哲学とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 人文 > 哲学 > 哲学 > 哲学の意味・解説 

哲学


哲学

読み方:てつがく

哲学(てつがく)とは、語弊恐れずわかりやすく言えば真理探究する知的営み」のことです。世界根源本質見極めるための知的探究的な取組み、および、その知的探究方法的進めるための学問です。

ただし、この「哲学は真理探究する知的営みである」という見解は、ある程度は妥当としても、決定的な定義ではありません。「哲学とは何か」という問い対す回答は、哲学的立場によっても微妙に異なり統一的見解見出せない、その意味では極めて哲学的な話題です。

哲学は、一般的には、《感覚的経験超越した形而上」の世界対象とし、概念論理とに依拠する時代文化などに左右されない普遍的な真理への到達目指す学問》として理解されます。あるいは、《世界あらゆる事象論理的に説明すること》である、ともいえるでしょう

哲学は英語では philosophyフィロソフィー)といいます。この語源ギリシア語の φιλοσοφία (philosophía)であり、もともとは「知を愛する」(loving knowledge)という意味の言葉です。このため、「哲学とは何か」という問いに対して今日でも「哲学とは知を愛す営みのことである」といった回答多く採用されています。はぐらかしのような趣もありますが、なにしろ「哲学とは?」の問いに対して確定的に言えることがこの語源だけなので致し方ありません。

哲学の「哲」の字は「明らか」「賢い」「聡い」といった字義あります。「哲学」という言葉明治初頭碩学西周が、《 philosophy =知を愛す学問希哲学略して「哲学」》 という流れ考案し定着した訳語として知られています。

学問としての哲学は、もっぱら思弁」によって、あくまでも論理性重視し誤謬臆見慎重に排除しつつ、物事本質迫ろうとする知的営みです。主な研究対象は「精神「神」「真理」といった、感覚的経験通じて直接的に捉えることのできない(=形而上の)対象です。その意味で哲学は、ほぼ「形而上学と言い換え可能です。とはいえ世界一切がっさい物質的な形而下の)存在として捉える哲学的立場もあり、一概に「哲学=形而上学と言い切ってしまうこともできません。

日常通俗的な場面では「人生哲学」や「経営哲学のような言い方で「哲学」の語が用いられます。こうした文脈用いられる「哲学」は、多分に個人組織長きわたって探究続けた末に到達した物の見方考え方」といったニュアンス込められ用いられています。人生哲学は、素朴に人生観と言い換えしまえる場合も多いとはいえその人見出したその人なりの真理であり、叡智であり、世界正しく認識するための思考体系ですから、やはり人生哲学も「真理探究する営み」であるといえるでしょう

てつ‐がく【哲学】

読み方:てつがく

philosophy訳語ギリシャ語philosophia由来し、「sophia(智)をphilein(愛する)」という意。西周(にしあまね)が賢哲愛し希求する意味で「希哲学」の訳語造語したが、のち「哲学」に改めた

世界・人生などの根本原理追求する学問古代ギリシャでは学問一般として自然を含む多く対象包括していたが、のち諸学分化独立することによって、その対象領域限定されていった。しかし、知識体系としての諸学根底をなすという性格は常に失われない認識論論理学存在論倫理学美学などの領域を含む。

各人経験に基づく人生観世界観また、物事統一的に把握する理念。「仕事に対しての—をもつ」「人生—」


てつがく 【哲学】

philosophy英)語源ギリシア語で「愛智」の意。西周が、賢哲希求する意味の周茂叔の文に基づき希哲学訳し、それから哲学の語が定着したあらゆるものの根本原理究める学問紀元前〇〇年頃ギリシアに始まる。ヘレニズム・ローマ時代後期には宗教的傾向強くなり、超越的な神を求め、神による救い見出そうとするようになる中世にはキリスト教基調したものになり、教父哲学栄えた。だが中世後期にはキリスト教教義知識的に基礎づけられ得ないということ認められることになる。ルネサンス期になると、神は超越的なものではなく人間自身や自然のうちにも存在するとの考え出てくる。近代になるとカント道徳論や、実存哲学唯物論などが出てくる。東洋にはインドバラモン教仏教ヒンドゥー教などがそれぞれの哲学をもち、中国には儒学老荘思想が示す哲学があり、それらは日本にも伝来されて日本化した。なお日本現代には仏教哲学見るべきものがある。

哲学

作者三島由紀夫

収載図書三島由紀夫短篇全集
出版社新潮社
刊行年月1987.11

収載図書決定版 三島由紀夫全集 16 短編小説
出版社新潮社
刊行年月2002.3


哲学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/20 17:51 UTC 版)

哲学(てつがく、フィロソフィー[1]古代ギリシア語: φιλοσοφία古代ギリシア語ラテン翻字: philosophía[注 1]: philosophy[1]: philosophia[注 2]とは、存在理性知識価値意識言語などに関する総合的で基本的な問題についての体系的な研究であり、それ自体の方法前提を疑い反省する、理性的かつ批判的な探求である。

歴史上、物理学心理学など、多くの個別的な科学が哲学の一部から発生した。しかし、現代的には、これらの科学は哲学とは異なる分野として扱われている。歴史上、影響力のある哲学の伝統としては、西洋哲学アラブ・ペルシア哲学インド哲学中国哲学などがある。西洋哲学は古代ギリシアに起源を持ち、哲学における幅広い下位分野をカバーする。アラブ・ペルシア哲学における主要なトピックは理性と啓示の関係であり、インド哲学はどのようにして悟りに達するかの精神的な問題と、現実の本質や知識にたどり着く方法の探求を結びつける。中国哲学は主に正しい社会的行動や統治、そして自己修養英語版に関する実践的な問題に焦点を置く。

哲学の主要な分野としては、認識論倫理学論理学、そして形而上学が挙げられる。認識論では、知識とは何かという問題と、どのようにして知識を得ることができるかという問題について研究する。倫理学では、道徳的な原則と、正しい行いを構成するものは何かということについて研究する。論理学では、正しい推論についての研究と、良い論証悪い論証をどのように見分けることができるかについての研究を行う。形而上学は、現実や存在、客体属性の最も一般的な特徴についての検討を行う。哲学のその他の分野としては、美学言語哲学心の哲学宗教哲学科学哲学数学の哲学歴史哲学政治哲学などが挙げられる。これらそれぞれの分野において、異なった原理や理論、方法を推し進める学派が存在する。

哲学を行う者は哲学知を得るために多くの方法を用いる。例えば、概念分析英語版コモン・センス直観を頼ること、思考実験自然言語の分析、現象を記述すること批判的問いかけ英語版などである。哲学は、科学、数学ビジネスジャーナリズムなど、様々な分野と関連する。哲学は学際的な視点を提供し、様々な分野における基本的な概念とそれらの分野の範囲を研究し、それらが用いる方法やその倫理的意味合いについても研究する。

哲学を行う人を哲学者(てつがくしゃ、フィロソファー[2]: philosopher: φιλόσοφος[注 3])と呼ぶことがある。

語源

「哲学」は英語で「philosophy(フィロソフィー)」といい、語源古典ギリシア語の「φιλοσοφία(フィロソフィア)、古代ギリシア語ラテン翻字: philosophía」に由来する。直訳すれば「知を愛する」という意味である。「哲学」という日本語は、明治時代に西周がフィロソフィーに対してあてた訳語である[3][4]

古代ギリシアにおける「フィロソフィア」

古典ギリシア語の「フィロソフィア(古希: φιλοσοφία古代ギリシア語ラテン翻字: philosophía、ピロソピアー、フィロソフィア)」という語は、「愛(友愛)」を意味する名詞「フィロス(古希: φίλος)」の動詞形「フィレイン(古希: φιλεῖν)」と、「知」を意味する「ソフィア(古希: σοφία)」が合わさったものであり、その合成語である「フィロソフィア」は「知を愛する」「智を愛する」という意味がある[3][4]。この語はヘラクレイトスヘロドトスによって形容詞動詞の形でいくらか使われていたが[5]、名称として確立したのはソクラテスまたはその弟子プラトンが、自らを同時代のソフィストと区別するために用いてからとされている。

古典ギリシア語の「フィロソフィア」は、古代ローマラテン語: philosophia)にも受け継がれ、中世以降のヨーロッパにも伝わった。20世紀の神学者ジャン・ルクレール(en:Jean Leclercq)によれば、古代ギリシアのフィロソフィアは理論や方法ではなくむしろ知恵・理性に従う生き方を指して使われ、中世ヨーロッパ修道院でもこの用法が存続したとされる[6]。一方、中世初期のセビリャのイシドールスはその百科事典的な著作『語源誌』(: Etymologiae)において、哲学とは「よく生きようとする努力と結合した人間的、神的事柄に関する認識である」と述べている[7]

日本語における「哲学」

西周による「哲学」

日本で現在用いられている「哲学」という訳語は、大抵の場合、明治初期の知識人西周によって作られた造語和製漢語)であると説明される[8][9][10][11][3][4]。少なくとも、西周の『百一新論』(1866年ごろ執筆、1874年公刊)に「哲学」という語が見られる[注 4][12]。そこに至る経緯としては、北宋儒学周敦頤の著書『通書』に「士希賢」(士は賢をこいねがう)という一節があり[13][12]、この一節は儒学の概説書『近思録』にも収録されていて有名だった[14]。この一節をもとに、中国の西学(日本の洋学にあたる)が「賢」を「哲」に改めて「希哲学」という語を作り、それをフィロソフィアの訳語とした[10]。この「希哲学」を西周が借用して、さらにここから「希」を省略して「哲学」を作ったとされる[10][注 5]。西周は明治政府における有力者でもあったため、「哲学」という訳語は文部省に採用され、1877年(明治10年)には東京大学の学科名に用いられ[4][8]1881年(明治14年)には『哲学字彙』が出版され、以降一般に浸透した[12]。なお、西周は「哲学」以外にも様々な哲学用語の訳語を考案している[注 6]

中国においても、西周による「哲学」が、逆輸入されて現在も使われている[9]。経緯としては、清末民初1900年代前後)の知識人たちが、同じ漢字文化圏に属する日本の訳語を受容したことに由来する[15][16]

「哲学」以外の訳語

「哲学」という訳語が採用される以前、日本や中国では様々な訳案が出されてきた[11]。とりわけ、儒学用語の「」あるいは「格物窮理」にちなんで、「理学」と訳されることが多かった。

17世紀明末の中国に訪れたイエズス会ジュリオ・アレーニ(艾儒略)は、西洋の諸学を中国語で紹介する書物『西学凡』を著した。同書のなかでフィロソフィアは、「理学」または「理科」と訳されている[11][17]

日本の場合、幕末から明治初期にかけて、洋学(西洋流の学問一般)とりわけ物理学自然哲学)が、「窮理学」と呼称されていた[8]。例えば福沢諭吉の『窮理図解』は物理学的内容である。一方、中江兆民はフィロソフィアを「理学」と訳した[8][17]。具体的には、兆民の訳書『理学沿革史』(フイエ Histoire de la Philosophie の訳)や、著書の『理学鉤玄』(哲学概論)をはじめとして、主著の『三酔人経綸問答』でも「理学」が用いられている。ただし、いずれも文部省が「哲学」を採用した後のことだった[8]。なお、兆民は晩年の著書『一年有半』で「わが日本古より今に至るまで哲学なし」と述べたことでも知られる[18]

上記の中国清末民初の知識人の間でも、「哲学」ではなく「理学」と訳したほうが適切ではないか、という見解が出されることもあった[19][20]

「理学」が最終的に採用されず、「哲学」に敗れてしまった理由については諸説ある。上述のように「理」は既に物理学に使われていたため、あるいは「理学」という言葉が儒学の一派(朱子学宋明理学)の同義語でもあり混同されるため、あるいはフィロソフィアは儒学のような東洋思想とは別物だとも考えられたため、などとされる[8][20]。上記の西周や桑木厳翼も、本来は「理学」と訳すべきだが、そのような混同を避けるために「哲学」を用いる、という立場をとっていた[21][12]

明治哲学界の中心人物の一人・三宅雪嶺は、晩年に回顧して曰く「もしも旧幕時代に明清の学問(宋明理学と考証学)がもっと入り込んでいたならば、哲学ではなく理学と訳すことになっていただろう」「中国哲学インド哲学という分野を作るくらいなら理学で良かった」「理学ではなく哲学を採用したのは日本の漢学者の未熟さに由来する(漢学は盛んだったがそれでもまだ力不足だった)」という旨を述べている[8][11]

