日中戦争 日中全面戦争

日中戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/28 04:04 UTC 版)

日中全面戦争

盧溝橋事件と北支での戦闘拡大

盧溝橋事件(7月7日)は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾している。その後、日本軍の軍派遣決定の後、中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)による、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃の連続、及び第二次上海事変によって、戦闘が本格化した。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作・最後の関頭談話と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる。

1937年(昭和12年)7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍の夜間演習中に実弾が二度発射され、日本軍と中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発する[74]。この日本軍が駐留していた豊台は、義和団の乱の事後処理を定めた北京議定書に定められた駐留可能地ではなく、法的根拠のない駐留だった[75]。当時この地区の居留民保護のため駐留していた外国部隊は日本兵4080、フランス兵1839、米兵1227、英兵999、イタリア兵384であり、日本人居留民は17000人、米欧居留民は計10338人であった[76]7月8日、蒋介石は日記に倭冦の挑発に対して応戦すべきと書き[74]、翌日の7月9日には動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した[76]。7月19日までに北支周辺に30個師団、総兵力20万人を配備した[76](当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了[77])。 7月11日、日中の現地軍どうしで停戦協定が締結され(松井-秦徳純協定)、中華民国側は遺憾の意思を表明し、責任者を処分すること、盧溝橋付近には中国軍にかわって保安隊が駐留すること、事件は藍衣社(青シャツ隊)、中国共産党など抗日団体が指導したとみられるため今後取り締るという内容の停戦協定が締結された[74][76]。事態収拾に向う動きが見えたことから内地師団の動員は一時見合わせとなった。

日本政府が不拡大方針と軍の増派を同時に決定

一方、同7月11日午前の会議で近衛内閣関東軍独立混成第11旅団・独立混成第1旅団の二個旅団朝鮮軍第20師団北支派兵を発令[74]、支那駐屯軍に編入される。近畿以西の全陸軍部隊の除隊延期も決定する。同日、重篤となった田代皖一郎支那駐屯軍司令官に代え、香月清司中将を新司令官に親補。また近衛内閣は現地解決、不拡大方針を閣議決定[78]、さらに「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件を「北支事変」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権を行使するために派兵(増員)するとした[74]。 7月13日に北平(北京)の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生。

国民政府の対日武力行使決定

中国共産党は7月15日国共合作による全面抗戦を呼びかける。蒋介石も7月17日廬山談話会において、中華民国は弱国であり戦争を求めてはならないが、やむをえない場合は徹底抗戦すると表明する[74]。中華民国政府は7月19日、国民党の第29軍代表張自忠らが盧溝橋事件の停戦協定の細目実施を申し出、共産党の策動を徹底的に弾圧すること、排日職員を取り締ること、排日団体は撤去すること、排日運動、排日教育を取り締ることを日本に誓約する[74]一方で、盧溝橋事件に関する地域レベルでの決着は認めないと日本側に通告した[76]。7月20日には中国軍第37師部隊は再び盧溝橋付近で日本軍に攻撃した[76]。7月21日、蒋介石は南京戦争会議で大日本帝国に対して武力行使を行うという方針を採択した[76]。7月23日、南京副幕僚長孫浜将軍が北京と保定の軍に対日戦闘を勧告した[76]

他方、7月22日から中国当局は抗日雑誌等を禁止、藍衣社などを弾圧したと大日本帝国に報告された[74]

中国軍の挑発と日本軍の総攻撃

中国軍は北京・天津の電線切断作戦を展開した[76]1937年7月25日、郎坊駅で電線を修理した大日本帝国軍が休憩していると中国軍が襲撃した(郎坊事件)[76]。日本帝国軍は修理した電線で天津の本部と連絡をとり、翌7月26日、日本軍戦闘機が中国人陣地を爆撃し[76]、同地を日本軍が占領[74]。日本帝国軍は宋哲元将軍に、北平城から中国29路軍37師を撤退させることで誠意をみせてほしい、もし要請に応じなければ日本帝国軍は大日本帝国にとって適切な行動をとると最後通告を行ったが、中国側は応じなかった[76]

7月26日に広安門居留民保護に駆けつけた日本帝国軍が広安門で中国軍より銃撃を受ける(広安門事件)[74]

7月27日、日本軍(支那駐屯軍)は総攻撃の実施を決定した[74][76]。東京の内閣は内地師団動員を下令。第5師団第6師団第10師団の動員派兵を決定[74]。同日午後11時、南京政府は日本側へ、北支当局と日本軍守備隊の協定に関する交渉を日本へ申し出た[76]

7月28日午前5時、日本軍支那駐屯軍、北支で攻撃を開始[74][76]。中国軍は5000余人が戦死、撃滅され、同日夜、北平にいた宋哲元、秦徳純などは脱出した[74]

