においては昔から採草放牧地が多く、当時の牛馬飼育は、近代的な乳牛競争馬の飼育ではなく、春から秋にかけて山野に放牧し、冬季は小屋飼いといった粗放的な牛馬飼育であったため、広面積の採草地を必要とした[38]。明治10年代、川上操六は矢ヶ崎山南麓に広大な牧場を経営したほか、川田小一郎雲場池辺りの国有地を入手し、ここでも農牧場を経営した[注 6]。加えて町の南側一帯には、扇平地区や押立山の北麓を中心とした合計150ヘクタール以上の湿地と、そのほかには草原休耕田が広がっていた。1917年に大隈重信が、後述の野澤源次郎から土地を購入した際の登記簿[39]には、現在の泉の里や大隈通り付近が「原野」と表記されており、大正期まで、原野の面積は離山の麓にまで及ぶ広大なものであったことがうかがえる。採草地の伐り跡群落からは、ススキ草原への遷移が見られ[38]、湿地や休耕田からは、ハナヒョウタンボクやサクラソウなどの山野草が出現した。

この樹木のない荒涼とした平原(ムーアヒース)と山々の風景が、スコットランドやカナダの山地に似ていたことから、A.C.ショーら初期に滞在した欧米人が郷愁を感じ、軽井沢を開拓したと言われている[40]。平原から周囲の山々へと繋がる広大な風景自体は、現在でも塩沢地区や発地地区など、主に町の南側の地域に残されているほか、町内のゴルフコースでもそれに近い光景を目にすることができる。

An uncultivated moor, covered with wild flowers in July and August, extends for miles in a southerly direction, […] .(七月、八月の未耕作の平原には野花が一面を覆い尽くし、それが南の方角に向かって何マイルも続いている(後略)。)
アーネスト・サトウ『Handbook for Travellers in Central and Northern Japan』[32](1881年)
Karuizawa is a rather English-looking moorland spot 3000 feet above the sea, in the very heart of Japan, some 90 miles to the west and north of Tokyo : […] .(軽井沢は、東京の西と北に約90マイル、日本の中心部にある、海抜3000フィートのかなり英国風の荒野である(後略)。)
アーネスト・フォックスウェル[注 7]『A Tale of Karuizawa』[41](1903年)
It was estimated that during the summer of the year 1906 there were over a thousand foreigners sojourning in the place, and the plain is dotted all over with wooden shanties, which give the place somewhat the appearance of a newly-established ranching centre on the foot-hill prairies of Saskatchewan or Alberta.(1906年の夏の間、この場所には1000人以上の外国人が滞在していたと推定されており、平野には、至る所に木製の小屋が点在し、サスカチュワン州またはアルバータ州丘陵地帯の大草原に新設された牧場のような外観を与えています。)
アーサー・ロイド『Every-day Japan』[42](1909年)

一方で、軽井沢においては明治期以前から、燃料確保のための薪炭生産が、自生の夏緑林構成種によって行なわれてきた。モミは、木材としても薪炭としても利用価値が低く、利用されなかったために、残されていた[38]。また放牧の衰退は、ススキ草原からシラカバ林、そしてクリコナラ林またはクヌギミズナラ林という形で遷移が進み、落葉広葉樹林の形成に大きく関与した[38]。浅間山の噴火による溶岩流上からは、少数のアカマツが生育した。旧軽井沢北部の小瀬地区や北東部の碓氷峠一帯には、古くからこれらの高木が密生していた。その後は雨宮敬次郎鳥居義処の尽力により、カラマツなどの樹木が開墾事業として明治期から大規模に植林された。また避暑客らが、自身の庭や敷地に環境づくりや生垣として、モミや草花を積極的に植えていった[38]

つまり、初期の軽井沢が原野に近かったとはいえ、森林は軽井沢一帯に元々少なからず存在していたが、それは薪炭利用のために追い使われた広葉樹林と、使われずに残されていたモミであった[38]。明治期になると、企業の木材生産的評価軸から、そこに大規模なカラマツ林が加わった。そんな中、軽井沢が西洋人によって新たに見出されたことで、これらの針広混交林は、別荘地として、また保健休養地としてのイメージを創るのに大きな役割を果たすようになった[43]。豊かな自然を育むという環境的な面や、直射日光を避ける、土砂災害を防ぐなどといった実用的な面、景観の面では、初期の荒涼とした風景が欧米の広大な大地を想わせた一方で、森の中に浅間石で彩られた木製の別荘が点在する様子もまた、訪れる者に欧米の山村の風景を連想させ、文学的素材になるなど、多様な評価軸がもたらされた[38][44]。1909年に出版された鳥瞰図[45]では、北東の碓氷峠に向かって背の高い樹木が多く描写されており、また別荘があるとその多くに建物を囲うように樹木が描写されていることから、避暑客によって植樹されたであろう様子も確認できる。

明治期に軽井沢の森林風景が描写されている記述としては、以下が挙げられる。

Karuizawa is a remarkably pretty village, almost hidden in foliage, […] .(軽井沢は、ほとんど葉の茂みに隠れた、ことのほか美しい村である(後略)。)
アーサー・H・クロウ[注 8]『Highways and Byeways in Japan: The Experiences of Two Pedestrian Tourists』[33][47](1883年)
And now I am writing in the most lovely study in the world. Over my head the pine branches meet in arches of kindly green […] underfoot a lundred layers of pine needles have been weaving a carpet […] .(そして今、私は世界でもっともすばらしい書斎で書いています。頭上にはカラマツの枝が快い緑のアーチをつくっています。(中略)足の下には百層にもなるカラマツの葉が敷物を織りなしています(後略)。)
メアリー・フレイザー『A Diplomatist's Wife in Japan: Letters from Home to Home』[48][49](1899年)
Like all historical places, Karuizawa retains a certain charm, and in summer its ancient groves are the favourite haunt of the nightingale (úguisu) , […] .(すべての歴史的な土地と同様に、軽井沢は特定の魅力を保有していて、夏にはその古代の森がナイチンゲール(ウグイス)のお気に入りの出没地となっています(後略)。)
ケイト・ローソン[注 9]『Highways and homes of Japan』[50](1910年)

鹿島建設の前身である「鹿島組」初代組長の鹿島岩蔵は、1893年から1899年にかけて、旧軽井沢西北に自らの別荘とともに5棟の外人ハウスを建てたが、その際、旧中山道から門までの両側にカラマツの苗木を植えた。これを手始めに、広大な敷地にもカラマツをメインにモミなど様々な樹木を植えていった。草地だった一帯は鬱蒼とした木立となり、鹿島がはじめに造った一本の道は、後に"Grove Lane"(木立の道)と呼ばれ、外国人が好んで通る散歩道となった(現・近衛レーン)[24]。やがてそのあたり一帯は「鹿島ノ森」と呼ばれるようになる[51]。大正初期になると、この一帯は事業整理の一環として、後述の野澤源次郎に売却され、その開発は野澤に託されることとなった。

1910年8月に東日本全域を襲った大水害は、当時リゾート地として発展しつつあった軽井沢にも甚大な被害を与え、その壊滅的な状況から打開するために長野県庁林学者本多静六に都市計画を依頼、そして「軽井沢遊園地設計方針」が作成される。その方針には「樹蔭を増す」ことが盛り込まれており、それは後の野澤源次郎の植林事業に繋がっていくことになった[52]。因みにこの水害の発生時には、当時首相であった桂太郎が軽井沢の別荘に滞在していた。桂は「水責めに遭って、軽井沢に籠城し、しみじみと風水害を体験」し、「帰途汽車の中から非常な水害の実況を見、ことに沿道の山がひどく崩れているのを見た」ことから、それを機に日本の水害対策発展を推し進めたという[53][54]。また当時の軽井沢には桂以外に、西園寺公望が自身の別荘に、渋沢栄一成瀬仁蔵森村市左衛門が『旧三笠ホテル』に、そして広岡浅子が親類の三井三郎助(三井高弘の孫)別荘にそれぞれ滞在しており、各々がその被害を目の当たりにしている。またこの水害によって、避暑客の間で別荘を高台に建築する風潮が高まり、旧軽井沢の愛宕山が別荘地として開拓されたとも言われている[55]

野澤源次郎が旧軽井沢西南(現・野沢原)から始めた事業[注 10]に関して、当時の雑誌には以下のように記されている。

現停車場を中心として放射状の大道路を開馨せんとした[注 11]、該道路は四間幅を最上とし三間幅二間幅等の各等差を附し現に徳川公[注 12]、大隈侯、細川侯等の別邸にそえる四間道路は道路の両側に落葉松白樺などの道路樹を植えて防風日防け美観等を兼ねしめ路上は又一面に浅間バラストを以て覆われたる為如何なる暴風にも砂塵を揚げず又如何なる豪雨にも泥淳とならず自動車にても馬車にても自由に往還し得る如き理想的の交通網を造ったのである。
「理想的避暑地を造る為に」『住宅』[57](1917年8月号)

この別荘地・保健休養地づくりを目的とした植林は、堤康次郎やそのほかの開発業者、別荘所有者、住民にも引き継がれていき、それによって今日見られるような豊かな森林風景が形成されていった[38]

1921年に製作・公開されたサイレント映画路上の霊魂』は、大正期の軽井沢が映像として記録されている貴重な資料であるが(リンク先で閲覧可能)[注 13]、その風景には森林と草原が交互に映し出されている。木々は比較的多く見られ、モミやカラマツは頻繁に登場するほか落葉広葉樹も多く確認でき、現在と比べて植生に大きな変化はない。柳原白蓮は、1928年の随筆の中で「真夏の暑さをしらない軽井沢の高原には、桔梗女郎草鈴虫草松虫草なんぞが見渡す限り咲いていた。それは誠に画になるような眺めであった」と記している[58]。堀辰雄は、1920年代から30年代における軽井沢を舞台とした数々の小説において、森林風景を積極的に取り上げたが、1936年初出の『風立ちぬ』〈序曲〉においては、軽井沢の広大な草原を描写し、ポール・ヴァレリーの詩の一節"Le vent se lève, il faut tenter de vivre."(風立ちぬ、いざ生きめやも)を印象付けた。ほかにも昭和初期には、以下のような草原風景と森林風景の記述が見られたが、いずれも西洋的な景観として理解されている。

総てはぼうぼうたる草原で、雑木林もあり、水もないことはないけれど要するに大陸的だと思われる。ここを外人が避暑地として択んだのは外人に適しているからなのである。
徳田秋声『私と避暑』[59](1928年)
ゴルフ場からニューグランドへの、清流に沿うてゆるやかにうねり行く山腹の道路は、どこか日本ばなれのした景色である[注 14]厚朴板谷などの健やかな大木のこんもり茂った下道を、歩いている人影も自動車の往来もまれである。
寺田寅彦『軽井沢』[60](1933年)
ともかくもまだ軽井澤には美しい森があるようだ。そんな森の中に、君に小さなヒュッテを建てて貰って、「喬木林[注 15]」や「晩夏」の中でボヘミヤ地方の美しい森を隅から隅まで描き尽したアダルベルト・シュティフテルのような物語でも書きながら、静かな晩年を送りたいとそんなことを僕に空想させるような、美しい森が、何といったって、すこし奥深く行きさえすれば、まだまだ軽井澤にはあるようだ。
堀辰雄『夏の手紙 〜立原道造に〜』[61](1937年)

また歌人窪田空穂は、軽井沢における外国人と日本人の好む環境の違いを以下のように記していた。

軽井沢は漠然と想像されるよりも遥かに広い地籍であるが、その広い地籍は殆ど全面的に、樅、落葉松、松などで蔽われており、加えて西北に緩やかに傾斜してある地盤のこととて、湿気が多く、霧の去来のはげしい地である。総じて陰鬱である。外人は樹木の多い、殊に陰鬱な地に、わが国人はその反対な、比較的明るい地にいるのである。おのおのその所好、趣味を現している。
窪田空穂『高原に集へる外人たち』[62](1946年)

以上、軽井沢の保養地景観は、広大な草原から見出され、その後は南に広がる草原と北に広がる森林という2つの異なる植生の組み合わせが、高原避暑地の典型的な景観として軽井沢に大きな魅力を与えていった。

しかしながら近年では、土地開発により、湿地の多くは失われ、草原や休耕田も以前に比べて規模が縮小、不動産建設業者による過度な土地の皆伐から、森林も同じく減少したという声が上がっている[63]。いずれも動植物にとって重要な環境であるほか、魅力的な景観づくりにも大きな役割を果たすため、複数の団体が環境保全と再生に努めている。町立の『軽井沢町植物園』では、園内に豊富な生育環境が整備されており、軽井沢の希少な自生植物が保護されている。

今後は、環境破壊への対策はもちろんのこと、「守るべき植生」という観点から[64]、リゾート環境と湿地・草地・森林が各々豊かに分布して共存する複合的な、成熟・安定した生態系を形づくることが重要となっている。

異国情緒溢れる町

明治後期に「三泉寮(日本女子大学寮)」の大モミの樹の下で行われた野外劇ハーメルンの笛吹き男』(グリム童話/ロバート・ブラウニング作)の様子。
同じく明治後期に園田男爵邸の庭で行われた野外劇『ザ・プリンセス英語版』(アルフレッド・テニスン作)の様子。"西洋が舞台の演劇を、西洋人が軽井沢の自然を舞台にして行なっている"という事実は、まさしくこの地のエキゾチシズムの豊かさを表している。

独特な気候風土によって醸し出される西洋的な雰囲気から、日本を訪れる多くの外国人を魅了した。戦前に軽井沢を訪れた外国人の大半は、北米ヨーロッパ諸国出身の中流 - 上流階級白人であった(→「#避暑客・別荘客の転換(外国人から日本人へ)」に記載されている表も参照)。駐日外国人に限らず、東アジア東南アジア各国に駐在していた欧米人も数多く訪れた。

外国人に軽井沢を最初に紹介したのは、イギリス外交官アーネスト・サトウであり、1881年のことである[24]。その4年後、A.C.ショーとその友人J.M.ディクソンがこの地を偶然訪れた際に(サトウの書籍を読んで訪れたとも言われる[24])、気候と風景をスコットランド或いはカナダに思わせ、その後ショーがこの地を生涯の避暑地としたのは、先に述べた通りである。