定義

一般的定義

哲学の実践には、複数の一般的な特徴があるとされる。すなわち、理性的な探究の一形態であること、体系的であることを目指すこと、そしてそれ自体の方法と仮定を批判的に考える傾向があるということである[22]。加えて、人間の状態の中心をなし、挑戦的で、厄介かつ、忍耐を必要とする問題に対する、注意深い熟考が求められる[23]

知恵を追求する哲学的探究では、一般的で基本的な問いを立てることを含む。このような営みは必ずしも単純な答えを導くわけではないが、特定の物事についての理解を深めたり、自らの人生を吟味したり、混乱を晴らしたり、自らを騙している先入観に基づく偏見を克服することの助けになる[24]。例えば、ソクラテスは「吟味されざる生に生きる価値なし英語版」と言い、哲学的探究を個人の実存と結びつけた[25]バートランド・ラッセルは「全く哲学に触れない者は、習慣的観念や生まれた時代、国家、そしてよく熟慮された自らの理性の協力と同意なしに自らの考えの中に根付いた信念からくる常識としての感覚から導き出される偏見の檻の中で人生を過ごすことになる」とした[26]

日本語の「哲学」は、俗に、経験などから築き上げた人生観世界観、また、全体を貫く基本的な考え方・思想などを意味することもある[27]

学術的定義

哲学にさらに正確な定義を与えようとする試みには議論があり[28]、これらはメタ哲学で研究される[29]。全ての哲学において共有される本質的な特性の集合があると主張するアプローチも存在すれば、より弱い家族的類似性しか持たないか、単なる無意味な包括的単語であると主張されることもある[30]。明確な定義は、特定の学派に属する理論家によってのみ受け入れられる場合が多く、セーレン・オーヴァーガードらは、それらが正しいとすると哲学に属すと思われる多くの哲学の部分が「哲学」の名に値しなくなるという点で、修正主義的であるとしている[31]

一部の定義では、哲学をその方法(例えば、純粋な推論など)との関係によって特徴づけたり、その主題(例えば、世界全体における最も大きなパターンを見出そうとすることだったり、大きな問いに答えようとするようなこと)に焦点を当てたりする[32]。このようなアプローチはイマヌエル・カントによって追究され、カントは、哲学の仕事を「私は何を知ることができるか?」「私は何をすべきか?」「私は何を望むか?」そして「人間とは何か?」の四つの問いを合わせたものであるとした[33]。ただし、これらのアプローチは、それらが哲学以外の分野を含んでしまうという意味であまりに広範であるという問題と、哲学における下位分野をいくらか除外してしまうという点で狭すぎるという問題がある[34]

他の多くの定義では、哲学の科学との密接な関わりを強調する。このような見方では、哲学それ自体を正当な科学として理解することがある。W.V.O.クワインのような自然主義哲学者によれば、哲学は経験的だが抽象的な科学であり、特定の観測によるものではなく、広範な経験的パターンに関するものであるとされる[35]。科学を基礎とした定義は一般に、なぜ哲学がその長い歴史の中で、科学と同様に、同程度まで発展しなかったのかという問題に行き当たる[36]。この問題については、哲学は未成熟で暫定的な科学であり、一度発展した哲学の一分野はそれを以て哲学ではなくなるのだと考えることによって回避することができる[37]。この考え方により、哲学は「科学の助産師」であると言われることがある[38]

また、科学と哲学の対照性に焦点を当てる定義もある。そのような概念における一般的なテーマは、哲学は意味英語版理解、言語の明快化に関するものであるということである[39]。 ある視点によれば、哲学は概念分析英語版であり、概念を適用するための必要十分条件を見つけることを含む[40]。ある定義では哲学は考えることについて考えることとし、その自己批判的で、反省的な性質を強調する[41]。また他の定義では、哲学を言語的治療であるとし、例えばルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、哲学は混乱を招きやすい自然言語の構造によって人間が陥りやすい誤解を取り除くことを目的としているとしている[42]

エトムント・フッサールのような現象学者によれば、哲学は本質を追究する「厳密科学」とされる[43]。現象学者は、現実についての理論的な仮定を根本的に停止して、「物事それ自体」つまり経験の中でもともと与えられていたものに立ち戻ることを実践する。また、このような経験における基本的な水準が、より高位の理論的知識のための土台を提供するものであり、より後に来るものを理解するにはより前にあるものを理解する必要があると主張する[44]

古代ギリシアローマ哲学における初期のアプローチには、個人の理性的キャパシティを育てる精神的な実践が哲学であるというものが見られる[45]。このような実践は哲学者の愛知の表現であり、思慮深い生活を送ることによって個人のウェルビーイングを向上させることが目的とされた[46]。例えば、ストア派は哲学を心の鍛錬の実践であるとし、それによりユーダイモニアを達成し、人生を繁華させることを目指した[47]

歴史

学術分野としての哲学史は、哲学における概念および学説を体系的かつ系譜的に整理することを目的としている[48]。哲学史はインテレクチュアル・ヒストリーの一部とみなされることもあるが、哲学史は、過去の哲学者の理論が真であるか、そして今日においても哲学的に関連性を保っているかといった、インテレクチュアル・ヒストリーにおいては扱われない問いも探究する[49]。哲学史は主として、合理的探究と論証にもとづく諸理論を対象とするが、より広い意味で、神話、宗教的教え、そして格言的な知識なども含めて理解する歴史家もいる[50]

哲学史における主要な伝統には、西洋哲学アラビア・ペルシャ哲学インド哲学中国哲学などがある。そのほかにも、日本哲学ラテンアメリカ哲学英語版アフリカ哲学などの伝統が存在する[51]。一方で、「東洋に哲学は無い」とする見解もある[52][53][54]。例えば、ジャック・デリダは2001年に訪中した際「哲学は西洋の伝統であり、中国に哲学はない」という旨の発言をしたとされる[52][53]。「東洋に哲学は有ったか」という問いは、哲学の定義とも関わるメタ哲学的な問いであり、一定の答えはない[52]

「哲学」と「思想」を峻別するという哲学上の立場がある。永井均は、哲学は学問として「よい思考」をもたらす方法を考えるのに対し、思想はさまざまな物事が「かくあれかし」とする主張である、とする[55][56]。一方で小坂修平は別の立場をとり、「哲学と思想の間に明確な区別はない。思想は、一般にある程度まとまった世界なり人間の生についての考え方を指すのにたいし、哲学はそのなかでも共通の伝統や術語をもったより厳密な思考といった程度の違い」であるとする[57]

また、宗教と哲学の境界についても議論がある。中世哲学研究者の八木雄二は、「神について学問的分析をすることを『神学』と呼び、自然的な事柄全般についての学問的分析を『哲学』と呼[58]」ぶのが一般的風潮であると提言したうえで、それを翻して、「哲学とは理性が吟味を全体的に行うことと理解すれば、キリスト教信仰を前提にしたあらゆる理性的吟味は、キリスト教哲学ということもできるし神学と呼ぶこともできる[58]」と自説を主張している。つまり、哲学を理性的な吟味を行うことと定義し、その定義より神学は哲学に含まれると述べているのである。フランシス・マクドナルド・コーンフォードは著書『宗教から哲学へ―ヨーロッパ的思惟の起源の研究』で、「哲学は、神話・宗教を母体とし、これを理性化することによって生まれてきた[59]」といった哲学史観を示している。これは今日一般的な哲学観であり、中世哲学史家のエティエンヌ・ジルソン[59]、科学哲学者のカール・ポパー[60] もこれと同じ哲学観を持っている。

西洋

アリストテレスは古代哲学の主要人物であり、形而上学・論理学・倫理学・政治学・自然学など、幅広い分野にわたる包括的な思想体系を構築した[61]

西洋哲学の歴史は紀元前6世紀古代ギリシャにおける、ソクラテス以前の哲学者にまで遡ることができる。彼らは宇宙(コスモス)全体を対象として、その根本原理や構造を合理的に説明しようと試みた[62]。その後の哲学は、ソクラテス(紀元前469–399年)、プラトン(紀元前427–347年)、アリストテレス(紀元前384–322年)によって形成された。彼らは、探究の対象を拡大し、人間はいかに行為すべきか(倫理学)、いかにして知識に到達するか(認識論)、そして実在や心の本性とは何か(形而上学)といった問いに取り組んだ[63]。古代哲学においてはその後、エピクロス主義ストア派懐疑主義新プラトン主義といった思想潮流が生まれた[64]。5世紀頃からはじまる中世哲学の時代においては宗教的主題が重視され、多くの思想家がキリスト教神学の説明・精緻化に古代哲学を用いた[65][66]

14世紀からはじまったルネサンスの時代には古代哲学、特にプラトン主義に関する興味が改めて高まった。人文主義英語版の勃興もこの時代である[67]。17世紀に始まる近世哲学の時代には、哲学的・科学的知識がいかにして形成されるかが中心的課題のひとつとなり、理性の役割と感覚的経験に注目が集まった[68]。この時代の革新は伝統的権威に挑戦する啓蒙運動における用具ともなった[68]。19世紀には、ドイツ観念論マルクス主義といった哲学を包括する体系を構築しようとする試みがなされた[69]20世紀の哲学における重要な展開としては、形式論理の成立と応用、言語の役割への注目(言語論的転回)、プラグマティズム、さらに現象学実存主義ポスト構造主義といった大陸哲学の諸運動が挙げられる[70]。同時に、学術機関における哲学研究と哲学者の数、そして哲学的出版物の量は急速に拡大した[71]。女性哲学者の数も顕著に増加したものの、依然として過小評価の状態にあった[72]

アラビア・ペルシャ

イブン・スィーナーは、イスラーム黄金時代における最も影響力のある哲学者のひとりであった。

アラビア・ペルシャの哲学は、9世紀初頭に伝統的なイスラーム神学における議論への応答として生じた。イスラーム哲学の古典期は12世紀まで続き、古代ギリシャ哲学の強い影響を受けていた。ギリシャ哲学は『クルアーン』の教えの解釈および精緻化に利用された[73]

キンディー(801–873年)は、一般にこの伝統の最初の哲学者とみなされる。彼はアリストテレスや新プラトン主義者の著作を多く翻訳・解釈し、理性と信仰の間には調和が存在することを示そうと試みた[74]イブン・スィーナー(980–1037年)も同様の目標を掲げ、科学・宗教・神秘主義を含む実在を理性的に理解するための包括的な哲学体系を構築した[75]。一方で、ガザーリー(1058–1111年)は、理性によって実在および神に対する正しい認識に到達することができるという考えを強く批判した。彼は『哲学者の自己矛盾英語版』にて哲学を詳細に批判し、哲学をクルアーンの教えや神秘的直観の傍らに位置づける、より限定的な役割に押し込もうとした[76]。ガザーリー以降、そして古典期の終焉とともに、哲学的探究の影響力は減退した[77]モッラー・サドラー(1571–1636年)はしばしば、その後の時代で最も影響力のある哲学者のひとりとされる[78]。19世紀から20世紀にかけて、西洋思想と制度の影響が強まると、イスラーム近代主義英語版と呼ばれる知的運動が生まれ、伝統的なイスラーム信仰と近代性との関係を理解しようと試みた[79]

インド

シャンカラは不二一元論を提唱し、複数の実体からなる存在なるものは幻影に過ぎないと論じた。

インド哲学における際立った特徴の一つは、実在の本性の探究、知識へ到達する方法の考察、そしていかにして正覚に至るかという精神的問いを統合している点にある[80]。その起源は紀元前900年頃、『ヴェーダ』が編纂された時期にさかのぼる。ヴェーダはヒンドゥー教の基礎をなす経典であり、自我(アートマン)と究極的実在(ブラフマン)の関係、さらに魂が過去のに基づいてどのように転生するのかといった問題を考察している[81]。この時代には、仏教ジャイナ教といった、ヴェーダに拠らない思想も生じている[82]。仏教はガウタマ・シッダールタ(紀元前563–483年)によって創始された。仏教においてはヴェーダ的な常住論に異議が唱えられ、から解放されるための道が提示される[82]マハーヴィーラ(紀元前599–527年)が創始したジャイナ教においては、非暴力とあらゆる生命への尊重が強調される[83]