日本の同盟軍(中国人部隊)による通州事件(日本民間人虐殺)

7月29日には、日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、抗日側に転じて、日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して大量虐殺を実施した通州事件が発生[79][76]。同日同時刻に29路軍が天津の日本人租界を攻撃した[76]。 この通州事件は日本軍民に暴支膺懲の意識を強く植え付けることとなる[80]

日本軍の北平(北京)・天津占領とチャハル作戦

7月31日、日本軍(支那駐屯軍)、北平・天津地区を制圧[74]。 日本軍は7月末には北平天津地方を制圧後、8月には河北省保定(パオティン)以北の制圧を実行に移そうとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され、代わりに行われた作戦が8月9日より関東軍が察哈爾省(現在の内モンゴル自治区)とその周辺へ攻略を開始した(チャハル作戦。後に10月17日に包頭を占領し、日本の傀儡政権蒙古連盟自治政府を樹立し、張家口に駐蒙軍(日本軍)が置かれた。その際、9月9日、山西省陽高で日本軍が武装解除もしくは非武装の成人男子を300名以上を虐殺したとされる事件(陽高事件)があったとされる[81]

上海事変

大世界近くのチベット通りとモンティニー大通りの交差点付近への中国軍機の爆撃による民間人被害者
中国軍機の爆撃による大世界前の惨状

そして、満州事変の時と同じく、戦火が上海に飛び火する。

上海での中国側挑発と日本軍増派

同8月9日、上海の非武装地帯で日本軍上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が中国保安隊に30発以上の銃撃を受けたあと、顔が潰され、胴体に穴をあけるなどして殺害された (大山事件)[67][82]。当時非武装地帯には保安隊の制服を着せた中国正規軍が投入されており[82][67]、また1932年の休戦協定を無視してライフル、機関銃、カノン砲などを秘密裏に持ち込んでいた[67]。翌8月10日、上海領事は国際委員会で中国の平和維持隊の撤退を要求し、外国人委員はこれに賛成し、O.K.ユイ中国市長も全力をあげて解決すると述べたが、翌8月11日、O.K.ユイ中国市長は「私は無力で何もできない」と日本側へ通告した[67]8月12日、中国軍部隊が上海まで前進し、上海日本人租界区域を包囲した[67]8月13日早朝、日本海軍陸戦隊へ攻撃をしかけた[67]8月13日午前9時20分、現地で包囲していた中国軍が機銃掃射攻撃を開始し、日本軍陸戦隊は午後3時55分に応戦を開始した[83]。中国軍はさらに午後5時頃爆破砲撃を開始した[82]

8月13日、日本は閣議決定により上海への陸軍派遣を決定[82]。また同8月13日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた[67]

8月14日には中国空軍は上海空爆を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人をふくむ千数百人の民間人死傷者が出た[82][83]

中国軍による上海共同租界への爆撃[84]

日本政府および軍部は上海への戦火波及はのぞんでいなかったとする見解もあるが[83][67]近衛内閣8月15日、「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、戦争目的は拝日抗日運動の根絶と日本満州支那三国の融和にあるとされ、上海派遣軍が編成された[82][85]。一方、同8月15日に中華民国も全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蒋介石が就任、戦時体制を確立し、さらに中国共産党も同8月15日に『抗日救国十大綱領』を発表し、中国全土での日中全面戦争となった[83]

その後、8月下旬、蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦ゲーペーウー(GPU)による殺戮政治の如き」漢奸狩りを開始した[86]。上海南市老西門広場では、毎日数十人が漢奸として処刑され、総数は4,000名に達し、中には政府官吏も300名以上含まれていた[87]。罪状は井戸、茶壺や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持で、警察官によって裏切り者に対する警告のために処刑された者の首が晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された[88]

渡洋爆撃(日本軍の中国への組織的空爆)

8月15日日本海軍、渡洋爆撃を開始[83]。15日より16日にかけて、日本海軍航空隊の96式陸攻38機が、南昌南京広徳杭州を台南の新竹基地と長崎大村基地からの渡洋爆撃を行った[89]。15日より30日にかけて、同軍のべ147機が済州島・台北から出撃。広徳・南昌・南京などを空襲。未帰還機14機、大破13機。

8月17日、日本政府は従来の不拡大方針を放棄し、戦時体制の準備を講ずると閣議決定した[82]

8月18日、イギリスは日中双方に対して双方の軍の撤退と、租界の日本人保護は外国当局に委任してくれれば責任をもって遂行すると通告、フランスもこれを支持した[67]。しかし日本政府はすでに戦闘が開始しているためこれを丁重に辞退した[67]