軽井沢の外国人向けリゾート地としての開発は、箱根湘南伊香保日光といったそのほかの多くの土地に遅れて開始されたが、その後まもなくして、明治期の間には外国人滞在者数・外国人別荘数が日本随一となるまでに発展した[65]。宣教師のアーサー・ロイドは、1909年に出版された著書の中で、軽井沢を"the most popular summer resort in the whole of the Far East"極東で最も人気のある夏のリゾート地)と記した[42]。やがてこの地は『日本三大外国人避暑地』の一つとして数えられるようになった。

本国へ帰るには、片道でも数週間を費やすことになる船旅しかなく、容易に帰省することができなかった当時の在留欧米人にとって、郷愁を誘う故国に似た西洋的な土地であり、かつ母国語を話す仲間が数多く集まっていた軽井沢は、単なる避暑地としての役割に留まらず、"第二の故郷"ともなった(逆に当時の日本人にとっては、この様相がエキゾチックに感じられた)。町内の景勝地には、かつて西洋人から親しまれた愛称が現在でも呼び名として残されている(離山 : Table Mountain、風琴岩 : Organ Rock、幸福の谷 : Happy Valley、など)。

their stay at Karuizawa (lasting two or three months every year) brings them some of the cheery effect of "going Home". Every day there are picnic ascents on the hills, or wanderings down steep paths (sed revocare gradum!) in the depths of delicious woods ; […] .(軽井沢に滞在(毎年2〜3ヶ月)すると、「故郷に帰る」という明るい気分にさせてくれる。毎日、ピクニック気分でを登ったり、とても気持ちの良い森の奥深くで急な小道を彷徨ったり(ラテン語 : しかし歩みを戻すこと!)している(後略)。)
アーネスト・フォックスウェル『A Tale of Karuizawa』[41](1903年)

宣教師やお雇い外国人学者教師技術者などが、信仰を大切にし、質素で牧歌的な生活[注 16]を送ったほか、大使公使などの外交官による、貴族的で華やかな生活も見受けられた[55]。神戸や横浜といった外国人居留地商人らも同様にして軽井沢に集い、贅沢な生活を送った[55]。彼らの多くは道を行く日本人に手を振り、通りがかりの子供に手作りのクッキーを振る舞ってくれるなど、友好的であったといい[66]、彼らを対象とした日本語学校も開設されていた。

1912年に佐藤孝一[注 17]が記した軽井沢の総合案内書には、当時の異国情緒溢れる町の様子を鮮明に伝える一節がある。

濃かに緑を吹いた並木の落葉松の梢を覗くと、野の花の咲いた芝生を天然のまゝ庭に囲って、これに数本の樺の木を殖えた朱塗の別荘が見える、風に煽られたカーテンのかげから午餐の皿音が洩れて、ナイフフォークがギラと閃めく、どう見ても内地とは思われぬ趣である。小波はこれを「獨逸の田舎」と言い、蘇峰は「カーパシャン山中の高原」と評した。米人は「北米の田舎」と云い、英人は「スコットランドの田舎」と云う、佛人伊人も皆夫々己が郷國の野趣に富める田舎を連想するであろう。午餐の団欒にもれた「ジャック」と「メリー」は小さなショベルを持って、前庭の芝生に姫百合を殖えていた。これ眞に画中の景!欧米の田舎を写して一幅の油画である。
佐藤孝一『かるゐざは』[68](1912年)
軽井沢にゆかりのある婦人宣教師達(離山を背景にして、1910年代前半)
軽井沢にゆかりのある宣教師達(『軽井沢ユニオンチャーチ』前にて、昭和初期頃)

避暑に訪れていた宣教師の教派は、プロテスタント系を中心として、カトリック系、聖公会系などが見られ、彼らとその意志を継ぐ者らによって数多くの教会が建立された。1897年には旧軽井沢に超教派教会堂『軽井沢ユニオンチャーチ』が開設されている。現在では町内に少なくとも12の教会があり、その数は仏閣を上回る。

ショー一家は、妻マリー・アンと4人の子供、そしてその子供達らと、軽井沢で慎ましくも豊かな生活を送った。ときに父と子で連れ立って、離山や矢ヶ崎山、一ノ字山といった周囲の山々を登り、そこでキャンプをしたり、また千曲川の川辺まで出かけたり、小瀬で温泉に入ったりと、雄大な自然を楽しんだという[69]。ショー一家が使用した別荘は、有志によって『ショーハウス記念館』として復元され、見学も可能である。アメリカ人宣教師のセオドア・マクネア英語版は、1890年代に軽井沢で「水車小屋の三軒別荘」を含めた計6軒の別荘を建て、また頌栄女学院の教師で後にマクネアの妻となるC.T.アレクサンダーは、1889年に日本初の林間学校を軽井沢に開設するなどして、マクネア夫妻はショーに代わって避暑外国人社会の中心人物となっていった[55]。その後は、カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンが『軽井沢避暑団』の設立を機に中心的な役割を担い、"軽井沢の村長さん"と呼ばれた。

婦人宣教師であった東洋英和女学院の歴代校長の多くは、軽井沢と縁が深い[70]。1887年に結婚したトーマス・ラージとスペンサー・ラージ夫妻は、ハネムーンが軽井沢であった。夫妻は馬で草津に行ったり、浅間山に登ったりしたという。ラージ校長に続くイザベラ・ブラックモーアは、1909年に『万平ホテル』近くの桜の沢に"Brookside Cottage"(「小川沿いのコテージ」の意)を建て、夏休みには家に帰れない寄宿生を預かって過ごした。その生徒の中には柳原白蓮や村岡花子も含まれていた。ブラックモーア校長より何代か後に就任したフランシス・ハミルトンの別荘は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の瀟洒な洋館であり、現在も同じ場所に建っている。また、金城学院の校主を務めたアメリカ人宣教師チェヴィス・スマイスとメリー・スマイス夫妻は、1917年に軽井沢で出会ったことで結婚に至っている[71]

アメリカ人宣教師のアレクサンダー・ヘールは1911年夏、息子夫婦とともに軽井沢で避暑中に、浅間山の大噴火によって最愛の息子ジョン(当時35歳)を亡くした。アレクサンダーは悲しみの中で「これは神の御心であり、神の御業のあらわれである」と述べたという[72]。なおヘール一家が使用した別荘は現存している。貴族趣味で知られたイギリス人宣教師ハンナ・リデルは、大の愛犬家でもあり、軽井沢で避暑中に亡くなった愛犬「プリンス」の小さな墓が現在でも彼女の別荘跡に残されている。1916年7月には、カナダ人宣教師ウィリアム・キャンベル夫妻が避暑中に日本人の強盗によって別荘で殺害される「キャンベル夫妻殺害事件」が発生している。事件翌日に『軽井沢ユニオンチャーチ』にて葬儀が行われ、300人余が参列した。カナダ人宣教師であり、アマチュア写真家でもあったジョン・クーパー・ロビンソンは、軽井沢でも明治から大正期にかけて数多くの写真を撮影し、それらは現在では貴重な記録となっている[73]

そのほか、避暑に訪れていた著名な宣教師として、ヘンリー・ルーミスジョセフ・コサンドエドワード・ビカステスエダ・ハンナ・ライトサムエル・フルトンジャン・ピエール・レイエドワード・ローゼイ・ミラー/メアリー・キダー夫妻、イライザ・タルカットジェニー・カイパーなどがいた。上高地を紹介したウォルター・ウェストンは、1891年7月に、軽井沢を出発地として、浅間山登頂ののちに日本アルプスに初入山した。清里高原を開拓したポール・ラッシュは、1926年に、開店して間もないハリウッド美容室に「一流の外国人や名門の方々のお客をつくる」よう軽井沢への夏季出店を指導、援助した[74]。またトーマス・ウィンディビッド・タムソンマーガレット・エリザベス・アームストロングが使用した別荘は、いずれも現存している。ウィン別荘は後に歌人片山広子の所有となり、芥川龍之介や堀辰雄、室生犀星らが集った。

1930年の英字新聞の案内には、以下のような呼びかけがあった[75]

"A Social gathering will be held on Thursday August 28 at 3:30 at the home of the Rev. and Mrs. J. G. Waller at No. 810 Lower Atago Lane. The Chaplain of Christ Church, Karuizawa, the Rev. J. Chappell, extends a cordial welcome to all friends. Light refreshments will be served."
訳)[75]"8月28日木曜日の3時30分からロウアー・アタゴ・レーン810番のJ・G・ウォーラー師夫妻宅において、親睦の集まりが開かれる予定。軽井沢クライストチャーチの司祭J・チャッペル師が、心より友人の皆様をお迎えしたいとのこと。軽食の用意あり。"

この文面を読む限りでは、軽井沢の英国国教会の教会代表として、司祭が軽井沢へ今夏おいでいただいた方々へのお礼の意を込めてホームパーティーを行いたいというものであり[75]、それはまるで中世ヨーロッパの田舎村さながらの様相であった。

夏の旧軽井沢メインストリートと外国人淑女達(1934年撮影)。右手の建物は『軽井沢郵便局』。手前左側に立つ半袖ワンピース姿の女性はベネズエラ大使夫人で、向かいはその令嬢。左端を行く自転車に乗った女性はジャパンタイムズ支社長の令嬢。

スコットランド貴族の家系で駐日英国公使ヒュー・フレイザーは、妻メアリーとともに1890年と1891年に夏季2ヶ月間ほど軽井沢に滞在した。夫妻が滞在した公使館別荘は、軽井沢における豪奢な別荘の先駆けであり、また外国人社会の頂点に位置するイギリス公使が軽井沢を訪れるようになったことは、軽井沢に"上流階級の社交"という機能が付け加えられたことを意味していた[55]。メアリーは別荘を"Palace of Peace"(平和の宮殿)と名付け、ダックスフントの「ティプ・ティブ」やゴードン・セッターの「ゴードン」ら愛犬も揃って避暑へと向かい[76]ワインなどの食料雑貨を東京から運んで来客をもてなしたり、友人を尋ねたりした。その滞在の様子は彼女の手記[77]に詳細に記されており、避暑地草創期の別荘生活を知る貴重な資料となっている。同じくイギリスの外交官であったジョン・ガビンズと、スコットランドの技術者コリン・アレクサンダー・マクヴェインの娘で妻のヘレンは、軽井沢に別荘を構えた初期の家族として知られている[78]

ロシア貴族の家系で駐日ロシア公使ロマン・ローゼン男爵は、軽井沢ではフレイザー夫妻と同様に「犬連れ外交官」として知られた。パグの老犬「ギップ」の権力は公使一家の中で絶大であったという[76]。男爵の令嬢ミス・ローゼンは、西條八十によれば「青白いで捏った彫刻のような」顔立ちで、軽井沢では「青く塗った小さな小綺麗な洋館」に住まい、その館の「窓下には紅い蜀葵が咲いて、奥から快いピアノの音が洩れていた」という[79]駐日ベルギー大使アルベール・ド・バッソンピエール男爵もまた避暑客の1人であったが、軽井沢で開かれるテニス大会やコンサートには必ず顔を出して、カップや賞品を手渡すような町の代表的存在であったという[80]

駐日米国大使エドガー・バンクロフトは、持病を抱えた際、新軽井沢にある新渡戸稲造の別荘を静養先として利用した[81]。バンクロフトは大使に任命されてから僅か1年後の1925年7月にその別荘で死去している。新渡戸のアメリカ人妻メアリーもまた、夫の死去後軽井沢に療養し、夫に遅れること5年後の1938年に別荘で死去した。アメリカの外交官ウィリアム・ジョセフ・シーボルドは、1926年夏にイギリス人法律家ジョセフ・アーネスト・デベッカーの娘エディス嬢と軽井沢で出会い、結婚に至っている[82]。1930年代に駐日米国大使を務めたジョセフ・グルーは、夏になると軽井沢に一家で滞在し、大使館での華やかな社交は軽井沢の別荘へと場所を変え、戦争に突入するまでゴルフ三昧の生活を送っていた[83]

1960年代に駐日米国大使を務めたエドウィン・O・ライシャワー(宣教師オーガスト・ライシャワーの息子)と妻の松方春子英語版松方正義の孫)は、どちらも幼少期からそれぞれ軽井沢に別荘があり[84][85]、またそのどちらも明治期の建物ながら未だに現存しているため、軽井沢に縁の深い夫婦となっている。ライシャワーは自伝の中で「夏の軽井沢は単なる休暇ではなく、それ自体として一つの生活のようにさえ思えた。東京にはずっと長く住んだはずなのに、細部の記憶は軽井沢のほうがはるかに多い」と述べており[86]、軽井沢を"home"(故郷)とも表現している[注 18]。滞在中は浅間山によく登り、エドガートン・ハーバート・ノーマン(彼曰く"ハーブ"・ノーマン)とはよくテニスをしたという[86]。なお松方家別荘は、カナダ人貿易商サロモン氏の所有を経た後、1980年代に森瑤子ら一家が夏に住まった。外交官としては他にも、駐日トルコ大使のジェヴァド・ベイや、駐日フィンランド代理公使のA・ヴィンケルマンなどが、戦前の軽井沢に滞在していたことがわかっている[87]

イギリス貴族の家系で語学者・音楽家エドワード・ガントレットは、指揮者山田耕作の姉山田恒子と1895年夏の軽井沢で出会い、結婚に至る[88]。ここで山田恒子は、日本の法的国際結婚による初の英国籍取得者となった[88]。また夫のガントレットは、『軽井沢ユニオンチャーチ』にパイプオルガンを導入したり、1936年の「軽井沢避暑地50周年記念式典」の際にパレードの先頭であったりと、軽井沢では知られた人物であった。

1917年、イギリス人医師ニール・ゴードン・マンローは、避暑がてら軽井沢に診療所を開設した。それは関東大震災後に『軽井沢避暑団』の支援を受けて通念経営の本格的なものとなり、『軽井沢サナトリウム』と呼ばれた[89]。しかし、夏の3ヶ月は繁忙期であったものの、それ以外は閑散としていたため、元々採算の取れるものではなかった[90]。妻アデールの父ジェームス・ファヴルブラントスイス時計商で資産家であったため、病院経営の大きな援助者であったが、ジェームスが1923年8月に軽井沢の別荘で死去したことから、当地で新生活を送りはじめたマンロー一家は、瞬くうちに経済難に陥った[90]。そんな中、マンローは病院の婦長、木村チヨと不倫関係になる[90]。これらの度重なる出来事から精神的に不安定となったアデールは、「軽井沢の冬は寂しすぎる」という言葉を残して、憔悴しきったままウィーンジークムント・フロイト博士の元へと旅立ち、その後2人が再び会うことはなかった[90]。マンローはその後チヨと結婚し、北海道二風谷に移住したが、軽井沢には晩年まで夏季診療として毎夏3ヶ月程度滞在していた[90]

