善の研究とは? わかりやすく解説

善の研究

作者赤川次郎

収載図書葬送カーニバル
出版社光文社
刊行年月1990.12
シリーズ名光文社文庫

収載図書さよならをもう一度自選恐怖小説
出版社角川書店
刊行年月1994.4
シリーズ名角川ホラー文庫

収載図書もだんミステリーワールド―大きな活字読みやすい
出版社リブリオ出版
刊行年月1998.4


善の研究

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/07 00:03 UTC 版)

明治36年の西田幾多郎
大正5年頃の西田幾多郎
昭和5年の西田幾多郎

善の研究』(ぜんのけんきゅう)は、日本思想家である西田幾多郎が41歳の時に著した作品。1911年明治44年)2月6日に弘道館より出版された。明治初期に日本にヨーロッパ哲学が伝えられて以来始めて日本で生まれた日本独自の体系的な哲学思想である[1]

概要

当初は『純粋経験実在』という題名のもとに構想されていたが、出版社の弘道館が反対したため、この名に改題された[2][引用 1] 出版当初はあまり反響がなかったが、大正昭和を通じて、哲学を学ぶものだけでなく一般の読者層にも読まれる広く普及した哲学書であった[1]

1896年に母校である第四高等学校の講師となり、心労を克服するために参禅体験を積む。善体験による人格の統一を通じて思想を統一することが最善の道と考えるようになった[3]。『善の研究』は西田の最初期の作品で、何度かの転換点を越え、『場所の論理』の発表の頃より呼称されるようになった『西田哲学』 [引用 2][引用 3][4]につながっていく基礎となった作品である[5]

構成

『善の研究』は、「純粋経験」、「實在」、「」、「宗教」の四つの編で構成されている[6]。第一編の「純粋経験」においては、「純粋経験」という概念が西田の思想の根底にあり、「純粋経験」が何であるかが論じられている。しかし、なぜ「純粋経験」が問題になるのかと言うことが説明されないままに、いきなり「純粋経験」とは何かを論じているため、唐突な印象を受ける[7]

これは「純粋経験」が第二編の「實在」よりも後に書かれたことに起因している。第二編の「實在」の第一章には「考究の出発点」があり、実際の『善の研究』は第二編が書き始めであると考えるのが妥当である[引用 4][6][8]

第一編と第二編を肉付ける部分として、道徳について論じた第三篇の「善」と宗教について論じた第四篇「宗教」が書かれている。西田は基本的な思想として理論的な側面と実践的な側面は強く結びついていると考えているため、このような構成になったと考えられる[9]

第一編 純粋經驗 第三編
第一章 純粋經驗[10][11] 第一章 行爲 [12][13]
第二章 思惟[14][15] 第二章 行爲 [16][17]
第三章 意志[18][19] 第三章 意志の自由[20][21]
第四章 知的直觀[22][23] 第四章 價値的研究[24][25]
第二編 實在 第五章 倫理學の諸說 其一[26][27]
第一章 考究の出立点[28][29] 第六章 倫理學の諸說 其二[30][31]
第二章 意識現象が唯一の実在である[32][33] 第七章 倫理學の諸說 其三[34][35]
第三章 實在の眞景[36][37] 第八章 倫理學の諸說 其四[38][39]
第四章 眞實在は常に同一の形式を有つて居る[40][41] 第九章 善(活動說)[42][43]
第五章 眞實在の根本的方式[44][45] 第十章 人格的善[46][47]
第六章 唯一實在[48][49] 第十一章 善行爲の動機(善の形式)[50][51]
第七章 實在の分化發展[52][53] 第十二章 善行爲の目的(善の内容)[54][55]
第八章 自然[56][57] 第十三章 完全なる善行[58][59]
第九章 精神[60][61] 第四編 宗敎
第十章 實在としての神[62][63] 第一章 宗敎的要求[64][65]
      第二章 宗敎的の本質[66][67]
      第三章 [68][69]
      第四章 神と世界[70][71]
      第五章 知と愛[72][73]


第一編 純粋経験

マッハ

純粋経験は前期の西田哲学の中心概念である[74][75][76]。西田はアメリカの哲学者ジェームズオーストリアの哲学者マッハの影響を受けながら[77][78]純粋経験を唯一の実在と見なし[74]、純粋経験とはピュシス[引用 5][79]に到達することだと考えた[80]

西田の考える純粋経験とは静止的直観ではなく発展的活動である[81][82]。純粋経験における発展とは純粋経験そのものと別の何かではなくて純粋経験とは発展活動そのものである。よって、純粋経験の発展を外から見ることは不可能であると主張している[82]

