近代以前の南北朝正閏論とは? わかりやすく解説

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近代以前の南北朝正閏論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:11 UTC 版)

南北朝正閏論」の記事における「近代以前の南北朝正閏論」の解説

南朝正統論の嚆矢は、南北朝時代南朝方の重鎮であった北畠親房著した『神皇正統記』であった。親房は三種の神器所在皇統における「正統概念を以て南朝正統論を唱えた。親房は南朝正統性を示すために「正統概念中には儒教神道教説取り入れる形で有徳の者が皇位継承者選ばれるという正理正義理念含めた。だが、一方で当時家督継承基本的な考え方儒教神道考え方にも適っていた正嫡正流の概念捨て去ることは出来ず結果的に両説組み合わせたものとなってしまった。更に神器問題にしても上記安徳天皇神器をもって西国下った時の後鳥羽天皇即位事情など理念史実乖離を完全に説明することは出来なかった。その後北朝によって皇統統一され楠木正成南朝方の人々を「朝敵」と認定され、更に実際問題として南北朝合一後も80年近くわたって後南朝」と呼ばれる北朝及び室町幕府対す南朝復興運動続いていたことから、親房以後南朝正統唱える者はいない状態が続いた。 この風潮変化したのは、『太平記』流布され公家武士などに愛読され南朝方に対す同情的な見方出現するようになってからである。 永禄2年1559年)、楠木正成の子孫を名乗る楠木正虎申請によって、楠木正成朝敵赦免を受ける。これをもって直ち南朝正統論が発生した訳ではないが、南朝論じることがタブーではなくなったという点では画期と言えるまた、楠木氏同様に南朝であった新田氏末裔名乗った徳川氏政権取ったことも状況変化もたらした江戸時代入り林羅山親子によって編纂された『本朝通鑑』の凡例において、初め南北併記記述用いられた。もっとも、息子林鵞峰書いた同書南北朝期記述では北朝正統論を採用している。 その後水戸藩主徳川光圀南朝正統とする『大日本史』を編纂したことが後世大きな影響与えた。『大日本史』は三種の神器所在などを理由として南朝正統として扱ったその際北朝天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、現在の皇室との関連もあり、後小松天皇本紀付記する体裁改めたという。だが、光圀生前望んでいた『大日本史』の朝廷献上は困難を極めた享保5年1720年)、水戸藩から『大日本史』の献上受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせ行った当時博識として知られ権大納言一条兼香(後、関白)はこの問い合わせ驚き北朝正統をもって回答した場合幕府側の反応三種の神器所在問題)などについて検討している(『兼香公記享保6年7月20日条)。この議論10年余り続いた末に、享保16年1731年になって現在の皇室差しさわりがあることを理由刊行成らぬとする回答幕府行った。だが、吉宗同書惜しんで3年後独断刊行許可したのであるまた、水戸藩不許可回答翌年である享保17年1732年)に江戸下向中の坊城俊清同書託して朝廷への取次要請した。これが嘉納されたのは実に69年後の文化7年1810年)のことであった。ただし、光圀南朝正統論は水戸学継承されるが、細かいところでは議論があった。光圀仕えていた栗山潜鋒神器所在根拠求め同じく三宅観瀾名分存在根拠求めて対立している。これは三種の神器所在正統性求めた場合前述後鳥羽天皇即位の経緯問題発生する上、北朝でも光厳天皇即位した時に本物三種の神器保有していた可能性が高いという問題発生するためである(これは後醍醐天皇隠岐島脱出した際に出雲大社対し天叢雲剣代替品として出雲大社宝剣借り受ける綸旨現存していることからも指摘される)。 徳川光圀並んで南朝正統論を唱えた人物として山崎闇斎挙げられる闇斎南朝正統論に基づく史書編纂計画していたが、執筆前に没した彼の南朝正統論はその独自の尊王論とともに垂加神道通じて多く門人伝えられ闇斎系統を引く学者跡部光海・味池修居ら)の間で行われた江戸時代後期頼山陽も『日本外史』などを通じて尊王論鼓舞したが、彼もまた南朝正統論を採っていた。特に死の間際書いた絶筆ともされる南北朝正閏論」は道義基づいて南朝正統とし、北朝後小松天皇南朝禅譲によって即位した主張している。史実ではない禅譲論を採っていることなど内容には問題があるものの、まさに命がけ一文後世少なからぬ影響与えた。 他の代表的な南朝正統論者としては、『続神皇正統記』に対抗して南朝正統とする『改正続神皇正統記』を著した天野信景、『南朝編年記略』や『南朝皇胤紹運録』を著した津久井尚重、『南山巡狩録』を著した大草公弼などがいる。 更に幕末になると、成島司直の『南山史』や鹿持雅澄の『日本外史評』などの両統並立論も出現するうになる。その一方で朝廷では、前述のように永く皇統につながる北朝正統とする原則守られ祭祀その方針で行われてきた。だが、『大日本史』の刊行問い合わせ問題以後公家の間にもわずかながら南朝正統論者山崎闇斎門人正親町公通など)が現れるようになり、幕末南朝正統論を軸とした尊王論高まり翻弄されることとなった

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