紀元前500年から紀元前200年ごろに始まるとされる古典期においては[83]、ヒンドゥー教に6種類の主流学派(六派哲学)が成立する。すなわち、ミーマーンサー学派ヴェーダーンタ学派サーンキヤ学派ヨーガ学派ニヤーヤ学派ヴァイシェーシカ学派である[84]。また、この時代にはシャンカラ(c. 700–750年)により不二一元論が整備された。シャンカラは万物は一体であり、多くの個別的存在からなる宇宙は幻影にすぎないと主張した[85]。一方で、ラーマーヌジャ(1017–1137年、1077–1157年とも[86])による被限定者不二一元論英語版においては、個別的存在についても全体の部分として実在していると主張された[87]。彼は神への絶対的帰依(バクティ)を説く神秘主義的運動であるところのバクティ運動英語版を普及させ、この運動は17–18世紀まで続いた[88]。1800年ごろ、西洋思想との接触により生じた近代期においては[89]、さまざまな哲学的・宗教的思潮を調和させる包括的体系の構築が試みられた。たとえばヴィヴェーカーナンダ(1863–1902年)は、不二一元論の立場から、あらゆる宗教は統一的神聖に至るための道として開かれていると論じた[90]

中国

孔子による社会・倫理に関する思想(儒家思想)は、後世の中国哲学を形作った。

中国哲学は正しい社会的行動、統治および自己修養を重視した。紀元前6世紀には当時の政治的混乱を解決すべく、諸子百家が現れた[91]。このなかでもっとも著名なのは儒家および道家である[92]。儒家思想は孔子(紀元前551–479年)‍により創始され、徳にもとづく社会的調和が探求された[93]。道家思想においては人間が、すなわち宇宙の自然な秩序に従うことによって、自然と調和して生きる方法が探求される[94]。ほかに、利他的帰結主義の初期の形態である墨家[95]、強力な国家と法の重要性を説く法家などがある[96]

仏教は1世紀に中国に導入され、新たな思想潮流を形作った[97]。3世紀より玄学が成立し、道家の著作(道典)が形而上学的に解釈された[97]。11世紀にはじまる宋明理学においては、儒典の体系化および儒教的倫理の形而上学的基礎づけが行われた[98]。20世紀には中国哲学は西洋哲学の影響を受け、階級闘争社会主義共産主義を重視するマルクス主義が政治に大きな変化をもたらした[99]。また、儒家思想と民主主義的理想や近代科学の両立を探求する新儒家が現れた[100]

その他

日本においては土着的宗教として神道が存在し、その後6世紀から7世紀にかけて儒教および仏教が浸透した[101]。平安時代には密教が導入され、国家鎮護を願う顕教とともに両輪を担った。末法思想の膾炙にともない浄土教が発展したほか、神道の神を仏教の諸仏の現れ方のひとつとする本地垂迹思想がうまれた[81]。鎌倉時代には浄土宗浄土真宗時宗日蓮宗といった新宗派がうまれたほか、臨済宗曹洞宗といった禅宗が導入された[102]。神道では、神を中心として儒・仏・道の諸思想を習合する吉田神道がうまれ、近世にはほとんどの神職がその影響下に入った[103]。16世紀に勢力を増した朱子学[104]、江戸期には幕藩体制の思想的基盤として採用された一方[81]陽明学派古学派などはこれを批判した[105]。日本古代を研究することにより日本独自の精神性を見出そうとする国学は、江戸時代中期ごろより発展した[106]。20世紀に生まれた京都学派は東洋的精神と西洋哲学の統合を目指した[107]

先コロンブス期のラテンアメリカにおいては、実在の本性や人間の役割に関する問いが探求された[108]。これは、万物の相互関連性を説いた北アメリカ先住民哲学英語版とも相似する[109]。1550年ごろよりはじまった植民地化以降、ラテンアメリカではスコラ学にもとづく宗教哲学が盛んになり、ポスト植民地期には実証主義解放の哲学英語版、アイデンティティと文化に関する探求などが影響力のある主題となっている[110]

初期のアフリカ哲学は主として口承によって実践され、共同体、道徳、祖霊的観念に焦点を当てた。民間伝承、格言、宗教的思想、そしてウブントゥ英語版のような哲学的概念を含んでいた[111]。アフリカにおいて体系だった哲学が生じるのは20世紀のことであり、民族哲学ネグリチュードパン・アフリカ主義、マルクス主義、ポストコロニアル理論相対主義、アフリカ認識論、ヨーロッパ中心主義批判などがその主題となっている[112]

主題と分類

哲学的問題は、いくつかの下位分野に分類することができる。こうした分類は、哲学者が類似した主題の集まりに取り組み、同様の課題に関心をもつ他の研究者と交流することを可能にする。哲学の主要な分野としては、認識論・倫理学・論理学・形而上学が挙げられることがある[113]。しかし、それ以外にも多くの下位分野が存在し、それらは必ずしも網羅的・相互排他的なものではない。たとえば、政治哲学・倫理学・美学は、規範的または評価的な側面を探究するという共通性から、価値論の一部とみなされることがある[114]。さらに、哲学的探究は自然科学・社会学、あるいは宗教・数学といった他の学問領域と重なり合うこともある[115]

貫成人は、哲学を「絶対的存在の想定」型、「主観と客観の対峙」型、「全体的なシステムの想定」型の三つに分類している[116]。第一のタイプは自然、イデア、神といったすべての存在を説明する絶対的原理の存在を前提するものであり、古代や中世の哲学が含まれる[116]。第二のタイプは認識の主体に焦点を当てて主観と客観の対立図式に関する考察を行うもので、近世や近代の哲学は主にこのタイプとされる[116]。第三のタイプは人間を含む全ての存在を生成するシステムをについて考えるもので、クロード・レヴィ=ストロース構造ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン言語ゲームがこれに該当する[116]。第一のタイプの絶対的存在が自身は常に同一にとどまりつつ他の物体に影響を与えるのに対し、第三のタイプの全体的なシステムは可変的であるという[116]

認識論

認識論は知識について研究する分野である。知識とは何か、どのようにして生まれるのか、その限界はどこにあるか、どのような価値を有するかについて論じる。また、認識論においては真理信念正当化英語版合理性などの本性について探求される[117]。認識論者が扱う問いには、「どのようにして人は知識を獲得できるのか」「真理はいかにして確立されるのか」「因果関係は証明できるのか」といったものがある[118]

認識論はおもに「ダイアナ妃は1997年に死去した」といった宣言的知識、あるいは事実に関する知識を重視するが、ほかに自転車の乗り方といった手続き的知識、個人的にある有名人を知っているといった見知りによる知識英語版についても探求する[119]

知識の分析英語版は、認識論の一領域である。これは、宣言的知識がいくつかの要素から成り立っていると仮定し、その構成要素を明らかにしようとするものである。この分野で影響力のある理論の一つは、知識は「信念である」「正当化されている」「真である」という3つの構成要素から成り立っているというものである。この理論は議論を呼んでおり、これに関わる困難さはゲティア問題として知られている[120]。異なる見解として、知識は「偶然的でない」といった追加の構成要素が必要であるという立場、正当化ではなく認識論的徳英語版の発現といった別の構成要素が必要であるという立場、そもそも知識を別の現象を用いて分析することを否定する立場などがある[121]

別領域として、どのようにして人は知識を獲得するかというものがある。知識の起源としてしばしば試論の遡上にのぼるものとして、知覚内観記憶推論証言がある[122]経験論の立場からは、すべての知識は何らかのかたちの経験に基づいているとされる。理性主義の立場においてはこの見解は退けられ、先天的知識英語版のように、経験を通さずに得られる知識も存在することが主張される[123]。遡行問題(regress problem)は、知識の起源および理論の正当化を行う上で共通の問題となる。これらの議論の正当化は、信念には何らかの理由ないし根拠が必要であるという基礎にもとづいているものの、こうした正当化の理由づけそのものに対しても、別の正当化が必要かもしれない。このことにより、無限後退循環論法が引き起こされる。基礎付け主義の立場においては、信念や知識の起源には、それ自体の正当化を必要とせず、かつ他者を正当化可能なものがあるとの主張により、この結論を回避しようとする[124]真理の整合説の立場からは、信念が他の信念と整合しているならば、正当化は可能であるとされる[125]

認識論に関する多くの議論は、哲学的懐疑主義英語版とも接点を有している。これはある知識ないしすべての知識を懐疑するというもので、知識には絶対的確実性が必要であり、人間はそれを獲得できないという考えに基づいている[126]

倫理学

倫理学は、何が正しい行為を構成するかについて研究する分野である。倫理学は、人格的特性や慣習などの倫理的価値の評価とも関連する。また、道徳の基準が何か、どのようにすると善く生きることができるかについても探求する[127]。倫理学が扱う基礎的問いとしては「道徳的義務は相対的なものなのか」「幸福と義務のどちらが優先されるのか」「人生に意味を与えるものは何か」といったものがある[128]

倫理学の下位分野としてはメタ倫理学規範倫理学応用倫理学といったものがある[129]。メタ倫理学においては、道徳の本性およびその起源に関する抽象的議論が展開される。「正しい行為」や義務といった倫理的概念の意味の分析がなされるほか、倫理学の理論が抽象的意味においても真であるか、これらの知識がどのように獲得されるかといったことが探求される[130]。規範倫理学は、正しい行為と不正な行為がどのように区別されるかといった一般理論を包含する。規範倫理学は人の有する道徳的義務および権利について論じることで、倫理的決定の手助けを行う。応用倫理学は職場や医療といった特定の状況において、規範倫理から導かれる一般的理論がどのような帰結を招くかについて研究する[131]

現代規範倫理学においては、帰結主義義務論徳倫理学の3つの立場が有力である[132]。帰結主義においては、行為はその帰結にもとづいて判断される。その一例である功利主義は、行為は苦痛の最小化と幸福の最大化を目指すべきだと主張する。義務論においては、行為は嘘をつかない、殺人をしないといった道徳的義務にもとづいて判断される。この立場において重要であるのは、行為が義務と一致しているかどうかであり、その帰結ではない。徳倫理学の立場からは、行為はその主体の道徳的性格をどのように表しているかによって判断される。この立場によれば、行為は寛大さや誠実さといった徳を具現する理想的な人のふるまいに従って行われるべきである[133]

論理学

論理学は、正しい論理的推論について研究する分野である。論理学においては、良い論証とそうでない論証をどのようにして区別するか理解することが目標とされる[134]。論理学は、形式論理学非形式論理学に大別される。形式論理学は、明瞭な記号表現にもとづく形式言語を用いて、論証について研究する。正確な基準を追求し、議論の構造を検討することで、その真偽を判定する。非形式論理学は非形式的な基準にもとづき、論証の正しさを評価する。非形式論理学は内容や文脈といった要素にも依拠する[135]

論理学は多様な論証について論じる。演繹的論証はおもに形式論理学によって研究される。演繹的に妥当な議論とは、その前提が真であるならば結論も必ず真となるような議論である。 演繹的に妥当な議論は、モーダスポネンスのような推論規則に従う。モーダスポネンスとは「Pである。もしPならQである。したがって、Qである」といった論理形式英語版であり、たとえば「今日は日曜日である。もし日曜日なら、休日である。したがって、今日は休日である」といった論証によって例示される[136]

非演繹的論証においても、前提は結論を支持するが、その支持は結論が真であることを保証するものではない[137]。非演繹的論証のひとつとして、帰納推論がある。帰納推論は、個別の事例から出発し、すべての事例に及ぶ普遍的法則への一般化を行う。たとえば、多数の黒いカラスを観察したことから「すべてのカラスは黒い」と結論する推論がそれである[138]アブダクションは、ある観察にもとづき、その観察を最もよく説明する仮説が真であると結論する推論である。たとえば、医師が観察された症状にもとづいて病気を診断する場合がそれに当たる[139]。論理学は、誤った推論の型についても研究する。これらは誤謬と呼ばれ、その誤りの原因が論証の形式のみにあるか、それとも内容や文脈にも関係しているかによって、形式的誤謬非形式的誤謬に分類される[140]

形而上学

形而上学は実在のもっとも一般的な特徴、たとえば存在対象およびその性質部分と全体の関係時間空間出来事英語版および因果性について研究する分野である[141]。形而上学という用語の正確な定義には議論があり、また、その意味は時代とともに変化してきた[142]。形而上学における基礎的問いとしては「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」「実在は究極的には何から構成されているのか」「人は自由か」といったものがある[143]

