広い意味での軽井沢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 19:53 UTC 版)
ブランド価値の高い地名であるため、周辺の自治体においても「軽井沢」を名乗る場所や施設名が多数存在する。軽井沢町内の「旧軽井沢」「新軽井沢」の呼称になぞらえた表現である。「旧軽井沢」「新軽井沢」以外は軽井沢町内の「中軽井沢」「南軽井沢」を含めてすべて別荘地開発に由来する地名である。 北軽井沢 群馬県吾妻郡長野原町大字北軽井沢及びその周辺から嬬恋村大字鎌原・大字大前方面まで、軽井沢町の北側に接する群馬県吾妻郡内の広い範囲で使用されている。北軽井沢の中心部は元々「地蔵川」という地名であったが、軽井沢の北に位置していることから北軽井沢と称するようになった。旅行ガイドブックや観光案内等では北軽井沢も軽井沢の一部として扱われることが多いが、軽井沢町内とは別の地域として独自の歴史を有している。 元は開拓農地であり、現在も牧場が点在しているほか、高原野菜の栽培が盛んな地として知られる。草軽電気鉄道開業後はその沿線の避暑地として軽井沢町内・北軽井沢・草津温泉の三つのエリア分けが行われていた。別荘地としても独自の由来があり、その歴史も旧軽井沢に次いで古い。 軽井沢町内の千ヶ滝(中軽井沢)や南軽井沢同様大正時代には西武資本による開発が進んでいた。このため「中軽井沢」「南軽井沢」同様に大正時代以来地名として使用されており、戦後長野原町の公式の大字名に採用されるに至っている。軽井沢の景勝地として知られる「鬼押出し」はこの地にある。1920年(大正9年)、箱根土地傘下の沓掛遊園地株式会社は、鬼押出し六里ヶ原の国有地80万坪の払下げを受け、観光地として開発に着手した。 翌年の1921年(大正10年)から道路整備を進め、1928年(昭和3年)には将来の高原鉄道敷設(実現せず)を見据えつつバス運行を開始。1933年(昭和8年)8月には軽井沢町内から有料道路鬼押ハイウェーを開通させた(1973年(昭和48年)12月、同じく西武資本が開発を進めていた万座温泉に至る有料道路万座ハイウェーが開通し、鬼押ハイウェーと併せて「浅間白根火山ルート」となった)。 これに対し草軽電気鉄道を傘下に収めた東急グループが嬬恋村内に町有地を持っていた長野原町と提携し、戦後観光開発に参入。嬬恋村を中心に開発を進めていた西武グループと競合している(鬼押出し園・鬼押出し・浅間園参照)。戦後のこの地域の大掛かりな別荘地開発は三井不動産によるものである。軽井沢町内に比べ標高が高く、冬は寒さが非常に厳しいが、旧軽井沢周辺にあるような独特の湿気は少ない。嬬恋村は産業別就業者数においてサービス業従事者が最も多くなっている。 西軽井沢 軽井沢町内の大字追分・大字茂沢から西隣の北佐久郡御代田町(旧茂沢村は旧伍賀村を経て1956年(昭和31年)9月30日に御代田町となったが、翌1957年(昭和32年)2月1日、旧茂沢村の一部が御代田町から分離し軽井沢町に編入したため、以後大字茂沢は御代田町と軽井沢町に跨って存在している)方面で使用され、観光施設や事業所などの名称に見られる(西軽井沢ケーブルテレビなど)。大字長倉の借宿・大日向など大字追分に接し比較的後から別荘地開発が始まった地区もこの範囲に含まれる。 追分宿は浅間三宿の中では唯一現在まで宿場町の面影を残しており、旧軽井沢・中軽井沢界隈とは異なる雰囲気である。また追分周辺は軽井沢町内の他地域に比べ標高が高く、寒さが厳しい。気象庁の軽井沢特別地域気象観測所(アメダス。旧称・軽井沢測候所)は追分の山の中にあり、天気予報で使用される「軽井沢の天気」「軽井沢の気温」は追分で観測されたデータが基になっている。 追分には堀辰雄・立原道造・室生犀星らゆかりの文化人も多いが、別荘地開発は戦後から行われるようになった。商業施設やレジャー施設が少ないことから、追分文化村など未舗装道路を残し自然や鄙びた雰囲気を維持した別荘地が造られている。「西軽井沢」という呼称は1970年代、別荘地開発が追分から御代田町方面に広がった頃から散見されるようになっている。軽井沢町内を含んでいることもあり観光案内等でも用いられている。 