千代の富士貢 エピソード

千代の富士貢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/08 04:02 UTC 版)

エピソード

性格

同世代の大関であった朝潮は「とにかく気が強くて感情の起伏が激しく、よく泣く。後年、師匠の北の富士さんが、『朝青龍にそっくりだよ』と言っていたものです。千代の富士は、口にする言葉は荒っぽかったかもしれないけれど、けして中身はそうじゃなかった。よくも悪くも、この世界でしか生きられない――相撲界だからこそ、その存在がいきた人だった」と千代の富士を評している[79]

家族・関係者

横綱昇進前

  • 晩成型で最年少記録の類とは無縁であるが、19歳で新十両、20歳で新入幕と出世は早く、新入幕からしばらくは「幕内経験をもつ最若年者」の地位を保っていた。
  • 1978年ごろ、元恋人が借金を抱えていたこと、梶原一騎らの誘いを受けていたことからプロレス転向を考えていたが、プロレスでもを壊せば脱臼だけでなく左腕切断の危険性もあり、これは思いとどまった。
  • 「入幕後、幕下まで陥落」「三役昇進後、十両まで陥落」という経験を併せて持つことは、後の大横綱としては極めて異例。
  • 尊敬する力士として貴ノ花を名を挙げている。新入幕後に十両から幕下で低迷してしまいやけになって煙草の本数が増え、一時は1日3箱も吸うヘビースモーカーとなったが[80]、貴ノ花から禁煙を勧められたことに「尊敬していた大関がそんなに自分の事を心配してくれているのか」と感激し、50万円のダンヒルの金のライター隅田川に投げ捨て、さらにあめ玉を使って禁煙を果たした。これがきっかけで体重が増え、後の横綱昇進につながった[補足 26]
  • 脱臼癖に苦しめられてきた千代の富士であったが、一方では脱臼が大成の一助になったという見方もある。玉ノ海は「若い頃は軽量のくせに相手を引っ張り込んで、天井を向いて上手投げにいく『身の程知らずの相撲取り』だった」と語っている。そのような大きな相撲から前廻しを引き、頭をつける体格にマッチした取り口に変わっていったきっかけは、少しでも脱臼のリスクを軽減するためだった。この相撲が完全に身につき、大関・横綱に進むことができたことから、九重は「脱臼が千代の富士という大横綱を作った。前のままの相撲なら陸奥嵐のような存在で終わったかも知れない」と語っている。千代の富士自身も「もう少し早く、この相撲の取り方に気付いていたら、もっと早く横綱になれていた」と語っている。
  • 横綱に上がる頃、稽古場で肩を脱臼したにもかかわらず直後にその場で高速で300回の腕立て伏せを行い、そこから10番程度稽古した。琴風は参与時代に「脱臼したら普通は安静にするものだと思ってたけど、どこか常識を突き抜けているというか……。それだけ勝負への、白星への貪欲さがあった。そうじゃないと横綱にはなれなかったのでは?と思うんだよね」と語っている[76]

対戦相手への対策

  • 平幕時代苦手にしていた力士が琴風で、鋭い当たりと一気の出足に苦しんで初顔合わせから5連敗したが、出稽古で克服して6度目の対戦では初勝利を挙げ、その後は逆にカモにする(通算で千代の富士の22勝6敗)。ある日、佐渡ヶ嶽部屋での三番稽古の際に琴風の右指が大きく裂けるケガをしているが、琴風本人は裂けた瞬間全く気がつかなかったという。「打倒琴風」を胸に琴風との出稽古を開始した千代の富士は「がっぷりになる前に十二分の力を出せるように」と速攻相撲の体得に取り組み、見事果たした[81]。横綱昇進して3年ほど経つまでは琴風との三番稽古を度々行い、これが双方の地力強化につながった。琴風自身も、「千代の富士関には勝てなくなったけど、(千代の富士関と)三番稽古をしたおかげで私も大関になれました」とコメントしている。
  • 隆の里については千代の富士曰く「裏の裏をかかれる」。大関から横綱にかけて8連敗するほど苦手にしていた。通算でも13勝18敗(十両1勝2敗、幕内12勝16敗)と負け越しており、隆の里に負けたことで優勝や全勝を逃した場所が多かった。特に1983年7月場所から1984年1月場所にかけて4場所連続で勝った方が優勝という千秋楽相星決戦を行い1勝3敗を記録、この間に隆の里は横綱に昇進し、新横綱だった9月場所では全勝決戦を制して15日制で唯一の新横綱全勝優勝という偉業を成し遂げている。