イタリア人写真家フォスコ・マライーニも避暑客の一員であった。特にシチリア貴族サラパルータ公爵イタリア語版[注 19]の孫である妻トパーツィアイタリア語版は、軽井沢に対して一種の執着心があった[91]。それは、日本に滞在する西洋人の間では、軽井沢で夏を過ごすことがブルジョワジーの一員として認められることを意味していたからであった[91]。トパーツィアは軽井沢の西洋人たちの間でもスター的な存在であった。夕方になり恒例の散歩の時刻が来ると、彼女はドレスを何着も引っ張り出しては大騒ぎでその日着ていくものを選び、念入りにおめかしをして、同じくリボンを付けるなどして着飾った娘ダーチャらとともに意気揚々と丘を下った[91]。途中で西洋の婦人に出会うと、相手がスカートの裾をつまんで恭しく礼をすることがよくあったという[91]

1916年の夏には、成瀬仁蔵の招聘によって来日していたインド思想家ラビンドラナート・タゴールが軽井沢を訪れ(三井三郎助別荘に一週間滞在)、「三泉寮(日本女子大学寮)」の大モミの樹の下で瞑想し「人類不戦」を説いた。1918年の夏には、ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフが知己のイギリス人の誘いを受けて軽井沢に滞在、1928年の夏には、大韓帝国皇太子李垠が妻方子とともに軽井沢に滞在、また1931年の夏には、冒険家チャールズ・リンドバーグが前述の新渡戸別荘に滞在している。『旧三笠ホテル』には、皇帝愛新覚羅溥儀の滞在も記録されている。

外国商館「アンドリュース・アンド・ジョージ商会」のカナダ人経営者R.M.アンドリュースの別荘跡。

商館としては「セール・フレーザー商会」「レーン・クロフォード商会英語版」「ファヴルブラント商会」「アンドリュース・アンド・ジョージ商会」などが軽井沢に別荘を所有しており、またその多くは広大な敷地を有する豪勢なものであった[55]。「セール・フレーザー商会」別荘の敷地内には、テニスコートが併設されていたという[55]。「アンドリュース・アンド・ジョージ商会」[注 20]のカナダ人経営者R.M.アンドリュースの別荘跡は、今日でも色濃く残されている。旧軽井沢北東にある「水源地の道」を苔むした高い石垣が400m近く続いているのが、それである。当時は夜になるとよくジャズが流れてパーティーが開かれていたといい、贅沢な暮らしぶりがうかがえた。敷地内には別荘番小屋もあり、母屋の設計はW.M.ヴォーリズによるものであった(1920年竣工)[92]。戦後は、「デンビー商会」のロシア人デンビー一族、アルフレッド・デンビーの夫人マリアや、妹アンナ(ニーナ)とその夫コンスタンティン・プレーゾが使用した別荘が、立派な洋館であったと伝えられている[93]

上で述べたアメリカの建築家W.M.ヴォーリズは、1911年に初めて軽井沢で建築設計を担当して以降、当地で合計50棟以上の建築を手掛けた。1920年には、旧軽井沢に自身の別荘「九尺二間(現・「浮田山荘」)」を建設し、新婚生活の夏をその名の通り6坪程度しかないミニマルな山小屋で過ごした[94]。その後も夏には事務所機能のほとんどを軽井沢に移し、建築の仕事に邁進した[95]。ヴォーリズの妻満喜子は、「軽井沢は彼にとっては、働くにも遊ぶにも神に聞くにも、最もよい土地でありました。高原の空気は肉体に、ビタミン的効果をもたらしたばかりでなく、彼には精神強壮剤でもあったのです」と述べている[96]。またチェコの建築家アントニン・レーモンドは、1933年から1937年まで別荘「夏の家」(現・『ペイネ美術館』)で避暑生活を送り[97]、1961年からは第二の別荘兼アトリエ「軽井沢新スタジオ」で、1973年に高齢のためにアメリカへ帰国するまで、毎夏滞在していた[97][注 21]白樺派と親交のあったイギリス人陶芸家バーナード・リーチもまた、日本に滞在するときは、夏を軽井沢で過ごした[98]。イギリス人ジャーナリストフランシス・ブリンクリーは、同じく軽井沢避暑客の1人であったが、日本贔屓で知られ、外国人が軽井沢で我が物顔に振る舞う様子に対して、怒りをあらわにすることがあったという[99]

軽井沢外国人墓地

雲場池近くにある外国人墓地には、軽井沢にゆかりのある外国人らの墓と十字架が並ぶ。居留地以外の土地に外国人墓地があるのは全国でも軽井沢のみで、他の外国人避暑地や国際リゾート地には見られない。墓石の年代は明治から平成に至るまで様々で、なかには"WE LOVED KARUIZAWA"という文字が刻まれている墓もある。経済学ギャレット・ドロッパーズの妻コーラや、宣教師のジョン・ダンロップ、実業家のヘルマン・ウォルシュケ、医師のN.G.マンローの墓も含まれている。ドロッパーズ夫人の墓はこの墓地の中で最も古く、1896年に埋葬されている。マンロー埋葬の際には、時の町長や大勢の内外人が集まって「萬郎先生慰霊祭」を執り行ったという[89]。旧軽井沢にあるTEAM運営のキリスト教信徒保養施設『軽井沢リトリートセンター』敷地内にも個人的な外国人共同墓地があり、四国高松で宣教活動をしていたラルフ・カックス[注 22]らが眠っている。

ジョン・レノンは、音楽活動休止中の1976年(1977年とも)から1979年まで、オノ・ヨーコの祖父小野英二郎の別荘が軽井沢にあったことをきっかけに、毎夏家族連れで長期間滞在していた[100]。ジョンは軽井沢に対して、故郷であるイングランドリヴァプール郊外に似ていると感じたといい、行きつけのカフェに立ち寄った際には「この辺りに土地を買い軽井沢で暮らしたい」とも口にしていたという[101]。2010年には、オーストリア貴族画家ミヒャエル・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が軽井沢に滞在し、作品集『思い出の軽井沢』を描き上げた。作品の一つ「テニスコート通り」は、軽井沢の「テニスコート通り」に実際に掲示されている。2012年頃から「ビル・ゲイツが千ヶ滝地区に別荘を建てることを予定している」と噂されたが、未だにその確証はない[102][注 23]

避暑客・別荘客の転換(外国人から日本人へ)

1924 - 1925年の軽井沢における避暑客国籍別内訳と別荘数[103]
年次/国籍 日本 アメリカ イギリス ドイツ 中国 カナダ スウェーデン オランダ フランス ロシア イタリア ベルギー その他 合計(人)
1924年 4,357 614 250 113 69 38 19 7 6 4 3 1 11 5,502
1925年 4,522 578 251 129 74 48 22 5 22 18 6 6 27 5,708
別荘戸数(戸) 日本人429 外国人220 合計649(学校及び団体は除外)

1889年8月には、100名ほどの外国人が旅籠などに避暑滞在し、そのうち別荘を所有していたのは5名であった。その後1892年には、別荘は14軒、所有者は13名へと増加した[55]。1893年には上野-軽井沢駅間で鉄道が開通したが、当時外国人は居留地とその隣接地区に居住地を限定されており、なおかつ土地所有も禁じられていたため[注 24]、別荘数に著しい増加は見られなかった[55]。1899年に不平等条約の改正と同時に外国人居留地が廃止され、外国人の内地雑居が許可されたことで、鉄道開通は大きな役割を果たし、軽井沢の活気は高まりを見せる。ホテルや貸別荘などのリゾート環境が充実し、また個人名義の別荘でも、合宿ルームシェアに近い形で共同で住まったり、仲間内で貸し出されるなどして、毎夏1000人近くの外国人が滞在した[87]。それに伴い、外国人と交流を持っていた一部日本人の間でも軽井沢の知名度は上昇していき、訪れる者が多くなった。

1910年には、外国人別荘が134軒、外国人向け貸別荘が25軒を占め、これらの多くが旧軽井沢東側に集中していた。一方で、日本人別荘は19軒のみであり、外国人別荘を囲むように旧軽井沢西側の外縁部に多く立地していた。つまり、かつては宿場町であった外国人向け商店街を中心として、外国人によって別荘が充填され、避暑地の中核が形成される一方で、その外縁部では日本人を交えて別荘地が拡大しつつあった[55]

in ’93 the Government built the many- tunnelled Abt-rail track, and Karuizawa became a station on a trunk-line connecting the two seas ; when the "Manpei Hotel was opened (with a signboard painted in foreign letters) and table d’hote was naturalised, […] while quite recently even Japanese gentlemen of high degree have begun to build houses and introduce their families. As in so many other cases, the world followed the lead of the missionaries. Foreigners are now the raison d’étre of Karuizawa, and no echo of Feudalism haunts the hills.(93年に政府は多くのトンネルを掘ったアプト式レール線路を建設し、軽井沢は2つの海を結ぶ幹線上の駅になった。「万平ホテル」がオープンし(看板が外国文字で描かれている)、西洋料理が帰化した。(中略)ごく最近、上流階級の日本人紳士でさえ家を建て、家族を紹介しはじめた。他の多くの場合と同様に、世界は宣教師の先導に従った。 現在、外国人は軽井沢の存在意義であり、封建制の反響が丘に出没することはない。)
アーネスト・フォックスウェル『A Tale of Karuizawa』[41](1903年)
In the early days no Japanese would go to Karuizawa. […] A summer resort in the mountains, without a hot spring to bathe in, was a thing undreamed of. But by degrees they found out that the summer among the mountains, spent, as the Englishman or American spends it, with healthy amusements and quickening social life, sent him back to his work a new creature ; and they have begun to break through their prejudices and to frequent the place of rest and repose which the foreigner discovered for them. It is a good omen, and the landowners in Karuizawa will doubtless be able to turn it to good account.(初めの頃、日本人は軽井沢に行きませんでした。(中略)入浴する温泉のない山の中の避暑地なんて、夢にも思わなかった。しかし彼らは次第に、イギリス人やアメリカ人が過ごしたように、山の中で過ごす夏が、健康的な娯楽や活発な社会生活によって、彼らを気分一新させて仕事に送り返すことがわかりました。そして彼らは自身の固定観念を打ち破り、外国人が彼らのために発見した休息と安らぎの場所を頻繁に訪れ始めました。それは良い兆候であり、軽井沢の土地所有者は間違いなくそれを良い説明に変えることができるでしょう。)
アーサー・ロイド『Every-day Japan』[42](1909年)

その後1910年代から1920年代にかけて、訪れる避暑客に日本人が圧倒的な数を占めるようになる。その主な要因としては、第一次大戦後の日本経済の伸長(大戦景気)による日本人の購買力上昇が挙げられる[55]。またその反動から、封建領主や新興資本家が避暑客の新たな主導権を握ったことで、宣教師の求める質素で清貧な理想像から軽井沢が乖離していったとも考えられる[55]。加えて、日本国内の物価が高騰したことにより、本国からの送金に依存する宣教師の生活費が目減りし、以前と同水準の生活を送ることが難しくなりはじめたとされる[55]。A.C.ショーの妻マリーアンは、ショーの死後も軽井沢に子供とともに避暑に訪れていたが、1921年にカナダへ帰国してしまう。ショー一家と交流のあった政治家尾崎行雄は、そのことについて随筆に「〔ショーの未亡人は〕余程日本が気に入ったと見えて、自分は生涯日本で暮らすと云ふて居ったが、前の大戦以来日本の物価が非常に高くなったので、何を比べてもカナダの方が安いと云ふて、大正10年頃カナダに帰ってしまった」と記している[55]

幸いに軽井沢には大して悪いブルヂヨウア気分はまだ入っていないようであるが、(中略)随分大きな土地を占めているぜい沢な別荘もあるようである。風紀は善良だが、ブルヂヨウア気分が入っていないとはいえない。
徳田秋声『私と避暑』[104](1928年)
今では日本人が大分多くなって、西洋人を漸次駆逐している。金持ちが沢山入り込んで必要以上に広い土地を買い、豪奢な別荘を建て、贅沢な生活を始めたので、物価なども高くなり、俗悪にもなって来たことが西洋人を駆逐した原因であろう。
尾崎行雄『随想録』[105](1940年頃[注 25]

1920年には、上記の要因と併せて、避暑人口の増加に伴い、日本人によって町内各地で大規模なリゾート開発が行われ、外国人同士の間でも形式的な雑事が多くなったことから、これらの環境を好まなかった軽井沢の外国人宣教師の一部が、野尻湖畔に別荘地「神山国際村」を開発して集団で転居する事例が発生している[106][注 26]

特に外国人避暑客にとっては、軽井沢が国内外に避暑地として知られるにつれ、毎夏宣教師が日本各地および東アジア各国から集まり、教派を超えて布教活動や現地情報などを交換する大きな会議が頻繁に開催されていたほか、外国の大使館員や公使館員、商人も増加し、東京での社交や会合が、夏は軽井沢を舞台にして行われていた(これらはワーケーションの先駆けと言える)[55]。野尻湖に移った宣教師の一人であるW.R.マクウィリアムズは 「のきいたシャツを着て、形式張ったお茶会や、1週間に7回もの会議に出席することから逃れるために、浅間山に登る必要がなくなる。野尻湖へ行こう。野尻湖では眉をしかめられることなしに一夏を水着で過ごすことができる」と述べた[106]

なお、野尻湖への転居を主導したのは軽井沢の長老ダニエル・ノーマンであり、ノーマンはその後も野尻湖と軽井沢を当然のように行き来するなど、両地域の差別化は全く意図していなかった。そのため、のちに『軽井沢会テニスコート』で軽井沢住民と野尻湖住民との対抗戦が行われるなど[75]、両コミュニティは積極的に交流しており、その関係性は良好であったことも付け加えておく必要がある。

