藤原伊行とは? わかりやすく解説

藤原伊行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/25 19:05 UTC 版)

 
藤原伊行
時代 平安時代後期
生誕 保延5年(1139年)?
死没 安元元年(1175年)?
官位 従五位上宮内少輔
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇
氏族 藤原北家世尊寺家
父母 父:藤原定信
兄弟 伊行、定行、信覚、増意、女子
夕霧大神基政の娘)
伊経藤原頼実室、建礼門院右京大夫行家、尊円、大夫局、藤原光綱室
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藤原 伊行(ふじわら の これゆき)は、平安時代後期の貴族能書家藤原北家世尊寺家宮内権大輔藤原定信の子。官位従五位上宮内少輔。世尊寺家6代。

経歴

仁平3年(1153年)知足院堂供養の願文を清書しており、平治元年(1159年)と仁安元年(1166年)には大嘗会の悠紀主基(ゆきすき)屏風の色紙形の筆者に選ばれている。現存する日本最古の書論書『夜鶴庭訓抄』を残した。また『源氏物語』の現存最古の注釈書である『源氏釈』を著した。

また、歴代大臣の上表文の清書にも携わっており、藤原頼長内覧辞任の上表の際に1字分脱字を冒して傍らに補ったことを頼長から責められた伊行は「1・2文字の脱字は書き入れ、3字以上はそのままにするのが『父祖所伝之故実』である」と主張して頼長を黙らせたという[1]。また、世尊寺家の記録では安元元年(1175年)に没したとされているが、藤原基房の上表の際に仁安3年(1168年)の2度目の上表文は伊行が清書しておきながら、翌嘉応元年(1169年)の3度目のものは子・伊経が行っているため、この間に死去したとする説もある[2]

書跡に「戊辰切」「葦手下絵和漢朗詠集」がある。また、にも巧みであったという。

系譜

脚注

  1. ^ 台記久寿2年4月27日条(宮崎、2002年)
  2. ^ 春名、1994年。

出典

関連項目

  • 児玉惟行 - 一部の系図で藤原伊行と同一視しているが、後世の創作である。



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