源氏物語
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成立・生成・作者に関する諸説
現在では3部構成説(第1部:「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖、第2部:「若菜上」から「幻」までの8帖、第3部:「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖)が定説となっているが、その成立・生成・作者・原形態に関しては古くからさまざまな議論がなされてきた。以下に、特に重要であろうと思われるものを掲げる。
作者は誰か
通説

一条天皇中宮・藤原彰子(藤原道長の長女)に女房として仕えた紫式部が作者というのが通説である[32]。物語中に「作者名」は書かれていないが、以下の文から作者は紫式部だろうと言われている。
- 『紫式部日記』(写本の題名はすべて『紫日記』)中に自作の根拠とされる次の3つの記述
- 尊卑分脈の註記
- 後世の源氏物語註釈書
「 | 「左衛門督 あなかしここのわたりに若紫やさぶらふ とうかがひたまふ 源氏にかかるへき人も見えたまはぬにかの上はまいていかでものしたまはむと聞きゐたり」 | 」 |
—底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本 |
「 | 「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべる」 | 」 |
—底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本 |
「 | 「源氏の物語御前にあるを殿の御覧じて 例のすずろ言ども出で来たるついでに梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる すきものと名にしたてれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ たまはせたれば 人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ めざましう と聞こゆ」 | 」 |
—底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本 |
「 | 「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」 | 」 |
—『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』 |
紫式部ひとりが書いたとする説の中にも以下の考え方がある。
- 短期間に一気に書き上げられたとする考え方
- 長期間にわたって書き継がれてきたとする考え方。この場合はその間の紫式部の環境の変化(結婚、出産、夫との死別、出仕など)が作品に反映しているとするものが多い。
異説
光源氏のモデルと言われる源高明自身が作者という説がある。
推理作家の藤本泉は1962年(昭和37年)の小説[33]をはじめとして『源氏物語』多数作者説をとっていた。その中の著作[34]で、桐壺など「原 源氏物語」を源高明とその一族が書いたと仮定していたが、続く著作[35]において源高明説が弱いことを認めており、同著でほかの複数作者の推定を行っている。作者は紫式部ではないとする説の根拠の一部は以下の通り。
- 藤原道長をはじめとする当時の何人もの人物がもてはやしたとされる作品であるにもかかわらず、当事者の記録とされている『紫式部日記』(原題『紫日記』)(藤本泉はこの『紫日記』も紫式部の作ではないとしている)を除くと、当時、数多く存在した公的な記録や日記などの私的な記録に一切記述がない。
- 現実とは逆に、常に藤原氏が敗れ、源氏が政争や恋愛に最終的に勝利する話になっており、藤原氏の一員である紫式部が書いたとするのは不自然である。詳細は「#藤原氏と源氏」を参照
- 作中で描かれている妊娠や出産に関する話の中には、女性(特に、子どもを産んだ経験のある女性)が書いたとするにはあり得ない矛盾がいくつも存在する。
- 女性の手による作品のはずなのに、作中に婦人語と呼べるものがまったくみられない。
- 源氏物語の中において描かれている時代が紫式部の時代より数十年前の時代と考えられる。
- 紫式部の呼び名の元になった父親(式部大丞の地位に就いていた)を思わせる「藤式部丞」なる者が、帚木の帖の雨夜の品定めのシーンにおいてもっとも愚かな内容の話をする役割を演じており、紫式部が書いたとするには不自然である。
