霧積温泉とは? わかりやすく解説

きりづみ‐おんせん〔‐ヲンセン〕【霧積温泉】

読み方:きりづみおんせん

群馬県安中市にある温泉泉質硫酸塩泉


霧積温泉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/16 09:00 UTC 版)

霧積温泉
温泉情報
所在地 群馬県安中市松井田町坂本
座標 北緯36度24分20.4秒 東経138度40分6.4秒 / 北緯36.405667度 東経138.668444度 / 36.405667; 138.668444座標: 北緯36度24分20.4秒 東経138度40分6.4秒 / 北緯36.405667度 東経138.668444度 / 36.405667; 138.668444
交通 #交通参照
泉質 硫酸塩泉
泉温(摂氏 38.9度
湧出量 300ℓ/分[1]
pH 7.6[1]
宿泊施設数 1
総収容人員数 180人(20部屋)[2] 人/日
年間浴客数 8000人(宿泊客のみ)[3]
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霧積温泉(きりづみおんせん)は、群馬県安中市松井田町坂本(旧国上野国)にある温泉[4]。かつては「荒治療の草津、仕上げの霧積」と呼ばれていた[5]。昔は犬の湯、入りの湯と呼ばれていたが、霧が多いことから霧積と名前が付けられた[6]

泉質

  • カルシウム-硫酸塩泉、ナトリウム-硫酸塩・塩化物泉、pH7.6、蒸発残留物3.311%[7][8]

温泉街

温泉街はない。温泉旅館一軒のみ営業。

歴史

伝説では源頼光の四天王の一人である碓井貞光まで遡り、発見は1200年代であるという[11]。京を追われた武士の愛犬が発見したとされ、古くは犬の湯、のちに入りの湯と呼ばれるようになる[3][12][13]

江戸時代には碓氷関所の要害に当たるため、往来には厳しい制約があり、1654年(承応三年)の入湯手形(中島文書)によると、入りの湯の湯治に来たのは新堀、松井田、郷原の村民で安中藩以外の者はほとんどいなかった[14]。入湯改めは男は役所手形で許されたが、女の監視は厳しく名主手形に安中藩郡奉行裏半が必要であった[14]

1831年天保2年)の文書には、坂本村の湯小屋一軒と土塩村小屋と称する二軒があり、1856年安政3年)の坂本宿開湯願始末書(上原文書)によると、五料、土塩、横川、上増田四か村が古文書を基にした話し合いの結果「四か村の利用者がいない時は坂本宿で称してよい」など、入りの湯の管理権は坂本宿に委託された[14]。その後湯守権は個人のものとなり、1880年明治13年)に碓氷温泉金湯社所有となった[注釈 1][15]1883年(明治16年)には現金湯館旧館が建てられた[11]

明治時代初期には温泉旅館が季節営業を始め、軽井沢別荘地として開かれる以前から別荘が建てられるなど、避暑地として知られるようになる[16]

伊藤博文勝海舟尾崎行雄西郷従道岡倉天心西條八十与謝野鉄幹与謝野晶子夫妻、幸田露伴幸田成友兄弟、山口誓子徳富蘆花小山内薫川田順ら多くの政治家や文化人も訪れている[3][17]。伊藤博文が明治憲法草案を起草した[要出典]部屋は2025年現在も本館の一部として残されている[18]

1888年(明治21年)に軽井沢に初めての別荘を設け、避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いたカナダ宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーも温泉を訪れ、ギヤマンガラス)造りの温泉紹介所を開設。英文の広告を発行し、外国人にこの地を紹介している[19]。これによりこの地でも本格的な開発が始まり、温泉地・避暑地として栄えた。かつては湯の沢付近に別荘地が建てられていたが、のちに西方(軽井沢方向)へと移っていった[20]。当時は旅館4軒、別荘が20-30軒存在していたが信越本線開通による磯部温泉や軽井沢の繁栄、下記の霧積川の洪水により衰退した[2]。明治時代には六角湯という共同浴場も存在しており、歌人の与謝野晶子は「六方のまど霧にふさがる」と詠んでいる[5]

しかし1896年(明治29年)7月、1910年(明治43年)8月に山津波が発生し、4軒あった温泉旅館、50〜60軒あった別荘が流され、温泉街・別荘は壊滅。金湯館のみが被害を免れ、営業を続けた[21][13][20][22]。こうして避暑地としても終焉を迎え、山奥の秘湯という風情の姿になった。1910年の山津波は、連日の降雨により碓氷川流域が氾濫したもので、近藤廉平の二男、桂太郎の長男、鈴木代議士[注釈 2]の息子など、死者行方不明者合わせて41人を出した[20]

かつて源泉は自然湧出だったが1959年昭和34年)にボーリングを行っている[23]。旧館の前にある水車は自家発電に使用されている[24]1971年(昭和46年)、姉妹館「きりづみ館」が現駐車場付近に誕生[注釈 3][25][4]2012年平成24年)4月、きりづみ館が閉館し、以後は金湯館のみの営業となっている。

伝説

  • 昔、傷を負った猟犬が水たまりに傷口を付けていた。猟師が不思議に思って水たまりを調べたところ温泉であることが分かった。そのため犬が発見した温泉ということで「犬の湯」となり、それがいつしか「入りの湯」となった[6]
  • かつて湯治を目的に母子が訪れると不思議なことに温泉の湯が止まってしまった。天狗のお告げによると「十一歳になる子供を人身御供に差し出せばすぐにでもお湯は出る」と告げられた。湯治客の中で11歳の子供と言えばこの子しかいなかった。一夜が明けると、お湯は出るようになったが、11歳の子供は天狗にさらわれたのか姿が見えなくなった。母は「11歳になる児をみかけませんでしたか」「ジュウイチ…、ジュウイチ…」と半狂乱になりながら探しまくった。以後母は鳥となり我が子を探し続け、峰か谿へと飛び交う母の声だけが伝説となって霧積温泉へ残ったという[26]。この11(十一)は別名を慈非心鳥(ジュウイチ、じひしんちょう)と呼ぶようになった。