以上のように、大正 - 昭和初期にかけて、日本人界隈にのみならず外国人界隈からしても、軽井沢は一大リゾート地として認識されていった。明治期の時点で既に高級ホテル『旧三笠ホテル』が建設されていたほか、大使館・公使館や外国商館が少なからず軽井沢に豪勢な別荘を所有していたとはいえ[55]、もっとも現在見られる高級別荘地としてのイメージは、この時期に深く定着したと考えられている[107]

やがて日本人の贅沢な避暑地となり、外人も大公使館員や商人が入り込むにつれて、宣教師達の山小屋風の別荘は追々日本人の手に買い取られてゆくけれども、秩序と公徳とを尊ぶ宣教師達の美風は残つてゐて、今も割と静かな賑わひである。
川端康成『高原』[108](1939年)

一方で、1930年代後半に入ってもなお外国人宿泊者数と外国人別荘戸数は順調に増加しており、日本人避暑客が急増したと言えども、外国人から避暑地としての軽井沢の評価が高まる傾向が続いていたことは明らかであった(いわば外国人避暑客と日本人避暑客が共存していた) [109][87]。1936年の別荘案内図には未だ外国人名義の別荘が数多く見られ(旧軽井沢に150 - 200軒程度)[110]、その後も後述するように、1938年頃からは一時減少するものの、戦争が激化すると疎開によって国際色がより強くなるなど、終戦直後まで軽井沢が依然として異国情緒溢れる特殊な町であったことに疑いの余地はない。本格的に外国人避暑客が減少したのは、戦後に入ってからである。 この変化には、戦時中または戦後における国内の混乱による影響や、交通インフラや情報技術の発達に伴う生活様式の変化、あるいは軽井沢の急激な観光地化など、様々な要因が考えられる。

日本人避暑客・別荘客

大正期に『旧三笠ホテル』で開かれた晩餐会の風景。写る人物は、西尾忠方近衛文麿千代子夫妻、徳川慶久・實枝子夫妻、里見弴、有島武郎、毛利高範夫人賢子、徳川義親、山本直良・愛夫妻、黒田長和・久子夫妻。なお彼らのほとんどが血族・姻族の間柄である。
旧朝吹家別荘(睡鳩荘)の豪華絢爛な内観。朝吹一家は、この別荘で避暑中の外国人らを招いてよくパーティーを開いていたという[111]

大正期以降皇族エスタブリッシュメント文化人など数多くの日本人に愛され、現在でも通りや小径にその場所にゆかりのある人物の名が付けられている。明治期における日本人別荘所有者としては、八田裕二郎、鹿島岩蔵、三井三郎助、藤島太麻夫(東京歯科医学院講師)、島田三郎末松謙澄小坂善之助今井寿道などがいた[55]。日本人の別荘として最も古い八田別荘(現存)が竣工したのは、ショーが軽井沢を初めて訪れてから、わずか8年後のことであった。

大正初期に、貿易商の野澤源次郎が旧軽井沢西側一帯で富裕層向けの別荘地分譲を開始したが、それを機に、軽井沢には日本の上流層がそれ以前とは比較にならないほど、こぞって訪れるようになる。軽井沢町立図書館に収蔵されている1926年/1930年/1936年の別荘地図[103][112][110]には、別荘所有者の名が別荘番号とともに併記されているが、そこには野澤別邸、近衛公爵、徳川公爵(慶久)、大隈侯爵、徳川侯爵(義親)、徳川侯爵(圀順)、細川侯爵、前田侯寺島伯爵林伯爵松平伯津軽伯爵藤浪子爵加藤子爵福原男爵、三井男(小石川家)、園田男爵、松井男爵鳩山氏鹿島氏田辺氏益田氏正田貞一郎小野英二郎福井菊三郎、尾崎行雄、朝吹常吉跡見女史御木本幸吉藤瀬政次郎戸野周二郎山本条太郎神田鐳蔵芳賀博士、新渡戸博士、青山博士長與博士小野塚博士河本博士佐々木博士立博士竹田宮伏見宮など、錚々たる面々が旧軽井沢一帯に名を連ねている。なかでも細川護立の別荘と徳川圀順の別荘は隣同士であったが、この2人には、軽井沢で互いにステッキを投げて「ステッキから向こうは細川家、こっちは徳川家」と大らかな方法で別荘の土地を決めたという逸話が残っている。

また水戸市徳川ミュージアムに収蔵されている、大正期に撮影されたと思われる軽井沢でのとある一枚の集合写真[113]には、三井家(本村町家2代目当主弁蔵・栄子夫妻と弁蔵の弟)、近衛家(文麿・千代子夫妻)、鍋島家(直映と子直泰)、細川家(護立・博子夫妻と子護貞)、朝香宮家(鳩彦允子夫妻と子孚彦正彦)、徳川圀順、前田利為、小松輝久が一堂に会しており、かつての軽井沢における社交界(別荘コミュニティ)の様子をうかがい知ることができる。

中軽井沢の千ヶ滝地区には朝香宮鳩彦王の別邸があったが(1928年竣工)、1947年に西武が購入し、改装の末『千ヶ滝プリンスホテル』として開業された。この出来事が現在全国展開されている『プリンスホテル』の名前の由来となっている[114]。なおこのホテルは、1964年から一般市民の利用が出来なくなり、皇室の実質的な御用邸となった(1990年頃まで使用。現在は閉鎖)。親戚の北白川宮永久王も朝香宮とほぼ同時期に中軽井沢の古宿地区に別邸を建設[115]、戦後には三笠宮崇仁親王が旧軽井沢の三笠地区に別邸を建設しており(1955年竣工)、2016年に薨去するまで静養先として頻繁に利用していた[116]上皇明仁が御用邸がなかったにも関わらず頻繁に軽井沢を訪れるようになったのは、彼の少年時代の家庭教師エリザベス・ヴァイニングが軽井沢に別荘(三井邸)を借りていたことが、そのきっかけとして大きい。上皇后美智子は、祖父正田貞一郎が別荘を所有していたために、幼少期から夏を軽井沢で過ごしていた。そして1958年に、当時皇太子であった明仁親王と『軽井沢会テニスコート』で出会うことになる。

政治家の尾崎行雄は、自身のキリスト教入信における洗礼の執行者であったA.C.ショーやイギリス人の母を持つ妻セオドラの影響もあって、1914年に別荘を建て[117]、その後1936年の「軽井沢避暑地50周年記念式典」の際には名誉総裁を務めた[118]。また上記に挙げた以外にも加藤高明佐藤栄作田中角栄三木武夫大平正芳中曽根康弘宮澤喜一などの政治家がかつての別荘所有者として挙げられ、歴代内閣総理大臣のほとんどが軽井沢に別荘を所有していたとも言われる[119][120]。政界の鳩山一族と財界の石橋一族(ブリヂストン)の縁組(閨閥)は、軽井沢で相談したことで決まっており、両家の別荘は至近距離にあった。白洲次郎は、戦後における軽井沢別荘族の長老的存在であった。『万平ホテル』の近くには妻正子の父樺山伯爵の別荘があったが、2人はそれとは別に南ヶ丘地区に別荘を構えている。白洲は1935年夏、別荘の隣人であった河上徹太郎夫妻の知遇を得、以降親密な間柄となる。正子と細川護立の軽井沢での交流も知られている。『旧三笠ホテル』は、上記に挙げたような特権階級が集い外国人を交えて舞踏会やパーティーが頻繁に催されたことから、「軽井沢の鹿鳴館」とも言われた。

一方で特権階級のみに限らず、軽井沢は中流階級にも早期から積極的に開放されていた(そもそも避暑地軽井沢を開拓した外国人宣教師は、本国では中流階級に属する階層であった[55])。大正期から半田善四郎や前田栄次郎などが本格的な貸別荘業に着手したが、特に、野澤源次郎が旧軽井沢で富裕層向けの別荘地分譲を開始したのとほぼ時を同じくして、千ヶ滝地区で中流階級向けの別荘地分譲をはじめた堤康次郎は、当時のパンフレットに以下のような文言を残している。

軽井沢の天恵は、決して一部少数の人々にのみによつて独占さるべきものではありません。真に都会に奮闘努力する、多数の中産階級の人々こそこの天恵を享くる最も有資格者であり、必要者であらねばならぬと信じます。
大正期に発行された千ヶ滝別荘地のパンフレット冒頭[121]
有島武郎と波多野秋子が心中した別荘「浄月庵」[注 27]

芸術家としては、古くは有島武郎山本鼎沖野岩三郎、室生犀星、川端康成、堀辰雄、正宗白鳥、片山広子、与謝野鉄幹晶子夫妻などが軽井沢にアトリエ兼別荘を所有していたが(また彼らの多くは『つるや旅館』を初期の滞在先として利用していた)、小杉天外杉浦翠子浅原六朗芹沢光治良久生十蘭阿部知二霜山徳爾円地文子古関裕而、西条八十、中村真一郎加藤周一吉屋信子湯浅芳子壺井繁治夫妻、五島茂美代子夫妻、網野菊芝木好子小山いと子横溝正史丹羽文雄阿川弘之遠藤周作辻邦生吉川英治柴田錬三郎小山敬三梅原龍三郎野村胡堂山室静山川啓介安部公房安岡章太郎など、戦前から戦後にかけてその数は急増し、枚挙にいとまがない[122]。有島武郎は、1923年6月に愛人波多野秋子と別荘「浄月庵」で心中した。一方で、芥川龍之介は、1925年に「最後の恋人」と後に囁かれることになる片山広子と、堀辰雄は、同じく1925年に小説『ルウベンスの偽画』のヒロインである片山総子(片山広子の娘)と、1933年には小説『風立ちぬ』のヒロインである矢野綾子と、夏の軽井沢で運命的な出会いを果たす。

政治学者であり軽井沢の地主でもあった市村今朝蔵は昭和初期に南原地区を開拓し、「南原友達の村」を構想、松本重治蠟山政道我妻栄をはじめ数多くの文化人がその地に別荘を構えるようになる[123]。そのメンバーの一員であり自治組織「南原文化会」の会長も務めた経済史学者の松田智雄は、画家の田部井石南と共に1965年に追分地区に新たに「藤石学者村」を創設、また追分地区には他にも田部重治らの「追分文化村」があり、中軽井沢の上ノ原地区には中野重治井上靖らの「上ノ原文士村(仮)」があるなど、数多くの学者や芸術家が別荘を所有していた[124]数学者小平邦彦は、避暑客の一人であり、彼が過ごした別荘(旧彌永家別荘)も現存している。また彼の妻セイ子の兄は、同じく数学者の彌永昌吉であり、彌永は、軽井沢に所有していた土地を津田塾大学に寄贈している。なお、小平の秘書を務めたミス・アイグルハートは、軽井沢生まれであり、彼女の父が宣教師で軽井沢避暑客のチャールズ・W・アイグルハートである[125]

歌人の岡本かの子は、1907年に父とともに追分の『油屋旅館』で避暑生活を送った際、同じ宿に滞在していた東京美術学校生と親しくなり、その縁から後に夫となる岡本一平と出会うことになった。音楽家の鈴木鎮一は、大正期に軽井沢に別荘を借り、旧知の仲である徳川義親の別荘を訪ねるなどして、ドイツ人妻ワルトラウトとともに避暑生活を楽しんだ。その際に哲学者柳宗悦とも親交を結ぶ。1920年夏、教育者・芸術家の西村伊作は与謝野鉄幹・晶子夫妻、石井柏亭河崎なつらと避暑中の軽井沢で相談し、翌年東京に文化学院を創立した。その旧校舎の外観は、軽井沢の『ルヴァン美術館』に再現されている。1925年の夏には、画家の速水御舟が軽井沢の貸別荘に滞在、そこで焚き火に群がるを見たことで、近代日本画の傑作「炎舞」が誕生した。洋画家の深沢省三紅子夫妻は、堀辰雄の初期の別荘「1412番山荘」を堀の没後、夏のアトリエとして利用した(軽井沢高原文庫内に移築、現存)。1955年には、政治家の森清実業家小林利雄御木本美隆月光荘創業者の橋本兵蔵、作曲家の服部良一洋画家脇田和猪熊弦一郎、建築家の谷口吉郎らが資金を出し合い、旧軽井沢に長屋形式の別荘「画架の森」を建設、夏の休暇を家族ぐるみで共に過ごした[126][127]

1918年には、離山の麓で「軽井沢通俗夏季大学」が開設され、総裁に後藤新平が、学長に新渡戸稲造が就任し、軽井沢に別荘を所有する学者や外国人教師によって講演が行われた[128]。この催しは「軽井沢夏期大学」として現在でも継続されており、2018年には創立100周年、第70回目の開催を迎えた[129]。1921年には星野温泉敷地内の材木小屋で「芸術自由教育講習会」が開かれ、内村鑑三北原白秋巖谷小波弘田龍太郎鈴木三重吉島崎藤村らが教鞭を取った[130]。彼らはやがて隣接する森に別荘を構え、あるいは別荘を借りて、夏は軽井沢で創作に励んだ。その材木小屋が現在の『軽井沢高原教会』のルーツとなっている。因みに星野温泉は、1957年に敷地内の音楽ホールで「二十世紀音楽研究所・現代音楽祭」が開催され前衛音楽家らによる講演・演奏会が行われるなど、数多くの文化活動の拠点となっている。

芸能関係の人物の来訪も多く、歌舞伎役者や映画俳優女優タレント、ミュージシャンらの別荘は数多い。フランス人将軍チャールズ・ルジャンドルを父に持つ、美男子として知られた歌舞伎役者の市村羽左衛門は、軽井沢避暑客の1人であったが、白洲正子によれば、軽井沢で晩年の羽左衛門に散歩の折などに出会うと、浴衣姿で「お嬢さん、遊びに来ませんか」と必ず誘ってくれるような人物であったという[131]ヴァイオリニストの鰐淵賢舟とハプスブルク家の末裔であるオーストリア人のベルタ夫妻は、「フーガの径」沿いの旧チェコスロバキア公使館別荘で夏を過ごした。後に女優となる娘の晴子と朗子姉妹の美しさは、当時有名であったという[132]