一部別作者説
『源氏物語』の大部分が紫式部の作品であるとしてもその一部には別人の手が加わっているのではないか、とする説は古くから存在する。
古注の一条兼良の『花鳥余情』に引用された『宇治大納言物語』には、『源氏物語』は紫式部の父である藤原為時が大筋を書き、娘の紫式部に細かいところを書かせたとする伝承が記録されている。『河海抄』には藤原行成が書いた『源氏物語』の写本に藤原道長が書き加えたとする伝承が記録されている。一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などには宇治十帖が紫式部の作ではなく、その娘である大弐三位の作であるとする伝承が記録されている。これらの伝承に何らかの事実の反映を見る説も多いものの、池田亀鑑はこれらの親子で書き継いだとする説は、『漢書』について前半を班彪が書き、残りを子の班固が書き上げたという故事にちなんだもので、事実とは何の関係もないとの見解を示している[36]。
近代に入ってからも、さまざまな形で「源氏物語の一部分は紫式部の作ではない」とする説が唱えられてきた。
与謝野晶子は筆致の違いなどから「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした[24]。 和辻哲郎は「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」といった形ではなく、「ひとつの流派を想定するべきではないか」としている[37]。
第二次世界大戦後になって、登場人物の官位の矛盾などから、武田宗俊らによる「竹河」の巻別作者説といったものも現れた[38]。
これらのさまざまな別作者論に対して、ジェンダー論の立場から、『源氏物語』は紫式部ひとりですべて書き上げたのではなく別人の手が加わっているとする考え方は、「紫式部ひとりであれほどのものを書き上げられたはずはない」とする女性蔑視の考え方に基づくものであるとするとして、「ジェンダーの立場から激しく糾弾されなければならない」とする見解も出現した[39]。
阿部秋生は、『伊勢物語』『竹取物語』『平中物語』『うつほ物語』『落窪物語』『住吉物語』など当時存在した多くの物語の加筆状況を調べたうえで、「そもそも、当時の『物語』はひとりの作者が作り上げたものがそのまま後世に伝えられるというのはむしろ例外であり、ほとんどの場合は別人の手が加わった形のものが伝えられており、何らかの形で別人の手が加わって後世に伝わっていくのが物語のとって当たり前の姿である」として、「源氏物語だけがそうでないとする根拠は存在しない」との見解を示した[40]。
計量文献学により文体、助詞・助動詞など単語の使い方について統計学的手法による分析・研究が進められている[41][42] [43][44][45]。
執筆期間・執筆時期
源氏物語が紫式部によって「いつごろ」「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。『紫式部日記』には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、そのころには源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられる。安藤為章は、『紫家七論』(元禄16年(1703年)成立)において、「源氏物語は紫式部が寡婦となってから出仕するまでの3、4年の間に大部分が書き上げられた」とする見解を示したが、これはさまざまな状況と符合することもあって有力な説になった。しかしその後、これほどに長い物語を書き上げるためには当然長い期間が必要であると考えられるだけでなく、前半部分の諸巻と後半部分の諸巻との間に明らかな筆致の違いが存在することを考えると、執筆期間はある程度の長期にわたると考えるべきであるとする説や、結婚前、父に従って越前国に赴いていた時期に書き始められたとする説、作中の出来事が当時の実際に起きたさまざまな事実を反映しており、最終的な完成時期をかなり引き下げる説も唱えられるようになってきた[46][47]。
一方で、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとはいえず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾なく描かれているのは短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきであるとする説もある[48]。
執筆動機