形而上学は、一般形而上学(general metaphysics)と特殊形而上学(special metaphysics)に区分されることがある。一般形而上学は存在(being)それ自体について探究し、あらゆる存在者に共通する特徴を考察する。特殊形而上学は、さまざまな種類の存在とその特徴、そしてそれらが互いにどのように異なるかに関心を向ける[144]

形而上学における重要な領域の一つが存在論である。存在論は、一般形而上学と同一視されることもある。存在論は存在・生成英語版・実在などを研究対象とし、存在のカテゴリ、さらにはもっとも基礎的な程度で存在するものとは何かについて論じる[145]。哲学的宇宙論も形而上学の下位分野であり、世界全体の本質に注目する。哲学的宇宙論では、宇宙に始まりや終わりがあるのか、宇宙は何者かによって創造されたのかといった問いが扱われる[146]

形而上学の主要な論点の一つは、現実が物質やエネルギーといった物理的なものだけから構成されるのかどうかという問題である。これに対する代替的な見解としては、物理的なものとは別に、魂や経験といった心的存在者、あるいは数のような抽象的存在者も存在するという立場がある。また、形而上学においては同一性の問題も扱われる。ここでは、「ある存在者はどの程度まで変化しても、同じ存在者であり続けることができるのか」という問いが立てられる[147]。ひとつの見解として、存在者には本質的性質と付帯的性質がある。付帯的性質は変化しうるが、本質的性質を失えば、その存在者はもはや同一ではないとされる[148]。形而上学における中心的な区分として、個物普遍がある。「赤色」といった普遍は、同時に異なる場所で存在しうるが、個々の人間や特定の対象といった個物はそうではない[149]。その他の形而上学的問いとしては、「過去は現在を完全に決定するのか」「このことは自由意志の存在にどのような含意をもたらすのか」といったものがある[150]

その他の下位分野

哲学にはその他にも多くの下位分野が存在する。こうしたもののなかで特に有力なものとして、美学言語哲学心の哲学宗教哲学科学哲学政治哲学といったものがある[151]

哲学の下位分野としての美学は、、あるいは崇高といった、その他の美的性質の本性と価値を研究する[152]。美学はしばしば芸術の哲学とともに扱われるが、美学は自然美のように、芸術的なものに限らない経験的側面を包含する、より広い領域を対象としている[153]。美学の中心的な問いの一つは、美が対象の客観的な特徴であるのか、それとも経験における主観的側面であるのかという問題である[154]。美学者はまた、美的経験や美的判断の本性についても探求する。さらに、美術工芸品の本質や、その創造過程なども美学の主題である[155]

言語哲学は、言語の本性と機能について研究する。意味英語版指示英語版・真理といった概念が研究対象であり、言葉が事物とどのように関係するのか、また言語が人間の思考や理解にどのような影響を及ぼすのかを明らかにすることを目指す。言語哲学は、論理学や言語学とも密接な関係をもつ[156]。言語哲学は、ゴットロープ・フレーゲバートランド・ラッセルによって、特に20世紀初頭における分析哲学において重要な立ち位置を占めた。分析哲学の中心的主題のひとつとして、文がどのようにして意味を獲得するかというものがある。この主題には大きく2つの理論的立場があり、ひとつは文の真理条件英語版を重視するもの、もうひとつはある文を用いるうえで適切な状況について探求するものである。後者は言語行為論と関係する[157]

心の哲学は、心的現象の本性およびそれが物的世界とどのように関連するかについて研究する[158]。心の哲学は、信念欲求直観感情感覚・自由意志といった、意識的・無意識的な多様な心的状態英語版を理解することを目指す[159]。心の哲学における影響力のある洞察のひとつとして、対象の内的経験と、その対象の外部世界における存在のあいだには区分があるというものがある。心身問題は、心と物がどのように関連しているかを問う問題である。唯物論の立場においては物がより基礎的であるとされ、観念論の立場からは、心がより基礎的であるとされる。実体二元論の立場からは、心と物は別個の存在者であるとされる。現代哲学におけるほかの一般的見解としては機能主義があり、心的状態をその機能や因果的役割によって理解する[160]。心身問題は意識のハード・プロブレムとも密接に関連する。これは、脳という物質がいかにして質的な主観経験(クオリア)を生み出すかという問題である[161]

宗教哲学は、宗教に関する基本的な概念・前提・議論を研究する。宗教とは何か、神性をどのように定義すべきか、神は唯一か複数か、そもそも存在するのかといった問題を批判的に検討する。また、宗教的教義を拒否する世界観も検討される[162]。宗教哲学が扱うさらなる問いには、たとえば「宗教的言語に文字通りの意味がないとしたら、どのように解釈すべきか」[163]、「神の全知は自由意志と両立するか」[164]、「世界の宗教の相互に矛盾するように見える多様な教義は、何らかの意味で調和しうるのか」[165]などがある。宗教哲学は、哲学におけるほぼすべての主題と関係をもちうる[166]。神学的論争が通常一つの宗教伝統の内部で行われるのに対し、宗教哲学の議論は特定の神学的前提を超えて展開される[167]

科学哲学は、科学に関する基本的な概念・前提・問題を研究対象としており、科学とは何であり、擬似科学とどのように区別されるのかを考察する。また、科学者が用いる方法と、それがどのようにして知識をもたらすのかについて、その方法がどのような前提に基づくのかを検討する。また、科学の目的やその含意についても考察する[168]。科学哲学が扱う問いには、「どのようなものが適切な説明として重要視されるのか」[169]、「科学法則は単なる規則性の記述以上のものなのか」[170]、「個別科学はより一般的な科学によって全面的に説明されうるのか」[171]といったものがある。科学哲学の扱う対象は広範であり、自然科学の哲学と社会科学の哲学に大別され、それぞれさらに個別科学ごとの下位分野に分かれる。これらの諸分野が互いにどのような関係にあるかも、科学哲学におけるひとつの問題である。科学哲学の扱う問題の多くは、形而上学や認識論の問題とも重なり合う[172]

政治哲学は、政治的制度や社会を支配する基本原理や理念を哲学的に探究する。政治における基本的概念・前提・議論を検討し、政府の本性と目的について研究するとともに、その諸形態を比較する[173]。さらに政治哲学は、どのような状況下において政治的権力の行使が単なる暴力ではなく、正当性を有するかにいても論じる[174]。こうした観点から、政治的権力および社会的・物質的財産の分配、法的権利英語版なども政治哲学の問題となる[175]。ほかの重要な主題には、正義自由平等英語版主権ナショナリズムなどがある[176]。政治哲学は規範的問題についての一般的探求を行う点において、存在する国家について経験的に記述することを目的とする政治学と異なる[177]。政治哲学はしばしば倫理学の一部とみなされる[178]。政治哲学における有力な思想潮流として、自由主義保守主義社会主義アナキズムがある[179]

方法論

哲学における手法には、哲学的知識に到達し、主張を正当化する技術、あるいは競合する理論を選び取る際の原則といったものが含まれる[180]。歴史的に採用されてきた哲学のアプローチ手法は著しく多岐にわたる。これらの多くは、測定装置を通じて得られる実験データを用いないという点で、自然科学の方法論とは大きく異なる[181]。アプローチ手法の選択は、哲学理論の構築の仕方や、それを支持または批判する根拠に対して重要な影響を及ぼす[182]。この選択は、何が「哲学的証拠」とみなされるかという認識論的な観点によって導かれることが多い[183]

方法論の不一致は諸理論、あるいは哲学的問いに対する答えをめぐる論争を生み出す。新しい手法の発見はしばしば、哲学者の研究の進め方や、擁護する主張の内容に大きな影響を与えてきた[184]。ある特定の手法を用いて理論を構築する哲学者がいる一方、広範な手法から問題解決に適切なものを選び取る哲学者もいる[185]

概念分析は分析哲学において一般的な手法であり、概念の意味を構成要素に分解することで明瞭にしようとする[186]。同じく分析哲学においてよく用いられる手法は、常識を基礎とするものである。これは、一般に認められた信念を起点として予期しない結論を導き出そうとするものである。この手法は、しばしば一般通念から乖離した哲学的概念を批判するため、否定的に用いられる[187]。一般的な言語の使用をもとに哲学的問題にアプローチしようとする日常言語学派の手法は、これと類似している[188]

哲学の多くの手法は、とりわけ直観を重視する。直観とは、ある主張や一般原理が正しいかどうかについて、推論を経ずに抱く印象のことである。直観は特に思考実験において重要な役割を果たす。思考実験では、反事実的思考を想定し、その結果生じるであろう帰結を評価することによって、哲学理論を支持したり反論したりする[189]反照的均衡においても直観が用いられる。これは、ある問題について整合的立場を形成することを目指し、関係するあらゆる信念や直観を検討する。整合的観点を得るためには、しばしば一部の信念や直観を弱めたり、再解釈したりする必要が生じる[190]

プラグマティズムは、ある哲学的理論が真であるか判断するうえでは、具体的な実践的帰結が重要であると強調する[191]チャールズ・サンダース・パースプラグマティズムの格率によれば、ある人がある対象について持つ観念とは、その対象が導きうる実践的な帰結の総体にほかならない。プラグマティストはこの格率をもととして、哲学における見解の不一致は言語的な問題に過ぎず、帰結のうえでは差異らしいものが生じないことを示そうとしてきた[192]

現象学は、現前する世界および人間の経験の構造に関する知識を探求する。現象学者はあらゆる経験の主観的性格を強調し、外部の世界に関する理論的判断を留保する。この現象学的還元の手法は括弧入れないしエポケーとして知られている。現象学の目的は、ものの現前のありかたについて純粋な記述を行うことである[193]

方法論的自然主義英語版においては、自然科学における実験データとそこから導き出される理論を重視する。この立場は推論や内省にもとづく方法論と対照的である[194]

他分野との関連

生命倫理学は、医学におけるヒト胚の取扱いといった実践的な問題にも応用される。

哲学は他分野とも密接に関連している。哲学は、各領域の基本概念、背景的前提、方法を批判的に検討するため、他分野の性質とその限界を明確化するメタ分野であると理解されることもある。この点で、哲学は学際的視点を提供するうえで重要な役割を果たす。哲学は、諸学問が共有する概念や問題を分析することによって、それらのあいだの隔たりを架橋する。それによって諸分野がどのように重なり合うかを示すと同時に、それぞれの射程を画定する[195]。歴史的に見れば、個別科学の大部分は哲学から生じた[196]

哲学の影響は、実践的に困難な判断を要する複数の領域においても感じられる。医学においては、生命倫理学に関わる哲学的考察が、たとえばは人格を有するかどうか、妊娠中絶はどのような条件であれば道徳的に許容されうるかといった問題に影響を及ぼす。これらと関連する哲学的問題として、人間は他の動物をどのように扱うべきか、たとえば非人間動物を食料や研究目的で用いることが許されるかどうかといったものも挙げられる[197]。また、ビジネスや職業生活においても、哲学は倫理学的枠組みの制定に寄与する。いかなる企業行動が道徳的に容認されるかに関する指針や、企業の社会的責任の問題などがこの範疇に含まれる[198]

哲学的探究は、何を信じるべきか、また信念の根拠をいかにして獲得するかという問題に関わる多くの分野と関連している。これは科学の中心的問題である。なぜなら、科学の主要な目的のひとつは科学的知識の生成だからである。科学的知識は経験的証拠にもとづくが、経験的観察が中立的であるのか、それともすでに理論的前提を含んでいる(cf. 観察の理論負荷性英語版)のかはしばしば明らかではない。これと密接に関連する問題として、既知の利用可能な証拠が対立する理論のどちらを採用すべきかを判断するのに十分であるかどうかというものがある(cf. 決定不全[199]に関連する認識論的問題には、何が証拠と見なされるか、またある人物が有罪であると判断するのにどれだけの証拠が必要とされるかが含まれる。ジャーナリズムにおいては、出来事の報道に際して真実と客観性英語版をいかに確保するかが関連する問題となる[195]

神学および宗教の領域においては、神の存在と本性に関する多くの教義や、正しい行動を規定する規則が存在する。合理的な人間がこれらの教義を信じるべきかどうかは重要な問題であり、たとえば聖典における啓示や、神性に関わる神秘体験が、これらの信念の根拠として十分であるかどうかが問われる[200]