このように、人種社会階層に関係なくあらゆる"健全な"人々に対して来訪を許容していた、軽井沢のそのコスモポリタニズムとも言える古くからの土壌が、一種のブランド(後述する「軽井沢ブランド」)を確立させたと言える。その土壌は、他地域との往来が激しかったかつての宿場町としての基盤や、宣教師らによるキリスト教自由主義平等思想から生まれたものであった[55]。現在でも、上記に挙げた人物らの親族や関係者をはじめとして数多くの人々が軽井沢に滞在しており、片山広子が「故郷を持たない人たち、つまり東京人種が無数に軽井沢にあつまつて来てゐた」(1953年)[133]と記したように、外国人にのみならず、日本人にとっても、この地は"第二の故郷"となった。

滞在中はすべての人種と階級を打破って、自由に平等に自然に親しみ人生を楽しまねばならぬ、これ他の避暑地に誇るべき所以の第二である。
佐藤孝一『かるゐざは』[68](1912年)

戦時下の軽井沢

軽井沢のヒトラー・ユーゲント一行(1938年8月24日撮影)
A.レーモンドが設計した『軽井沢聖パウロカトリック教会』の内部。堀辰雄は、ポーランド侵攻の翌日にこの教会でポーランド人の少女が故国を想い礼拝している横顔を見て、ドビュッシーの歌曲「もう家のない子供たちのクリスマス」を胸に浮かばせていた[134]

第二次世界大戦の機運が高まる1938年頃から、在留英米人は別荘を処分して帰国しはじめ、戦争が激化すると疎開者が増えていった[107]。外国人避暑客の中心人物であったダニエル・ノーマンは、長らく軽井沢に居を構え、当地に骨をうずめるつもりで軽井沢外国人墓地に墓所まで購入していたものの、戦局の悪化により本国への引き上げが勧告され、惜しみながらも1940年12月にカナダへ家族と共に帰国、その半年後に故国で死去した[135]。1938年8月にはヒトラー・ユーゲント30名が来訪し、近衛文麿が当地で歓迎会を催した。また近衛は1940年7月、軽井沢の別荘に政治学者の矢部貞治を招き、大政翼賛会の構想を練る[136]太平洋戦争が目前に迫った1941年8月には、オイゲン・オットリヒャルト・ゾルゲが来訪し、町内を視察している。

終戦時には、東條内閣下の公安当局によって、軽井沢がスイスフランスイタリアドイツスペイントルコポルトガルフィリピン中華民国などヨーロッパ、アジア各国の大使館・公使館の疎開先となっていた[137]。現在、その歴史が建造物として残されているのは旧軽井沢の三笠地区、前田郷内にある『旧スイス公使館』のみである。1944年9月、当時朝日新聞専務取締役であった鈴木文史朗は、軽井沢に旧知の駐日スウェーデン公使ヴィダール・バッゲスウェーデン語版を訪ね会談、米英との和平の斡旋を依頼した[138]。のちに「バッゲ工作」として知られる。また時を同じくして、カミーユ・ゴルジェドイツ語版大使率いる軽井沢のスイス公使館も和平工作に奔走し、ポツダム宣言受諾の方向で話が進められた。

そのほか、数多くの駐日外国人が日本政府から強制疎開地として指定された軽井沢に疎開し、事実上の軟禁生活を送った。終戦時には約300人の外交官に加え、2千数百人の一般外国人が軽井沢に滞在していたと言われている。なかでもアジアオセアニア地域の米英領にいた大量のドイツ人や、ロシア革命によって日本に亡命していた多くの在日ロシア人が軽井沢に抑留された。当地に疎開した外国人の中には、指揮者のヨーゼフ・ローゼンシュトックマンフレート・グルリットクラウス・プリングスハイムピアニストレオニード・クロイツァーレオ・シロタ声楽家渡邉シーリ、ヴァイオリニストのアレクサンドル・モギレフスキー小野アンナチェンバリストエータ・ハーリヒ=シュナイダー英語版レーゲントヴィクトル・ポクロフスキー英語版、学者のフリッツ・カルシュテオドール・シュテルンベルク英語版、タレントのロイ・ジェームス、俳優のオスマン・ユセフプロレスラーユセフ・トルコ野球選手ヴィクトル・スタルヒン画家ワルワーラ・ブブノワポール・ジャクレー、写真家のフランシス・ハール英語版料理人サリー・ワイルジャーナリストロベール・ギランなども含まれていた[28][139]

この時期については、連合国側に中立地帯として正式に通告していたことから空襲に遭う恐れこそなかったものの、軟禁中の厳格な監視下の圧力に加え、戦時中のために食料の供給が十分でなかったことや、軟禁生活の通年拠点が夏仕様の別荘であったことなどから、抑留外国人にとって非常に厳しく過酷な生活であったと伝えられている[140]。特に終戦直前の1945年7月には外国人の強制疎開が強化され、それにより受入大勢が整わぬまま東京大空襲などで首都圏から追い出された外国人が軽井沢になだれ込むなど、現場は混乱を極めた[141]。国籍はさまざまでありながらもキリスト教信者であった彼らの多くは、日曜になると教会に集い、各々が故国に向けて祈りを捧げた。

流人のように惨めな境遇に落とされたにも拘らず、軽井沢に移った当初わたし達は、まことに快適な愉しい気持になれたのでした。(中略)折からの新緑に包まれていた風光は中部ロシアの初夏を憶い出させてくれましたし、東京の騒音、空襲警報のサイレン、それに警察や憲兵の圧迫がないことが何よりわたし達に蘇生の思いをさせてくれ、(中略)たのでした。だが、しかし、まだ喜ぶのはまだ速すぎたのです。それというのはやがて特高憲兵たちもまた大挙して移駐して来たからであります。そして彼らの東京時代に輪をかけたような禁令と監視とが、精神的にも物質的にもわたし達を非常に惨めな生活に陥れて行ったからです。
ヴェ・ブブノーワ[注 28]『戦時下日本での私達』[142](1955年)
われわれの士気にもっと悪い影響を及ぼしたものは、われわれ追放者たちが毎日-そして毎夜-感じていた身の不安であった。戦争が刻々日本へ迫って来るにつれ、特高は増々神経を尖がらせ、誰も彼もが皆容疑者になってしまった。(中略)だが、軽井沢の住人は概していつでも友好的であるか、少なくとも外国人に対しては無関心であったことを強調して置きたい。
ヨーゼフ・ローゼンシュトック『ローゼンストック回想録――音楽 はわが生命(中村洪介 訳)』[143](1980年)

戦時中のシロタ夫妻の疎開先となった別荘は、前項で述べた有島武郎が心中した舞台「浄月庵」であった[144]。1945年12月、娘ベアテはこの別荘で憔悴しきった母と4年ぶりの再会を果たしている[140]。軽井沢に同じく抑留されたフランス人画家のポール・ジャクレーは、戦後もこの地を離れることなく、生涯を終える1960年まで軽井沢に残り絵を描き続けた。敬虔なクリスチャンであったジャクレーは、得た収入の多くを軽井沢の教会や幼稚園に寄付した[145]

近衛文麿、鳩山一郎来栖三郎(妻がイギリス系アメリカ人)、向井忠晴内田信也伊沢多喜男寺崎英成(妻がアメリカ人)、砂田重政川崎肇東郷茂徳(妻がドイツ人)、坂本直道陸奥イアン陽之助(母がイギリス人)、堀口岩子(堀口九萬一の娘、母がベルギー人)といった、軽井沢に馴染みのあった日本人も外国人とともに数多く疎開し(身内に欧米人がいる者にとって、自国民からの敵国人差別を免れる目的もあった)、政界の重鎮らは日夜和平工作に関して私的に会談を行っていた。

片山広子やW.M.ヴォーリズ、上皇后美智子、マルセル・ジュノーなどは、上述の人物らとともに当地で終戦を迎えた。東郷茂彦東郷和彦朝吹由紀子は、母親である東郷いせ朝吹登水子が軽井沢に疎開していたため、戦時中に先述の『軽井沢サナトリウム』で誕生している。安川加壽子も同病院で1945年に長女を出産した。医師の日野原重明は、軽井沢の診療所で疎開者を診察、同じく医師の神谷美恵子は別荘に疎開しながら、東京の病院との往復生活を送った。そのほか室生朝子坂野惇子清沢洌篠沢秀夫緒方貞子などが、軽井沢での疎開を経験している。

終戦後、米軍のロバート・アイケルバーガー中将は、軽井沢を視察して気に入り、当地を占領軍のレストセンターにすることを決定、町内のホテルやゴルフ場、大規模別荘が接収された。その一方で、軽井沢は子爵夫人鳥尾鶴代GHQの要人チャールズ・L・ケーディスの逢引きの場ともなった。

戦後の俗化と失われなかったイメージ

軽井沢に重大な変化が起こったのは、日本人避暑客が増加した大正-昭和初期や、疎開地となった戦時中ではなく、むしろ戦後になってからのことであった[107]。敗戦後、西洋風のホテルや別荘などはすぐに米軍に接収され、数年後徐々に接収が解除され始めてからも、軽井沢の生活は、容易には戦前の水準には戻らなかった。このような戦後の軽井沢の混乱は、戦前の軽井沢では見ることのできなかったパチンコ屋バー、そしてトルコ風呂などを出現させた[107]。この戦後の軽井沢の急激な堕落とも取れる変化は、戦前の軽井沢の高級で厳格なイメージがしっかり残っていたからこそ、余計に印象的となった[107]

1951年には、町当局と別荘滞在者が東奔西走し、国に先駆けて「売春取締条例」が制定され、国から「国際観光文化都市」にも指定されたものの、混乱はまだ収まっていなかった。1953年、当時の混乱を示す事件として、米軍演習地誘致の問題が発生した。この事件に対する住民の反対運動をきっかけとして、戦後の軽井沢の風紀の乱れを直そうという機運が起こり、それが同年8月の『軽井沢文化協会』の設立や、1958年の、風俗営業や夜間営業を禁止し、騒音を防止する『軽井沢町の善良なる風俗維持に関する条例』 の公布となって現われた[107]

昭和30年代の高度経済成長期に突入すると、軽井沢には再び別荘ブームが起こったが、それと同時に1952年以降の『軽井沢スケートセンター』を含むスケートリンクの増設や、1959年の皇太子御成婚(テニスコートのロマンス)などから、観光客が急激に増加し、軽井沢に再び活気を与えた。新興別荘地の造成やリゾート施設の建設は、戦前から活発に行われていたが(ただし戦後は過激化したことにより、環境破壊という新たな問題を引き起こした)、一方で観光の大衆化は、軽井沢に戦前には見られなかった新たな問題を引き起こした。大量の観光客の流入が、閑静な避暑地であった軽井沢の環境を変え始めたのであった[107]

凶悪犯罪こそないけれども、犯罪発生件数で長野県下第一位、窃盗被害額においても首位を占めるという町、それが "国際観光文化都市"と称し、外人宣教師によって開かれた清教徒的避暑地であり、多数の金持や知識人が集まることで有名な軽井沢であるといったら、誰しも奇異の感を抱くであろう。しかし残念ながらそれが最近の軽井沢の真の姿なのである。
中屋健弌「軽井沢のいやらしさ」[146](1958年)
今年から夏でもアイススケートのできるスケートセンターには若者たちが群がり、ジャンスカ音楽のレコードが鳴り響く。(略)ここ二、三年のうちにみるみる町の姿が変った。おまけにバーが五、六軒、キャアキャア笑う女給の声が聞えるにおよんで、別荘人種はキューッとマユをツリあげた。
朝日新聞「大衆化する軽井沢 別荘人種ハラハラ」[147](1959年)

当時の新聞雑誌には、こういった現象に関する記事が、毎年夏になると必ず取り上げられている。大衆の読物である新聞や雑誌に、軽井沢の俗化の記事が取り上げられること自体、大きな意味を持っており、それは軽井沢のイメージが、戦前の一部の日本人の枠を越えて一般庶民にも普及し、より広い社会集団のレベルで定着してきたことを示していた[107]。加えて、このような記事があちこちで書かれることによって、軽井沢はさらに知名度を増していく。また記事に見られる差別的ともとれる表現は、「高級避暑地 ・別荘地」としての軽井沢のイメージを強化しこそすれ、そのようなイメージを壊すものではなかった[107]。実際、現実の軽井沢は大衆化し続けたにもかかわらず、後述するように既に定着した軽井沢のイメージは、その後も依然として残っていった。それは文学作品にも現れており、戦後の軽井沢を舞台にした作品において描かれる軽井沢のイメージの多くは、依然として別荘、テニス、乗馬などで彩られる、上流階級の避暑地としてのそれであった[107]

その後の軽井沢の状況も、アンノン族の来訪に代表されるように、大量の観光客が押し寄せ、メディアが一大観光地として頻繁に軽井沢を取り上げている点で、これらの延長上にあると捉えられるが、特徴的なのは、1975年前後から前述のような軽井沢の大衆化を主題とした記事は少なくなり、むしろ軽井沢にいわゆる別荘族と日帰りの一般大衆がいるのは当たり前とする論調のもの、さらには軽井沢の高級さを強調するものが増えてきたことであった[107]。いわば「限られた人々の避暑地」「高級別荘地」という固定化された軽井沢のイメージは、明らかに大衆化が進んだ現在においても一向に失われておらず、ましてや以前にも増して強調されている可能性もある[107]。それは、「軽井沢」という明治期以来の場所イメージの記号化が、それを享受する社会集団のレベルを広げつつ、未だ途絶えていないことにある[107][148]

なお小説家の石坂洋次郎は、戦後に発表したエッセイにおいて「避暑地としての軽井沢は俗化したといわれているが、高原の林の中の山荘で、家族ぐるみ転地生活をしている人々には、そうした雰囲気があまり感じられない」と記しており、その理由として、「観光客が集まる付近の名勝地にいまさら出かける気もしないし、暑い昼日中、日帰りや一晚どまりでくる見物客でにぎわっている町中に出る機会も少ないし、うちでつくるおそうざい料理で三食をすませて、あとは庭の木陰で本を読んだり、ベッドで昼寝をしたり」といった生活を送るためだという[149]。石坂はこのほかにも、軽井沢の俗化について自著で度々言及しており、一貫して、家族単位・家族連れで山荘生活を送ることが本来(欧米式)の軽井沢での過ごし方であって、「解放的な服装をした若い男女の姿が多く見かけられる」のは俗化の象徴とし、それを自身の作風に反して嫌っていた[149]