なぜ、紫式部はこれほどの長編を書き上げるに至ったのかという点についても、直接明らかにした資料は存在せず、古くからさまざまに論じられている。古注には、
- 村上天皇の皇女選子内親王から新しい物語を所望されて書き始めたとする『無名草子』に記されている説
- 藤原氏により左遷された源高明の鎮魂のため、藤原氏一族である紫式部に書かせたという『河海抄』に記されている説
などがある。近代以降にも、
- 作家としての文才や創作意欲を満たすため
- 寡婦としての寂しさや無聊を慰めるため
- 式部の父がその文才で官位を得たように式部が女房になるため
といったさまざまな説が唱えられている[49]。
巻数はいくつか
通説
現在、『源氏物語』は一般に54帖であるとされている。ただし54帖の中でも「雲隠」は題のみで本文が伝存しない。そのため、この54帖とする数え方にも以下の2つの数え方がある。
- 巻名のみの「雲隠」を含め「若菜」を上下に分けずに54帖とする。中世以前によく行われたとされる。
- 「雲隠」を除き、「若菜」を上下に分けて54帖とする。中世以後に有力になった。
鎌倉時代以前には、『源氏物語』は「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられており、並びの巻を含めない37巻という数え方が存在し、さらに、宇治十帖全体を一巻に数えて全体を28巻とする数え方をされることもあった。37巻とする数え方は仏体37尊になぞらえたもので、28巻とする数え方は法華経28品になぞらえたものであると考えられている。これらはいずれも数え方が異なるだけであって、その範囲が現在の『源氏物語』と異なるわけではない。
それらとは別に、現在、存在しない巻を含めるなどによって別の巻数を示す資料も存在する。
失われた巻々
かつて、『源氏物語』には、現在は存在しないいくつかの「失われた巻々」が存在したとする説がある。そもそも、最初から54帖であったかどうかということ自体がはっきりしない。
現行の本文では、
- 光源氏と藤壺が最初に関係した場面
- 六条御息所との馴れ初め
- 朝顔の斎院が初めて登場する場面
に相当する部分が存在せず、位置的には「桐壺」と「帚木」の間にこれらの内容があってしかるべきであるとされる(現に、この脱落を補うための帖が後世の学者によって幾作か書かれている)。藤原定家の記した「奥入」にはこの位置に「輝く日の宮(かがやくひのみや)」という帖がかつてはあったとする説が紹介されており、池田亀鑑や丸谷才一のようにこの説を支持する人も多い。つまり、「輝く日の宮」については、
- もともとそのような帖はなく、作者は1 - 3のような描写をあえて省略した
- 「輝く日の宮」は存在したが、ある時期から失われた
- 一度は「輝く日の宮」が書かれたが、ある時期に作者の意向もしくは作者の近辺にいた人物と作者の協議によって削除された(丸谷才一は藤原道長の示唆によるものとする)
の3説があることになる。「輝く日の宮」は「桐壺」の巻の別名であるとする説もある。
それ以外にも、故実書のひとつ『白造紙』に含まれる「源氏物語巻名目録」に、「サクヒト」「サムシロ」「スモリ」といった巻名が、また、藤原為氏の書写と伝えられる源氏物語古系図に、「法の師」「巣守」「桜人」「ひわりこ」といった巻名がみえるなど、古注や古系図の中にはしばしば現在みられない巻名や人名がみえるため、「輝く日の宮」のような失われた巻がほかにもあるとする説がある。当時の人々はこのような外伝的な巻々まで含めたものまでを源氏物語として扱っていたとみられるため、このような形の源氏物語を「源氏物語の類」といった形で把握する説もある。このほか、『更級日記』では『源氏物語』の巻数を「五十余巻(よかん)」としているが、これが54巻を意味しているのかどうかについても議論がある。
2009年(平成21年)11月には「巣守帖」と思われる写本の一部が中央大学教授の池田和臣によって発見されたと報道されており、今後の研究が待たれる[50]。
源氏物語60巻説
『無名草子』や『今鏡』『源氏一品経』『光源氏物語本事』のように、古い時代の資料に『源氏物語』を60巻であるとする文献がいくつか存在する。一般的には、この60巻という数字は仏教経典の天台60巻になぞらえた抽象的な巻数であると考えられているが、この推測はあくまで「60巻という数字が事実でなかった場合、なぜ(あるいはどこから)60巻という数字が出てきたのか」の説明にすぎず、60巻という数字が事実でないという根拠が存在するわけではない。