哲学のうち論理学の形態をとるものは、数学およびコンピューター科学に影響を与えた[201]。さらに、哲学は心理学社会学言語学教育学芸術といった諸領域にも影響を及ぼしている[202]。現代における哲学と他分野との密接な関係は、多くの哲学専攻者が哲学そのものではなく、関連する領域で活動しているという事実にも反映されている[203]

政治の領域において、哲学は政府が公正であるかどうかをどのようにして評価するかといった問題を扱う。哲学的理念は、さまざまな政治的展開を準備し、形成してきた。たとえば、啓蒙思想において定式化された理念は、立憲民主主義の基礎を築き、アメリカ独立革命およびフランス革命に寄与した[204]。マルクス主義思想およびそれによる共産主義の議論は、ロシア革命および中国共産革命英語版の一因となった[205]。インドにおいては、マハトマ・ガンジーの非暴力の哲学がインド独立運動英語版を形成した[206]

哲学は、メアリ・ウルストンクラフトシモーヌ・ド・ボーヴォワールジュディス・バトラーといった哲学者を介してフェミニズム運動に影響を与えた。ジェンダーの意味と生物学的性との関連、個人のアイデンティティの形成への影響といった、フェミニズムの中心的理念は、哲学を通して形成された。また、哲学者は正義と平等の概念、それが男性中心社会における女性の差別的扱いにどのように関連するかについても探求した[207]

哲学が生活や社会の多くの側面において有用であるという考えは、ときとして退けられることもある。いわく、哲学の目的は哲学そのものにあり、それは既存の実践や外部の目的に対して大きく寄与するものではない[208]

哲学への支持、擁護

現代哲学からの支持例

計算論的哲学への支持例

2024年に『スタンフォード哲学百科事典』でパトリック・グリムとダニエル・シンガーは「哲学はその最高の状態において、各時代の概念的で科学的な方法論といつも関わり合ってきた」のであり、現代でのその具体例は計算論的哲学(コンピューテーショナル・フィロソフィー)だと言う[209]。それはコンピューター科学によって哲学研究を具体化、拡張、増強している[209]。複数の例が示すように「計算論的哲学は、他の各分野で発展した計算論的な技術を取り入れていく(と同時に貢献していく)中で、昔から学際的であり続けてきた」[209]

神経科学哲学、神経哲学への支持例

2023年に『スタンフォード哲学百科事典』でジョン・ビクルらの視点では、神経科学の基礎は神経科学哲学によって問われ、また伝統的な哲学的問題への神経科学の応用は神経哲学によって行われている[210]。神経科学では、生物学的メカニズムと認知主義的な心理学情報処理モデルとを統合する認知神経科学的なアプローチが一層重要になりつつあり、それには哲学的で科学的な思想が役立ち得る[210]。そのような学際的な共同体を発展させることは困難な課題であるが、しかし「哲学によってもたらされる『概論的な視点』、そして本格的な(大学院レベルの)科学における科学的・実験的な基礎、これら両方で訓練を受けた思想家たちは、この課題に理想的に適しているだろう」[210]

また神経科学哲学者のビクルは神経科学者たちと協力して、膨大な情報を整理し効率的に新しい実験を計画する「実験計画の科学」を進めている[210]

哲学への批判

近代的、現代的事例

現代学際科学からの批判例

ボニーノほか(2021)によると、分析哲学者らの間で「有力」とされている見解では「論理学は分析哲学の手法として、広く応用されてますます洗練されてきている」[211]。(分析哲学は『百科事典マイペディア』で、「現代の英米哲学を代表する思潮」であり、超越的に思弁するのではなく言語を論理的・社会的に分析する哲学であるとの掲載あり[212]。)

一方でボニーノほか(2021)は、分析哲学における論理学の特徴を明確化するために、1万2322件の分析哲学論文[213][214]を対象とする計算言語学的な分析を行った[215]。その結果、分析哲学論文の中の約4分の3(74.62%)は論理学を一切含んでいなかった[216]。また、分析哲学論文の中で論理学の洗練度は、時代とともに上昇しているとはいえ比較的低いままであることも判明した[211]。「このデータによれば『全体として』、分析哲学の中に存在する論理学のほとんどを全面的に理解することは、論理学の導入部分を越えることでさえない」とボニーノほか(2021)は結論した[211]

分析哲学と大陸哲学の議論の方法のパターンには、統計的な有意差は存在しないとの論文(ミズラヒ&ディキンソン 2021)もある[217]

現代理工学からの批判例

数学・論理学からの批判例

数学者論理学者である田中一之[218]

一般の哲学者は、論理専門家ではない。

と記した[219]計算機科学者(コンピュータ科学者)・論理学者電子工学者・哲学博士(Ph.D. in Philosophy)であるトルケル・フランセーン[218]は、哲学者たちによる数学的な言及の多くが

ひどい誤解自由連想に基づいている

と批判した[220][注 7]。田中によると、ゲーデルの不完全性定理について哲学者が書いた本が、フランセーンの本と同じ頃に書店販売されていたが、哲学者の本は専門誌によって酷評された[219]。その本は全体として読みやすく一般読者からの評判は高かったが、ゲーデルの証明の核(不動点定理)について、根本的な勘違いをしたまま説明していた[219]。同様の間違いは他の入門書などにも見られる[219]

フランセーンによれば、不完全性定理のインパクトと重要性について、しばしば大げさな主張が繰り返されてきた[222]。たとえば

「数学の思考に変革をもたらした」「数学ばかりでなく、科学全体も一新した」 「数学だけではなく、哲学、言語学計算機科学宇宙論にまで革命を起こした」

という言があるが、これらは乱暴な誇張とされる[222]。不完全性定理が一番大きな衝撃を与えたと思われる数学においてさえ、「革命」らしきものは何も起きていない[222]。1931年にゲーデルが示した「不完全性定理」とは、「特定の形式体系Pにおいて決定不能命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」についての定理ではない[223]。不完全性定理以降の時代にも、数学上の意味で「完全」な理論は存在し続けているが[223]、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”というような誤解が一般社会・哲学・宗教神学等によって広まり、誤用されている[224]

数学者ダヴィット・ヒルベルトは「数学に“イグノラビムス(ignorabimus, 永遠に知られないこと)”はない」と述べた[225]。数学上に不可知は無く、全ての問題は最終的に解決されるというヒルベルトのこの見方は、「ノン・イグノラビムス」として知られている[226]。ゲーデル自身も以下の、「ノン・イグノラビムス」的なヒルベルト流の見解を持っていた[227]

あらゆる算術の問題をその中で解決する単一の形式体系を定めることは不可能であっても、
新しい公理推論規則による数学の拡張が限りなく続いていくなかで、どんな算術の問題もいずれどこかで決定されるという可能性は排除されていない。[227]

哲学等において「不完全性定理がヒルベルトのプログラムを破壊した」という類の発言がよくあるが、これは実際の不完全性定理やゲーデルの見解とは異なる[228]。正確に言えば、ヒルベルトの目的(数学の「無矛盾性証明」)を実現するには手段(ヒルベルト・プログラム)を拡張する必要がある、ということをゲーデルが不完全性定理を通して示したのだった[228]日本数学会が編集した『岩波 数学辞典』第4版では、不完全性定理について次の通り記されている[229]

ゲーデルも書いているように,有限の立場は特定の演繹体系として規定されるものではないから,彼の結果はヒルベルトの企図を直接否定するものではなく,実際この定理の発見後に無矛盾性証明のための様々な方法論が開発されている.[229]

量子論・理論物理学からの批判例

哲学者は、科学とは違う日常的言語で「宇宙」や「存在」を語ろうとしてきた[230]。しかし、量子論を創設した一員である理論物理学ポール・ディラックは、哲学者をことさら信用していなかった[231]。ディラックが居た頃のケンブリッジ大学で、一番の論客として鳴らしていたのは哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインだったが、彼を含め哲学者たちは、量子波動関数不確定性原理について的外れなことばかりを発言し記述しており、ディラックの不信は嫌悪に変わった[230]。ディラックが見たところ、哲学者たちは量子力学どころか、パスカル以降の「確率」の概念さえ理解していない[230]

ディラックの考えでは、非科学的な日常的言語をいくら使っても、正確な意思疎通を行うことはできない[231]。量子力学を説明してくれと言う家族や友人に対してディラックは、「無理です」と言って黙り込むのが常だった[230]。どうしても説明してほしいと迫る友人に、ディラックは「それは目隠しした人に触覚だけで雪の結晶がなにかを教えるようなもので、触ったとたん溶けてしまうのだ」と返した[230]

宇宙の背後にある「語り得ぬもの」または「」について、ウィトゲンシュタインは「もちろん言い表せないものが存在する。それは自らを示す。それは神秘である」[注 8]と述べたが、こういった哲学的考えは、理論物理学者から疑問視されている[232]。何故なら、「語り得ぬ」はずの「無」について、科学的に言語化する手がかりが既に見つかっているからである[233]。例えばペンローズの「ツイスター理論」、アシュテカーの「ループ重力理論」、ロルとアンビョルンの「因果的動的三角分割理論」等の研究が進められている[233]

物理学・宇宙物理学からの批判例

科学を語るとはどういうことか』の中で宇宙物理学者の須藤靖は、科学についての哲学的考察(科学哲学)が、実際には科学と関係が無いことを指摘した[234]

「科学哲学と科学の断絶」

私は科学哲学が物理学者に対して何らかの助言をしたなどということは聞いたことがないし、おそらく科学哲学と一般の科学者はほとんど没交渉であると言って差し支えない状況なのであろう。 … 科学哲学者と科学者の価値観の溝が深いことは確実だ。

二〇世紀が生んだ最も偉大な物理学者の一人であるリチャード・ファインマンが述べたとされる有名な言葉に「科学哲学は鳥類学者がの役に立つ程度にしか科学者の役に立たない」がある。 … かつて私がこの言葉を引用した講演をした際に、「鳥類学は鳥のためにやっているわけでないし、科学哲学もまた科学のために存在するのではない」という反論をもらったことがある。確かに、科学哲学が科学のためのものである必要は無い。[234]
科学哲学が、この方法論が果たして正しいのであろうかと立ち止まって悩んでいる間に、科学は常に前に踏み出しています。それでいいではないですか。 科学哲学者が横からいろいろ言うけれども、科学者からは「耳を傾けるべき重要な指摘だろうか」と首を傾げることばかり(たぶん、科学哲学者の皆さんから袋叩きに遭うでしょうが)というのが、正直な印象です。(『科学を語るとはどういうことか』, p. 260)

須藤は、哲学的に論じられている「原因」という言葉を取り上げて、「原因という言葉を具体的に定義しない限りそれ以上の議論は不可能です」[235]と述べており、「哲学者が興味を持っている因果の定義が物理学者とは違うことは確かでしょう」と述べた[236]。科学哲学者・倫理学者の伊勢田哲治は、「思った以上に物理学者と哲学者のものの見え方の違いというのは大きいのかもしれません」と述べた[237]

須藤によると、学問の扱う問題が整理され分化したことで、科学と哲学もそれぞれ異なる問題を研究するようになった[238]。これは「研究分野の細分化そのもの」であり、「立派な進歩」だと須藤は言う[238]。一方で伊勢田は、様々な要素を含んだ「大きな」問題を哲学的・統一的に扱う、かつての天文学について言及した[238]。「その後の天文学ではその〔哲学的〕問題を扱わなくなりましたし、今の物理学でもそういう問題を扱わない」と述べた伊勢田に対し、須藤は「その通りですが、それ自体に何か問題があるのでしょうか」と返した[238]

対談で須藤は「これまでけっこう長時間議論を行ってきました。おかげで、意見の違いは明らかになったとは思いますが、果たして何か決着がつくのでしょうか?」と発言し、伊勢田は「決着はつかないでしょうね」と答えた[239]

脳神経科学・コンピュータ科学・AI研究からの批判例

」や「意識」という問題を解明してきた脳神経科学計算機科学(コンピュータサイエンス)・人工知能研究開発等の文脈において、神経科学者・分子生物学フランシス・クリック

哲学者たちは2000年という長い間、ほとんど何も成果を残してこなかった

と批判した[240]。クリックのような観点では哲学は「二流どころか三流」の学問・科学に過ぎない、と科学哲学者の野家啓一は述べた[240]

また、脳科学者の澤口俊之はクリックに賛同し、「これは私のため息まじりの愚痴になるが、哲学者や思想家というのはつくづく「暇」だと思う」と述べた[240]。実際、哲学は暇(スコレー)から始まったとアリストテレスが伝えており、澤口のような否定的発言も的外れではないと野家は述べた[240]