別荘文化

「娯楽を人に求めずして自然に求めよ」と是が軽井澤の至る所に於て叫ばるゝ標語である。故にこの唯一の標語の下に、避暑地として世に知られてより、今日に至るも猶藝娼妓[注 29]を許さずまた此の種の婦人を容れずして、飽くまでも善良なる風習を保つに腐心するは、これ他の避暑地に誇るべき所以の第一である。
佐藤孝一『かるゐざは』[68](1912年)

現代における一般的な別荘の利用方法である週末連休のみの滞在と異なり、かつては初夏になると生活拠点を完全に別荘に移し、秋口にかけて家族生活を営んだ。つまり、避暑客は少なくとも1ヶ月以上をその地で過ごすことになり[150]、彼らの生活様式が地域に文化として定着するのは、決して不思議なことではなかった。

「軽井沢ブランド」の形成

軽井沢は、「別荘地」「高原リゾート地」としての都市イメージが非常に高い地域であり、「軽井沢ブランド」とも呼ばれている[151]。外国人避暑地の中でも初期から日本人に広く開放され、外国人と日本人の間で積極的に交流が行われていた軽井沢は、伝聞により国内外の著名人が次々と訪れ、それに伴って都市開発が洗練されていったため、ブランド力は他に比べて強固なものになっている。

なかでも宣教師がもたらしたキリスト教精神は、「軽井沢ブランド」の方向性を大きく決定づけることになった。自治組織『軽井沢避暑団』によって1916年に"善良な風俗を維持し清潔な環境を築く"ために制定された「軽井沢憲章」は、現在に至るまで守り続けられている。町内における風俗営業、歓楽街の排除は現在でも続けられているほか、かつては避暑外国人の自治会が品物の原価を調べて売値を制限したり、あるいはキリスト教の教義に従って、日曜にはテニスコートを閉鎖したり商店に休業を求めたりもしていたという[55]。このキリスト教精神によって、富裕層の来訪はノブレス・オブリージュと結び付けられ[注 30]、また作家たちがそういった雰囲気を美しく描写したことで、よりいっそう軽井沢が「文化の理想郷」のイメージとして大衆に普及、固定されていった[152]

「同じブルジョアでも軽井沢へ行く人は、ちょっと違うようだな。皆んな変な洋服を着たような奴ばかりで、ぞろり[注 31]とした風をしてるものはいないそうで。芸者だとみると、何なに素人風をしていても追払うんだって。だから子供なんかつれて行くにはいいんです。御父さんなんかにや実に詰んないところだそうだ。是非一度来てみろというから…。」
徳田秋声『暑さに喘ぐ』[153](1926年)
村には数軒の純洋風のホテルがあり、毎週そこで舞踏会が開かれ、あをあをと芝生の起伏したゴルフ・リンクスでは、キャディが球を追ひ駆けてゐる。小川にそった繁みの奥には、静かなサナトリウムがあり、教会では日曜日毎に賛美歌が歌はれる。日曜日には本通りの店屋も、多くは戸を閉め、何時も賑やかなテニス・コートもひっそりとして、村ぢゅうが休憩をする。村を避暑地として開拓した宣教師たちの風習が、謹厳な古風な秩序となって残ってゐるのだ。
丸岡明『生きものの記録』[154](1935年)

一方で理想的な軽井沢を創造していくにあたって、宣教師たちは憂慮や苦悩も経験していたようである。イギリス人宣教師パゼット・ウィルクスは、「軽井沢はキリスト教が布教されやすい土壌であるにも関わらず住民にはほとんど布教されていないこと」、また「軽井沢の住民が外国人向けの商売に専念し宗教に全く興味を示さないこと」などを、以下のように悲嘆している。ここに神戸や横浜などの外国人居留地とは異なる、避暑地・別荘地特有の様相を見て取ることができ、またかつての商人気質な宿場町の趣がその当時まで色濃く残っていたことも理解できる。

KARUIZAWA, June 6, 1912. -Here I am in Karuizawa-a village of about 750 people, dirty, untidy, wicked, and irreligious. The one and only temple has been turned into a school ; their god is their belly ; they make all the money they can during the two summer months when nearly 1000 "foreigners" come for their holiday. They spend the remaining ten in gambling their takings. Such a place ought to be an excellent pond for Gospel fishing ; but, alas ! the inconsistencies of us foreign missionaries, many of them real no doubt, but more of them imaginary ; […] .(1912年 6月6日 軽井沢にて。私はここ軽井沢にいます。約750人の村で、〔住民たちは〕さもしく、いい加減で、不道徳で、信心深くありません。唯一の寺院が学校になりました。彼らの神は彼らの食欲です。彼らは、休暇のために1000人近くの「外国人」が来る2つの夏の月の間にできる限りのお金を稼ぎます。彼らは残りの10を賭けに使う。このような場所は、ゴスペル釣りに最適な池になるはずです。しかし悲しいかな ! 私たち外国人宣教師の矛盾、彼らの多くは間違いなく本物ですが、しかしその多くは虚像になっているのです(後略)。)
パゼット・ウィルクス『Missionary Joys in Japan』[155](1913年)

また、軽井沢では飲食店が別荘地内に点在していたり、旅行ガイドブックに掲載されている散歩コースやサイクリングコースが別荘地内を通っていたりと、他の別荘地に比べ混在住宅地の様相を見せている。この構造は、観光客というパブリックな視点が生まれることで住民の生活意識向上、地域のブランド力向上に働く。そのほか観光客へのプロモーション意識が景観維持・都市イメージ維持に貢献するなどの利点がある。

しかし一方では、地域文化と観光資源の境界が曖昧なために治安悪化や観光公害、オーバーツーリズムなどの影響を特に受けやすく、大衆化・俗化が進行する恐れがある[156](実際には、上記の利点も寄与することからその作用は拮抗することが多く、軽井沢町も条例を定めるなどの対策を講じ過度な商業化の抑制に努めている)。

別荘の所有率は普通世帯全体のわずか0.7%であり[157]、また年収2000万円以上の世帯においても7.6%という割合に留まりながら[158](前者は2019年、後者は2008年のデータ[注 32])、町内に存在する別荘数は2015年の時点で1,5835戸(学校寮、会社寮を除く)となっており[159]、町内における持ち家数5,717戸[159]と比較すると圧倒的に別荘数の方が多く、明らかに特殊な町となっている。固定資産税の比率も別荘所有者が70 - 80%の割合を占めており、軽井沢町は、別荘とそれに付随する観光で成り立っている町と言えるのである[160]

しかしながら、地域政策の場面において別荘所有者の発言力が限定的になっていることが指摘されており、近年では「軽井沢ブランド」の低下が危惧されている[160]。なお別荘数の推移は、2010年から2019年までのデータでは常に緩やかな上昇を記録している(学校寮、会社寮は共に減少)[159]

別荘コミュニティ

軽井沢には、『軽井沢会(元・軽井沢避暑団)』をはじめとした別荘団体が複数活動している。これらはかつての「外国人同士の情報交換の場」から「(サロン的な意味合いを持つ)別荘所有者同士の交流の場」へと変容しており、この別荘コミュニティが「軽井沢を特色づける文化」とされている[161][162][163]。ただし実際には、他の地域においても少なからず別荘コミュニティは存在しているため、歴史の長さ・格式の高さ(通俗的に言うならば、著名人の多さ)としての特色が強い。

町内には別荘地が数多く存在し、またその多くは明確に区分されているにも関わらず、町全体を一つの別荘地として認識しコミュニティが形成されているのも他方の特色として挙げられる[164]。その多くが任意団体であるが、会員制や紹介制といった排他的な構造を有するために軽井沢のブランド力向上に一定の役割を果たしている。また上記の機構から、会員は"軽井沢に別荘を所有する者の代表者"的な意味合いを含み、一般的な住宅地でいう町内会としての役割も担っている。

オープン外構(塀を造らないこと)は、別荘コミュニティの形成に重要な働きを持つほか、パブリックな視点が生まれることで混在住宅地と同様の効果をもたらす。かつては、1階にベランダをもつ開放的な別荘が塀なしに並び、そこには明らかに外国人とわかる人々が夏期休暇を楽しんでいた。これは外部の者からすると、木立の中に建物がぼつりぽつりと建つ別荘地の小径を歩くにつれ、外国人がお茶をしながら談笑する光景を見ることができたはずであり、このように外国人の生活の様子が可視化されていた特徴的な対人的環境であったために、他の外国人や日本人を引きつけたと考えられている[87]。一方でこの環境は、欧米人の間で「プライバシー」という認識が存在していたが故に成立していたことも明らかであった。地理学者田中啓爾は、「外人別荘は殆ど例外無しに二階建てであるのは、昼夜の居間と寝室とが別でなければならぬことに、二階の必要を感じている」と記しており[165]、また川端康成は「軽井沢の隣人としては私は西洋人の方が好きである。この高原の習ひとしての色彩でもあるし、井戸端会議的に家のなかを覗かれなくて気楽だからでもある」としている[166]

西洋的な余暇・文化の定着

大正期以降、日本人避暑客の来訪は増加していったが、日本人が増えたとは言っても、軽井沢が当時の日本の中で特殊な場所であったことに変わりはなかった[167]。むしろ軽井沢を訪れる日本人は、既に自分たちの意識の中に固定されていた軽井沢のイメージに従って、ここに住む西洋人と同じような生活を演ずる風にさえ見受けられた[167]。軽井沢は日本にありながら日本らしくない土地であり、非日本的イメージを保ち続けた不思議な場所だったのである[167]