この「『源氏物語』が全部で60巻からなる」という伝承は、「源氏物語は実は60帖からなり、一般に流布している54帖のほかに秘伝として伝えられ、許された者のみが読むことができる6帖が存在する」といった形で一部の古注釈に伝えられた。源氏物語の注釈書においても、一般的な注釈を記した『水原抄』に対して秘伝を記した『原中最秘抄』が別に存在するなど、この時代にはこのようなことはよくあることであったため、「源氏物語本文そのものについてもそのようなことがあったのだろう」と考えられたらしく、秘伝としての源氏物語60巻説は広く普及することになり、のちに多くの影響を与えた。たとえば、『源氏物語』の代表的な補作である『雲隠六帖』が6巻からなるのも、もとからあった54帖にこの6帖を加えて全60巻になるようにするためだと考えられており、江戸時代の代表的な『源氏物語』の刊本をみても、
- 『絵入源氏物語』は『源氏物語』本文54冊に、「源氏目案」3冊、「引歌」1冊、「系図」1冊、「山路露」1冊を加えて
- 『源氏物語湖月抄』は「若菜」上下と「雲隠」をともに数に入れた源氏物語本文55冊に「系図」「年立」などからなる「首巻」5冊を加えて
いずれも全60冊になる形で出版されている。
並びの巻
『源氏物語』には並びの巻と呼ばれる巻が存在する。『源氏物語』は鎌倉時代以前には「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられていた。並びがあるものは、ほかに『うつほ物語』『浜松中納言物語』がある。これに対して、「奥入」と鎌倉時代の文献『弘安源氏論議』において、その理由が不審である旨が記されている。帖によっては登場人物に差異があり、話のつながりに違和感を覚える箇所があるため、ある一定の帖を抜き取ると話がつながるという説がある。その説によれば、紫式部が作ったのが37巻の部分で、残りの部分は後世に仏教色を強めるため、読者の嗜好の変化に合わせるために書き加えられたものだとしている。
並びの巻に関する寺本直彦の説
『源氏物語』の巻名の異名は次の通りであるが、
- 桐壺 - 壺前栽
- 賢木 - 松が浦島
- 明石 - 浦伝
- 少女 - 日影
- 若菜(上 ‐ 箱鳥、下 ‐ 諸鬘、上下 ‐ 諸鬘)
- 匂宮 - 薫中将
- 橋姫 - 優婆塞
- 宿木 - 貌鳥
- 東屋 - 狭蓆
- 夢浮橋 - 法の師
寺本は8で「貌鳥」を並びの巻の名とする諸書の記述に注目し、「貌鳥」は現在の「宿木」巻の後半ないし末尾であったことを明らかにし、5「若菜」に対する「諸鬘」なども同様であったと推論した。 そのほか、1、10もそれぞれ、「桐壺」が「桐壺」と「壺前栽」、「夢浮橋」が「夢浮橋」と「法の師」に二分されていたことを示すもので、また、『奥入』の「空蝉」巻で、
一説には、二(イ巻第二)かヽやく日の宮このまきなし(イこのまきもとよりなし)。ならひの一はヽ木ヽうつせみはおくにこめたり(イこのまきにこもる)。
という記述についても、「輝く日の宮」が別個にあるのではなく、それは現在の「桐壺」巻の第3段である藤壺物語を指し、「輝く日の宮」を「桐壺」巻から分離し第2巻とし、これを本の巻とし、「空蝉」巻を包含した形の「帚木」巻と「夕顔」巻とをそれぞれ並一・並二として扱う意味であると理解しようとした。 寺本は結論として、並とは本の巻とひとそろい、ひとまとめになることを示し、巻々をわけ、合わせる組織・構成に関係づけた[51][52]。
巻々の執筆・成立順序
『源氏物語』の巻々が執筆された順序については、「桐壺」から始まる現在読まれている順序で書かれたとするのが一般的な考えであるが、必ずしもそうではないとする見方も古くからさまざまな形で存在する。
古注の『源氏物語のおこり』や『河海抄』などには、『源氏物語』が、現在冒頭に置かれている「桐壺」の巻から書き始められたのではなく、石山寺で「須磨」の巻から起筆されたとする伝承が記録されている。ただし、これらの伝承は「紫式部が源高明の死を悼んで『源氏物語』を書き始めた」とするどう考えても歴史的事実に合わない説話や、紫式部が菩薩の化身であるといった中世的な神秘的伝承と関連づけて伝えられることも多かったため、古くからこれを否定する言説も多く、近世以降の『源氏物語』研究においては『源氏物語』の成立や構成を考えるための手がかりとされることはなかった。
与謝野晶子は、『源氏物語』は「帚木」巻から起筆され、「桐壺」巻はあとになって書き加えられたのであろうとする説を、『源氏物語』の全体を二分して後半の始まりである「若菜」巻以降を紫式部の作品ではなくその娘である大弐三位の作品であろうとする見解とともに唱えた[53]。
和辻哲郎は、「帚木」巻の冒頭部の記述についての分析などから、「とにかく現存の源氏物語が桐壺より初めて現在の順序のままに序を追うて書かれたものではないことだけは明らかだと思う」と結論づけた[54]。
阿部秋生は「桐壺」巻から「初音」巻までについて、
