俳句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/03 14:17 UTC 版)

句に季節感を与える季語を含む五七五の定型(有季定型)を基礎とするが、無季や自由律などの俳句も存在し、俳人協会、現代俳句協会、日本伝統俳句協会など各団体の俳句の定義も統一されていない[1][2]。また、各国の言語で制作されているが、使用言語による韻律の変化や、自然環境や季節を表す表現の差異などもあり、詩的ジャンルとして別のものと捉えるかどうかも含めて諸論ある[1]。
俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。
概要
平安時代から次第に形成された和歌言語は南北朝時代の連歌式目の制定で一層完成された[1]。一方で室町時代になると応仁の乱などの社会的混乱から優雅な貴族文化が失われるとともに俳諧連歌が盛んになった[1]。
正統の連歌から分岐して成立した俳諧連歌は遊戯性を高めたもので、連歌の雅語に加えて俗語を導入し、江戸時代に入ると松永貞徳によって大成され(貞門派)、さらに西山宗因などの談林派が現れた[1][4]。その作者も貴族、武士、僧侶だけでなく、大都市の商人や職人、地方の農民にまで広がった[1]。
17世紀に松尾芭蕉が出ると発句(最初の句)の独立性の強い芸術性の高い句風(蕉風)が確立され、後世の俳句に影響を与えた[4]。
明治時代に入り、正岡子規が幕末から明治初期のありふれた作風を「月並俳句(月並俳諧)」と呼んで批判し、1893年(明治26年)に『芭蕉雑談』「連俳非文学論」を発表、「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」と述べ、俳諧から発句を独立させた[5]。これ以降「俳句」の語が一般に用いられ、以降近現代の俳句につながるようになった[5]。
俳句の基本的特徴は「定型」「季語」「切れ字」の三つとされているが、無季俳句や自由律俳句もあり、俳句の要素については議論がある[2][6]。これについては日本国内では同じ詩型の川柳との差異として問われてきた[1]。また、英語などの非日本語による3行詩も「俳句」と呼ばれ、日本のオリジナルを尊重しつつも非日本語であることを強調して「Haiku」と表記されることもある。ただ、先述のように使用言語による韻律の変化や、自然環境や季節を表す表現の差異などもあり、これらを含めるため俳句を「人と自然との関わりを対象とした短詩」と定義する立場もあるが極めてあいまいな印象とする見解もある[1]。
なお、日本語を母語としない者が日本語で俳句を作ることもある。そうした俳人にはマブソン青眼、ドゥーグル・J.リンズィー、アーサー・ビナードなどがいる。
俳諧と和歌を比較すると、俳諧では和歌のような述語的語句(動詞、形容詞など)による叙述や心情の表現の手法ではなく、むしろモノ(物)やケイ(景)といった景物を際立たせて物事の動きや形容への深入りは避けようとする性質があるとされる[7]。これは季語の大半が名詞で、句の全体の立ち位置を決定するほどの意味をもつことにも表れており近世以来一貫した俳文化の特性になっている[7]。
また、俳句結社の活動は句会での俳句の創作や相互批評を中心にしているが、これは連句(俳諧の連歌)における創作の形式が継承されたものである[1]。日本でみられる和歌や俳句などの文学活動は共同体的過程であるとされ、読者であり作者である作者的受容(writerly reception)を可能にするジャンルとして広まっていった[1]。
歴史
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明治
明治中期、正岡子規は、近世以来の月並俳諧を排して、写生を作句の根本に置き、自己の実感から生ずる新しい詩美を見いだそうとして、俳誌『ホトトギス』を刊行主宰した(1897年)。子規のもとに集まった人々は「日本派」と呼ばれ、俳壇の主流となった。これらの子規の活動は、俳句革新運動と呼ばれている。