向坂松彦との共著『私はかく闘った 横綱千代の富士』

隆の里の証言

「私は、五六年初場所の同点優勝で、千代の富士関が北の湖さんを破ったときから、次の天下を取るのは千代の富士とにらんだんです。その日から、千代の富士の相撲のデータを集めました。自分が上位に上がるためには、王者になる千代の富士を破らなければいけないと考えたんです。」 「データは、本場所のビデオはもちろんのこと巡業中の千代の富士の稽古、それに千代の富士の物の考え方が知りたくなりまして、趣味嗜好や横綱の読む本まで調べたものです。巡業中は、なるべく千代の富士関のそばに明け荷を置いて、暇なときに何をするか観察したものです。そうして集めたデータから、今場所の千代の富士は、どう攻めてくるか作戦を練ったものです。」 「大事な一番で顔を合わせるときには、二、三日前から、二四時間、一緒に生活している気持になって相手の出方を考えたものです。」 「私にとっては、千代の富士関は、最大のライバルでした」                                               (110ページ)

同書で、向坂から隆の里の自身への対策の数々について知らされた千代の富士は「うーん、これでは当然研究負けだね。こっちはそこまでは考えてなかったもの......」と唸っている[82]

  • 小錦についても上述の1984年9月場所の初対戦では完敗している。当時不振が続いていた千代の富士は目が覚めたかのように、場所後に「小錦対策」として高砂部屋に出稽古を開始し、翌場所から対小錦戦で8連勝を記録(通算でも20勝9敗)。
  • 北尾(のち双羽黒)についてもやや苦手にしており、幕内取組成績は千代の富士の8勝6敗(ほか優勝決定戦で2勝)。ただし、優勝が懸かった一番は全て千代の富士が制している(千秋楽相星決戦2回、優勝決定戦2回)。1987年11月場所後、双羽黒は師匠・立浪親方(元関脇・安念山)らとの衝突の末24歳の若さで廃業したが、千代の富士は現役引退後の著書で「もし双羽黒が廃業せずに現役を続け、さらに力を付けて来ていたら、その後の私の相撲人生は全く違っていたかも」と記していた。
  • このように、本場所で負けた相手に対して出稽古や巡業で相手の攻略法を見つけるほか、横綱になってからは若い力士に率先して稽古をつけていた。特に前場所負けた相手に対して巡業では積極的に稽古に狩り出した(安芸乃島琴錦両国など)。
  • しかし、横綱昇進後には同じ力士に対して滅多に連敗しないと言われたが、隆の里以外には小錦に1987年1月場所 - 5月場所まで3連敗、小錦が初優勝した1989年11月場所 - 1990年5月場所まで4連敗している。
  • 1年通して不振だった1984年には朝潮には1月場所から4連敗。北天佑には1月場所から5連敗(不戦敗を含む)している。全盛期でもカモにしていた大乃国や若嶋津益荒雄に2連敗したことがある。さらに平幕だった安芸ノ島(当時)には1990年3月と5月に連敗し2場所連続で同力士に金星を配給(結局対安芸ノ島戦は千代の富士の7勝4敗で、4敗は全て金星)をしているなど、歯車が狂った時は意外な脆さを見せる所もあった。