生物学・進化生物学からの批判例

2018年刊行の『利己的な遺伝子 40周年記念版』において、進化生物学者リチャード・ドーキンスによる序文では「多くの批判者、とりわけ哲学を専門とする声高な批判者たちは、タイトルだけで本を読みたがる」とある[241]。前掲書の第一章では次のようにある[242]

生命には意味があるのか? 私たちは何のためにいるのか? 人間とは何か? といった深遠な問題に出くわしても、もう迷信に頼る必要はない。著名な動物学者G・G・シンプソンはこの最後の疑問を提起したあとで、こう述べている。
「私が強調したいのは、一八五九年[『種の起源』]以前には、この疑問に答えようとする試みはすべて無価値だったことと、回答せずに黙っているほうがましだったということである」。[243]
哲学と、「人文学」と称する分野では、今なお、ダーウィンなど存在したことがないかのような教育がなされている。こうしたことがいずれ変わるであろうことは疑いない。 …
この本の主張するところは、私たち、およびその他のあらゆる動物は、遺伝子によって創り出された機械にほかならないというものだ。 … 私がこれから述べるのは、成功した遺伝子に期待される特質のうちで最も重要なのは非情な利己主義である、ということだ。 … 遺伝子が個体レベルにおけるある限られた形の利他主義を助長することによって、自分自身の利己的な目標を最も達成できるような特別な状況も存在する。この文の「限られた(limited)」と「特別な(special)」という語は重要な言葉だ。
そうでないと信じたいのはやまやまだが、普遍的な愛とか種全体の繁栄などというものは、進化的には意味をなさない概念にすぎない。[244]

また進化生物学者・社会生物学者ロバート・L・トリヴァースは1976年、前掲書の初版へ以下を寄稿した[245]

チンパンジーと人間とはその進化の歴史のほぼ九九・五%を共有している。にもかかわらず、大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーをでき損ないで見当違いの化けものと見なし、一方自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。
進化論者から見れば、そのようなことはありえない。一つのを他の種より上に見る客観的根拠などは存在しないのだ。[245]

同時にトリヴァースは「定量的データ」による実証を強調しており[246]、1980年に動物行動学者日髙敏隆は「この本に書かれた内容を完全に理解するためには、数学の言葉が必要である」と記した[247]

哲学や人文学からの批判は、生物学へ、そして生物学について解説したドーキンスへ向かった[248]。その批判は例えば、遺伝子の理論を極端に単純化して捉えつつ、遺伝子との関連が薄い事物を同列に置いていた(「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子がやきもち焼きだったり、ゾウが抽象的だったり、ビスケットが目的論的だったりすることがありえない以上に」等)[248]。批判に対しドーキンスは、前掲書の中で「利己的」等の生物学用語を挙げつつ「このような言い回しは、それを理解する十分な資格を備えていない(あるいはそれを誤解する十分な資格を備えたというべきか?)人間の手にたまたま落ちるということさえなければ、無害な簡便語法である」と反論した[248]。彼は次のようにも記した[249]

哲学という道具を教育によって過剰に賦与された一部の人々は、それが役に立たない場合にもその学問的装置でつつき回す誘惑に抵抗できないように思われる。
私は、「しばしば高度な文学的・学問的趣味を持ち、しかし分析思考を実行する能力をはるかに超えた教育を受けてきた膨大な数の人々」に対する「哲学的絵空事(フィクション)」の魅力についてのP・B・メダワーの意見を思い起こす。(ドーキンス 2018, p. 477)

また前掲書中でドーキンスは、文化的自己複製子ミーム」の理論に関して

哲学的だろうが、そうでなかろうが、私の主張に欠陥があるとは誰も指摘できていないのが事実である。

とも述べた[250]。彼の理論では、破壊的で危険なミームの典型例は宗教であり、「信仰精神疾患の一つとしての基準を満たしているように見える」[251]

なお進化生態学者・岸由二は2018年、『利己的な遺伝子 40周年記念版』を「名著」と記した[252][注 9]

現代哲学からの批判例

非専門性への批判例

哲学者の中島義道は2016年に、哲学は「何の役にも立たない」のであり「哲学に『血税』を使う必要などない」と述べており[254]哲学科については、大幅な縮小か別の組織に統合させるべきだとしている[254][255]

思想家・博士(学術)東浩紀は「哲学はひとことでいえば一種の観光である」「哲学に専門知はない」と2015年に述べている[256]

制度性への批判例

哲学者の森岡正博[257]は1999年の論考で、日本の大学や哲学教室、倫理学教室、学会や懸賞論文は制度化されており、本来答えるべき哲学的課題に向き合えていないと批判している。学会は文献学、特定個人の思想、著名哲学者の思想に偏重しており、直面した根本問題を検討することを「次の機会」に先延ばしすることに特徴があるとしている。哲学の<純粋探求>の凄みと快楽は理解するものの、それは本当に向かい合うべき問いから巧妙に逃げているのではないか、と問題提起する[257][258]

哲学的暴力への批判例

社会哲学書『ヒトラーの哲学者たち Hitler's Philosophers』を2014年に翻訳した、三ツ木道夫(比較社会文化学博士)と大久保友博(人間環境学博士)によると、人文学者がナチス・ドイツという暴力を擁護したことは、ある種の「人文学の敗北」、「教養主義の挫折」である[259]。何故なら、人間は教養を身に付けたり音楽に感動したりすることで素晴らしい存在になるはずだったにも関わらず、そのような人文学的人間が不条理な暴力を認め加担しているからだという[260]。三ツ木と大久保は

ヒトラーをして<哲人総統>と自称せしめた一九三〇年代ドイツの精神的雰囲気は、まさしくドイツ哲学淵源から来るものである。

と記した[261]。批評家ジョージ・スタイナーも次のように批判した[259]

人間というものは、夕べにゲーテリルケを読み、バッハシューベルトを演奏しながら、朝(あした)にはアウシュヴィッツ一日の業務につくことができるものであることを、<あとに>きたわれわれは知ってしまった。

そんなことができる人間は、ゲーテ読みのゲーテ知らずだとか、そんな人間の耳は節穴も同然だとか、逃げ口上をいうのは偽善である。こういう事実を知ってしまったということ──このことは、いったい文学社会とどういうかかわりをもつのか。

プラトンの時代、マシュー・アーノルドの時代このかた、ほとんど公理になっているあの希望──《教養人間を人間らしくする力である》、《精神のエネルギーは高位のエネルギーに転ずることができる》という希望は、<あとに>きたために知ってしまったこの事実と、いったいどういうかかわりをもつのか。[259]

三ツ木と大久保は「訳者あとがき」で

日本でもここ数年、科学者のあり方がさまざまに問題となっているが、本訳書が人文学をめぐる社会的倫理の議論の一助になれば幸いである。

と締めくくった[262]

社会哲学者イヴォンヌ・シェラットの『ヒトラーの哲学者たち』によると[注 10]第三帝国ナチス・ドイツは様々な形で哲学者たちと相互協力しており[263]、アドルフ・ヒトラー自身も「哲人総統[264]、「哲人指導者」を自認して活動していた[265]

シェラットは以下のように記した[266][263]

哲学は<道徳学(モラル・サイエンス)>の子孫である。そしてそれを相続するという意味でも、哲学に関わる者はその通ってきた不穏な道筋を意識し続ける必要があるのだ。[266]
第三帝国の時代に生きていた人々 … キリスト教徒優生学者、理想主義の哲学者たち、これらの人々がみな、ヨーロッパの土壌にかつて現れたものの中でも、最悪のプロパガンダのいくつかを普及させ、そこに名を連ねているのである。[263]

「第三帝国」という概念について、『日本大百科全書』には以下の解説がある[267]

第三帝国 哲学上では、物質的な世界を第一帝国、精神的な世界を第二帝国、両者を統合した理想の世界を第三帝国と称するが、 「第三帝国」とは要するに理想的な人間社会をさすことばである。このため ドイツ保守派の政治家や学者はナチス国家をドイツ民族の優れた性格が十分に発揮され、その世界的使命が達成される帝国と考えた。[267]

シェラットによれば、「ナチ哲学者」の多くは刑罰から逃れて学界に残った[268]。例えばマルティン・ハイデガー21世紀でも、哲学における「スター」のような学者として見なされ続けている[269][注 11]。かつて1933年にナチ党員となったハイデガーは、学術機関の「新総統」と公称し[270]、また他者から「大学総統」とも呼称されるようになった[271]。ハイデガーが「新総統」を宣言したのはナチ党員になって三週間後の1933年5月27日、彼がフライブルク大学新総長としてハーケンクロイツを掲げる就任演説を行った時だった[270]。ハイデガーは聴衆のナチ党員たちと同種の隊服を着ており、ナチ式敬礼をして壇上に登ると、ナチズムを「精神指導[270]、「ドイツ民族の運命に特色ある歴史を刻み込んだあの厳粛な精神的負託」と呼び、ナチズムによって「初めて、ドイツの大学の本質は明晰さと偉大さとをもつに至るのである」と述べた[271]

ハイデガーはナチス内での出世を目指したが、彼は当世風な社会進化論者というよりロマンチックで文化的なナショナリストであると見なされ、出世は頭打ちになった[272]。それでもハイデガーは哲学者かつ「大学総統」として、人種的排外主義においても行動していた[272]。彼は

国民社会主義〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ

を論じたり、地方の文部大臣に「人種学および遺伝学」のポスト新設を要請して

国家の健康を保全するために … 安楽死問題が真剣に熟慮されるべきである

と主張したりした[273]

1935年にはハイデガーが「形而上学入門」という題の講義を始めており、再び

この運動〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ

を論じた[274]。かつての同僚かつ友人だった哲学者カール・レーヴィットと対面した時も、ハイデガーはヒトラー賛美を変えなかった[275]。レーヴィットの論考によれば、ハイデガーのナチズムは《ハイデガーの哲学の本質に基づくもの》であり、深い忠誠から由来している[275]。そしてハイデガーの「存在」や「在る」という概念は、《形而上学的なナチズム》であるとレーヴィットは述べた[275]。またハイデガーは自著『存在と時間』で、かつての恩師かつ友人だったユダヤ人フッサールへの献辞を載せていたが、その献辞を削除することを出版社に快諾した[275]

ハイデガーは「国民社会主義大学教官同盟フライブルク科学協会」から、

国民社会主義〔ナチズム〕の先駆者たる党同志

とも呼ばれるようになった[276]。彼は「ナチ哲学者」たち──アルフレート・ローゼンベルクカール・シュミット、エーリヒ・ロータッカー、ハンス・ハイゼ、アルフレート・ボイムラーエルンスト・クリークなど──とおおよそ友好的付き合いを続けると同時に、ナチズム教育を学生全般へ実行していった[276]。そこでハイデガーは《人権道徳憐憫は時代遅れの概念であり、ドイツの弱体化を防ぐため哲学から追放されるべきだ》などと論じていた[276]。1942年の講義(ヘルダーリンの詩歌『イースター』についての講義)でも彼は、ナチズムと「その歴史的独自性」を一貫して高評価していた[276]

かつてハイデガーの親友だった哲学者カール・ヤスパースは、ハイデガー、シュミット、ボイムラーという三人の哲学者は

精神面でナチ的な運動の頂点に立とうと試みた

と結論した[277]

ハイデガーの愛人だったユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、「ハイデガーを潜在的な殺人者だとみなさざるをえないのです」と公刊著作で批判した頃もあった[278]。しかしハイデガーと再会後のアーレントは、彼の本を世界中で出版させるためにユダヤ系出版の人脈を使って努力した[279]。シェラットいわく「ハンナは、現代哲学の様相を一変させる計画に手をつける」ことになった[279]。ナチスの戦争捕虜だった著名なフランス人哲学者ジャン=ポール・サルトルさえも、ハイデガー哲学を自分の思想に取り入れて彼を支援した[280]

アーレントは、ナチズムと哲学との繋がりを切り離そうとするようになった[281]。例えば彼女は、アドルフ・アイヒマンを中心に「悪の陳腐さ」やナチスの「凡庸さ」、知性の無さを論じる政治哲学書を複数執筆していった[282]。しかし、これはホロコースト生存者からの反発をも生むことになった[283]。その原因は例えば、