レクリエーション/スポーツ
『軽井沢会テニスコート』でテニスを楽しむ外国人避暑客ら
『旧軽井沢ゴルフクラブ』でゴルフを楽しむ裕仁親王ら一行(1922年8月撮影)
雲場池[注 33]で水遊びする外国人少女達
ハイキングやサイクリングは古くから親しまれ、古写真や文学などにその姿を認めることができる。また特徴的なのは、戦前に外国人を中心として西洋式余暇を企画・運営していた団体は、そのほとんどが外国人専用であったにも関わらず、軽井沢では日本人にも解放されていたことであった[168]
テニスコートは、1892年創設の『軽井沢会テニスコート』が、前述したように「ロイヤル・ロマンスの地」として知られている[169]。明治期の『軽井沢テニスクラブ』日本人入部者としては、西尾忠方、黒田長和、松平慶民竹屋春光などがいる。夏の最盛期に開かれるトーナメントでは、日本人と外国人に分かれて対抗戦が行われることもあった[75]。朝吹常吉の妻朝吹磯子は、関東大震災の影響で軽井沢の別荘に逗留していた際、原田武一からテニスの手解きを受けたことでテニスに夢中となり、後に日本女子テニス界の草分け的存在となる[170]
ゴルフ場は、1919年に初めて『旧軽井沢ゴルフクラブ』が創設されて以降開発が進み、1976年には総数147ホールに達した[171]。『旧軽井沢ゴルフクラブ』では、「徳川杯」や「細川杯」といった名称でコンペが開かれることもあった[75]。ともに名門ゴルフコースの一つである『軽井沢ゴルフ倶楽部』では、白洲次郎が理事、理事長を歴任した(1952年に理事、1982年に理事長に就任)[172]。当時首相であった田中角栄が、ある日曜日に駐日米国大使を引き連れてこのゴルフクラブに到着したところ、「日曜日はメンバーズオンリー」という理由から、白洲に飛び込みでのプレーを断られたというエピソードは有名である[173]。また1950年代から1970年代にかけて、『軽井沢ゴルフ倶楽部』で石坂洋次郎、吉川英治、川口松太郎三益愛子獅子文六邦枝完二宮田重雄佐佐木茂索池島信平ら文士たちがこぞってゴルフに興じ、この集まりは「文壇ゴルフ」と呼ばれた。1987年からは、女子プロゴルフ選手権「NEC軽井沢72ゴルフトーナメント」が毎夏『軽井沢72ゴルフ北コース』で行われており、夏の風物詩の一つとなっている。
乗馬は、かつての西洋人の娯楽として、また上流階級の嗜みとして、ゴルフやテニスとともに軽井沢では人気のスポーツであった。正宗白鳥は、1942年の随筆に「十数年前、私が最初この土地で夏を過した時には、江木欣々女史の乗馬姿や尾崎行雄氏一族の乗馬振りが、土地の名物として衆人の目を惹いていた」と記している[20]。明治 - 大正期から続く歴史のある乗馬クラブなどは現存しないが、現在でも町内に数件ほど乗馬施設がある。なお1964年の東京オリンピックでは、軽井沢で総合馬術競技が行われている。欧米のペット文化も古くから根付いている。正宗白鳥は、前述の随筆に「商店の広告や、失せ物拾い物の知らせのそばに、動物愛護会や人道会の主意書の掲げられているのは、いかにも軽井沢らしく思われる」と記している。しかしそれに続けて「動物愛護会の説によると、馬の貸主が羸弱な馬を連れて来ては酷使しているのだそうである」とも、「も一つの人道会の主張によると、避暑客は飼犬の多くを、帰京の時に打っちゃらかして行くらしい」とも記している[20]。どちらも協会による大仰な主張ともとれるが、後者に関しては、近年でも時折問題となっており、その解決を目的とした団体も町内で立ち上げられている[174]
他にも野球クリケットバスケットボール水泳登山、ピクニックなどは、かつての軽井沢では親しまれた。1908年には、これらのスポーツ組織が集まって『軽井沢運動協会』が結成されている。野外劇やダンスパーティー、音楽会(別項で後述)、チェス大会なども開かれていたようである[75]。第126代天皇の徳仁は「山好き」として知られているが、人生で初めて登った山は、5歳のとき父・明仁に手を引かれ足を踏み入れた、離山であった[175]皇后雅子が初めてゴルフを経験したのも、幼少期に滞在した軽井沢である(実家が別荘を所有)[176]秋篠宮文仁親王親王妃紀子もまた、1990年代には、軽井沢でテニスに興じたり、子女を連れて『矢ヶ崎公園』を散策するなどしている。
ウィンタースポーツとしては、スケートリンクは歴史が古く、1907年に初めて新軽井沢でオープンしているが、スキー場は降雪量の少なさ故に、後にも先にも1973年に開設された『軽井沢プリンスホテルスキー場』(人工降雪機を使用)のみである。
かつて旧軽井沢に存在した近衛文麿別荘[注 34]とその前に佇むイスパノ・スイザ(1940年7月撮影)
道路のインフラが整備されて以降は自動車イベントの開催地としても使われはじめた。軽井沢では大正期の時点で既に付きの自動車やブガッティなどのオープン・スポーツカーが数多く見られたといい[177]、そういった自動車文化と古くから縁のある土地柄から、特にクラシックカーイベントは町内で春から夏、秋にかけて毎年頻繁に催され、その西洋的な情景は人気を集める[178]
政治家の細川護煕によれば、軽井沢に初めて自動車を乗り入れたのは、ハイカラとして知られた父方の祖父・護立であったといい、別荘敷地内にある並木の中を愛車で走り回っていたという[179]。護煕はまた、母方の祖父・近衛文麿の自動車で軽井沢に訪れることも多かったといい、その道中における当時の碓氷峠の道の悪さを冗談交じりに回顧している[179]
白洲次郎は、晩年においても自ら愛車ポルシェ・911を駆り、自宅から軽井沢へやってきたという[180]自動車評論家小林彰太郎や、世界的フェラーリコレクターの松田芳穂もまた、軽井沢にガレージを所有していた[181][182]。中でも小林彰太郎は、雑誌の取材に対して「クルマのない軽井沢ライフなんて」と述べるほどであり、愛車のブガッティ・タイプ23 ブレシアオースチン・7で別荘周辺をよくドライブしていた[178][183]。小林と交流のあった久米宏は、「濃い緑の中を駆け抜けるオースチンセブン。ハンドルを握る彰太郎氏は少年そのものだった」と回顧している[183]
2019年にイギリス王室マイケル・オブ・ケント王子が軽井沢を訪れた際には、自らアストンマーティンベントレーのハンドルを握り町内をドライブ、そして「軽井沢は、その立地、美しい風景、そして日本でのクラシックカーへの関心の高まりを考えると、コンクール・オブ・エレガンス[注 35]を開催するのに理想的な場所になるだろうと確信しています」とコメントした[184]
また浅間山麓の高峰高原で毎年開催されている『浅間ヒルクライム』は、星野温泉の初代経営者星野嘉助(3代目)が尽力した二輪レース「浅間火山レース」に端を発しており、現在でも親族の一人星野雅弘が実行委員長を務めている[185]。なお軽井沢の星野家宅には、先述の小林彰太郎や松田芳穂など自動車業界のビッグネームたちが日常的に入り浸っていたという[186]
衣食
別荘の庭で食事会を楽しむ宣教師のノーマン一家とウォーラー一家(大正初期)
商店が立ち並ぶ旧軽井沢メインストリート(1930年代)
初期にこの地を訪れた西洋人たちは、地元の農家に清澄な土地に合ったキャベツクレソンルバーブなどの西洋野菜の栽培法を教えた。これらは浅間高原の清涼な気候と風土に適していたため、その生産高は年を追う毎に増大し、それまでのヒエアワなどの雑穀類生産の細々とした農業から、今日ある高原野菜へと転換していった[187]
同時に西洋の料理レシピも教えられ、ホテルで振る舞われたほか、個人的な出店も見られた。外国人の生活基盤は、住民が日用必需品を満たす商店を開業したことで整った。これらの店の多くは宿場町時代の旧道に連なり、商店街(旧軽井沢メインストリート)として隆盛していった。1912年には、新軽井沢も含めて西洋野菜やパン食肉牛乳などを販売する食品雑貨店が16軒、土産美術工芸品店が3軒、洋服販売店が2軒、写真館が2軒、ランドリーが1軒となる[55]。他にも聖書洋書を売る本屋や、京浜京阪および上海などの洋品店や骨董品店が住民から店舗を借り受け、夏季に出張営業した。都市圏からやってきた洋品店は、中国大陸や日本の地方都市から来た外国人にとって、最新デザインの洋服を購入できる貴重な機会であった[55]。現在でも旧軽井沢メインストリート沿いには、明治期から続く老舗が多く存在している。
軽井沢を故郷ドイツに似ていると感じ、1950年に当地で精肉店をオープンした、ドイツ人実業家ヘルマン・ウォルシュケによる、直伝の製法を受け継ぐ店が軽井沢で営業しているなど、外国人から学んだレシピを今日でも受け継いでいる食品販売店や飲食店は少なくない。かつてのロシア人避暑客・在住者がもたらしたピロシキなどの郷土料理は、今日まで伝えられている。またジョン・レノンが『万平ホテル』のカフェに英国流ロイヤルミルクティーの製法を教えたことは、近年の逸話として知られている[188]
飲食店は、駅前や大通りのほか、別荘地内にも点在し、またその大半は西洋料理である。日本のフランス料理界を牽引した山本直文辻静雄は、頻繁に軽井沢を訪れ、軽井沢の食文化の発展に貢献した。気候が西洋に似ているとして、材料を自家栽培している店があるほか、都市圏の人々が別荘に来るため、東京などから出店する形を取っている店は伝統的に多い。価格設定も都市圏と変わらず、巷では「東京24区」「軽井沢値段」とも言われている(別荘住民の金銭的余裕からという理由もあるが、観光的な面からも価格設定は概ね高めとなっている) [189]。近年では逆に、軽井沢で開業した店舗が首都圏に進出する例も多い。他にも最近では、都市圏と同様にカフェも店舗数が増加し激戦区となっている[190]
スペインミシュラン三つ星シェフエネコ・アチャ・アスルメンディは、「軽井沢は自然が美しく、心身がリフレッシュできる場所。食材も豊富でビルバオに似ている部分もある」とコメント[191]、またフランスの同じくミシュラン三つ星シェフ、ミシェル・ブラスとその息子セバスチャン・ブラスは、「自然の豊かさ、雑木林そして浅間山と広がる景観は、どこかしら本店のあるフランス・ラギオールに似ています」と話し[192]、それぞれ2019年と2020年に、軽井沢に新店舗を進出させるなど、近年ではその熱視線が"再び"海外からも及んでいる。
There are two churches, simple, but well appointed, a tennis club, golf links, stables for horses, and two or three large hotels, which give good accommodation. Grocers, butchers, and other tradesmen from Tokyo go up for the summer, and, greatest boon of all, there is generally a dressmaker's establishment in the village.(シンプルですが設備の整った2つの教会、テニスクラブ、ゴルフリンク、馬小屋、2軒から3軒の大きなホテルがあり、宿泊施設が充実しています。東京から食料品店、肉屋、その他の商人が夏に向けて出店し、何よりも恩恵として、村には通常洋裁店が設立されます。)
アーサー・ロイド『Every-day Japan』[42](1909年)
音楽
『軽井沢ユニオンチャーチ』の前に集う外国人避暑客とその子供達
軽井沢の音楽文化は、宣教師らによるキリスト教音楽クラシック音楽の影響がうかがえる。旧軽井沢にある『軽井沢ユニオンチャーチ』は当時から音楽堂として使用されていた。この建物のある通りは、当時の呼び名から「オーディトリアム通り」と名付けられており、現在でも夏になると大勢の外国人が集まり、定期的にコンサートも開かれている。旧軽井沢にある『軽井沢集会堂』(1922年竣工)もまた、避暑団体『軽井沢会』による催し物として、同じく古くから音楽会が開かれている。宣教師のC.T.アレクサンダーは、賛美歌を作曲し、軽井沢の教会でも進んで演奏した[55]。かつての小説や随筆の多くに、通りかかった教会から聖歌や賛美歌が聞こえてくる様子が描写されており、現在でも町内に点在する多くの教会で歌われている。堀辰雄は、軽井沢を散歩していた折に、チェコスロバキア公使館別荘から洩れてくるバッハの『フーガ ト短調 BWV578』(小フーガ)を聞き、小説『美しい村』の形式を思いついたという[193]
戦時中には、前述したようにヨーロッパの高名な音楽家が多く軟禁されていたが、その内の一人であるレオ・シロタは、ピアニストの松原緑(後の大賀典雄夫人)に疎開中の軽井沢で音楽のレッスンを行っていた[28]。小野アンナやエタ・ハーリヒ・シュナイダーもまた、演奏会をしていたという記録がある。なおシロタは、疎開する以前は軽井沢避暑客の1人として知られ、ラトビアチェリスト、ローマン・ドゥクストゥルスキーと軽井沢で室内楽の練習を行ったとの記録もある[194]
宣教師の両親を持つアメリカ人音楽教育家のエロイーズ・カニングハム(1899 - 2000)は、生涯に亘り日本の地でクラシック音楽の啓蒙に努め、また軽井沢を愛した。ときに妹と演奏する美しいメロディが別荘から林の中に響きわたった。1983年には、音楽を愛し音楽を学ぶことを目的とした若者たちのために、私財を投入し[注 36]、南ヶ丘に練習場兼音楽ホール「ハーモニーハウス」を建設した[196]
ソニー名誉会長の大賀典雄は、別荘所有の機会をきっかけに、妻・松原緑の「音楽が似合う軽井沢には上質なホールが必要」という言葉と大賀の音に対する理想を実現するため、2005年に『軽井沢大賀ホール』を開館した[197]。大賀は「爽やかな風と美しい自然にめぐまれた軽井沢に来ると心も身体も生き返ります。唐松の林を散策しながら小鳥の声を聞けば、ベートーヴェンのように音楽が心に浮かんできます」とし[198]、「軽井沢が、音楽面でオーストリアのザルツブルクやスイスのルツェルンのような町になってほしい」ともコメントしている[199]

物語が生まれる町

山奥にあるヨーロッパ調の小さな村に、夏の期間のみ異国人や上流階級が集うという特殊な様相であったことから、小説、映画など数多くの作品の舞台となり、また実際に、これまで述べてきたように数多くのエピソードが軽井沢で生まれている。軽井沢が登場する小説としては、古くは堀辰雄の『風立ちぬ』(1938年)や三島由紀夫の『仮面の告白』(1949年)、近年では小池真理子の『』(1995年)などが著名である。北原白秋の詩『落葉松』(1929年)は、星野温泉に滞在した際のカラマツ林の光景を描いたものと言われている[200]

深い森や霧の情景に山荘、洋館、教会が点在している様と、避暑客のハイカラで大正ロマンなイメージ像などが相まって、ミステリーサスペンスラブロマンスの舞台としても軽井沢は頻繁に登場する。著名なものに、三島由紀夫や横溝正史、松本清張内田康夫らの作品がある。スタジオ・ジブリ作品では、『風立ちぬ』(2013年)に軽井沢が登場しており、また『思い出のマーニー』(2014年)に登場する屋敷は、『軽井沢タリアセン』内にある朝吹常吉の別荘『睡鳩荘』[注 37]が初期イメージスケッチの参考になっている[201]。戦後は、軽井沢が日本における教会ウェディングの先駆的存在となり、この地で著名人も数多く式を挙げている。

その高原へ夏ごとに集まってくる避暑客の大部分は、外国人か、上流社会の人達ばかりだった。ホテルのテラスにはいつも外国人たちが英字新聞を読んだり、チェスをしていた。落葉松の林の中を歩いていると、突然背後から馬の足音がしたりした。テニスコートの付近は、毎日賑やかで、まるで戸外舞踏会が催されているようだった。そのすぐ裏の教会からはピアノの音が絶えず聞えて。…
堀辰雄『麦藁帽子』[202](1932年)

まちづくり

町による『軽井沢町の善良なる風俗維持に関する条例・要綱』や『軽井沢町の自然保護のための土地利用行為の手続等に関する条例及び軽井沢町自然保護対策要綱』、また県による『長野県景観条例』などの各種条例要綱によって、良好な景観又は風致を維持するためのまちづくりが行われている[203]。建造物の高さや外壁屋根の色彩、屋外広告物の形状や面積、店舗の営業時間など、あらゆる場面で独自の制限が課せられている。

#大規模開発の起こり」でも述べたように、軽井沢は寒冷地で元々農耕に適さない不毛な土地であったことに加え、江戸時代が終わると宿場町としての機能を失い歴史的な街並みも消失したことから、いわば明治初期の軽井沢は何色にも染まる白いキャンバス状態になっていた[204]。その中で偶然にも一人の宣教師が軽井沢を訪れ、避暑地・別荘地として土地を新たに開拓していったために、まちづくりは特殊な経緯を辿った。

別荘という新たな文化が根付き、「日本の中の西洋」と言われるまでに西洋色・キリスト教色の強い町となり、そして町全体がリゾート地として開発されていった。現在の軽井沢の風景や観光名所は、その多くが避暑地として見出されて以降、人の手によって造り上げられたものである(景勝地として知られる雲場池や白糸の滝もその例外ではない)。

建築様式

明治期は、宣教師の清貧で質素な生活様式を反映した建築物が多く造られた。一般に「軽井沢バンガロー」と呼ばれている[205]。これらの建築物において特筆すべき点は、建物の随所に日本的な装飾が施されていることである。ごく初期には、既存の民宿や民家の日本家屋を改装して別荘にした例も多かった[24]。日本人の設計・施工による純西洋建築である『旧三笠ホテル』が建設されたことなどを考慮すると、文化の調和を目指す双方の意図を汲み取ることができる。

明治後期になると、屋根付きテラスが出現し、それに伴い、玄関ポーチからテラスに向かって屋根が連なる「カバードポーチ」タイプが、軽井沢の典型的な建築様式となった。この屋根付きテラスによって、避暑客は軽井沢に多い雨や霧などの天候を気にすることなく、テラスで食事や談笑を楽しむようになった。アーリーアメリカン調の板張りや、ヨーロッパの田園地帯に多く見られた板張り、木皮張り、木骨造半木骨造などが一般的となり、また煙突や建物の基礎部分には浅間石の石積みがあしらわれた。これらは一種のコロニアル様式と言えるが、一部には和洋折衷なデザイン性も有していた。