8月20日日本海軍、漢口爆撃[89]8月21日中ソ不可侵条約が締結され、5年間はソ連は日本と不可侵条約を締結せず、また中国は第三国と防共協定を締結しないという約束がなされ、まずは戦闘機50機の空輸が上申された[90]8月22日には西北地域の共産党軍(紅軍)を国民革命軍第8路軍に改編、総兵力は32000[91][83]

8月23日、日本陸軍が上海上陸開始[92]。しかし中国軍の抵抗が激しく、一日100mほどしか前進できなかった[92]

8月26日、駐華英国大使ナッチボルー・ヒューゲッセンが日本海軍機の機銃掃射によって重傷を負う。日本海軍が自軍による機銃掃射を否定したためイギリスの対日感情が悪化してしまうが、約一か月後に解決した。

ニューヨークタイムズ1937年8月30日記事では「北京での戦闘の責任については見解がわかれるかもしれないが、上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と報じた[67]

1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、北支那方面軍第1軍第2軍へと編成される[25]

国際連盟の日本空爆への非難決議

1937年9月28日 - 国際連盟の日中紛争諮問委員会、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍による「無差別攻撃」は同年4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲だとされた。

他方、1937年10月、ローマ法王ピオ11世(在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」と声明を出した。東京朝日新聞は「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解するものであり、知己の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と評価した[94]

和平交渉決裂・南京占領・日本の傀儡政権設立

上海攻略後、日本は和平工作を開始し、1937年11月2日にディルクセン駐日ドイツ大使に内蒙古自治政府の樹立、華北に非武装中立地帯(冀東防共自治政府があった場所)、上海に非武装中立地帯を設置し、国際警察による共同管理、共同防共などを提示し、「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されている和平条件は11月5日トラウトマン駐華ドイツ大使に示され、「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告したにも関わらず蒋介石はこれを受理しなかった[95]。蒋介石が受理しなかったのは11月3日から開かれていたブリュッセルでの九カ国条約会議で中国に有利な調停を期待していたためとされるが、九カ国条約会議は日本非難声明にとどまった[95]。その後、トラウトマン大使は蒋介石へ「日本の条件は必ずしも過酷のものではない」と説得し、12月2日の軍事会議では「ただこれだけの条件であれば戦争する理由がない」という意見が多かったこともあり、蒋介石は日本案を受け入れる用意があるとトラウトマン大使に語り、これは12月7日に日本へ伝えられた[95]。その後、日本は南京攻略の戦況を背景に要求を増やし、賠償や永久駐留や傀儡化を含む厳しい条件にした。結果、日中和平交渉は決裂した[96]

南京戦
  • 12月1日 - 大本営、中支那方面軍に南京攻略を許可。
  • 12月1日 - 蒋介石からの参戦の催促に対してスターリンは、日本の挑戦もなく参戦すると侵略行動とみなされ、国際世論で日本が有利になると答え、単独参戦を拒否した[90]
  • 12月10日 - 日本軍(中支那方面軍)、南京攻撃開始。
  • 12月12日 - 中華民国(国民党)軍南京防衛司令官の唐生智大将が南京から逃走。同日、パナイ号事件が起きるが、アメリカは日本側の謝罪と賠償を受け入れた。
  • 12月13日 - 日本軍が南京を占領した[98]。国府軍捕虜、敗残兵、便衣兵、民間人の大量殺害や強姦を日本軍が行ったとする南京事件が起きたが、事件について論争がある。
  • 12月14日〔G〕日本の傀儡政権を北京に中華民国臨時政府を樹立。
  • 12月17日、中支那方面軍、南京入城式。12月18日、日本の陸海軍合同慰霊祭を南京故宮飛行場において挙行[99]
  • 12月23日、南京で自治委員会が設立、治安が回復する[100][101]
華北

徐州攻略

4月、中国広西軍は山東省台児荘で日本軍部隊5000兵力を包囲し、壊滅させ[要出典]、中国の民衆は非常に喜んだ[103]。日本軍は中国軍主力が徐州に集中していると判断し[103]、1938年4月7日 - 大本営、北支那方面軍・中支那派遣軍に協力して徐州を攻略するよう(徐州会戦)下命した[102]5月10日、日本軍、廈門を占領。5月15日、中国軍は徐州を放棄し逃走したので中国軍兵力の殲滅には失敗することとなった[102]5月19日 - 日本軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)、徐州占領[102]