アクセス

横川駅から宿の送迎がある。自動車の場合、元きりづみ館跡駐車場から「ホイホイ坂」と呼ばれる山道を30分歩くか宿の送迎を受ける[28]。ただし日帰り入浴は送迎は受けられない。

作品との関わり

  • 西條八十の「帽子」という詩の舞台である。また、この詩をモチーフにした森村誠一の小説『人間の証明』の舞台でもある[29]
  • 駐車場(旧きりづみ館跡地)には、同地をよく訪れていた川田順の詩碑がある。金湯館の庭には、同じく同温泉を好んだ勝海舟の「ヨハネ伝四章十四節の碑」が建てられている[20]

参考文献

  • 『群馬県百科事典』(上毛新聞社、1979)
  • 『歴史と信仰の山 妙義山』(上州路文庫、1980)
  • 木暮敬、萩原進『群馬の温泉』(上毛新聞社、1980)
  • 『群馬県の地名』(平凡社、1987)
  • 松井田町『松井田町誌』(松井田町、1985)
  • 『角川日本地名大辞典』(角川書店、1988)
  • 地質調査所『日本温泉・鉱泉分布図及び一覧』(1975)
  • 地質調査所『日本温泉・鉱泉分布図及び一覧』(1992)
  • 『全国温泉大事典』(旅行読売出版社、1997)
  • 『上州百湯』(上毛新聞社、2006)
  • 『群馬の小さな温泉』(上毛新聞社、2010)
  • 『新ぐんまの源泉一軒宿』(上毛新聞社、2014)
  • 『西上州の薬湯』(上毛新聞社、2016)
  • 「ぐんまの温泉」(群馬県観光局観光物産課、2020)

注釈

  1. ^ のちの碓氷温泉とは別のもの
  2. ^ 鈴木代議士が誰かは不明。なお、末広一雄『男爵近藤廉平伝』によると、廉平の二男・昌彌は生後2か月で夭折しており、このとき行方不明になったのは六男・進(当時21歳)など慶応義塾大学部の学生4人と見られる。桂太郎の長男・與一については1913年6月に死去しており、無関係だった可能性がある。
  3. ^ 湯は本館から引いていた。六角湯を模した総檜造りの六角風呂が名物で、鹿鳴館風の飾り窓が象徴的で、宮大工が釘を使わず浴場は全て丸太をくみ上げる工法で作られていた」とある(上州百湯、p.277による)。

脚注

  1. ^ a b 地質調査書『日本温泉・鉱泉分布図及び一覧』、p.153
  2. ^ a b 『群馬県百科事典』1979、p.252
  3. ^ a b c 角川地名大辞典、p.354
  4. ^ a b 全国温泉百科事典、p.266
  5. ^ a b 上州百湯、pp.276-277
  6. ^ a b c 『新ぐんまの源泉一軒宿』、p.103
  7. ^ 木暮敬、萩原進『群馬の温泉』(上毛新聞社、1980)、p.138
  8. ^ 地質調査所『日本温泉・鉱泉分布図及び一覧』(1975)、p.43
  9. ^ 『群馬の小さな温泉』、p.91
  10. ^ 霧に包まれたノスタルジー霧積温泉朝日新聞 2008年7月4日(2018年5月23日閲覧)
  11. ^ a b 『松井田町誌』、p.1283
  12. ^ 『群馬の小さな温泉』、pp.88 -89
  13. ^ a b 木暮敬、萩原進『群馬の温泉』(上毛新聞社、1980)、p.137
  14. ^ a b c 群馬の地名、p.211
  15. ^ 木暮敬、萩原進『群馬の温泉』(上毛新聞社、1980)、pp.136-137
  16. ^ 『群馬の小さな温泉』、p.90
  17. ^ 映画「人間の証明」森村誠一氏が訪れた原作の重要なモチーフ群馬・安中市の霧積温泉産経ニュース 2016年12月25日(2018年5月23日閲覧)
  18. ^ No2. 金湯館秘話 金湯館が現在に至るまで金湯館公式ホームページ(2018年8月13日閲覧)。母屋2階の角の1号室。
  19. ^ 金湯館秘話 金湯館が現在に至るまで霧積温泉湯元金湯館(2020.10.1Lastaccess)
  20. ^ a b c d 『松井田町誌』、p.982
  21. ^ 『群馬の小さな温泉』、p.88
  22. ^ 「群馬の温泉」(1980)では、土砂災害は1898年(明治31年)と1910年(明治43年)なっている
  23. ^ 木暮敬、萩原進『群馬の温泉』(上毛新聞社、1980)、p.138
  24. ^ 『歴史と信仰の山 妙義山』、p.86
  25. ^ 霧に包まれたノスタルジー霧積温泉 朝日新聞 2008年7月4日(2018年8月18日閲覧)
  26. ^ 『歴史と信仰の山 妙義山』、pp.86-87
  27. ^ 「ぐんまの温泉」、p.14
  28. ^ 『西上州の薬湯』、p.37
  29. ^ 温泉ガイド安中市 - あんなか観光ガイド(2018年5月23日閲覧)

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