  • アイヒマンが裁判を受けている最中に《自分はカントの道徳哲学と定言命法に従っただけだ》などと、ヒトラー同様に哲学を引用して自分の知的根拠としていたこと
  • アーレントはこの裁判を傍聴していたにも関わらず、ナチスの哲学性を軽視・無視して論じたこと

などだった[284]

社会看護学者ダンカン・C・ランドールと健康科学者アンドリュー・リチャードソンの論文によれば、ハイデガー思想などのナチ哲学へ向けられる擁護には、《哲学とは文化的に中立政治から切り離されているもの》だという考え方が含まれている[285]。しかしそもそもこの考え方自体が、哲学における特定の政治的・文化的な立場を有利にしようとしている[285]。ここでは、哲学は政治的であり文化的に非中立なものだとする考え方が拒絶されている、と同論文は述べる[285]

同論文によれば、哲学的テクストの文化的中立性や非政治性をいくら主張したところで、哲学的テクストが文化や政治に巻き起こした「行動」(action)も「行動しないこと」(inaction)も、消え失せるわけではない[285]。何故なら、いかなる哲学も行動も「文化的かつ政治的」(cultural and political)であり、また、何らかの哲学や行動を選ばないこと自体も一種の文化的・政治的行動であるからだと言う[285]

必要とされているのは「政治的・文化的な側面を我々に見えなくさせるハイデガーの解釈主義を拒絶すること」である[286][注 12]。《哲学者(ハイデガー)たち自身についてはともかく、哲学的著作物については批判すべきでない》というような考え方は、(政治的・文化的な文脈からの)批判的研究を無視している[286]。それは検証を無視したり、過ちを繰り返したりすることに繋がると同論文は結論した[286]

哲学的限界への批判例

哲学の活動、すなわち理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり、哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある[287]

歴史的事例

古代における批判と反論の例

古代ギリシャでは、哲学が役に立たないという観点もあった。アリストテレスは自著『政治学』において[288]、哲学者は儲けることができるものの儲け以外に野心を持っているという逸話を示すことで反論した。[289][290]

宗教からの批判例

コロサイの信徒への手紙の中でパウロは哲学を「むなしいだましごと」と称している箇所がある。[291]

脚注

注釈

  1. ^ 翻字: フィロソフィア(フィロソフィアー、ピロソピアなどとも)
  2. ^ : philosophie: Philosophie
  3. ^ フィロソフォス
  4. ^ 百一新論』 - 国立国会図書館
  5. ^ 西周による津田真道『性理論』跋文(1861年)では「希哲学」を用いている[12]
  6. ^ 西周は主觀客觀・概念・觀念歸納演繹・命題・肯定・否定理性悟性現象・藝術(リベラルアーツの訳語)・技術など、西欧語のそれぞれの単語に対応する日本語を創生した。
  7. ^ フランセーンはストックホルム大学で哲学を専攻し、1987年に「Ph.D.(哲学)」を取得(フランセーン 2011, p. 奥付け)。ルレオ工科大学でのフランセーンのページによると、「(哲学における)自分の博士論文 “my PhD thesis (in philosophy)”」は世界各国の大学図書館で閲覧できる[221]
  8. ^ 原文は"Es gibt allerdings Unaussprechliches. Dies zeigt sich, es ist das Mystische"[232].
  9. ^ この2018年刊行の本の後書きで岸は「四〇年を生き抜いた本書は、現代の進化論的生態学の視野をみごとに紹介する学術書、当該分野の研究・批評を志す者の必読の入門書として、評価も確定したと言ってよいだろう」とも記した[253]
  10. ^ 邦訳題は『ヒトラーと哲学者:哲学はナチズムとどう関わったか』。
  11. ^ 「ハイデッガー」とも。
  12. ^ "rejecting Heidegger's interpretivism which blinds us to the political and cultural aspects"[286].