弟弟子・北勝海

  • 8歳年下である弟弟子・北勝海信芳との稽古は毎回壮絶だったという。その甲斐もあって北勝海は1986年9月場所に新大関、その後1987年7月場所には第61代横綱へ昇進を果たし、幕内優勝を合計8回も達成した。さらに1989年7月場所では、千代の富士と北勝海で史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦、千代の富士が優勝(しかし優勝決定戦後は二人共「今後は二度とやりたくない」と述べている)。北勝海本人は現役引退後「大将(千代の富士)がいたおかげで自分も横綱になれたと思う」と語っており、千代の富士の指導力・影響が如何に大きかったかを物語っている。事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は部屋の関取が千代の富士だけだったが、その後も北勝海を筆頭に、孝乃富士巴富士が関取(共に最高位は小結)に昇進している。当の千代の富士本人も「北勝海は同部屋ながらも自身にとって非常に良いライバルだった。もしも稽古熱心な北勝海がいなかったら、自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。
  • 北勝海が横綱に昇進して同部屋に横綱が2人になったことで力士が2人を区別してどう呼ぼうかと思った際に、北勝海の提案で千代の富士を「大将」と呼ぶようにした話も残っているが、横綱となった身の者が先輩横綱という意味のみならず「ワンランク上の横綱」と見ていた存在感の大きさを現す逸話である。
  • 2002年2月に行われた、元師匠の第52代横綱・北の富士勝昭還暦土俵入りでは、太刀持ちを千代の富士、露払いを北勝海が務めた(ただし日本相撲協会を退職している北の富士は両国国技館が使えないので代わりにホテルイースト21東京を借りて披露した)。
  • 2016年7月31日、千代の富士こと九重親方が61歳で病死した際、北勝海は、訃報の直後は衝撃が大き過ぎてコメント出来なかった。翌8月1日に北勝海は記者陣に対し「兄弟子でしたが、もう1人の親方という感じだった」と現役時代を振り返った後、「現役の頃から絶対に負けないという目で見ていたので治ると思っていた。(亡くなったのは)本当なのかという感じ」と驚きを隠せなかった。千代の富士に面会した最後は同年1月、高砂一門の会合が開催した焼き肉店で「何年か経って、二人で酒を飲みながら思い出を語りたかったのに…」と無念さをにじませている[83]

記録

  • 大乃国に敗れた「53連勝でストップ」の一番は連勝記録の方へ話題が行きがちのためあまり語られないが、実は「年間3回の全勝優勝」「3場所連続15戦全勝優勝」という史上初の快挙を逸する一番でもあった(2010年3月場所から7月場所にかけて、白鵬が達成した)。また、50連勝以上達成した力士のうちで横綱に敗れて連勝記録が止まったケースは千代の富士が唯一(双葉山、白鵬は平幕力士(いずれも後に横綱)に敗れている)。
  • 引退時の通算勝利数1045勝と幕内勝利数807勝は、共に当時史上1位の記録だった。それから19年近く経過の後、魁皇2010年1月場所3日目に幕内勝ち星を808勝、2011年7月場所5日目には通算勝利数を1046勝とそれぞれ更新されたが、その都度九重は直接「おめでとう」と祝福の言葉を掛けて握手を交わし、「(記録を)抜かれた寂しさは全然ない。これからの力士に励みになるようにどんどん記録を作って欲しい」とコメントしていた。なお魁皇は1047勝、幕内879勝まで延ばしたが、2011年7月場所10日目限りで現役引退。九重は魁皇の引退に「日々こつこつと踏ん張った成果が(通算)1047もの白星につながった。本人は完全燃焼以上だろう。(通算最多勝の)記録を抜いたと同時に心の芯や張りがなくなったのかも。長い間本当にご苦労様だった」とねぎらっていた。
  • 初日から8連勝の中日勝ち越し回数は、通算25回。平成25年3月場所で白鵬に抜かれるまで最多。
  • 年間最多勝の受賞は3回と、優勝20回以上の大横綱の中ではかなり少ない。これは千代の富士の横綱昇進後の休場がほぼ年に1場所程度のペースで均等に散らばっている(横綱在位中は連続休場は一度もない)ためであり、現に休場を除いた勝率ではその年1位という年度が多く存在する。同様の理由で連続勝ち越し場所数、連続二桁勝利場所数、任意の連続場所(10場所、12場所など)での勝ち星記録などでも実力に比例する記録は残していない。