しかし子規の死後、日本派は高浜虚子と河東碧梧桐の2派に分かれた。虚子は『ホトトギス』を主宰し、伝統的な季題や定型を守る立場をとった。一方の碧梧桐は写生主義をさらに徹底させ、自然観照における個性的な実感を重んじる立場をとった。虚子の俳風は、碧梧桐の勢力に圧倒され気味で、虚子自身も『ホトトギス』も一時は俳句を退き、写生文や小説に力を注いだ。
碧梧桐の門には、大須賀乙字・荻原井泉水・中塚一碧楼らがあった。乙字は写実を象徴に深めよと説き、「新傾向俳句」の呼び名を生んだ。碧梧桐は、無中心論を唱え、主観的な心理描写を重んじた。この傾向をさらに進めた井泉水は、季語無用論を唱え、さらに非定型の自由律俳句を主張した。放浪の俳人尾崎放哉や、種田山頭火、プロレタリア派の栗林一石路は、井泉水の門である。彼らは新傾向派と呼ばれ、機関誌『層雲』を創刊したが(1911年)、その後、慌ただしく離合集散を繰り返した[8]。
大正
大正の初め、一方の虚子は再び俳壇に戻り、新傾向派と対立して季題・定型を提唱した。虚子は初め主情的傾向が強かったが、次第に客観写生の傾向となった。さらに「花鳥諷詠」を説くなどその句風が変遷したが、常に俳壇の主流を占めた。この派には、村上鬼城・飯田蛇笏・原石鼎・前田普羅らをはじめ、昭和に入っても、高野素十・松本たかし・山口青邨・富安風生・川端茅舎らのすぐれた俳人を輩出した[8]。
昭和
ホトトギス派の保守的な作風に対して、同派の水原秋桜子は、主観的叙情を重んじる立場から、新たに『馬酔木』を創刊した(1928年)。同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こった。
昭和10年代に入ると、新興俳句の主張は素材論にすぎないとし、俳句は「我はいかに生きるか」という意識を深めるべきものとする「人間探求派」というべき主張が起こった。中村草田男・加藤楸邨・石田波郷らである。
また大正から昭和にかけて、女性俳人の進出が目立った。杉田久女・三橋鷹女・中村汀女・星野立子・橋本多佳子・石橋秀野らがいる。
敗戦後は桑原武夫の『第二芸術-現代俳句について』(1946年)によって、短詩型である俳句の限界が指摘された。それを契機に、伝統俳句と新興俳句とが積極的に交流し、新しい俳句についての省察が深まった。総合誌『俳句』が創刊(1952年)されたことも、流派を越えた活動のために役立った。
1947年(昭和22年)には吉岡禅寺洞らを中心に口語俳句運動が起こった。翌1948年には、山口誓子の『天狼』が、新鮮酷烈な俳句精神の発揮を目標として「根源俳句」説を提唱した。西東三鬼、平畑静塔、秋元不死男らがこれに参加した。また1953年(昭和28年)には、俳句の中に社会的人間を発表しようとする「社会性俳句」論が起こった。これらの論争は、その後長く続いた、しかし1958年更に悪化し1963年に、終わったとされる。
安保闘争の前後は前衛俳句が盛んになった。金子兜太の「造型俳句論」「意識の造型」などが話題とされた。これに対して、「叙情の回復」を叫ぶ「リアリズム俳句」「季題論」も起こった。前衛俳句は、全共闘運動が鎮静した1970年代には急速に沈潜していった[8]。
現代
俳句という最短詩型の孕む可能性が、様々な立場や切り口から探られている。伝統と前衛、個と社会、諷詠と造形、詩と生活など、俳壇の動向は一言で尽くし難い。流派・傾向にかかわりなく、21世紀初頭の俳壇で活躍していた俳人には、森澄雄・石原八束・三橋敏雄・藤田湘子・鷹羽狩行・上田五千石・和田悟郎・川崎展宏・夏石番矢・佐藤鬼房・飯田龍太・田島和生・石寒太・長谷川櫂らがある。
なお、女性の進出は目覚ましい。第二次世界大戦後すぐに、細見綾子・野沢節子・桂信子らが登場して以来、津田清子・稲畑汀子・中村苑子・鷲谷七菜子・岡本眸・熊谷愛子・黒田杏子らがいる[8]。
また、現代の俳人は結社に所属している者が多い(結社に関しては俳句結社・結社誌の一覧を参照)。現在では、黒田杏子主宰の藍生、石寒太主宰の炎環、金子兜太主宰の海程、田島和生主宰の雉、中原道夫主宰の銀化、長谷川櫂主宰(2011年からは大谷至弘主宰)の古志、小澤實主宰の澤、小川軽舟主宰の鷹、有馬朗人主宰の天為などの活動がある。