- まず、「若紫」「紅葉賀」「花宴」「葵」「賢木」「花散里」「須磨」の各巻が先に書かれ、
- その後、「帚木」「空蝉」「夕顔」「末摘花」が書かれたあとに、「須磨」以後の巻が執筆され、
- 「乙女」巻を書いた前後に「桐壺」巻が執筆された
とする説を発表したが[55]、玉上琢弥が部分的に賛同した以外は大きな影響を与えることはなかった[56]。このほかに、「桐壺」巻を後からの書き加えであるとする説には、藤田徳太郎の説[57]、「桐壺」巻のほか「帚木」巻もあとから書き加えたとする佐佐木信綱の説[58]がある。
武田宗俊の第一部二系統説
武田宗俊は阿部秋生の仮説を『源氏物語』第一部全体に広げ、第一部の巻々を紫上系・玉鬘系の2つの系統に分類し、
- 紫上系の巻だけをつなげても矛盾のない物語を構成しており、おとぎ話的な「めでたしめでたし」で終わる物語になっている。武田はこれを『「原」源氏物語』であるとしている。
- 紫上系の巻で起こった出来事は玉鬘系の巻に反映されているが、逆に、玉鬘系の巻で起こった出来事は紫上系の巻には反映されていない。
- 玉鬘系の巻には紫上系の巻とは時間的に重なる描写がしばしばある。
- 源氏物語第一部の登場人物は、紫上系の登場人物と玉鬘系の登場人物に明確に分けることができ、紫上系の登場人物は、紫上系・玉鬘系のどちらの巻にも登場しているのに対して、玉鬘系の登場人物は玉鬘系の巻にだけ登場している。
- 光源氏や紫上といった両系に登場する主要人物の呼称が紫上系の巻と玉鬘系の巻では異なっている。
- 紫上系の巻では光源氏と関係を持つのは紫の上・藤壺・六条御息所といった身分の高い「上の品」の女性たちであるのに対して、玉鬘系の巻では光源氏と関係を持つのは空蝉・夕顔・玉鬘といった上の品より身分の低い「中の品」の女性たちである、というようなはっきりした違いがある。
- 桐壺巻と帚木巻、夕顔巻と若紫巻など、紫上系の巻から玉鬘系の巻に切り替わる部分や、逆に、玉鬘系の巻から紫上系の巻に切り替わる部分の描写には不自然な点が多い。
- 紫上系の巻の文体や筆致等は素朴であるが、玉鬘系の巻の描写には深みがある。これは紫上系よりも玉鬘系の方が後の時期に書かれていて作者の精神的成長を反映しているからとすれば説明がつく。
といったさまざまな理由から、『源氏物語』第一部はまず紫上系の巻が執筆されて、その後に玉鬘系の巻が一括して挿入されたものであるとした[59]。
武田説以後の諸説
風巻景次郎は、現在の『源氏物語』には存在しない「輝く日の宮の巻」と「桜人の巻」の存在を想定し、それによって武田説に存在した「並びの巻」と「玉鬘系」の「ずれ」を解消し、「並びの巻が玉鬘系そのものであり、後記挿入されたものである」とした[60]。
丸谷才一は大野晋との対談で、この説をさらに深め(1)b系は、空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘を中心に源氏の恋の失敗を描いた帖であることが共通していること、(2)筆がa系よりもこなれており、叙述に深みがあることなどの点から、a系第一部の評価が高くなったのちに、今度は御伽噺の主人公のように完璧な光源氏(実際にa系の源氏はそう描かれている)の人間味を描くために書かれたのがb系ではないかと述べている。またb系には、のちに「雨夜の品定め」と呼ばれる女性論や、「日本紀などはただかたそばぞかし」と源氏に語らせた物語論もあり、独自の見解を提唱している[61][62]。
斎藤正昭は、玉鬘系の巻々のうち玉鬘十帖などは紫の上系の巻々よりあとに書かれたが、帚木三帖は逆に紫の上系の巻々より前に書かれたとした[63][64]。玉鬘系の巻々がいくつかに分割して挿入されたとする説には、このほかに、伊藤博による帚木三帖と末摘花を葵帖着筆前の挿入、蓬生および関屋を少女巻執筆後の後記挿入とする説[65]などがある。
このほかにも、武田説が出てからはさまざまな論点から、武田説と同様に『源氏物語』が現行の巻の並び通りに執筆・成立されたのではないとする学説が続出した[66][67][68]。
武田説批判
武田説については、このように大きな影響力を持ち、多くの賛同者を得た一方で激しい批判も数多く受けた。批判を行った点は論者によってさまざまに異なるが、そのおもなものを挙げる。
- 源氏物語には「本伝」と呼ぶべき部分と「外伝」と呼ぶべき部分が存在することは確かであるが、あくまで構想論上の問題として考えるべきものであって、成立論の問題として考えるべきではないとするもの[69]。
- 武田説は近代的な合理主義を前提として議論を進めているが、そのような合理主義が源氏物語が成立した当時に通用するとは限らないとするもの[70]。