現役引退

  • 横綱昇進が決まった日の夜、九重は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらちんたらと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った[81]祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士はこの言葉に面食らったという。しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉に従った潔いものとなった。これは、栃木山から言われた言葉を栃錦が千代の山に語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと言われている。
  • 1991年5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わった貴花田(二代目貴乃花)と千代の富士の初対戦であった。何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れ、その2日後に引退を表明。ある意味、自らの師匠が招いた引退とも言える。貴花田に敗れた時点で実は千代の富士は引退も頭をちらつかせるほどだったが、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。まあ明日がんばれよ」と言った。このために気勢を削がれた千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまい、引退表明が3日目の貴闘力戦に敗れた後になったという。その千代の富士からついに引退の決意を伝えられた時、千代の富士と共に九重も思わず2人で男泣きしたという。
  • 千代の富士が引退した1991年5月14日は午前中に信楽高原鐵道列車衝突事故が発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュースを放送していた。しかし夜になって、千代の富士自ら九重部屋にて突如引退会見を行うことになったため急遽ニュースを中断、駆け付けた大勢のマスコミ陣の前で会見の生中継を行い千代の富士は「長い間、本当に皆様には大変お世話になりました。まああの(「月並な言い方ですが」と言うべきところを)月並な引退ですが…」と言った後、言葉を詰まらせながら目を赤くして、「体力の限界!…気力も無くなり、引退することになりました…以上です…」と振り絞るように発言し記者陣の目の前でハンカチで涙をぬぐった。後年千代の富士が自ら語ったところによると、1991年5月場所3日目の夜に九重から「明日、発表しよう」と言われたがその日の夜に『サザエさん』を見ていた際に額の上に自身の引退を報じる速報が確認され、そうして慌てて会見に臨んだという[81]。ただ、ちょうど20年前の1971年5月14日には、大鵬も当時新鋭だった貴ノ花に敗れて引退を表明しており、大横綱と二子山部屋、藤島部屋が絡んでいる花田家には因縁がある。ちなみに、千代の富士が幕内初優勝を果たした1981年1月場所は、奇しくも貴ノ花(初代)が現役引退を表明した場所でもあった。
  • 同年7月場所前、千代の富士改め陣幕は自ら土俵に立って若い力士に稽古をつけたが、あまりの充実ぶりに九重から「現役以上じゃないか。引退させるのは早かったな」と言われたほか、周囲からは「史上最強の新米親方」と評した人もいた。それから21世紀に入り、当時千代の富士の持つ通算勝星及び幕内勝星を塗り替えた魁皇も「余力を残して辞められた九重親方(千代の富士)と違って、こっちは必死こいてたどり着いた記録なので。とても比較にはならないし、申し訳ない」と謙遜するコメントを述べている。
  • 引退相撲が行われた1992年2月1日はTBSで放送され、最後の横綱土俵入りでは露払いに引退直後の旭富士太刀持ちには弟弟子の横綱・北勝海の両横綱を随行。大銀杏を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。
  • ロンドンにある蝋人形館であるマダム・タッソーでは最近まで千代の富士の蝋人形が置かれていた。ウルフと呼ばれていたことなどが記されていた。現在はデックス東京ビーチ内にあるマダム・タッソー東京で展示されている。

引退後

  • 部屋持ち時代は北海道福島町の夏合宿時の恒例行事として素潜りを開催し、自らは誰よりも早くに行って、いの一番に海の幸を見つけていた。このことは2017年に日刊スポーツ絵日記企画に参加した弟子の千代丸が明かしており、千代丸もまた、5mから6mの素潜りはお手の物であるという[84]
  • 現役を引退した以降も現役時代ほどではないにしろトレーニングは継続しており、還暦土俵入りでは60歳とは思えない肉体美を披露し、周囲を驚かせた。
  • シンガーソングライター松山千春とは同じ北海道(足寄郡足寄町)出身で、また1955年生まれの同級生で親友だった。千代の富士が現役引退後の1991年、フジテレビ系ドラマ(花王ファミリースペシャル)「千代の富士物語」では松山自らエンディング・テーマ曲として「燃える涙」を製作。ほか1992年の引退相撲断髪式や、満60歳を祝う還暦土俵入りのパーティー等にも出席していた。だが千代の富士は2016年7月31日に61歳で病死。通夜に参列した松山は記者陣に対して、「あれだけ屈強な男が、こんなに早く逝くとは…冥福なんか祈らない。棺の中から早く起き上がれ、と言いたい」と悔しがっていた[85]

家族

  • 父親は戦時中に広島市宇品(現南区)にあった旧陸軍船舶司令部(暁部隊)に所属しており、1945年8月6日敬礼の訓練中被爆し、救援活動で広島市内を奔走した[86][87]。1991年に広島平和文化センターが制作した証言ビデオに被爆体験を寄せた[87]。このため千代の富士は被爆2世である。
  • 次女でモデルタレント秋元梢はモデルとして成功するまで父が千代の富士であることを正式には公表していなかったが、専属モデル広告モデルに起用されるようになってからバラエティーで公表し、「二世タレント」としてバラエティーなどに出演しているが、相撲を知らず、さらに千代の富士の現役時代を知らない世代が中心の環境であり、千代の富士自身も現役時代から引退後を通じてバラエティ番組に出演した経験があまりないため、ほとんど本人の実力で芸能活動をしているといえる。なお、1988年5月場所に千代の富士が23回目の幕内優勝を果たし、千代の富士が天皇賜杯を抱いての記念撮影を行う際には賜杯と共に当時生後10か月の秋元を抱いて記念撮影を行い、実名を記載した報道機関もあったため(近年よく記念撮影で力士が子供と賜杯を抱いて記念写真に納まるというケースは、千代の富士が最初に行ったといわれている)[補足 27]、本人が正式に公表する以前も名前で推測される可能性はあった。