1989年(平成元年)、伊藤園が「伊藤園お〜いお茶新俳句大賞」開始[9]。1998年には松山市で全国高校俳句選手権大会(俳句甲子園)が始まった。俳句甲子園に初回から参画している夏井いつきは、「プレバト!!」(毎日放送)の中で2013年11月に開始した芸能人の「俳句の才能査定ランキング」で俳句を査定しており、俳句ブームをけん引している[10]。2012年4月からNHK俳句の中に初心者向け俳句講座「俳句さく咲く!」(Eテレ)を開始、同月「俳句王国」の後継で始まった「俳句王国がゆく」(Eテレ)がすべて地方での公開収録となるなどの影響もあり、老齢化し減少が続いた俳句人口にも変化がみられる。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 井㞍香代子「俳句の普及による価値観の変化」『京都産業大学論集』第47巻、京都産業大学、2014年、87-102頁、hdl:10965/1088、NAID 120005419437。
- ^ a b c d e f g エルジビエタ・ベアタ・コロナ「俳句の翻訳の際に起きる問題―ポーランド語への俳句の翻訳活動概観と、各翻訳の比較」『れにくさ : 現代文芸論研究室論集』第6号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 現代文芸論研究室、2016年、405-422頁、doi:10.15083/00079885、hdl:2261/00079885、NAID 120006901907。
- ^ 復本一郎 『俳句と川柳』講談社学術文庫、2014年7月、14頁。
- ^ a b “連歌から俳諧へ” (PDF). 山口県文書館. 2023年2月10日閲覧。
- ^ a b 五十嵐譲介・大野鵠士・大畑健治・東明雅・二村文人・三浦隆編 『連句 理解・鑑賞・実作』おうふう、1999年3月、44頁。
- ^ a b c d e f 楊秋香「俳句の鑑賞とその翻訳」『中部大学人文学部論集』第24巻、中部大学人文学部、2010年、43-54頁、NAID 120006518563。
- ^ a b 藤田真一「俳諧時間景情論 : 蕪村発句の構想」『國文學』第103巻、関西大学、2019年3月1日、237-264頁、hdl:10112/16739、NAID 120006602818。
- ^ a b c d 稲賀敬二、竹盛天雄、森野繁夫監修『新版初訂 新訂総合国語便覧』第一学習社 2009年1月10日
- ^ お~いお茶新俳句大賞とは 伊藤園
- ^ “『プレバト!!』夏井いつき先生が「俳句ブーム」を作るまで”. Smart FLASH (2018年8月30日). 2019年8月29日閲覧。
- ^ “『去来抄』(故実)”. 伊藤洋. 2018年6月25日閲覧。
- ^ 秋元 (1971)、137頁
- ^ a b c 復本一郎 『俳句と川柳』講談社学術文庫、2014年7月、237-255頁。
- ^ 管宗次『朝鮮通信使による日本語韻文史料―発句、和歌などの短冊色紙をめぐって―』
- ^ 李元植『朝鮮通信使の研究』
- ^ Haiku in the Netherlands and Flanders by Max Verhart, in the German Haiku Society website
- ^ 朝日日本歴史人物事典『ドゥーフ』 - コトバンク
- ^ 井尻香代子「五・七・五 ラテンの風に舞う◇アルゼンチンに渡った日本伝統の調べを追って◇」『日本経済新聞』朝刊2019年7月15日(文化面)2019年8月13日閲覧。
- ^ “英語俳句のルールがよく分からない件”. エキサイトニュース. (2012年6月3日) 2012年6月3日閲覧。
- ^ William J. Higginsonの著書 "Haiku World" (ISBN 978-4770020901)ならびに、"The Haiku Seasons" (ISBN 978-4770016294)
- ^ wikisource:Frog Poem参照。
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