- 「葵」巻の中に末摘花のことを指しているとされる一節があるなど、玉鬘系の人物が紫上系の巻に現れるといった点などの武田説の主張の根拠の事実認識に誤りがあるとするもの[71][72][73]。
- 「玉鬘系の主要人物が紫上系に登場しないこと」などは構想論上の要請に基づくものとして説明できるとするもの[74]。
- 根拠に描写がこなれているとか不自然であるとかいった主観的なものについては学問的に検証できるものではなく、武田論文においても具体的な検証は何も行われていないとするもの。
- 『源氏物語』がどのような経過で成立したのかを根拠づける外部資料は少なくとも今のところ存在せず、『更級日記』などの記述をみても、成立してほどない時期から、『源氏物語』は今のような五十四帖すべてが完成した形で読まれてきたと考えられることから、たとえ『源氏物語』の成立過程がどのようなものであるにせよ、『源氏物語』の研究・鑑賞は五十四帖すべてが完成した形での『源氏物語』に対して行われるべきである。『源氏物語』に、一見すると欠落している部分が存在するようにみえるのは、武田説が主張するような複雑な成立の経緯が存在するために起きた現象なのではなく、物語の中に、意図的に「描かれていない部分」を設けることによって、すべてを具体的に描くより豊かな世界を構成しようとする構想上の理由が原因であるとするもの[75]。
- 成立論と構想論が明確に区別されず、混じり合って議論されていることを批判するもの[76]。
- 紫上系と玉鬘系の間に質的な違いが存在することを認めつつも、そこから何らの証拠もないままで成立論に向かうのは「気ままな空想」にすぎないとするもの[77]。
その他の説
- 原『源氏物語』短編説
- 原『源氏物語』は、「若紫」「蛍」程度の短編であるとの説。和辻哲郎による。
- 後挿入説
- 一部の帖があとから挿入されたという説。「桐壺」1帖(室町時代の『源氏物語聞書』、与謝野晶子の説)、「帚木」「空蝉」「夕顔」3帖(風巻景次郎の説)など。
- 池田亀鑑の説
- 『源氏物語』は長編的な性格を持った巻々と短編的な性格を持った巻々から構成されており、長編的な性格を持った巻々は今並べられている順序で執筆されたと考えられるが、短編的性格を持った巻々は長編的な性格を持った巻々が一区切りついたところで、またはそれらと並行して書かれ、長編的な性格を持った巻々の間にあとから挿入されたと考えられる[78]。
第3部と宇治十帖
「匂宮」巻以降は、源氏の亡きあと、光源氏・頭中将の子孫たちのその後を記す。特に、最後の10帖は「宇治十帖」と呼ばれ[79][11]、京と宇治を舞台に、薫の君・匂宮の2人の男君と宇治の三姉妹の恋愛模様を主軸にした仏教思想の漂う内容となっている。
第3部および宇治十帖については他作説が多い。おもなものを整理すると以下のとおりとなる。
- 「匂宮」「紅梅」「竹河」は宇治十帖とともに後人の作を補入したものであるとの小林栄子による説。
- 宇治十帖は大弐三位(紫式部の娘賢子)の作であるとする説。一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などによる。また、与謝野晶子は「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした。
- 別人の作説 - 安本美典 文部省(現・文部科学省)の統計数理研究所(「雲隠」までと宇治十帖の名詞と助動詞の使用頻度が明らかに異なるという研究結果による)[80]
通説では、第3部はおそらく式部の作(第2部執筆以降かなり長期間の休止を置いたためか、用語や雰囲気が相当に異なっているが、それをもって必ずしも他人の作とまでいうことはできない)というものである。また、研究者の間では、通説においても、「紅梅」「竹河」はおそらく別人の作であるとされる(「竹河」については武田宗俊、与謝野晶子の説でもある)。
主要テーマ(主題)の諸説
「源氏物語の主題が何であるのか」については古くからさまざまに論じられてきたが、『源氏物語』全体を一言でいい表すような「主題」については、「もののあはれ」論がその位置にもっとも近いとはいえるものの、いまだに広く承認された決定的な見解は存在しない。古注釈の時代には「天台60巻になぞらえた」とか「一心三観の理を述べた」といった仏教的観点から説明を試みたものや、『春秋』『荘子』『史記』といったさまざまな中国の古典籍に由来を求めた儒教的・道教的な説明も多くあり、当時としては主流にある見解といえた。『源氏物語』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とはいいがたいこともあって、後述の「もののあはれ」論の登場以後は衰えることになった。