趣味

  • 角界屈指のゴルフ好きで知られたが、元々は趣味としていなかった。休みの日は麻雀ファミコンに夢中の千代の富士に対して、九重(北の富士)が「健康的な休みを取らないとダメだ」と無理やりゴルフに連れて行ったことがきっかけだった。しかし初めてのゴルフのハーフで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かったことに「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ!」とすっかり上機嫌になって九重のメンツは丸つぶれ、以後ゴルフにのめり込んだ。
  • ゴルフの他にもジグソーパズルを趣味としていた時期もあった。1986年4月から8カ月をかけて5146ピースもある古い世界地図が描かれたパズルを完成させたという。これが良い気分転換となってか千代の富士の土俵人生は絶頂期に突入し、特に1987年1月場所の辺りで最後の1ピースをはめて完成させた頃の相撲を見た当時の春日野理事長は「この相撲なら2、3年は大丈夫だな」と語ったそうだったが、その予測通りに2、3年間は全盛期に近い相撲を取り、4年後の1991年5月場所中に引退した[88]

その他

  • 1989年11月場所5日目の寺尾戦では、寺尾を後ろから高々と抱え上げて土俵上に叩きつけるような吊り落としを放って白星を収めたが、その激しい相撲ぶりからファンの間で論争が巻き起こり、当時一部では横綱としての品格を問う声まであった。だが2019年に寺尾はインタビューで「駄目押しと違って土俵の中で落とされるだけなので誰も怪我はしない」と受け入れる発言していた[89]
  • 現役時代、八百長相撲疑惑が持たれた力士の一人ではあるが、板井圭介高鐵山孝之進といった八百長の告発者たちは、「実力があってガチンコで戦っても勝ち目が無いと相手に思わせられたからこそ、相手の力士も礼金が貰える八百長に応じたということ」だと言っていた。板井圭介はさらに「ガチンコで唯一かなわないと思ったのは大将(千代の富士)だけ」「八百長が無くてもガチンコでは大将が一番強かった」と強さを認めている。彼ら八百長告発者によれば、そもそも大相撲の八百長はガチンコで勝てる実力がなければ参加は出来ないというのが暗黙の了解となっているという(詳細は当該項目を参照)。なお、板井は大乃国には手をガチガチにテーピングで固めて顔を張っているが、千代の富士相手には顔を張ってはいない(元大鳴戸親方によると、千代の富士は大乃国に対する顔面の張り手に懸賞金を出していたと言われる)。また、千代の富士が現役最後の白星を挙げた相手でもある。前述の寺尾戦での吊り落としは、千代の富士からの八百長の打診を断った為の制裁とも噂されており、この一番を見た幕内力士の間では、「やはり大将はガチンコでも強い」と評判になったという。前述のように小錦には初顔合わせで完敗した後8連勝をしているが、高鐵山の著書『八百長』によれば、小錦の強さに脅威を感じた千代の富士は小錦を八百長の仲間に引き入れようとしたが、そのために取った方法が、「ガチンコで徹底的に勝ちまくって力の差を見せつけ、逆らわない方が得だと思わせる」で、それがあの8連勝であり、その連勝中は千代の富士の方からは意地でも八百長の打診はしなかったと述べている。現役最後の取り組みの際には、横綱在位を「59年」と間違ってアナウンスされた(実際には59場所)。
  • 現役時代、九州巡業の船中で同室となった朝潮7代高砂)に「オレは第2の千代の富士を作りたいんだ。それがオレの夢。千代の富士というしこ名を弟子に継がせたいんだ」と語ったという。最後に会ったのは2016年5月場所の初日で、監察室で「痩せたねえ」と声をかけたら、「健康管理のためにダイエットしてるんだよ」と強がって返してきたという。高砂は「治療してることも口に出さず、弱みを見せたくなかったのだろう。そうやって我を張って生きて、それが引退後はマイナスになった部分もあるかもしれないけど、我を張らなかったらアイツじゃない。千代の富士らしい生きざまを、最後まで貫いて、見せてくれたと思う」と記者に語っている[90]
  • 横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することはまれであったが『夜のヒットスタジオDELUXE』(フジテレビ)には1985 - 1987年まで3回、特別ゲストとして番組オープニングからエンディングまで出演している。これは当時の同番組司会者であり、千代の富士・九重との親交がある芳村真理の誘いを受けての出演だったと言われている。そのため、芳村が司会を降板した1988年以降は1回も顔を出していない[補足 28][補足 29]
  • 数少ない5文字の四股名を名乗った力士であり、歴代横綱の四股名では千代の富士は唯一の5文字であり、文字数が最も多い。
  • 千代の富士の銅像が横綱千代の山・千代の富士記念館(北海道福島町)、ちゃんこ千代の富士[補足 30]玄関前(東京都墨田区)、玉林寺[補足 31](東京都台東区)[92]の3箇所に建立されている。
  • 引退後のある時、日刊スポーツの記者との会食で『俺は日刊が嫌いなんだ!』と言っていたが、マッコリをたくさん飲むと記者に対して笑顔を見せた。死去する前まで「三役が大関を、大関が横綱を目指すなら、もっともっと稽古をやらないと。『もっと』じゃないよ。もっともっと、だ」と語っていた[93]
  • 永い大相撲史上、初めて前人未到の通算1000勝を達成した際、インタビューで記者から「次の目標は?」と訊かれ、笑顔で「1001勝です」と冗談を言うなど、剽軽な一面があった。