漢口・広東攻略

1938年6月、 蒋介石ら中国軍による黄河決壊事件により河南、江蘇省安徽省の3000平方キロメートルの土地が水没し、民間人の被害は数十万人となった[103]。日本は6月15日、御前会議で漢口・広東攻略を決定した[102]。1938年7月4日、中支那派遣軍に第2軍、第11軍が編入され、武漢攻略作戦の態勢がとられた[102]7月11日8月10日の日ソ武力衝突張鼓峰事件が解決したのち、8月22日から日本軍、武漢三鎮を攻略開始する(武漢作戦[104]10月12日、第2軍が信陽を占領[104]

広東攻略中国語版を命じられた第21軍(兵力7万)は1938年10月9日、台湾を出発、10月12日バイアス湾上陸し、10月21日広東を占領、日本軍の損失は戦死173、戦傷493だった[104]

  • 10月27日 - 日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領。武漢作戦の兵力は35万、第2軍戦死2300、戦傷7300、第11軍戦死4506、戦傷17380人だった[104]。武漢と、広東の占領によって日本の軍事行動は頂点に達した[104]。武漢陥落によって蒋介石は重慶に政府を移した[97]
日本の東亜新秩序宣言
  • 1938年11月3日 - 近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めないと述べたうえで、日本の目的は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り」、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まないとの東亜新秩序声明(第二次近衛声明)を出した[104]。蒋介石は12月28日、「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図していると批判、アメリカ合衆国も承認できないと日本を批判した[104]
  • 11月12日 - 中国軍により長沙大火が起され、人口50万の都市が潰滅。
  • 11月 - 援蒋ルート(ビルマルート)完成。
  • 11月20日、秘密協定「日華協議記録」が成立し、日本側からは影佐禎昭大佐、今井武夫中佐、中国側は高宗武梅思平の間で調印された[105]。日華協議記録には、日華防共協定、満州国の承認、日本軍の撤退などが内容であった[105]
  • 11月30日、御前会議で日支新関係調整方針を決定[104]

12月6日決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した[104]12月16日、中国政策のための国策会社興亜院が成立する[104]

汪兆銘が日本側の政権に参加

12月18日には蒋介石との路線対立で汪兆銘が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう[105]12月22日、近衛首相が近衛三原則を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった[105]12月25日、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蒋介石は12月26日に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した[106]。しかし、汪兆銘は12月30日の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した[106]。1939年1月1日、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した[106]。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された[106]

1939年(昭和14年)1月4日、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる[104]

1939年の作戦としては1月からの重慶爆撃[97]2月10日海南島上陸、3月海州など江蘇省の要所占領、3月27日南昌攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった[105]阿部信行大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた[105]

  • 4月 - 中国軍、南支で春季反撃作戦。

5月3日、4日の重慶爆撃によって外国人を含む死者3991人の被害が出、その後も10月まで爆撃は続けられた[97]




注釈

  1. ^ 支那事変は閣議決定によってはじめられたものではないため、日本側の実質的な責任者・司令官は不在のまま、事変として軍部・現地軍が対応。1941年に大東亜戦争に組み込まれ一戦線に移行する
  2. ^ 中華民国政府は八年抗戰・中日戰爭など、日中戦争終結後に設立された中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する。
  3. ^ 19世紀に清との貿易で貿易赤字に苦しんだイギリスは、アヘン輸出によって、貿易黒字に転じた。
  4. ^ 1890年には輔仁文社が香港で成立。孫文1894年ハワイで興中会を結成。1895年に武装蜂起に失敗、日本に亡命。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越え、当時の留学生(章炳麟鄒容陳天華など)の間では革命思想が浸透した。
  5. ^ 計画では歩兵大隊六個、騎兵中隊、野戦砲兵大隊、工兵中隊の五千人規模の予定だったが、各国の動向に合わせて減らされ歩兵大隊四個、騎兵中隊、野戦砲兵大隊等の四千人規模で始まった。そしてさらに各国が削減したので1901年11月には歩兵大隊四個、騎兵隊、野戦砲兵中隊の千三百人程度に減らされた。
  6. ^ 興中会、華興会、光復会等の各団体を団結させた。
  7. ^ 陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』〈中国の歴史11〉(講談社、2004年)61頁
  8. ^ それゆえ中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある。天児慧同書63頁
  9. ^ 中国の独立、経済提携、満州返還
  10. ^ 『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。日置英剛編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005)
  11. ^ 当時、英国は劣勢にあり、戦局打開のため欧州戦線への米国の介入を強く希望していた
  12. ^ この状況は1939年に作成された日本映画『土と兵隊』(田坂具隆監督)にも描写されている
  13. ^ 単なる死亡者数は、軍隊戦死者100万余りと一般人2000万人の合計である。統計表にある1985年の2100万はおそらくこれに基づいているであろう。つまり1985年の数字は全国軍民の犠牲者数を指しており、犠牲者数2100万人と死傷者数3500万の間は矛盾がない[要出典]

出典

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