1966年(昭和41年)、総武都市開発は茂沢の森泉山北側の土地390ヘクタールを4億2000万円で地元の財産組合から購入し、一帯の別荘地開発に着手。同社は1億2000万円を投じ湯川の峡谷に軽井沢大橋(所在地は御代田町。1969年(昭和44年)6月竣工)を架橋、延長20キロメートルの舗装道路を整備した。1985年(昭和60年)にはゴルフ場の建設計画を公表、1996年(平成8年)に森泉カントリークラブとして開業した。 2007年(平成19年)、総武都市開発は経営破綻したが、別荘地は別の経営者が入って維持されている。森泉カントリークラブはPGMホールディングス系列の会社の手に渡り、「グランディ軽井沢ゴルフクラブ」として存続している。バブル期にはエクシブや紀州鉄道など後発の企業もこの地域のリゾート開発に参入した。 御代田町側にも湯川渓谷・露切峡などの景勝地があり開発が進んだが、軽井沢方面より佐久インターチェンジや佐久平駅のほうが近い別荘地もある。御代田町も軽井沢町に次いで標高が高いが、水利が改善され地味にも恵まれたため軽井沢町に比べ農業に適しており、軽井沢町では行われていないクラインガルテン(「滞在型市民農園」)もある。 東軽井沢 群馬県安中市松井田町方面の別荘地・観光施設等の名称に使用されているが、「碓氷」「妙義」「榛名」など別の呼称も観光用の呼称として併用されている。2001年(平成13年)に開業した碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」では源泉を「東軽井沢温泉ゆたかの湯」と称している。バブル時代のリゾート開発が盛んに行われた頃から見られるが用例は必ずしも多くはなく、松井田町和美峠方面では「東軽井沢」ではなく「南軽井沢」と称した別荘地開発も行われている。 このエリアにおいては明治時代初期に霧積温泉にて温泉旅館が季節営業を始めている。霧積温泉には軽井沢が別荘地として開かれる以前から別荘が建てられ、避暑地として知られた。伊藤博文、勝海舟、岡倉天心、西條八十、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻、幸田露伴ら多くの政治家や文化人らも訪れている。ショーも温泉を訪れ、温泉紹介所を開設した。英文の広告を発行し、外国人に霧積温泉を紹介している。 ショーが軽井沢に初めての別荘を設けた1888年(明治21年)より霧積温泉でも本格的な開発が始まり、温泉地・避暑地として栄えた。しかし1910年(明治43年)に山津波が発生し、42軒あった温泉旅館が流され、温泉街・別荘は壊滅。2軒の温泉旅館が被害を免れ、営業を続けたが、避暑地としては終焉を迎えている。 軽井沢町峠町・旧碓氷峠見晴台側から旧中山道(現在は山道のみ)沿いの松井田町峠方面にかけては1970年代に小規模な別荘地開発(見晴台別荘分譲地)が行われ、ペンションなども建てられたが、1990年代には衰退。別荘・ペンションはすべてなくなり、一部は廃墟となって残っている。軽井沢町峠町側には別荘はない。 奥軽井沢 「浅間高原」「嬬恋高原」とも称する。群馬県嬬恋村大字鎌原・大字大前・大字干俣方面の別荘地・観光施設や商品等の名称に見られ、西側は四阿山を挟んで菅平高原に接する。バブル時代のリゾート開発が盛んに行われた頃から見られるが、この地域も北軽井沢エリアの一部であるため、用例は必ずしも多くない。「北軽井沢」の呼称が併用されている例もある。 「奥軽井沢」の呼称は使用していないものの、嬬恋村では「軽井沢」の地名を用いた別荘地開発や温泉掘削などが1920年(大正9年)から西武資本・箱根土地によって行われており、同社の事業においては浅間山北麓一帯を「軽井沢の高原」等と呼んでいる。その後1970年代から1980年代にかけて安達事業グループが大字大前に軽井沢を称するホテルやレジャー施設を開業し、温泉を掘削。源泉名は「奥軽井沢温泉」となっている。
※この「広い意味での軽井沢」の解説は、「軽井沢」の解説の一部です。
「広い意味での軽井沢」を含む「軽井沢」の記事については、「軽井沢」の概要を参照ください。
- 広い意味での軽井沢のページへのリンク