注釈

  1. ^ 当時、全日本空輸が所有していたフォッカーフレンドシップだったとされ、当時は福島町の町長でさえも搭乗したことがない乗り物だった。
  2. ^ 中学在学中の入門は1971年11月に禁止された。
  3. ^ 鋭く当たって左からのおっつけで体勢を起こし、突き落とそうとする大受の動きに乗じて回り込み、寄り立て、がぶり寄りの攻めで寄り切った。大受は当時は西前頭8枚目。
  4. ^ 天龍に弾かれるようにしていなされ一方的に突き出されるなどの敗戦がある。
  5. ^ 自著『負けてたまるか』では父が戦時中に広島で被爆していたことについて記述されており、肩のかみ合わせとの因果関係が示唆されている[13]
  6. ^ 肩を徹底的に鍛えて筋肉で固めたことが脱臼しにくくする効果はあった反面、脱臼してしまうと元に戻すことが非常に難しくなってしまい、これを治せた人は元大関・清國の伊勢ヶ濱親方1人だけだった。このため千代の富士が肩を脱臼すると伊勢ヶ濱親方がすぐに支度部屋に駆けつけていたほどだった。はめ直すシーンはたびたびテレビ中継で放映された。
  7. ^ この取り口の変化は北の富士も予想していなかった。北の富士は「前みつを取って食い下がって投げを打って勝つような相撲になると思っていた」と語っている。
  8. ^ 立合いから左前みつを取って攻め立てた。敗れはしたものの足腰の良さを発揮して輪島の投げを再三しのぎ、連続投げについていく場面、瞬発力を活かして攻勢に出る瞬間もあった。最後は吊り出されて敗れたが、輪島を吊ろうとする場面もあった。
  9. ^ 横審が「長続き」を指摘したのは、千代の富士が肩の怪我を乗り越えて幕内に戻ってきた経歴と、直近の横綱である若乃花が休場がち、三重ノ海が短期で引退に追い込まれたことが背景としてあった(いずれも1981年7月21日付朝刊スポーツ面)。
  10. ^ 1984年11月場所終了時点で優勝回数は10回に到達したが、蔵前国技館で開催の東京場所の優勝は2回のみ(1981年1月場所・1982年5月場所)に終わっている。
  11. ^ この時は賜杯を受け取り損ねることがないように武蔵川親方(三重ノ海)が表彰式に付き添っていた。
  12. ^ 直前の9月場所で千代の富士は29回目の優勝を達成、また授与式が行われたのも9月29日であった。さらに、授与した側である海部俊樹は、「第29回衆議院議員総選挙29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言して、実際に29年後の1989年に総理大臣に就任したばかりであった。
  13. ^ このため、一代年寄に千代の富士を含めるかどうか解釈が分かれているが、大鵬は自身の還暦土俵入りの際に「千代の富士も含まれる」との見解を示し、この還暦土俵入りに千代の富士(九重)を露払いとして随行させている。
  14. ^ その20年後の2010年5月場所千秋楽に魁皇も史上2人目の通算1000勝を達成した。
  15. ^ 当初は翌日(5月15日)に引退発表する予定で千代の富士も既に帰宅していたが、当日夜にマスコミに引退情報が漏れ(千代の富士も『まんが名作劇場 サザエさん』を視聴中にニュース速報のテロップが表示され、驚いたという)、取材陣が九重部屋に押し寄せる事態になったため、九重(元横綱・北の富士)の判断で急遽会見を前倒しした。
  16. ^ なお、引退を表明した5月14日は午前10時35分頃に信楽高原鐵道列車衝突事故が発生していたため、マスコミやテレビ局各社にとっては事故の報道と横綱の引退報道が合わさる形となり、多忙をきわめた1日となった。