これに対し、本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』 において、『源氏物語』を「外来の理論」である儒教や仏教に頼って解釈するべきではなく、『源氏物語』そのものから導き出されるべきであるとし、その成果として、「もののあはれ」論を主張した。この理論は源氏物語全体を一言でいい表すような「主題」としてもっとも広く受け入れられることになった[81]。その後、明治時代に入ってから藤岡作太郎による「源氏物語の本旨は夫人の評論にある」といった理論が現れた[82]。
明治時代以後、坪内逍遥によって『小説神髄』が著されるなどして西洋の文学理論が導入されるにともない、さまざまな試みがなされ、中には、部分的にはそれなりの成果を上げたものもあったものの、
- そもそも、『源氏物語』に西洋の文学理論でいうところの「テーマ」が存在するのか
- 『源氏物語』に対して西洋の文学理論を適用すること、およびそれに基づく分析手法を用いた結果導き出された「テーマ」に意味があるのか
といった前提が問い直されていることも多く、それぞれがそれぞれの関心に基づいて論じているという状況である。『源氏物語』全体を一言で表すような主題を求める努力は続けられており、三谷邦明による反万世一系論や、鈴木日出男による源氏物語虚構論[83]などのような一定の評価を受けた業績も現れてはいるものの、一方で、『源氏物語』には西洋の文学理論でいうところの「テーマ」は存在しないとする見解も存在する[84]など広く合意された結論が出たとはいえない状況である[85][86][87][88][89]。『源氏物語』の、それぞれの部分についての研究がより精緻になるにしたがって、『源氏物語』全体に一貫した主題をみつけることは困難になり、「読者それぞれに主題と考えるものが存在することになる」という状況になる[90]。1998年(平成10年)から1999年(平成11年)にかけて風間書房から出版された『源氏物語研究集成』では、全15巻のうち冒頭の2巻を「源氏物語の主題」にあて、計17編の論文を収録しているが、『源氏物語』全体の主題について直接論じたものはなく、すべて「桐壺巻の主題」「『帚木』三帖の主題」「須磨・明石巻の主題」「玉鬘十帖の主題」「藤壺物語主題論」「紫上物語の主題」「六条御息所物語の主題」「若菜上・下巻の主題と方法」「明石君物語の主題」「御法・幻巻の主題」「柏木物語の主題」「夕霧物語の主題」「大君物語」「宇治十帖における薫の主題」「浮舟物語の主題」「宇治の物語の主題」といった形で特定の巻または「○○物語」といった形でまとまって扱われることの多い、関連を持った一群の巻々についての主題を論じたものばかりである[91][92]。
藤原氏と源氏
『源氏物語』は、なぜ藤原氏全盛の時代に、かつて藤原一族が安和の変で失脚させた源氏を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いたのか。初めてこの問いかけを行った藤岡作太郎は、「源氏物語の本旨は、夫人の評論にある」とした論の中で、政治向きに無知・無関心な女性だからこそこのような反藤原氏的な作品を書くことができ、周囲からもそのことを問題にはされなかったのだとした。一方、池田亀鑑は、藤原氏の全盛時代という現実世界の中で生きながらも高邁な精神を持ち続けた作者紫式部が理想を追い求めた世界観の表れがこの『源氏物語』という作品であるとしている[93]。この問題を取り上げた中には、
- 『源氏物語』を著したのは藤原氏の紫式部ではなく多数の作者らであるとする、推理作家である藤本泉の説詳細は「#異説」を参照
- 恨みをはらんで失脚していった源氏の怨霊を静めるためであるという『逆説の日本史』などで論じた井沢元彦の説[94]
といった説も存在する。もっとも、このような見解については『源氏物語』成立の背景に以下のような理由を挙げている大野晋の見解のように、氏族として藤原氏と源氏が対立しているとはいえず、仮にそのようなものがあったとしても、個人的な対立関係の範疇を超えないとして、問いかけの前提の認識に問題があるとする見方もある[95]。
- この物語の作者である紫式部は、父・藤原為時が源師房の父具平親王と親しく、一時期、家司をつとめていたこともあるとみられるなど、藤原氏の中でも源氏と近い立場にあること。
- 藤原道長はその甥藤原伊周との対立など藤原氏一族の内部での激しい権力闘争を行う一方、以下のように源氏一族とは縁戚関係の構築に積極的であり、源氏との対立関係にあるとはいいがたいこと。