大正から昭和初期には、W.M.ヴォーリズやA.レーモンドらによって、「次期軽井沢バンガロー」とも言える、前述の特徴を引き継いだ外国人向けのシンプルな西洋建築が多く造られた一方で、建設会社あめりか屋などによる日本の上流階級向けの豪華絢爛な西洋建築(主にチューダー様式がベース)も散見されるようになる。あるいは別荘地開発が進み、それまで旧軽井沢に密集していた別荘は、西側、南側へと範囲を拡大していった。なおこの時代までの別荘は、そのほとんどが夏仕様であったが、夏でも朝晩は気温が20℃以下まで落ち込むことが多く、また曇りや雨のときには日中ですら20℃以下になることがあるため、暖炉薪ストーブなどの暖房設備は多くの家に備わっていた。

戦後に入ると、避暑に訪れる外国人は減少し、日本人向けの別荘地・観光地として隆盛した。高度経済成長や別荘ブームの影響もあり、地元建設業者や大手ハウスメーカーによる中価格・高価格帯の別荘が増加した。その中には、軽井沢バンガローや上流階級向けの西洋建築のイメージを踏襲した様式が多く含まれており、軽井沢バンガローの後継として、特に吉村順三設計の別荘群は著名である。また企業や大学の保養所や大規模なリゾートマンション、観光客向けのペンションなども多く建てられるようになる。あるいはそれと同時に「建築の実験場」としても機能しはじめ、現代建築やデザイナーズ住宅も散見されるようになった。鈴木エドワードによる独創的な別荘群は知られている。2017年には、ニューヨークタイムズに軽井沢の独創的な建築群が紹介された[206]

一般的な認識として、宣教師の禁欲的な文化から、山小屋風の簡素な建築が好ましく、立派な門や塀を造るのは御法度とされたり、あるいは逆に高級別荘地というイメージのみが先行し、豪邸ばかり立ち並んでいる印象が持たれることもあるが、歴史的に見ると、かつての外国人宣教師と日本人上流階級のように、建築に対して異なる嗜好を持った人々が"健全な生活を求める"という共通意識のもと同じ地域に混在し、大小様々な建物が森の中に点在している様子は、軽井沢の伝統的な風景となっている。ただしいずれにしても、下記に述べる「#別荘地づくり」のルールに則った建築が求められている(善良な風俗の維持、清潔な環境の構築)。例えばは、"出来る限り設けない。やむを得ず設ける場合は自然景観に調和するよう配慮すること。"とある(『軽井沢自然保護対策要綱』より)。

リゾートマンションについては、町は2001年に「このままマンション建設が続けば軽井沢の良質な別荘環境は壊れてしまう」として、軽井沢の良質な別荘環境を守るため『マンション軽井沢メソッド宣言』を発表、2005年にはこの理念を更に推し進めるものとして『軽井沢まちなみメソッド宣言』を発表し、開発を規制した。また町は、2009年から自然保護対策優良事業として『軽井沢緑の景観賞』を設置、「自然環境の保全、良好な景観の形成に積極的に取り組んでいる宅地、別荘地の造成、建築などの事業」に対して認定証を贈呈している。また歴史的建造物の保存を推進するため、2016年よりイギリス発祥の銘板制度『ブルー・プラーク』を導入、そして有形文化財への登録も積極的に行なっている。

しかしながら、ディベロッパーによる周囲の環境・雰囲気を乱すような建築や歴史的建造物の解体・取り壊しの例は、未だにあとを絶たない。

別荘地づくり

典型的な別荘地の風景

軽井沢では、計画的な別荘地づくりが極めて早い時期から確立していた。1910年には、旧軽井沢愛宕山の南麓に地元住民によって、日本初とも言える分譲別荘地開発がなされ[55]、1917年には、堤康次郎によって、土地に建物を付けて売る「建売方式」が別荘で初めて取り入れられている[207]。1926年には、別荘数の増加に伴い、軽井沢郵便局によって、別荘固有の住所である「ハウス番号」が導入され、現在でも稼働している。

別荘地づくりの特徴として、1972年に制定された『軽井沢自然保護対策要綱』に準じた建築とともに、

  • 道路沿いや敷地の境界に生垣として、樹形の均一な針葉樹(モミ、カラマツなど)を並べ、敷地内には、樹形豊かな広葉樹(ミズナラ、シラカバ、カエデカツラなど)を植樹している
  • 盛土や浅間石の石積みによって、敷地と道路の境界を区別し、また石積みは擁壁としても使用している
  • 門柱には、丸太や石積みを使用している

などは、概ねどのエリアの別荘地にも見られる光景である。これらの特徴は、基本的に条例などの規定には含まれない、軽井沢に伝わる一種の慣習という位置付けである。これらの特徴により町全体に景観の統一感が生まれるため、「軽井沢ブランド」を語る上では欠かせない条件ともなっている。正確な成立時期は不明であるが、文献から少なくとも1920年代には既にこれらの特徴を確認することができる[注 38]

外国人宣教師に加え、鹿島組、野澤組、西武三井、レイクニュータウンなど、別荘地自体はそれぞれ開拓者や分譲業者、管理会社が異なっていながらも、これらの特徴が慣わしとして各々に受け継がれ景観が統一されているのは稀有な現象であり、「軽井沢ブランド」の影響力を象徴するものと言える。またこういった別荘地が町内の大半を占め、それに付随するようにして商業地域が存在していることから、近代アジア特有の雑多な街並みの様相は他の市町村に比べて呈しておらず、その意味でも西洋的な景観となっている。

文化の継承と発信

町の指定管理者で観光振興を担う『軽井沢観光協会』では、堀辰雄の軽井沢を舞台にした小説から着想を得て、2006年に町の観光ビジョンを「美しい村」に決定し[208]、地域内外に避暑地・別荘地としてのイメージを核とした軽井沢の魅力を発信している。協会の運営する観光案内所『軽井沢観光会館』は、同じ場所にあった明治期の郵便局を模した外観となっており、旧軽井沢メインストリートのシンボル的存在となっている[209]

また1979年より、広川小夜子によって雑誌『かるいざわメイト』が創刊、現在は『軽井沢ヴィネット』に名を変え、軽井沢の歴史や避暑地・別荘地としての魅力を中心に、様々な情報が発信されている[210]。他にも軽井沢の近代史に焦点を絞った書籍は多数出版されており、いち別荘地の情報量としては異例と言える。


注釈

  1. ^ 正式には改名である。発足時は「軽井沢文化人協会」であったが、会員を限定せず多くの人に賛同してもらいたいとして、三笠宮が「人」を取ることを提案した。
  2. ^ 長野県が発表した、1925年から2015年までの100年あたりの気候変動としては、年平均気温で1.54℃の上昇を記録している[18]
  3. ^ 軽井沢の8月が東京の5月下旬〜6月上旬とほぼ同水準の気温であることからして、これは想像に難くない。なお、先人たちが創り上げてきた「避暑地」というイメージのみが先行し、「軽井沢は格段に涼しいはず」「温暖化以前は軽井沢にこんな暑い日はなかったはず」といった一種の神話的様相を呈することが多々ある。
  4. ^ ただし、野鳥には留鳥以外も含まれるため、軽井沢の環境変化のみが、鳥類減少の要因として決定づけられるわけではないことには留意である[29]
  5. ^ イギリス人語学者で、1923年に日本に渡り、1926年から東北帝国大学で講師を務めた。1942年に離日[36]
  6. ^ 川上操六の土地はのちに根津嘉一郎の所有(別荘)となり、戦後は国土計画に買収され、現在の『軽井沢プリンスホテル』となった。川田小一郎の土地は、のちに後述する野澤源次郎に売却され、別荘地開発の大きな基点となった。
  7. ^ イギリス人法学者経済学者で、東京帝国大学で経済学の講師を務めた。
  8. ^ 生没年不明。英国の商人で、会社を経営していたという。1882年英国王立地理学会の特別会員となる。著作は『日本内陸紀行』のみ。1881年6月1日横浜に到着し、9月18日函館を出港するまでの約3か月、日本を旅行して回った。経済的にも恵まれ、教養も深く、当時の日本で活躍していた外国人たちとも交流があった[46]
  9. ^ イギリス人でJ.M.ディクソンの友人。本著書で300枚以上の写真を用いて明治後期の日本の様子を描写した(本著書の前書きより)。
  10. ^ 1916年に細川護立徳川慶久がそれぞれ野澤源次郎から土地を購入した際の登記簿[56]には、現在の三笠通り付近が既に「山林」と表記されている。
  11. ^ 恐らくラウンドアバウトである現在の六本辻を指していると思われる。
  12. ^ 徳川圀順徳川慶久徳川義親の誰を指しているのかは不明(3人とも軽井沢に別荘を所有)。
  13. ^ 全編を通して軽井沢が舞台・ロケ地となっており、当時の旧軽井沢メインストリート草軽電気鉄道の様子なども確認することができる。またこの映画の舞台として使用された別荘は、かつて旧軽井沢に存在した細川侯爵邸そのものであり、別荘を黒塗りの馬車が往来している様子も描写されている。
  14. ^ 「ゴルフ場」とは『旧軽井沢ゴルフクラブ』のことであり、「ニューグランド」とは、かつて雲場池湖畔に存在した、横浜の『ホテルニューグランド』から夏期限定で出店されたホテル『軽井沢ニューグランドロッジ』のことである。「山腹の道路」は現在の『御水端通り』を指している。
  15. ^ 「高木林」、「雑木林」と同義。
  16. ^ 避暑地草創期においては、共同で山羊などを飼い、畑を耕し、自給自足の生活を送っていた。
  17. ^ 旅籠「つるや(現・つるや旅館)」の主人佐藤仲右衛門の長男であり、軽井沢の総合案内である本著書を執筆。当時19歳。軽井沢に生まれ育ち、商社マンとして外国貿易に従事した後、1950年に帰郷し、軽井沢観光ホテル社長を務めている[67]
  18. ^ 〔のちの軽井沢の変わり様に対して〕わが家の山荘はいまも残っているが、私にとって「ふるさとは遠きにありて思うもの」(原文 : "You can’t go home again")は、どこよりも軽井沢において真実なのである』とある[86]
  19. ^ シチリアワイン「ドゥーカ・ディ・サラパルータ」の醸造家として世界的に著名で、イタリアコムーネサラパルータ」の由来でもある。
  20. ^ 横浜山手町にあり、自動車部品製造メーカー「ボッシュ」と日本で初めて代理店契約を締結するなどの功績を持つ。会社は現存。
  21. ^ 「軽井沢新スタジオ」は現在、レーモンドの弟子であった建築家北澤興一が所有している。
  22. ^ カントリー料理の講師としてテレビ出演経験もある妻ステラと、1953年に『軽井沢ユニオンチャーチ』で結婚式を挙げるなど、軽井沢を愛した人物である。なお、軽井沢生まれの息子クレイグは、『軽井沢ユニオンチャーチ』の代表理事を務めた。
  23. ^ 個人邸としては破格の規模の工事であったため噂された。当の別荘は2017年頃工事機材が撤去され、一応の工事終了となった。
  24. ^ ゆえに1890年代の外国人別荘は、日本人の名義で土地が登記されていた。
  25. ^ この文献は、尾崎行雄が「80歳を越えて」(69頁)書かれたものであるため、1940年頃から1946年までの間に書かれた随筆をまとめたものと判断している[55]
  26. ^ そもそも、軽井沢の地理的特性上「水」環境が悪く生活用水源や水辺レクリエーションが限られていたことも、野尻湖に転居した要因として考えられる[106]
  27. ^ 有島武が明治末期に建設。元々旧軽井沢の三笠地区にあったが、後に『軽井沢タリアセン』内に移築された。なお別荘跡には「有島武郎終焉地碑」が建立されている。
  28. ^ ワルワーラ・ブブノワに同じ。
  29. ^ 芸妓娼妓、またそういった女性による接待が行われる店のこと。
  30. ^ 派手な女性関係で知られた富裕層も、軽井沢では"正式な"家族と和気藹々とした時間を過ごすことから、皮肉を交えて、軽井沢が「正妻の町」と呼ばれることもあるという[120]
  31. ^ だらしなく着物を着くずしている様子の意。
  32. ^ ただしこれらの割合は、普通世帯の世帯員が現在居住している住宅又は住宅以外の建物のほかに住宅を所有(共有の場合を含む)している場合のみを表しており、法人名義の住宅は含まれていないため、実際よりも過小な数値になっている可能性がある。
  33. ^ 写真には「七尾池」と記載されているが、池の形状からして雲場池であり、また奥に見える建物はその外見からかつて雲場池湖畔にあったホテル『軽井沢ニューグランドロッジ』であるため、「七尾池」は当時の雲場池の別名や俗称などと考えられる。
  34. ^ 現在の近衛レーン沿いであり、その別荘跡には未だ「KONOE SANSO」の標識が立っている。
  35. ^ ロンドンハンプトン・コート宮殿で毎年開催されるクラシックカーの世界的祭典。ケント王子は名誉顧問を務める。
  36. ^ 両親から受け継いだ愛宕山にあった別荘の土地の一部を手放して、建設費に充てた。両親が建てた明治期の古い別荘は、老朽化のため同じ場所に新たな別荘として建て替えたが、その後手放し(この建物は現在、作家下重暁子が所有[195])、本文後述の「ハーモニーハウス」の隣地に新たな別荘「メロディハウス」を建てた。「ハーモニーハウス」を含め、3軒のいずれも、カニングハムと親交のあった吉村順三の設計による。
  37. ^ 1931年竣工。元々は旧軽井沢の二手橋付近にあったが、朝吹登水子の意思により2008年に移築された。
  38. ^ 芥川龍之介の軽井沢の滞在日記には、1925年の時点で既に、石垣を積んだ別荘の様子が描写されている。→初出:芥川龍之介『軽井沢の一日 (仮) 』(私的日録, 1925年)。『芥川龍之介全集 第23巻』(岩波書店, 1998年)に所収。以下該当箇所。「自分はH〔堀辰雄〕やS〔萩原朔太郎〕の妹たちと宿〔つるや旅館〕の前の路へはいった。右側が別荘の塀になってい、左側はやはり石垣をつんだ別荘の庭になっている。」「アタゴ山〔愛宕山〕の方へはいった。別荘ばかり並んだ小路だ。(中略)男は皆別荘の低い石垣に腰かけて休んだ。」
  39. ^ この項で他者の著作物の内容を数多く羅列(転載)しているのは、そのほとんどが著作権の消滅した文献のためであり、著作権の消滅していない文献については「引用」の規定に則って記載している。

出典

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