  17. ^ 2002年には北の富士の還暦土俵入りに太刀持ちとして率先して随行するなど、個人的な関係までは悪化しなかった。また、北の富士は不仲については否定し、「信頼している」とまで発言していた(北の富士さん無念「コメントする気になれない」 - 日刊スポーツ、2016年8月1日、9時53分)。
  18. ^ 旧九重→八角部屋の施設は北の富士が所有しているため。北の富士は相撲協会退職後も八角部屋最上階に居住している。
  19. ^ 北の富士は「千代の富士は一人でやれるし、いても邪魔になるだけ。八角は応援してやらんと」と、九重の能力を評価し、自由に運営できるようにするために配慮したことと同時に、八角への支援の必要性があったことを理由としている。
  20. ^ 千代大海が継承した後も、2020年に葛飾区に移転するまでの間、千代の富士の遺族から施設を借用している。
  21. ^ たとえば、三段目に昇進すると四股名が与えられるが、全ての力士に「千代〜」と命名していた。なお、千代大海が九重部屋を継承してからは、「三段目に上がることを最終目標にしてはいけない」ということで新弟子の時点で四股名が与えられる方針に変わったが、やはり全員「千代〜」と命名されている。
  22. ^ 千代の山が出羽海部屋から独立した際に出羽一門を破門され、高砂一門入りしたことによる。
  23. ^ 八角が九重部屋から独立した際に部屋付の年寄が全員八角部屋に移籍したことも影響している。
  24. ^ 2019年に貴景勝光信が大関に昇進しているが、その時点で師匠だった貴乃花は相撲協会を退職している。
  25. ^ DESTROSEMary's BloodのギタリストERIのこと。
  26. ^ 同じことを貴ノ花は栃赤城にも勧めたとされているが、栃赤城は「それならば幕内を維持しているほうがいい」と言って拒否したという。
  27. ^ 同様に千代の富士は賜杯と共に自身の子供を抱いての記念撮影を長女、長男、三女とも行っている(長女は1984年11月場所、長男は1987年11月場所、三女は1989年3月場所)。
  28. ^ 特に初めて番組に顔を出したときには、アン・ルイス吉川晃司との過激なパフォーマンスを展開して物議を醸した回で、歌の最中に千代の富士は不機嫌な表情を浮かべながらその一部始終を見届けており、その形相を気にした芳村が話題をそらそうとして千代の富士に頻繁に話しかけていた。
  29. ^ 該当の回は芳村のパートナーの司会者が井上順から古舘伊知郎に交代した初回であり、古舘が当時実況を担当していた『ワールドプロレスリング』の繋がりで、この番組で試合を中継していたプロレス団体である新日本プロレスの当時社長で古舘と交友のあったアントニオ猪木も出演していた。猪木と千代の富士はその後も猪木の引退試合に千代の富士が駆けつけたり、千代の富士の還暦土俵入りや死去の際には猪木が駆けつけたりするなど、千代の富士が死去するまで交友が続いていた。また、師匠である北の富士は現役力士だった時代に歌手として『夜ヒット』に出演した経験がある。
  30. ^ 愛弟子の千代大海が14代九重を継承した後の2020年に九重部屋は東京都葛飾区へ新築移転。これに伴い13代九重部屋の施設がちゃんこ料理店に改装された[91]
  31. ^ 玉林寺は秋元家の菩提寺であり、乳児の時に死去した三女の墓がある[92]

出典

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