純粋経験における統一と対立の問題についても、統一と対立は相対するものではなく統一は対立を止揚したものと西田は捉えている[83]。分裂と統一はひとつであり、分裂するということは統一の拡大であると解釈している[83]。事実について西田は「事実そのままの現在意識」と表現し、現在意識もしくは純粋経験は事実とは等置概念としている。また、意味について『善の研究』の中では事実と意味を分別していたが純粋経験のなかでは一つに結びつけて考えている[84]

純粋経験は、さらに進んで「物質と精神」「客観主観」とを包括する真実在として、自らのうちに区別を明らかにし統一する活動として捉えるべきであると考え「自覚」について考察を進めることになる[85]。(第一編第一章 純粋経験 より)

第二編 實在

ヘーゲル肖像画

我々は意識の外に独立した物の存在を想定し、意識の本体として精神や心の存在を想定しているが、西田によると物や精神や心の存在は直接経験によって得た事実を体系的に組み立てた仮想的なものであると論じている。一般的に物と呼ばれているものは意識現象として各々の人に共通かつ不変的な関係を持つものを、抽象化し抽象化したものに名前をつけた名前にすぎないとしている。また精神や心というものは、意識はつねに統一されており破綻がないという思考から、色々な意識作用の普遍として仮定された存在に過ぎないとも論じている。仮想的なものや仮定された存在は、元来事物の存在や生成には原因が必要であるという因果律によって考察されたものであり、西田はヒュームの因果律の否定論[86]を援用して論じている[87]。 また西田は自分の純粋経験の思想がバークリーの「在るとは知覚されていることである」(ラテン語: Esse percipi est英語: To be is to be perceived[88][89]のような思想や、フィヒテの「事行」に近似していることを名言している[90]。このことは「純粋経験」が主客未分の統一状態と規定されているため、純粋経験論は唯物論でも唯心論でも無くこれらの二元論を超えた立場であると主張されつつも、多分に唯心論的な傾向を持っていることを表している。

また西田は、意識現象の体系的発展をヘーゲルの「無限者」の観念と関連付けて論じている。 ここでいう無限者とは有限なものに内在し有限なものの運動を通して自己自身を展開していく無限のことであり[91]、ヘーゲルは世界は絶対者によって(絶対的精神)自分を弁証法的に発展展開していくプロセスであると考察される[92]。 また、西田の純粋経験説では意識現象はそれを支える根源的統一力(言い換えると普遍的意識)が分裂したり統一したりしながら自己を体系的に展開していくとしている。ヘーゲルと同様に西田においても個は普遍と対立するものではないと考えている。 これは、純粋経験説は経験論と関連するとともにヘーゲルの「具体的普遍」の考えとも関連していることを示しておりジェームスの思想とヘーゲルの思想の結合を西田は目指したといえる[93]。(第二編第二章 第二章 意識現象が唯一の実在である より)

第三編 善

ソクラテス頭像

我々は自分の意志は自由であると考えている。このため、責任、後悔、称賛、非難と言った感覚が生じると考えている。一般に意志の「自由」に重きを置く人は「内的で心理的な経験」に立脚しているのに対して、意志の「必然性」に重きを置き必然論を唱える人は「外界の事実を観察した結果」に基づいて思考をすると分析している[94]。自由論者は自由に観念を結合し統一することができ、思ったとおりに観念を支配することも可能であり自由に動機を決める能力があると主張するのに対して、必然論者は自然の中で発生する出来事は全てに原因があり、神秘的と考えられてきた現象も科学によって原因が究明されてきている。これと同様に意志が自由であると考えているのは、意志が自由であると思っているのは科学の究明が追いついていないだけで、他の自然現象と同様に意志の動きにも必ず原因があると主張している[95]

西田によると理由も原因もない意志はありえない。偶然に発生した意志があるとしても、それを我々は意志とは感じることはなく「強迫」と感じられるはずである。意志が働く際に完璧な理由があった時、つまり自己の内なる本性に従い必然的に働いた時に我々は自由であると感じるのであって、ここで言う必然性は必然論者の考えるような機械的妄信的な必然性ではなく内面的本性から生じる必然性であると論じている[96]。また真の自由は「内面的な自由」であるとともに「必然的な自由」であると主張し、自由は事物に対する知的洞察力が不可欠であるということを、ソクラテスを裁いたアテナイ人よりソクラテスが自由であり、人間はパスカルの言うように「考える葦」であるがゆえ「考える葦」を滅ぼそうとする存在よりも尊いと結論付けている[97]。(第3編第三章 意思の自由 より)

第四編 宗教

西田は、宗教とは神と人間との関係として捉えている。西田は神を広義に捉えており種々の超自然的な力や仏までもを含んだ言葉として使用していることに注意が必要である。また西田は、神をもって宇宙の根本と規定しているが[98]、この規定が曖昧でどのようにでも解釈可能で多義的なものにならざるを得ない。西田の規定する神は本質として神と宇宙は異なった存在ではないということが言える。よって、神が宇宙の根本であるとすれば、宇宙は神と同様の性質や性格を持つものであると考えられる[99]。 神と宇宙が同じ性質性格を持つという関係は、神と宇宙の構成要素である個人の意識との間にも同様に同じ性質性格を持つことになる。このことから我々が神に帰依するということは自己の根本に立ち返るのと同じ意味であると西田は論じている[100]。言い換えると、神は我々の自己にとって目的そのものであり、神と人は目的の関係であり手段の関係ではないと結論付けている[101]

西田は自己がその根本である神に帰依するということは、自己を失うことではなく真の自己を獲得することであると論じている。人にとって神は生命の源泉であり、人は神のもとにおいて生きる存在であるがゆえに、我々は神の存在のもとで本当の自己を見出すことが出来る[101]

西田は有神論と汎神論を比較し汎神論的な立場に立っている[102]。西田は、神の啓示という名の観念を超越的な人格神が我々に与えた時に我々の理性と衝突するだけでなく、一方で「自然の法則」を考え、もう一方で「神の啓示」を考えることは、神の矛盾を示す事であると結論付けている。西田は我々がキリストを信じるのは、キリストの人生が人生の奥深い真理を含んでいるからであると主張し、神の啓示という「不可思議なもの」がある為に神を信じるのではないとしている。西田は神の要件として「最も深い人生の真理」「宇宙の内面的統一力」を上げこの二点が神と言うべきものであると論じている[103]

西田にとっての神は超越的ではなく内在的であり、超自然ではなく自然の方向に存在すると考えている。西田の考えは汎神論(万有神論 英語: pantheism)の神と言うより万有内在神論英語: panentheism)に近い。万有内在神論においては宇宙にある全てのものに神が内在するというより、宇宙にある全てのものが神に内在していると考えられており、神は宇宙の根底であり自己の根底でもある[104][105][106]。神も自己も根柢では繋がっているので神の暖かさを感じ神に対する敬愛も生じると主張している[107][108]

西田によると、敬愛の「愛」は2つの人格が合わさって一つになることであり「敬」とは部分的な人格が全人格に対して起こす感情のことであるので敬愛の基礎には人格の統一が必要である。我々が神を敬愛するのは神と我々が同一の根柢を共有しているからであると論じている[109]。精神は肉体と違い「精神において同じ根柢を持つものは同一の精神を持つ」と西田は考えている。昨日の意識と今日の意識の間に同一の統一が在るため同一の精神と考えることが出来るように、自分から見た自分(自己)と他人から見た自分(他己)の意識は同一の統一を有することになる為同一の精神と見ることが可能であると西田は論じている。この考えを拡張して行き自己と自己の根底である神との関係を考えると我々の精神は神と同一となると論じ、これが西田の信念であることが明らかとなる[110]。(第四編第二章 第二章 宗教の本質 より)

執筆動機・背景

西田幾多郎が『善の研究』を著した動機は、自身の宗教的体験と哲学的探究を統一することにあったとされる。とくに、人間存在と善の本質を根源から問い直すことが、その中心的な関心であった。

背景には、明治期における西洋哲学の急速な流入と、それに対する東洋的精神の位置づけへの関心がある。西田はこの状況の中で、東西の思索を架橋する独自の哲学体系を模索した[111]

さらに、自身の内面的経験を哲学的言語で整理しようとしたことが、本書執筆の直接の出発点となったとされる。

評価・分析

西洋哲学の論理と東洋思想をつなげ、「純粋経験」を中心に据えた試みは、近代日本思想の中でも独自の意義を持つとされてきた。また、宗教的直感と哲学的体系を併せ持つ構成も、本書の特徴といえる。ただし、この点には賛否が分かれる。

批判としては、概念の曖昧さや論理の飛躍がしばしば指摘される。「純粋経験」の定義は一貫せず、議論が観念面に傾く場面も多い。さらに、宗教的前提が体系内部に組み込まれている点も問題視されてきた[112]

しかし近年では、こうした曖昧さを思索の開放性として肯定的に捉える見方も出ている[113]

出典

  1. ^ 【実は最近、この本の初版の出版先である弘道館と西田とのあいだで交わした出版契約書が発見された。それを見ると、最初この本の表題は、「純粋経験と存在」とされていたことが分かる。このタイトルの方が間違いなく本書の内容にふさわしい。この書における西田の根本の主張は、「純粋経験」こそ実在、つまり真にあるものであるというものだからである。】(藤田 2022, p. 18ページ 11行目〜15行目より引用)
  2. ^ 【論文『場所』(1926年)が発表されると、当時新カント学派であった左右田喜一郎はこの論文に独特な性質の思索と哲学史上の新しい意義を見出し、「西田哲学」と呼んだ。この呼称が西田の思想の展開とともに学会・思想界に流布し定着した。】(「岩波(哲学思想辞典・岩波 1998, p. 1208ページ20行目〜24行目より)"
  3. ^ 【いわゆる<西田哲学>という呼び名は、さきにものべたように、彼の画期的な著作『働くものから見るものへ』のうちぬふくまれる<場所>という論文に対して、それを批評した故・左右田喜一郎によって与えられたものであり、これを機縁として次第にこの名称が学界をはじめ一般読書界まで拡がっていったのである。】(「西田幾多郎の世界」 鈴木亨著 27ページ11行目〜14行目より引用)
  4. ^ 【『善の研究』は最初に全体の構想があって、その構想に沿って順に書き下ろされたものではなく、種々の論文を合本してなったものである。また、目次の順序と実際の執筆の順序も一致していない。まず、第二編「実在」と第三篇「善」に当たる部分が執筆され、次いで第一編「純粋経験」に当たる部分が執筆され、そして最後に第四編「宗教」に当たる部分が執筆された。】(「西田幾多郎の思想」90ページ3行目〜7行目より引用)
  5. ^ ヘラクレイトスによれば、ピュシス(自然)は「隠れることを好む」とされ、常に隠されている存在なのですが、ロゴスの立場というのは、自然は完全に人間の理性の中で暴かれていて、その隠れなさゆえに全てが理解し尽くせると考える立場です。人間の理性にとって矛盾して相反するものは、見ることも理解することもできないものであるから問題にする必要がないとして、ヘラクレイトスなどのピュシス的な立場から、人間の理性に合致するもの、隠れなく「見えているもの」の原型・模範をのみ探求するロゴスの立場へと哲学が転換するのが、ソクラテスプラトンの時代です。】(池田善昭・福岡伸一著『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅、動的平衡と絶対矛盾的自己同一』40頁9行目〜15行目より引用)

脚注

  1. ^ a b 下村 1979, p. 247.
  2. ^ 櫻井歓 (2023年4月9日). “実は煽りタイトルだった? 意外と知らない西田幾多郎『善の研究』の「本当のテーマ」”. 現代新書. 講談社. 2024年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月30日閲覧。
  3. ^ 哲学辞典・平凡社 1971, p. 1048.
  4. ^ 鈴木 1985, p. 27.
  5. ^ 哲学思想辞典・岩波 1998, p. 964.
  6. ^ a b 思想・小坂 2002, p. 90.
  7. ^ 藤田 2022, pp. 23–24.
  8. ^ 藤田 2022, pp. 24–25.
  9. ^ 藤田 2022, pp. 26–27.
  10. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 1–11.
  11. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 1–15.
  12. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 127–134.
  13. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 153–161.
  14. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 13–26.
  15. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 16–32.
  16. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 135–139.
  17. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 162–167.
  18. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 27–42.
  19. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 33–51.
  20. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 140–148.
  21. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 168–177.
  22. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 43–50.
  23. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 52–60.
  24. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 149–153.
  25. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 178–183.
  26. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 154–159.
  27. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 184–190.
  28. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 51–58.
  29. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 61–70.
  30. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 160–165.
  31. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 191–197.
  32. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 59–66.
  33. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 71–80.
  34. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 166–172.
  35. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 198–205.
  36. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 67–73.
  37. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 81–88.
  38. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 173–183.
  39. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 206–218.
  40. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 74–79.
  41. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 89–95.
  42. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 184–190.
  43. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 219–227.
  44. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 80–86.
  45. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 96–105.
  46. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 191–197.
  47. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 228–236.
  48. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 87–93.
  49. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 106–111.
  50. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 198–203.
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  54. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 204–212.
  55. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 244–253.
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参考文献

書誌情報

関連文献

  • 香山リカ『善の研究 実在と自己』哲学書房〈能動知性 = intellectus actu 5〉、2000年7月。 ISBN 4-88679-255-3 
    • 香山リカ『善の研究 実在と自己』哲学書房〈哲学選書 = Collection νουσ 2〉、2005年7月。 ISBN 4-88679-211-1 
  • 大熊玄『善とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義』新泉社、2020年。現代口語訳
    • 続編『実在とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義』新泉社、2023年
  • 若松英輔『西田幾多郎 善の研究 人は誰もが生かされている』、NHK出版、2019年10月「100分de名著」放送テキスト
  • 藤田正勝『西田幾多郎『善の研究』を読む』筑摩書房〈ちくま新書〉、2022年8月
  • 『善の研究 まんがで読破』イースト・プレス・コミック文庫、2014年。

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