藤原佐忠とは? わかりやすく解説

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藤原佐忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/31 01:41 UTC 版)

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藤原佐忠
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 不詳(天延元年(973年)頃)
官位 従四位上勘解由長官
主君 朱雀天皇(判代官)→村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族 藤原北家末茂流(魚名流)
父母 父:藤原連茂、母:不詳
兄弟 佐忠、佐衡、佐氏、佐国
藤原義子
時明、時貞
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藤原 佐忠(ふじわら の すけただ)は平安時代中期の貴族歌人藤原北家魚名流、出羽守藤原連茂の子。

経歴

天慶8年(945年)当時六位蔵人木工助を務めている。同年12月大納言藤原師輔に召され郡司読奏の由を奏上する。この頃木工権助に転じるか[1]。翌天慶9年(946年)には式部丞に転じ、天暦元年(947年)に入り朱雀院判代官肥後権守となる。

天暦3年(949年)当時中務丞を務める。天暦5年(951年摂津守を務めており、天暦3年(949年)から天暦5年(951年)の間に従五位下叙爵されたことが分かる。応和2年(962年)正月に右中弁となる。同年5月には歌合に出詠。応和3年(963年)頃には広平親王家別當を務めた。

康保2年(965年大宰大弐に任ぜられ、翌康保3年(966年)赴任の由を御前で申す[2]安和3年(970年)召還の太政官が出され召還。当時の位階は従四位下。最終的に従四位上行勘解由長官に進む。また、時期は不明ながら因幡守を務めたという[3]

勅撰歌人としての活躍も見られ、『拾遺和歌集』に佐忠の詠んだ和歌作品1首が残っている[4]

官歴

系譜

脚注

  1. ^ 本朝世紀天慶8年12月5日条
  2. ^ 『西宮記』康保3年10月20日条
  3. ^ 尊卑分脈末茂
  4. ^ 『勅撰作者部類』
  5. ^ 『小野宮年中行事』
  6. ^ 『醍醐寺要書』
  7. ^ 『日本紀略』
  8. ^ 朝野群載』第21
  9. ^ 『弁官補任』
  10. ^ 『二中歴』
  11. ^ 『類聚符宣抄』第8
  12. ^ 『権記』長保2年4月9日条

参考文献




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