また、より積極的に、上記のような事実関係を前提にして「『源氏物語』は紫式部が父の藤原為時とともに具平親王の元にいた時期に書き始められた」とする見解もある[96][97]。
注釈
- ^ 物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている[1]。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された[1]。
- ^ 江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した[1]。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳[3]、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。
- ^ 紫式部日記より。当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」[1]。
- ^ 紫式部が中宮彰子に「白氏文集」と「新楽府」の2つの漢籍を講義する様子を描いた"絵巻物"。絵の右側、手前が紫式部、奥に中宮彰子、絵の左側は、蔀戸の背後で語り合う女房たち(紫式部日記絵巻の蜂須賀家本より)。当時、天皇の妃である中宮には白氏文集など漢籍の教養が要求された[1]。なお、中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。
- ^ この時の宮中の様子を中心に書いたのが「紫式部日記」である。
- ^ 2009年3月時点で、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類[5]
- ^ 「紫の上系」と「玉鬘系」はそれぞれ「a系」と「b系」、「本系」と「傍系」あるいはそれぞれの筆頭に来る巻の巻名から「桐壺系」と「帚木系」といった呼び方をされることもある。
- ^ このうち、江國香織、角田光代、町田康、金原ひとみ、島田雅彦、桐野夏生については当初雑誌『新潮』(新潮社)2008年(平成20年)10月号に掲載されたものである。
- ^ 日本ヘラルド映画(株)は、2006年3月に角川映画に吸収合併された。よって、このアニメ作品は、それ以降は、角川映画として紹介されている。『紫式部 源氏物語』公式サイト(KADOKAWA)
- ^ いわゆる「陀羅尼落葉」とは別の曲である。
- ^ 特に春日野八千代の光源氏役は当たり役として名高い。
出典
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- ^ 伊井春樹編『世界文学としての源氏物語 サイデンステッカー氏に聞く』(笠間書院、2005年10月)ISBN 4-305-70311-4
- ^ 矢島翠『ラ・ジャポネーズ キク・ヤマタの一生』ちくま文庫、1990年、p302
- ^ a b 『源氏物語』翻訳史 略年表海外へいあんふんかく情報
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- ^ “「源氏物語」、イタリア語で初めて完訳”. 日本経済新聞. 共同通信. (2012年6月13日) 2012年6月13日閲覧。
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- ^ http://f2.aaa.livedoor.jp/~mikura/tree4.html#188
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- ^ 加藤昌嘉「付録 『源氏物語』続編・外伝一覧」人間文化研究機構国文学研究資料館文学形成研究系「平安文学における場面生成研究」プロジェクト編『物語の生成と受容 2 国文学研究資料館平成18年度研究成果報告』人間文化研究機構国文学研究資料館文学形成研究系「平安文学における場面生成研究」プロジェクト、2007年2月、pp.. 237-256。 ISBN 4-87592-118-7
- ^ 市古貞次・三角洋一編『鎌倉時代物語集成 5』笠間書院、1992年4月。
- ^ 風間誠史校訂「雪のあした」『業書江戸文庫 7 伴蒿蹊集』国書刊行会、1993年2月。 ISBN 978-4-336-03010-8
- ^ 風間誠史校訂「物がたり 夢浮橋の後をつぐ」『業書江戸文庫 7 伴蒿蹊集』国書刊行会、1993年2月。 ISBN 978-4-336-03010-8
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