出典

  1. ^ a b 松村 2021b, p. 「フィロソフィー」.
  2. ^ 松村 2021a, p. 「フィロソファー」.
  3. ^ a b c 『ブリタニカ国際大百科事典』【哲学】冒頭部、p.630
  4. ^ a b c d 平凡社『世界大百科事典』【哲学】冒頭部、第19巻 p.142
  5. ^ 『岩波 哲学・思想事典』【哲学】p.1119
  6. ^ ジャン・ルクレール『修道院文化入門』神崎忠昭・矢内義顕訳、知泉書館、2004年10月25日、ISBN 4-9016-5441-1、p135
  7. ^ 岩村清太『ヨーロッパ中世の自由学芸と教育』知泉書館、2007年5月25日、ISBN 978-4-86285-011-9、p85
  8. ^ a b c d e f g 三宅雄二郞明治哲学界の回顧 附記」『岩波講座哲学』第1次・第11巻、1932年。 
  9. ^ a b 桑兵(著), 村上衛(訳) 2013, p. 144.
  10. ^ a b c 高野繁男 「『哲学字彙』の和製漢語―その語基の生成法・造語法」『人文学研究所報』37:97p, 2004
  11. ^ a b c d 齋藤 毅 2005, p. 第10章 哲学語源――艾儒略から西周・三宅雪嶺まで.
  12. ^ a b c d e 中島 2023, p. 11f.
  13. ^  周敦頤 (中国語), 通書#志學第十, ウィキソースより閲覧。 
  14. ^  朱熹・呂祖謙 (中国語), 近思錄/卷02, ウィキソースより閲覧。 
  15. ^ 高坂史朗「Philosophyと東アジアの「哲学」」『人文研究』第8巻、大阪市立大学、2004年、4頁。 
  16. ^ 桑兵(著), 村上衛(訳) 2013, p. 152f.
  17. ^ a b 石井剛戴震と中国近代哲学:漢学から哲学へ』知泉書館、2014年、176f頁。ISBN 978-4862851697 
  18. ^ 「①中江兆民が「日本の問題の根本は哲学がないことだ」といったような文を残していたと思うが、その原典を知...」(早稲田大学図書館) - レファレンス協同データベース
  19. ^ 楊冰「王国維の哲学思想の出発点「正名説」における桑木厳翼の『哲学概論』(1900)の影響 : 王国維の『哲学弁惑』(1903)を中心に」『人文学論集』第32巻、大阪府立大学人文学会、2014年、125頁。 
  20. ^ a b 桑兵(著), 村上衛(訳) 2013, p. 154.
  21. ^ 笠木雅史「「哲学」の概念工学とはどのようなことか」『哲学の探求』第47巻、哲学若手研究者フォーラム、2020年、15-16頁。 
  22. ^
  23. ^ Perry, Bratman & Fischer 2010, p. 4.
  24. ^
  25. ^ Plato 2023, Apology.
  26. ^
  27. ^ 新村 2018, p. 2001.
  28. ^
  29. ^ Overgaard, Gilbert & Burwood 2013, pp. vii, 17.
  30. ^
  31. ^
  32. ^
  33. ^
  34. ^ Overgaard, Gilbert & Burwood 2013, pp. 20–22, What Is Philosophy?.
  35. ^
  36. ^
  37. ^
  38. ^
  39. ^
  40. ^
  41. ^
  42. ^
  43. ^
  44. ^ Smith, § 2.b.
  45. ^
  46. ^ Grimm & Cohoe 2021, pp. 236–237.
  47. ^ Sharpe & Ure 2021, pp. 76, 80.
  48. ^
  49. ^
  50. ^
  51. ^
  52. ^ a b c ロイ・W・ペレット 著、加藤隆宏 訳『インド哲学入門』ミネルヴァ書房、2023年(原著2016年)、3-6頁。 ISBN 9784623096152 
  53. ^ a b 朝倉友海『「東アジアに哲学はない」のか 京都学派と新儒家』岩波書店、2014年。 ISBN 9784000291378 「はじめに」
  54. ^ 中島 2023, p. 4.
  55. ^ (日置弘一郎、「経営哲学の試み--経営思想と峻別した経営哲学体系」『經濟論叢』 2005年3月 175巻 3号 p.175-191, hdl:2433/66276, doi:10.14989/66276, 京都大学經濟論叢)から起筆した。
  56. ^ 永井均[1997] 『(子ども)のための哲学』講談社。この脚注は日置(2005)にもとづく
  57. ^ 小坂修平『図解雑学 現代思想』ナツメ社、2004年4月7日、p17
  58. ^ a b 八木雄二『天使はなぜ堕落するのか 中世哲学の興亡』春秋社、2009年12月25日、ISBN 978-4-393-32330-4、p159
  59. ^ a b 岡崎文明「序章 西洋哲学史観と時代区分」『西洋哲学史観と時代区分』昭和堂、2004年10月30日、ISBN 4-8122-0319-8、p41
  60. ^ カール・ライムント・ポパー『推測と反駁――科学的知識の発展』法政大学出版局、1980年1月、ISBN 978-4588000959
  61. ^ Shields 2022, Lead Section.
  62. ^
  63. ^
  64. ^
  65. ^
  66. ^
  67. ^
  68. ^ a b
  69. ^ Grayling 2019, Philosophy in the Nineteenth Century.
  70. ^
  71. ^ Grayling 2019, Philosophy in the Twentieth Century.
  72. ^ Waithe 1995, pp. xix–xxiii.
  73. ^
  74. ^
  75. ^
  76. ^
  77. ^
  78. ^
  79. ^
  80. ^
  81. ^ a b c
  82. ^ a b
  83. ^ a b
  84. ^
  85. ^
  86. ^ Ranganathan, 1. Rāmānuja's Life and Works.
  87. ^ Ranganathan, Lead Section, 2c. Substantive Theses.
  88. ^
  89. ^
  90. ^
  91. ^
  92. ^
  93. ^
  94. ^
  95. ^
  96. ^
  97. ^ a b
  98. ^
    • Littlejohn 2023, 4b. Neo-Confucianism: The Original Way of Confucius for a New Era
    • EB Staff 2017, § Periods of Development of Chinese Philosophy
  99. ^
  100. ^
  101. ^
  102. ^ 仏教」『改訂新版 世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8F%E6%95%99コトバンクより2024年12月26日閲覧 
  103. ^ 神道」『改訂新版 世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%81%93コトバンクより2024年12月26日閲覧 
  104. ^
  105. ^ 儒教」『改訂新版 世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E5%84%92%E6%95%99コトバンクより2024年12月26日閲覧 
  106. ^ 国学」『改訂新版 世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AD%A6コトバンクより2024年12月26日閲覧 
  107. ^
    • Davis 2022, Lead Section, § 3. Absolute Nothingness: Giving Philosophical Form to the Formless
    • Kasulis 2022, § 4.4.2 Modern Academic Philosophies
  108. ^
  109. ^
  110. ^
  111. ^
  112. ^
  113. ^
  114. ^ Schroeder 2021, Lead Section: "In its broadest sense, 'value theory' is a catch-all label used to encompass all branches of moral philosophy, social and political philosophy, aesthetics, and sometimes feminist philosophy and the philosophy of religion – whatever areas of philosophy are deemed to encompass some 'evaluative' aspect.".
  115. ^
  116. ^ a b c d e 貫成人『図解雑学 哲学』ナツメ社、2001年8月30日、p248-p249
  117. ^
  118. ^ Mulvaney 2009, p. ix.
  119. ^
  120. ^
  121. ^
  122. ^
  123. ^
  124. ^
  125. ^ Olsson 2021, Lead Section, § 1. Coherentism Versus Foundationalism.
  126. ^
  127. ^
  128. ^ Mulvaney 2009, pp. vii–xi.
  129. ^
  130. ^
  131. ^
  132. ^
    • Dittmer, 1. Applied Ethics as Distinct from Normative Ethics and Metaethics
    • Nagel 2006, pp. 382, 386–388
  133. ^
  134. ^
  135. ^
  136. ^
  137. ^
  138. ^
  139. ^
  140. ^
  141. ^
  142. ^ van Inwagen, Sullivan & Bernstein 2023, Lead Section.
  143. ^ Mulvaney 2009, pp. ix–x.
  144. ^
  145. ^
  146. ^
  147. ^ Audi 2006, § Metaphysics.
  148. ^
  149. ^
  150. ^
  151. ^
  152. ^
  153. ^
  154. ^
  155. ^
  156. ^
  157. ^
  158. ^
  159. ^
  160. ^
  161. ^
  162. ^
  163. ^ Taliaferro 2023, § 1.
  164. ^ Taliaferro 2023, § 5.1.1.
  165. ^ Taliaferro 2023, § 6.
  166. ^
  167. ^
  168. ^
  169. ^ Newton-Smith 2000, pp. 7.
  170. ^ Newton-Smith 2000, pp. 5.
  171. ^ Papineau 2005, pp. 855–856.
  172. ^
  173. ^
  174. ^
  175. ^ Wolff 2006, pp. 1–2.
  176. ^ Molefe & Allsobrook 2021, pp. 8–9.
  177. ^
  178. ^ Audi 2006, § Subfields of Ethics.
  179. ^
  180. ^
  181. ^
  182. ^
  183. ^
  184. ^
  185. ^
  186. ^
  187. ^
  188. ^
  189. ^
  190. ^
  191. ^
  192. ^
  193. ^
  194. ^
  195. ^ a b Audi 2006, pp. 332–337.
  196. ^
  197. ^
  198. ^
  199. ^
  200. ^
  201. ^
  202. ^
  203. ^ Cropper 1997.
  204. ^ Bristow 2023, Lead Section, § 2.1 Political Theory.
  205. ^
  206. ^
  207. ^
  208. ^
  209. ^ a b c Computational Philosophy” (英語). Stanford Encyclopedia of Philosophy. The Metaphysics Research Lab, Department of Philosophy, Stanford University (2024年). 2025年10月7日閲覧。
  210. ^ a b c d The Philosophy of Neuroscience” (英語). Stanford Encyclopedia of Philosophy. The Metaphysics Research Lab, Department of Philosophy, Stanford University (2023年). 2025年10月7日閲覧。
  211. ^ a b c Bonino, Maffezioli & Tripodi 2021, p. 11022 (32).
  212. ^ https://kotobank.jp/word/%E5%88%86%E6%9E%90%E5%93%B2%E5%AD%A6-128562#:~:text=%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%8B%B1%E7%B1%B3%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%82%92%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E6%80%9D%E6%BD%AE%E3%80%82
  213. ^ Bonino, Maffezioli & Tripodi 2021, p. 10991 (1).
  214. ^ Bonino, Maffezioli & Tripodi 2021, p. 10996 (6).
  215. ^ Bonino, Maffezioli & Tripodi 2021, p. 10994 (4).
  216. ^ Bonino, Maffezioli & Tripodi 2021, pp. 11003-11004 (13-14).
  217. ^ Mizrahi, Moti; Dickinson, Mike (2021-10). “The analytic‐continental divide in philosophical practice: An empirical study” (英語). Metaphilosophy 52 (5): 668–680. doi:10.1111/meta.12519. ISSN 0026-1068. https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/meta.12519. 
  218. ^ a b フランセーン 2011, p. 奥付け.
  219. ^ a b c d フランセーン 2011, p. 233.
  220. ^ フランセーン 2011, p. 4.
  221. ^ Franzén 2008, p. Torkel Franzén.
  222. ^ a b c フランセーン 2011, p. 9.
  223. ^ a b フランセーン 2011, p. 230.
  224. ^ フランセーン 2011, p. 4, 7, 126.
  225. ^ フランセーン 2011, pp. 21–22.
  226. ^ フランセーン 2011, p. 22.
  227. ^ a b フランセーン 2011, p. 47.
  228. ^ a b フランセーン 2011, p. 54.
  229. ^ a b 日本数学会(編) 2011, p. 357.
  230. ^ a b c d e 全 2014, p. 178.
  231. ^ a b 全 2014, pp. 177–178.
  232. ^ a b 全 2014, pp. 193–194.
  233. ^ a b 全 2014, p. 194.
  234. ^ a b 『科学を語るとはどういうことか』, p. 14-15。
  235. ^ 『科学を語るとはどういうことか』, p. 124-125.
  236. ^ 『科学を語るとはどういうことか』, p. 141.
  237. ^ 『科学を語るとはどういうことか』, p. 262.
  238. ^ a b c d 『科学を語るとはどういうことか』, p. 57-58。
  239. ^ 『科学を語るとはどういうことか』, p. 284.
  240. ^ a b c d 野家 2002, p. 34.
  241. ^ ドーキンス 2018, p. 10.
  242. ^ ドーキンス 2018, pp. 39–41.
  243. ^ ドーキンス 2018, pp. 39–40.
  244. ^ ドーキンス 2018, pp. 40–41.
  245. ^ a b ドーキンス 2018, pp. 30–31.
  246. ^ ドーキンス 2018, pp. 32.
  247. ^ ドーキンス 2018, p. 551.
  248. ^ a b c ドーキンス 2018, pp. 476–477.
  249. ^ ドーキンス 2018, p. 477.
  250. ^ ドーキンス 2018, p. 527.
  251. ^ ドーキンス 2018, p. 536.
  252. ^ ドーキンス 2018, p. 554.
  253. ^ ドーキンス 2018, pp. 554–555.
  254. ^ a b 哲学が人類を「幸福にしない」これだけの理由 | 哲学塾からこんにちは | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
  255. ^ 「大学からすっかり哲学科がなくなるのも考え物ですが、そこは原則的に哲学ではなく哲学研究をする場所、つまり知的遺産管財人の養成機関なのですから、東大や京大など旧帝国大学などの片隅にわずかな定員を確保して存続するだけでいい。あるいは、新聞編纂所のような哲学編纂所という(学生や講義なしの)専門研究機関として、あるいは考古学科の一分科として存続してもいいのではないかと思います。(中略)...哲学など何の役にも立たないのですから、それに血税を使うのはもったいない。(中略)少なくともわが国民が哲学の真の姿を認めて、その表面的な美名をひっぺがし、哲学はまったく役に立たず、自他の幸福を望むこととは無関係であり、反社会的で、危険で、不健全なもの、という点で認識が一致し、それにもかかわらず哲学をしなければ死んでしまう全人口の1パーセント未満の人のためにのみ哲学を学ぶ「真の場所」を設置すること。これはまことに健全なことだと思いますが、いかがでしょうか?」中島2016.07.02(東洋経済オンライン)
  256. ^ 「ひとことで言えば、「哲学とは一種の観光である」ということです。観光客は無責任にさまざまなところに出かけます。好奇心に導かれ、生半可な知識を手に入れ、好き勝手なことを言っては去っていきます。哲学者はそのような観光客に似ています。哲学に専門知はありません。(中略)...哲学は役に立つものではありません。哲学はなにも答えを与えてくれません。哲学は、みなさんの人生を少しも豊かにしてくれないし、この社会も少しもよくはしてくれない。そうではなく、哲学は、答えを追い求める日常から、ぼくたちを少しだけ自由にしてくれるものなのです。観光の旅がそうであるように。(紀伊國屋じんぶん大賞2015受賞コメント[1]
  257. ^ a b 森岡正博「現代において哲学するとはどのようなことなのか」『哲学』第1999巻第50号、日本哲学会、1999年5月、1-12頁、 CRID 1390001205322269312doi:10.11439/philosophy1952.1999.1ISSN 03873358 
  258. ^ また、森岡正博は「現代において哲学するとはどのようなことなのか」において、次のようなことも述べている。「もし、現代社会とそこに生きる人間の姿を問うことをその中心に据える哲学があるとすれば、それは文献学・解釈学を中心に据える哲学ではなく、自分自身がこの社会を生きるその実践のプロセスのただ中において思索を深めていくという形の実践学を中心に据える哲学になるはずだ」(p.25)「実践学としての哲学においては、テキスト読解のかわりに、実人生と実社会の読解が入り口となる」「重視されるのは、テキスト解釈ではなく、『フィールドワーク』である。」「『私がよりよく生き、よりよく死ぬ』ために哲学をしている」「それをめざすためにはいくらテキストを読んでも解釈していてもだめなんだということが分かった」「そこから足を洗い、そのかわりに、自分の人生そのものをフィールドとして、自己とは何か、現代社会とは何か、他者とは何かを自分の頭とことばで気の済むまで探究しているのである」「われわれが知らない過去の無数の哲学者たちは、なんのことはない、こういう営みを日々続けていたのだろうから、私もまたそれをするだけのことなのである。」(p.27)「私がいう実践学というのは『実践』についての哲学的議論をするということではない。」「そうではなくて、この私やあなたが、実際に、この世界のなかで実践していくということだ」(p.27)
  259. ^ a b c シェラット 2015, pp. 358–359.
  260. ^ シェラット 2015, p. 359.
  261. ^ シェラット 2015, p. 360.
  262. ^ シェラット 2015, p. 362.
  263. ^ a b c シェラット 2015, p. 12.
  264. ^ シェラット 2015, p. 11.
  265. ^ シェラット 2015, p. 37.
  266. ^ a b シェラット 2015, p. 354.
  267. ^ a b 村瀬 2022, p. 「第三帝国」.
  268. ^ シェラット 2015, pp. 324–326.
  269. ^ シェラット 2015, p. 352.
  270. ^ a b c シェラット 2015, p. 163.
  271. ^ a b シェラット 2015, p. 164.
  272. ^ a b シェラット 2015, pp. 170–171.
  273. ^ シェラット 2015, p. 171.
  274. ^ シェラット 2015, p. 172.
  275. ^ a b c d シェラット 2015, p. 173.
  276. ^ a b c d シェラット 2015, p. 174.
  277. ^ シェラット 2015, p. 330.
  278. ^ シェラット 2015, p. 331.
  279. ^ a b シェラット 2015, p. 334.
  280. ^ シェラット 2015, p. 335.
  281. ^ シェラット 2015, p. 341.
  282. ^ シェラット 2015, pp. 339–340.
  283. ^ シェラット 2015, p. 340.
  284. ^ シェラット 2015, pp. 340–341.
  285. ^ a b c d e Randall & Richardson 2021, p. 5.
  286. ^ a b c d Randall & Richardson 2021, p. 6.
  287. ^ 種村完司「カレン・グロイ『「ポスト哲学の時代」における哲学』(翻訳)とそれへの短評」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』第54巻、鹿児島大学、2003年3月18日、67-80頁、 hdl:10232/1102NAID 110004993843  PDF5頁以降
  288. ^ Politics,1259a
  289. ^ 参考文献:バートランド・ラッセル『西洋哲学史1』市川三郎訳,みすず書房、p.35
  290. ^

    彼(タレス)は貧乏であった。貧乏であることは哲学が役に立たないことを示すと考えられたので、彼はそのことで非難を受けた。話によれば、彼は星に関する自分の巧妙な知識によって、次にくる年にオリーヴの豊作がある、ということを冬の間に知ることができた。そこで彼は、少しは金をもっていたので、キオスとミレトスにあるすべてのオリーヴ圧搾機を使用するための、保証金を支払っておいた。競りあう人が全然いなかったために、彼はわずかの金でそれらの器械を借りたわけだ。収穫時が来て急に多くの圧搾器がそろって必要となると、彼は思いのままの高値でそれを貸し出し、多額の金をつくった。このようにして彼は、哲学者は望みとあらば容易に金持ちとなることができるが、哲学者の野心はそれ以外にある、ということを世間に示した。

  291. ^
    あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。 — コロサイ人への手紙2章8節(口語訳)

参考文献

  • シェラット, イヴォンヌ 著、三ツ木道夫、大久保友博 訳『ヒトラーと哲学者:哲学はナチズムとどう関わったか』白水社、2015年。 ISBN 978-4560084120 
  • 全卓樹『エキゾティックな量子:不可思議だけど意外に近しい量子のお話』東京大学出版会、2014年。 ISBN 978-4130636070 

その他

関連項目

外部リンク


哲学

出典:『Wiktionary』 (2021/09/21 12:41 UTC 版)

名詞

てつがく

  1. 抽象的な概念用いて世界人間社会原理等について考察する学問
  2. 個人人生観世界観物事考え方

語源

ギリシア語 φιλοσοφια(philosophia; philo-=愛する、sophia=知)に由来する 英語 philosophy西周訳したもの。当初は「希哲学」と訳されたが、のちに「哲学」となる。「」は「こいねがう」、「哲」は「あきらか」>「かしこい」の意。

翻訳

関連語

動詞

哲学するてつがく-する)

  1. 哲学について探求する。哲学を実践する

活用

サ行変格活用
てつがく-する

翻訳


「哲学」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



哲学と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「哲学」の関連用語

哲学のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



哲学のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
実用日本語表現辞典実用日本語表現辞典
Copyright © 2025実用日本語表現辞典 All Rights Reserved.
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの哲学 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA) and/or GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblioに掲載されている「Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ)」の記事は、Wiktionaryの哲学 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA)もしくはGNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS