近代以前の戦史における日本刀の役割についての論争とは? わかりやすく解説

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近代以前の戦史における日本刀の役割についての論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:56 UTC 版)

日本刀」の記事における「近代以前の戦史における日本刀の役割についての論争」の解説

日本刀日本史上の戦場それほど活躍しなかったと主張する論者がある(山本七平鈴木眞哉横山雅始、本郷和人加来耕三吉福康郎、牧秀彦)。 鈴木眞哉は、日本刀普及していた理由は、首を切り落として首級をとるために必要不可欠道具であったからだと結論づけている。しかし、そのような用途では脇差短刀の類で十分であり、太刀・打のような中型日本刀普及した事の説明ならない山本七平のものは、彼自身戦時中軍刀死体切ってみた感想基づいた意見である。また、山本七平世界中合戦において主武器であるために刀剣出番はほとんどなかったのではないかという推測をし、鈴木眞哉日本刀全般実用性疑問呈しているのに対し横山雅始はほとんどは戦国時代の日本刀と剣術についてのみ触れそれ以前時代についての解説はほぼ省いており、戦国時代古刀については主力武器ではなくいざという時補助的な武器であったが、均衡取れていることや重量の面で非常に扱いやすく操作性良いという点は認めている。 日本刀不要物論において彼らが挙げた根拠は以下のもの。 南北朝戦国時代における合戦における負傷理由のうち、刀傷弓矢による傷より圧倒的に割合が低い。とする。 鎧や鎖帷子着用した部位対す斬撃威力減じる刀身と柄が一体でなく、その接合方法上強い打撃に耐えられない構造上の問題があること。それに比べて長柄物は柄が木製である特性上刀よりも容易に毀損する。刃の薄いものは力を加え方向によっては容易に変形毀損来たし日本刀利点である切れ味失われる間合い長い武器には野太刀長巻もあるがの方が安価だった高品質名刀高価だった野太刀運搬に不便で手入れにも時間かかった南北朝時代における野太刀流行は後に戦国時代における流行に取って代わられている。南北朝時代大太刀大薙刀流行20数年間で終わっているという説があるが、大太刀薙刀中巻長巻と共に室町時代まで流行したという説、安土桃山時代に再び流行したという説がある。 日本刀草創期からすで武士の主戦術は騎射だったこと。 模擬合戦実施した際、次の間合いでは脇差短刀による組討ち出番となり、打刀壊れた時に使われ組討ちになって使う武器としては刀は長さ重量不適当であり、短刀脇差程度がちょう良い結論づけられた。 模擬合戦において、刀の破損率が高く、刀は合戦上の兵器として強度における問題があるという説。何度敵の攻撃払った受けたりすると刃こぼれ生じついには折れるか曲がってしまう。 模擬合戦において、刀対勝率が刀が3でが7であった打刀太刀接近戦向きで、統制維持されている集団が広い空間で戦う場合長柄武器薙刀など)に対して不利だったこと。 打刀陣太刀戦場走り回ったり、騎乗中の振動で鞘走り勝手に抜け落ちる)の無いように鯉口硬くしめてあり、とっさに抜こうとしてもすぐに抜けない戦国時代合戦においてはメインウェポンである折れたり痛んだ場合は、武将は刀を持っていても、後方下がって一時的撤退をする事を許された。 これに対して、以下の根拠から日本刀有効な武器であったという反論なされている(近藤好和釈迦堂光浩、平山優松本一夫樋口隆晴、渡辺誠東郷隆森瀬繚池上良太)。 隊列乱れた乱戦状態での闘い城内市街地屋内といったの閉所での戦闘、および奇襲夜襲受けた時や山岳戦 など、長柄武器飛び道具有効でない状況において「補助兵装」 として特に有効な武器であり、必要不可欠であった2m程度室内戦や物見役が使う短槍手槍)も存在し、こちらも乱戦閉所での戦闘に有効で、城攻めでの室内戦に使われたのは刀ではなく短槍という説もある。しかし刀の活用例史料残っており、「信長公記」は1573年9月伊勢長嶋における一揆鎮圧では、織田信長が偽の降伏勧告で砦から誘き出した一揆勢に銃撃加えたところ、激怒した70余り抜刀突撃織田軍の包囲突破した事と伝えており、大坂夏の陣においても、藤堂家弓兵加藤右衛門松宮大蔵白兵戦巻き込まれて刀を使った記録残っている他、島原の乱でも、松倉家の兵が代わりに刀を用いた事が記録されており、刀は短槍代用品として使われたという説もある。つまり、刀はリーチ長い飛び道具である弓には出来ない役割担っていた)。 戦国時代以前開かれた多く流派では薙刀太刀小太刀体術と各間合い最適な技法抱合しており、実戦ではその場最適な武器選んで使っていたと推測されている。武道として整理され以前武術流派では武器術と体術を併用することは珍しいことではなく新陰流鹿島新當流などには鎧の隙間に刃を突き刺す技法もあるなど、刃を交わして斬り合うではなく、突くことも考慮していた。このような流派の刀は切っ先鋭く刀身鍔元切れ味より頑丈さを重視して作られていた。乱戦状態や室内などの狭い場所では打刀長さですら長すぎて扱いづらい場合もあり、そういった時は脇差使われた。狭い所では打刀では長過ぎ、だからといって腰刀では短くて使いにくいという場合があった。 刀は驚くほど粗製の物が平然と使われていたこと。打刀戦国時代足軽にも携帯義務づけられていたが、支給品である「御貸刀」はコストカットのため安価な量産品数打ちであった戦闘大規模化足軽多く動員され応仁の乱以降は刀の需要爆発的に増えたが、足軽への武器支給については合戦に臨む考え方により違いがあり、戦国時代北条氏軍令で「自分が得意とする武器持参するように」と命じており、武器所有していない者は、鎌や鍬でも良かったという。一方上杉謙信足軽招集する覚書に、や鍬を持参するように命じている。 二度わたって日本遠征しモンゴル軍日本軍の弓の威力だけではなく日本刀威力見せつけられ、後に日本刀大量に買い占めたという記録残っている。鎌倉時代初期には既に海外刀剣愛好家認められ輸出品になっていたとも言われている。 戦国時代戦闘主流使った集団戦で、打刀を使う機会南北朝時代比べ減ったと言われるが、「信長公記」を始め戦国時代戦いで刀が活躍したことを示す記録少なからず存在し、「関ヶ原合戦図屏風」にも打刀を持つ兵の姿が多数描かれているので、状況に応じてと刀が使い分けられていたと考えられる。ただし関ヶ原合戦図屏風では多くの兵は武器にしており、この時代には主力となったことがうかがえる足軽手足露出した簡素な鎧(お貸し具足)が多く雑兵などは鎧なしの者もいるなど、鎧は全身覆っていない。一式揃えられる高級武将とは違い最前線で戦う足軽雑兵貧弱な武装引き換え身軽に動ける者が多かった。弓や鉄砲を使う者は接近戦頻度少ないために甲冑着ない者も多かった完全武装した足軽もいたが、ほとんどの者は何も防具着用しない陣笠のみの状態であり、大河ドラマのように兵士全員甲冑を身に着けられるわけではなかった。また、金属部分であっても最適な条件斬りつけ場合鎖帷子などでは切断されるし、鎧であっても籠手など装甲の薄い部分なら怯むことになる。日本甲冑籠手西洋の鎧より脆弱で剣撃や鈍器での強い打撃には耐えられないが、軽く動きやすいという特徴があった。中世と近世戦乱のあった時代日本刀はあまり切れない が、それでも攻撃力人体を斬り落とすには十分であり、鎧の隙間から刺突するという攻撃方法もある。そして、日本甲冑動きやすさを重視しているが手足防御薄かった合戦日常化するにつれて防具改良行われたが、変化漸進的なものであり、特に手や脚の防具改良効率悪かった甲冑着込んだ者を刀で斬ることは難しく、刀を鈍器として使う他は甲冑隙間攻撃することが有効であり、主に喉・脇・股間などを突き刺す、または腕の内側膝の裏など甲冑のない部分狙った黒田二十四将1人野口一成左手籠手攻撃受けてから、右手で敵の甲冑隙間を刺す戦法多く武勲上げているが、このような甲冑装備して剣術を介者剣術甲冑剣術)、平服で行うものを素肌剣術といい、古い流派では両方現代伝わっている。しかし、打刀は主に斬る攻撃使われた。足軽農民兵)などの雑兵貸し与えられた刀は「御貸刀」と呼ばれ打刀中心だった理由太刀よりも短く軽量で、実戦でも扱いやすいからである。「御貸刀」は粗悪品多かったがために、防具守られていない手足狙って斬りつける攻撃主体であった。刀が最も活躍するのは当然ながら白兵戦であり、刀の主な使い方は「斬る」「突く」「打つ」「払う」で、敵を斬りつけたり、敵の兜や鎧の隙間切っ先突いたり、兜の上から頭部打撃して敵に脳震盪を起こさせたり、敵のや刀を払ったり、脇差であれば敵に投げつける用法もある。ただし、剣術訓練受けていない足軽には難し技法もある為に足軽たちは主に乱戦時や折れた時や敵に組み伏せられた時の護身用、または敵を組み伏せ時に敵の首を取るのを目的として打刀脇差使っていた。 弓やなど両手を使う武器を持つ場合打刀太刀は腰に差して携帯可能、携帯中に両手使える短刀よりは長いという特徴があり、予備武器として使われたという説がある。騎射を行う騎馬武者にこそ、未使用時に腰に差しておけるサブウェポンとしての太刀が重要であった。また騎射行わない薙刀野太刀などをメインウェポンとする打物武者も、武器壊れた時に備えて太刀打刀携帯していた。 血糊多少刃毀れにより切れ味失われても、殺傷力大きな影響生じない。鎧は打撃若干弱い面があり、南北朝期戦国期には刀を刃物付き鈍器として扱う戦い方もあったこと(戦乱期の刀には蛤刃といって刀身分厚くこしらえたものが存在する)。太刀が「打物」と呼ばれるのには理由があり、敵を斬ることも不可能ではないが、斬ることよりは打つこと、すなわち打撃武器としての効果の方が重視された。 南北朝期トマス・D・コンランによる調査では矢傷が最も多くとも、刀傷薙刀傷、鉞傷を含めた切傷一定の割合存在する。そして鈴木眞哉南北朝期負傷統計切傷コンラン調査より少ないが、統計データ数がコンランのものよりも少ない そして、南北朝期コンランによる調査では戦場における負傷者死亡者の数があまり変わらない。さらに南北朝期コンラン調査によると馬の場合致死原因記載しているが、それによれば太刀などの白兵戦武器の方が弓矢より死亡率が高いことが明らかであること。さらには南北朝期コンラン調査によれば武士や馬を射殺すことは非常に難しかったようで、殺傷力が低いため、毒矢火箭使われたこともあったこと。そして、南北朝期戦国期合戦手負注文軍忠状といった古文書では矢傷が多いが、あくまでも負傷者受け身史料であり、”生存者負傷原因”はわかっても、おおむね戦死者死因”が不明である。これらの文書類の分析ではコンランよるものでも鈴木よるものでも、いずれも矢傷が最も多いことが指摘されているが、その矢を騎兵歩兵のどちらが射たのか、さらに同じ騎兵でも馬上から射たのか、徒歩射たのかといった攻撃側のことがわからないため、戦闘史料として一見有効なようで、実は公平を欠く不完全な史料である。そして、合戦手負注文(及び討死注文)においては記載される対象勝った方の士分上の者のみであり、徴収され雑兵軍夫対象外である。そして、南北朝期室町期戦国期除く)において、矢傷が最も多くとも、それだけ戦闘が決せられるものではなく戦闘に決を着けるのは、徒歩弓兵掩護の下に突撃し積極的に近接戦闘交える事の出来る、騎射弓兵から「打物騎兵」に変じ太刀薙刀大太刀などをメインウェポンとした武士たちの役割であった軍忠状などに基づく統計的な数値からの考察一律的な分析過ぎず戦闘具体像は個々場合ごとに考えなければならない負傷率の目安にはなるが)。また、釈迦堂光浩が指摘する様に致死率負傷率の相関性だけで、武器使用状況云々する事は出来ず致死率高くなれば負傷率が低くなり、逆に負傷率が高いという事致死率が低いとも言える。 なお、松本一夫コンラン南北朝期統計引用した上で負傷率の割合から見れば弓矢主流武器だったとも思われるが、軍忠状手負注文では負傷率しかわからず、死因不明であるため即断出来ず相手を殺す確率接近戦使われる太刀の方が圧倒的に高いと考えるのが常識的で、この時代には使用率が低い事から、太刀主流武器だったとも推測出来るが、これもまた断定出来ないとしている。高橋昌明トマス・D・コンラン南北朝期負傷統計矢田俊文戦国期負傷統計引用した上で刀は接近戦以外では弓に敵わないとし、中世後期太刀打ち戦が広まった事を認めつつも、南北朝期戦国期太刀傷や薙刀傷や槍傷割合矢傷よりも圧倒的に少なくこの様データが出るのは、矢傷致死率が低いため「手傷」とカウントされ太刀などの近接戦闘による負傷多く致命傷となり「討死」と一括され、その原因記載されないという事情の他に、より根本的に近接戦闘自体想像されているほど多くはなく、南北朝期でも、激戦続いた元弘建武年間13311338年)を除いて中心が矢戦だったからであり、弓矢の戦が基本ありながら打物戦や組討ちなど近接戦闘無視出来ない比重起こったのは、武士にとり武功端的な表現は敵の首を取る事だったからだという鈴木眞哉指摘示唆的だとしている。トマス・D・コンラン負傷率の割合から弓矢南北朝期に最も有効な武器としつつも、馬上太刀打ちこそが南北朝時代特徴であり、騎兵こそが南北朝期に最も有利な軍事組織だったともしており、大太刀薙刀当時よりも有効な打物であり、特に大太刀南北朝期戦乱において最も有効な打物だったとしている。樋口隆晴は太刀薙刀大太刀大薙刀長巻や鉞や棒や金砕棒といった日本刀を含む様々な打物南北朝期室町期騎兵メインウェポンだとしており、その中で薙刀最強白兵戦武器であり、長巻大太刀究極形態とし、矢傷割合高くとも、太刀薙刀などを主武器とする打物騎兵たる武士の突撃こそが戦闘に決を着ける事ができ、降りくる矢の中を突撃し実際に自軍弓兵で、敵の弓兵制圧しなければ突撃出来ない)、フェイス・トゥ・フェイス近接戦闘で人を殺せるのは異常な能力資質を持つ個人除き身分制社会の中では、戦い生業とする武士のみが為せる技であり、確かに呉座勇一新井孝重述べるように、長期にわたる戦争の結果武士たちの戦意は下がる一方だったが、多く場合、それは、戦争参加しない、あるいは参加してまともに戦わない事で家を守るためであり、逆に言えば、家や面子武士という稼業続けるためには重要であった)を守るためには、彼らはやはり容赦なく戦った指摘しまた、南北朝期には、少数ではあるがまだまだ存在する騎射騎兵新しタイプの「兵科と言える打物騎兵強力になった徒歩弓兵とさらに打物歩兵この様武器によって異な戦技特質を持つ将兵連携させることが必要になったとし、現代的な視点見れば「諸兵科協同」で戦うようになっていたと指摘する。 「甲陽軍鑑」や「雑兵物語によれば戦国大名軍勢同士会戦突入した場合はまず双方で弓を射かけ合う「矢戦」が開始されたと記されており、鉄砲普及し始めると、弓矢よりも射程距離長い鉄砲撃ち合う鉄砲競合」が最初に行われるようになり、互いに距離を詰めながら前進し、やがて弓矢放たれるになったとも記録されており、こうした事例枚挙にいとまがなく、例えば、武田信虎大永四年(1524年)に、甲斐国猿橋大月市)で、北条氏綱軍勢会戦し、矢戦を行っているが、打物戦を行った形跡はない(「勝山記」「妙法寺記」)が、これは両軍打物戦に突入するのを断念したか、小競り合い程度収めたかを意味しており、合戦を矢戦から打物戦へ本格化させるか否か大将情勢判断次第だった。 西国でも矢戦から打物戦に移行した事例見られイエズス会士ガスパル・ビレラは(「那会士日本通信一五五七十月二十八日弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラが平戸よりインドおよびヨーロッパの那会のパードレおよびイルマン等に贈り書簡)「市民叛逆者が自邸或いは田野において攻撃受くるを見物す。双方まづ矢を放ち、更に近づき用ひ最後に剣を交ふ」と弓からから刀(剣)の矢戦から打物戦への変遷記録している。 これは豊後大友宗麟対し筑前秋月文種らが叛乱起こし成敗された時の模様である。 他にイエズス会士ガスパル・ビレラ1561年8月17日付き書簡において、二隊分かれた子供たちが「第一に少年投石し、次に弓及び銃を用い次に最後にを以て」戦う京の祭りについて報告している。これは端午の節句行われた印地打ち石合戦)で、実際合戦再現した模擬戦だった。 「甲陽軍鑑」や「雑兵物語」は、軍勢相互の距離が詰まると、鉄砲や弓は前線譲って打物戦に移行すると記す。「雑兵物語」は、敵の間近まで迫ったら、鉄砲や弓は左右に分かれて勝負譲り自身刀を抜いての手足を狙って斬りつけるか、左右に分かれた場所から援護するか(「鑓脇」を固める)、どちらかを行うのが作法だったという。 もし左右に散開出来なければ出来るだけ左に寄って、敵の右側から弓や鉄砲を撃つよう心がけたというが、これは、武器所持する武士たちにとって、右側はとっさの対応が効かない弱点であったからである。 こうして・刀(打物)を主体とした打物戦が開始された。 江戸時代武士大小一振り打刀脇差を差すのが基本となっているが戦国時代武士大小それぞれ複数打刀脇差を身につけて戦場臨んだ。敵を何度斬りつけると刀はすぐ使い物にならなくなり、敵の甲冑当たれば刀は曲がったり、折れたりすることもあったためである。また、安物の刀の場合刃こぼれすることも多かった、などの理由があり、予備の刀を使ったり、倒した敵の刀を奪って使ったりと、何本もの刀を使って敵と戦っていた(しかし、刀の切れ味付着した血や脂で鈍くなるというのはデマである可能性高く実験では豚の頭を何度斬って刀身に脂が付着して切れ味変わらず生き身を斬った時の血液影響については、刀剣界には特に何も伝えられておらず、大問という訳ではないという事考えられる)。 古来武人矢傷不名誉とせず、白兵戦武器による傷を不名誉とする場合があったため、白兵戦武器による傷を自己申告しなかったことが考えられる出土する希少な甲冑遺物の中で、それでも太刀傷をとどめた甲冑発掘されていること。 南北朝期合戦において最も一般的に使用されていた白兵戦武器薙刀や鉞ではなく、刀(太刀大太刀長巻打刀)だった。 南北朝期室町期戦国期除く)においては太刀大太刀長巻という日本刀の類が合戦におけるメインウェポン一つだった。刀剣は、人類にとって最もポピュラーな「武器」であるが、世界的に見て一部の例を除き、「兵器」として戦場で主要される事があまりなく、一方弓矢同様に狩猟道具から発展した長柄武器は、火器発達以前には、主要兵器として用いられ中世日本における刀剣長柄武器太刀薙刀であり、太刀(というより日本刀)は古代から使用されている中国式直刀蝦夷蕨手刀影響を受け、平安時代中期誕生したとされ、武士と共に生まれた武器である。日本刀全ての特徴として、衝撃吸収力はあるが、柄と刀身ガタつきやすいという欠点持っており、この欠点は、長い日本刀歴史の中でついぞ改良されなかったが、使用者である武士たちが、それで構わない考えていた。つまり太刀をはじめ、刀にさほどの頑丈さを期待していなかった。すなわち、戦場において太刀少なくとも平安期鎌倉期戦国期安土桃山期には主要な存在ではなく薙刀は、徒歩兵あるいは僧兵武器として用いられ斬撃刺突打撃石突きでの打突など多彩な攻撃可能なほぼ万能武器と言えるのだが、それ故相応訓練が必要であり、振り回して使用するには広いスペースを必要とし、密集隊形では扱いにくく、この2つの「武器」は騎射技術衰え始めた治承・寿永の内乱戦場表舞台現れ中世の大変革期であった南北朝戦乱の中で主要な兵器」に成長した。「太平記」には、太刀を二振り、あるいは太刀大太刀を持つという描写散見されるが、これは太刀大太刀長巻も柄がガタつきやすいという日本刀欠点解消されておらず、さらに、鎧武者相手にする以上、刃こぼれ折損考えて事と考えられる平安時代鎌倉時代すなわち中世前期が弓を主体とした戦の時代で、南北朝時代室町時代すなわち中世後期刀剣主体とした戦の時代だった。ただし、南北朝期太刀薙刀といった刀剣が長寸化する打物騎兵時代であるが、室町期大太刀大薙刀がある一方で相対的にはそれらの刀剣が短寸化し打物騎兵戦闘主体ありながらも、下馬打物増加し徒歩戦へと移行していく時代である。 南北朝期室町期戦国期除く)には大太刀長巻攻撃から身を守るため、喉輪膝鎧立挙脛当、諸籠手利用されるようになった そして、その時期の甲冑弓矢威力上より斬撃武器攻撃対応していた。鎌倉時代後半までの星兜打物による攻撃衝撃直接頭部与えてしまうため、クッションである浮張を持つ筋兜南北朝期後半登場した南北朝期内乱において著しく強化され武器弓矢であり、平安時代末期から鎌倉時代末までは、木をにその表に竹を張り付けた外竹弓だったものが、南北朝期には、芯材である木の両面に竹を貼っ三枚打弓となり、矢の射程威力向上したが、これは衰えつつある武士の表芸である騎射よりも、徒歩での射撃戦に戦闘力の向上をもたらし騎射は弓を大きく引けないために、三枚打弓の威力フル発揮出来ないからでもある)、戦士階級である武士よりも、本来的には近接戦闘を苦手とする非武士階級人間一般的に長期訓練を受けなければ至近距離で人を殺す事は難しい)の戦力化大きく寄与し多数の非武士階級徒歩弓兵として戦闘参加するようになった戦場では、遠距離から数多くの矢が飛来するという状況呈し多数弓兵により遠距離から放たれる矢は、威力は弱いものの、上方から数限りなく込まれ、兜はシコロを横に開いたもの(笠ジコロ)が多くなり、また、に付けていた杏葉というパーツを胸につけ、更に面頬当(面頬)と喉輪顔面と喉を守るという変化促したが、これだけでは歩卒用の胴丸腹巻使用主役になった理由説明とはならない胴丸腹巻は、体にフィットし動きやすく、元来打物を扱うのに適した甲冑であり、騎射技術衰えその代わり打物による戦闘出現すれば、そうした打物使用するのに適した甲冑使用するのは当然と言え室町期には、腕を動かしやすい広袖が、ついで室町期後半には裾をつぼめた壺袖出現し壺袖戦国期当世袖の原型とも言え(ただし、大袖戦国時代使用された)、加えて乗馬しての打物使用備え大腿部や膝を防護するために、膝鎧佩楯)や大立挙脛当現れた。つまり、南北朝期の鎧の変化とは、徒歩戦への対応ではなく騎射戦闘特化した大鎧からの汎用化だったとも言える南北朝期戦乱において、矛や短く大太刀より折れやすいため、広い円形範囲で敵を「打つ」「突く」「斬る」ことのできる大太刀薙刀の方が利用価値高かった。そして、南北朝期戦乱において、鉞や薙刀といった木の柄の武器大太刀より折れやすいため、柄が大太刀ほど長くなかった。そのため、最も有効な白兵戦武器大太刀であったという説が存在する南北朝期戦乱において最強白兵戦武器リーチ長く多彩な攻撃繰り出せ薙刀だったという説も存在する槍傷少なさ短さより大太刀などが多く使われた事、戦で大太刀という長剣用いた事は南北朝期歩兵密集隊形組んでいなかった事や南北朝期合戦基本的に集団的でなかった事を示している。また、薙刀恐るべき威力持った長柄刀剣であり、縦横無尽多彩な攻撃ができ、単独使用でも複数相手に対応が可能で、十分な効果期待できる武器であるが、周囲空間必要な個人戦用の武器である。一方で矛は攻撃方向前方限定され攻撃の幅が狭くなり、単独使用では複数相手には対応しにくいが、組織化され集団戦運用してこそ効果発揮できる組織戦用の武器といえる薙刀戦国以前平安鎌倉南北朝室町中世戦闘で必要とされた最大理由は、当時戦闘騎兵歩兵共に個人力量による戦闘個人戦主体だったからである。これに対し律令軍制中央集権制のもとで組織的な集団歩兵制をとしており、その目指し戦闘統率のとれた組織であったとすれば矛の攻撃の幅の狭さは、組織使用補われ、むしろ攻撃の幅の狭さ組織戦に適しており、薙刀の様な武器は、組織戦において、動き制約されて、かえってその効果半減されるため、律令軍制では必要なかった。この点では、分国単位集権体制背景とした戦国期後半以降組織戦において隆盛したのも同様の理由であり、両手でしごくの方が、片手もしくは両手固定して使用する矛よりも攻撃の幅は広くなるにしても、「鑓衾」と呼ばれる密集陣形などでより大きな効果期待できる武器と言える鎌倉末期以降は、薙刀馬上でも使用される様になったが、いずれにしろ、統率のとれた組織戦を行うには、その背後強力な集権体制が必要であり、そうした組織戦に適した武器古代の矛であり、近世であり、これに対し強力な集権体制のない中世は、統率のとれた組織が行いにくい時代といえ、治承寿永期や南北朝期の様な内乱期には、それぞれ戦闘要員増加があり、特に南北朝期には、集団的な戦闘行われており、時代下降と共に集団線的な要素加わってくるのは確かである。だからこそ南北朝期発生したともいえるのだが、しかしそれは、集団戦ではあっても、統率のとれた組織戦とは言い難いものであり、統率のとれた組織戦の出現再現)は、戦国後半期まで待たねばならず、それ以前中世戦闘は、やはり相対的に組織力の弱い、個人本位個人戦単独戦が主体だったといえ、だからこそ多彩な攻撃可能な薙刀の様な武器使用されたのであり、か必要だったのである大太刀大薙刀流行南北朝時代20数年間で終わったとされているが、大太刀薙刀長巻中巻と共に室町時代にも流行したという説、安土桃山時代にも流行したという説が存在する日本刀中でも長巻南北朝時代室町時代戦国時代安土桃山時代に特に盛んに利用された。長巻大太刀究極形態だという説も存在する戦国時代においては、刀は海外での戦において最も有効活用された。豊臣秀吉朝鮮半島攻め入った文禄・慶長の役では、南原城の戦い蔚山城の戦いで、明の騎馬兵日本刀撃退された話が多数残っている。 明・朝鮮軍は日本兵装備する日本刀苦しんだ文禄の役日本軍勝利した碧蹄館の戦いに関して朝鮮王朝実録には「天兵(中国兵)短劍騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊(日本軍)奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」とある。 当時朝鮮宰相である柳成龍著述した懲毖録には、「「李如松提督率いていたのは皆北方騎兵火器持たず切れ味の悪い短剣持っていただけだった。一方賊(日本軍)は歩兵でその刀剣はみな3, 4尺の切れ味無比のものだったから、衝突激闘してもその長刀振り回して斬りつけられるので人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはなかった。提督後続軍を呼び寄せたが、その到着以前に先軍は既に敗れ死傷者甚だ多かった日暮れ提督坡州戻った。その敗北隠していたものの、気力沮喪すること甚だしく夜に親しく信頼していた家丁戦死痛哭した。」とある。臨津江における朝鮮軍敗北に関しては「(朝鮮の)軍士たちは敗走し川岸に来たものの渡ることができず、岩の上から川に身を投じたが、それはさながら風に乱れ散る木の葉のようであった。まだ川に身を投じていなかった者には、賊(日本軍)が後ろから長刀奮って切りかかったが、みな這いくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。」とある。竜仁における日本軍朝鮮軍との接触について述べた記事には「日が暮れ、賊は、光彦らの緊張がややゆるんだのを見て白刃をきらめかせ大声をあげて突進してきた。あわてて馬を索して逃げようとしたが間に合わず、みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。(中略)翌日、賊はわが軍怯えきっているのを察知し数人が刃を揮って勇を誇示しながら突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった打ち棄てられた無数の軍事資材器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。」とある。他に「わが軍(朝鮮軍)は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発砲声響き四方面から大声呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵(日本兵)であったので、仰天して総崩れとなった将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、ことごとく泥沢中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるでを刈るように斬り倒し死者は数しれなかった。」という記述もある。日本軍南原城を陥落させたときの日本明間交戦係わる記事では「日本兵は、城外にあって二重,三重にとり囲みそれぞれ要路守り長刀奮って、やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。」とある。朝鮮軍防具に関して懲毖録には「賊(日本軍)はや刀を巧みに用いるが、我々朝鮮軍にはこれを防御することの出来堅甲が無いために対抗できないでいるのです。」とある。また、朝鮮王朝実録によれば朝鮮軍は、朝鮮側投降した日本兵(降倭)から、日本式剣術学んだという。ルイス・フロイス著した日本史』には「朝鮮人頭上振り騎される日本人太刀威力対抗できず」「日本軍きわめて計画的に進出し,鉄砲加え,太刀威力をもって散々に襲撃したので、朝鮮軍戦場放棄し、足を翼(のよう)にして先を争って遁走した」という記述がある。1790年朝鮮編纂された武芸図譜通志には、「倭と対陣すると、倭はたちまち決死突進をしてくる。我が軍(朝鮮軍)が持ち剣を帯びていようとも剣を鞘から出す暇がなく、切っ先交えることができず、皆凶刃によってことごとく血を流す。すべて剣や訓練法が伝わらなかったためである。」とあり、また、中国史料引用する形で「(明の戚継光曰く)日本刀倭寇中国侵したときに初め見られるようになった。彼らがこの刀を手にして舞うと光閃の前に我が兵たちは気を奪われ倭人一丈余り一躍し遭遇した者は両断された。これは刀が鋭利で、しかも両手使用するので力をこめられるためだ。今日でも、(刀だけ)単独用いて防御できない。ただ鳥銃兼用すれば防御可能で、賊が遠けれ鳥銃発射し近ければ刀を用いる。」、「(明の茅元儀曰く)日本刀極めて強く鋭く中国刀では及ばない。(中略)、倭賊は勇敢だ愚か生死重視しない戦いのたびに三尺の刀を手に舞いながら前進してくると防ぐことができない。」とある。元寇に関する元側の史料では、王惲の汎海小録に「(日本軍の)兵には弓、刀、甲がある。しかし戈矛は無い。武士騎兵結束している。殊に武士の精甲は往往黄金以って之を為り、珠琲をめぐらした者が甚々多い。刀は長くて極めて犀なるものを造り、洞物に入れて出し入れする。」とあり、鄭思肖の心史には「倭人は狠、死を懼れない。たとえ十人百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人はなはだ気性烈しく犯すべからず倭刀きわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」 とある。 戦国時代には火縄銃連射速度が遅いことから、打物による敵陣への突撃戦法愚策捉えられてはいなかった。ルイス・フロイスは「日本史西九州第五三章第二部五二章「野戦が行われ、隆信戦死し、その軍勢壊滅した次第」)において、天正十二年の龍造寺隆信島津家久との会戦沖田畷の戦い)の模様を「敵はふたたび我ら(の味方)の柵塁を攻撃してきた。薩摩勢はこれに応戦したものの、既にいくぶん疲労しており、彼我戦備極度にちぐはぐであった。すなわち隆信勢は多数鉄砲有していたが弓の数は少なく長槍と短い太刀持っていたのに反し薩摩勢は鉄砲の数が少なかった多くの弓を持ち、短いと非常に長い太刀備えていた。(中略)そして戦闘開始された。それは熾烈をきわめ、両軍とも構える暇もなく、手当たり次第に(刀で)相手切り払った薩摩勢は敵のなど眼中にないかのように、その(真只)中に身を投じ鉄砲も弾を込め暇がないので射つのをやめてしまった」と伝えており、この合戦龍造寺軍は大軍であるにもかかわらず寡兵島津軍惨敗し隆信戦死する事態至っている。また、この合戦前哨戦で、龍造寺軍の強力な鉄砲衆銃撃直面していた有馬晴信軍は、大将の晴信とその弟が、鉄砲隊真っただ中に斬り込もうしたために、家臣慌てて抱きつき、これを制止している(フロイス日本史西九州第五三章)。同じく日本史豊後篇七〇章では天正十四二月豊臣秀吉九州出兵に伴い大友宗麟仙谷秀久、長宗我部元親・国親父子が、島津軍激突した豊後戸次川合戦模様を「(豊後勢が)渡(河)し終えると、それまで巧みに隠れていた(薩摩の)兵士たち一挙に躍り出て驚くべき迅速さ威力をもって猛攻してきたので、土佐鉄砲隊見方から全面的に期待かけられいながら鉄砲発射する時間も場所もないほどであった、というのは、薩摩軍は太刀ふりかざしをもって猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである」と記録している。九州行われたこれらの合戦記録によれば多数鉄砲所持しながらも、島津軍武士たちは、命を惜しまず敵陣身を投じていることがわかり、しかも、あまりにも早く接近された為、敵方鉄砲衆弾込め余裕なくなり鉄砲無力化、有効に機能せず、刀で次々切り払われ陣中への突入許し大混乱に陥っている。一方島津軍敵陣接近する際の援護射撃は、鉄砲少なく、主に弓であったといい、この様状況下で、多数鉄砲待ち受ける中、火器劣勢承知突撃が行われている。織田信長同様の作戦採用した事実があり、「信長記」巻九には、天正四年五月七日信長石山本願寺軍とが激突した際、多数鉄砲を持つ敵に織田軍は苦戦した。だが信長先手足軽集を励ましながら馬で駆けまわって指揮をとり、自信も足に鉄砲傷受けた本願寺軍は、数千鉄砲打ち立てたが、織田軍はこれを凌ぎ、ついに本願寺軍切り崩したという。これは兵力火器で劣る織田軍が、鉄砲数千攻撃を受けながらも、これには目もくれず、必死突撃敢行して切り崩した訳で、信長打物戦に持ち込んで勝利を収めた事がわかる。また、北関東戦国戦場生き延びた野口豊前守軍功覚書(「牛久市史料中世I)には、天正十一九月谷田部城攻撃に赴いた際、退却する牛久衆を騎馬追撃していたところ、鉄砲五、六ほどで狙撃されたとの記述があり、幸い弾は命中しなかったが、銃声聞いた味方続々野口追いついてきて、馬で乗りかけて敵を攻め崩したという。ここでも、鉄砲ものともせず、有利と見るや躊躇せず敵陣突撃仕掛けている事がわかる。以上の事例を見ると、鉄砲弓矢などを装備して待ち構える敵陣対し突撃仕掛け攻撃法は、当時としては正攻法であった可能性がある。武田勝頼軍勢攻撃命じ武田軍将兵がそれを長篠合戦実行移したのも当時としてはごく当然の戦法だったからである。武田軍敗れたのは、織田徳川軍鉄砲装備が、東国戦国大名間で実施され合戦では経験したことのないほどの数量であったことや、敵陣接近するまでに多く将兵戦闘不能に陥り、肉薄して織田徳川軍鉄砲沈黙させるに至らなかったことにあり、それは恐らく、武田軍兵力少なかった事が、織田徳川軍火器による被害乗り越えて鉄砲制圧できなかった原因推察され、長篠合戦戦法そのもの批判する記録は見つかっていない(「甲陽軍鑑」は大軍擁する信長家康との決戦反対だった記しており、突撃そのもの批判してはいない)。後に武田勝頼は、上野国善城武装整わないまま攻略し俗に素肌攻め」と讃えられた事を受けて自分先頭立っていれば、長篠合戦で敵の三重尺木どころか十重であっても負けなかったであろう」と述べたと「甲陽軍鑑」は伝える。これを鈴木眞哉は「勝頼も懲りないやつだ」と評しているが、現代人常識では無謀な長篠合戦での突撃当時正攻法だったことを理解していないことに由来する。なお、突撃はその活用法など形態こそ違えど、銃器連射速度向上するまで、作戦常道位置していた。 戦国時代に入ると、組織化進み集団戦進展するが、武将たちには、浸透しておらず1460年頃から1540年頃までは武将得物太刀打刀薙刀長巻大太刀であったが下卒のみならず将官クラス上の武器となるのは1540年頃から元和偃武まで。 日本刀宋代(960-1279)にはすでに中国輸出されていたが、軍隊民間倭刀及び倭刀術広く用いられるようになったのは明代(1368-1644)からである。中国日本刀兵器として認められるようになったのは、倭寇日本刀大太刀)を火縄銃と共に好んで戦闘使ったからであり、倭寇大太刀接近戦大きな威力発揮し明軍従来からの長柄武器はしばし穂先を斬り落とされ火縄銃よりも明軍恐れられた。倭寇戦った戚継光始めとする明の将軍たちは日本刀威力注目し倭寇同じよう火縄銃兵に日本刀大太刀)を装備する事から、自分部隊への装備始めた。明の軍隊においては銃兵が長刀大太刀)を、牌と呼ばれる盾を持って戦う兵士弓兵腰刀中型サイズ日本刀)を装備していた。中国多く日本刀輸入し日本刀模した刀も製作された(後に苗刀呼ばれる)。戚継光著作紀効新書』には「此は倭が中国攻めてきた時わかったことである。彼らは舞うような歩法用い前方への突進力は光が閃くようで我ら明の兵は気を奪われるのみだった。倭はよく躍動し一度動き出せば丈あまり、刀の長さ五尺なので一丈五尺間合でも攻撃される我が兵の剣では近づき難くでは遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される。これは彼らの武器鋭利であり、両手振れる強力で重い刀を自在に用いているためである。日本人には遠くから鳥銃が有効である。だが日本人は全く臆せず攻めた刺したりできる至近まで突っ込んでくる。兼ねてよりこの銃手が弾を込める間に時間取られ接近を許すことが多い。その勢い止められない日本人の刀捌き軽くて長く接近許した後の我が軍銃手動き鈍重すぎる。われわれの剣は銃を捨てて即座に対応するための有効な武器ではないのだ。それゆえ我々も日本式長い刀を備えるべきだ。」とある。江戸幕府江戸時代に二尺三寸刀剣の「常寸」と定めたのも太平世に異端を嫌う他に大太刀威力恐れたためであると考えられる武田家閉所一つ武具要説」によると武田信玄がかつて経験豊かな5人の武将論議させたことがあるについては原美濃守が「太刀薙刀を持つ敵対峙する以上、二間一丈二尺)以下では無益である。短くて騎馬武者を突く事もできぬ」と長柄主張した横田備中守もこれに賛同して平時警護用ならば九尺、一丈でも良いが、戦場では長いほど良い薙刀など持った敵を九尺、一丈で突くのでは相打ち恐れがあると言った。しかし、日本野戦では手槍も狭い場所で有利な上に槍術発達したために長槍が有利とは限らず手槍もかなり用いられている。 アーマードバトルをしているジェイ・エリック・ノイズと円山夢久は1415世紀両手剣タイプロングソードについて狭く混雑した場所でその力をいかんなく発揮できる主張している。 日本の戦国時代同時代16世紀近世ヨーロッパマキャヴェリは「戦術論」の中で乱戦になると槍兵効力失い剣と盾兵士がその位置占めと書いている事。 戦国時代主力武器論者によって主張異なりこそが最強鉄砲があればそんなモノイチコロ日本刀装飾品首切り使われる脇差こそが最終兵器だなどとあるが、結論から言えば武士基本的に自分が最も得意とする武器戦った集団化されるときにはその集団求められる武器使った城戦では周囲味方を気にして短め武器を使う事もあれば、縦横無尽に戦う為に柄の長い武器を選ぶこともあった 戦国時代個人戦闘における剣術発達した時代であり、多く剣豪登場している。当時戦場様子伝え資料には太刀敵将討ち取ったとする記述少なくない

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