近代以前の南北朝正閏論
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「南北朝正閏論」の記事における「近代以前の南北朝正閏論」の解説
南朝正統論の嚆矢は、南北朝時代に南朝方の重鎮であった北畠親房が著した『神皇正統記』であった。親房は三種の神器の所在と皇統における「正統」概念を以て南朝正統論を唱えた。親房は南朝の正統性を示すために「正統」概念の中には儒教や神道の教説を取り入れる形で有徳の者が皇位継承者に選ばれるという正理正義の理念を含めた。だが、一方で当時の家督継承の基本的な考え方で儒教や神道の考え方にも適っていた正嫡正流の概念も捨て去ることは出来ず、結果的には両説を組み合わせたものとなってしまった。更に神器の問題にしても上記の安徳天皇が神器をもって西国に下った時の後鳥羽天皇即位の事情など理念と史実の乖離を完全に説明することは出来なかった。その後、北朝によって皇統が統一されて楠木正成ら南朝方の人々を「朝敵」と認定され、更に実際問題として南北朝合一後も80年近くにわたって「後南朝」と呼ばれる北朝及び室町幕府に対する南朝復興運動が続いていたことから、親房以後に南朝正統を唱える者はいない状態が続いた。 この風潮が変化したのは、『太平記』が流布されて公家や武士などに愛読され、南朝方に対する同情的な見方が出現するようになってからである。 永禄2年(1559年)、楠木正成の子孫を名乗る楠木正虎の申請によって、楠木正成は朝敵の赦免を受ける。これをもって直ちに南朝正統論が発生した訳ではないが、南朝を論じることがタブーではなくなったという点では画期と言える。また、楠木氏と同様に南朝方であった新田氏の末裔と名乗った徳川氏が政権を取ったことも状況に変化をもたらした。江戸時代に入り、林羅山親子によって編纂された『本朝通鑑』の凡例において、初めて南北併記の記述が用いられた。もっとも、息子の林鵞峰が書いた同書の南北朝期の記述では北朝正統論を採用している。 その後、水戸藩主・徳川光圀が南朝を正統とする『大日本史』を編纂したことが後世に大きな影響を与えた。『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱った。その際、北朝の天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、現在の皇室との関連もあり、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めたという。だが、光圀が生前に望んでいた『大日本史』の朝廷献上は困難を極めた。享保5年(1720年)、水戸藩から『大日本史』の献上を受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った。当時博識として知られた権大納言一条兼香(後、関白)はこの問い合わせに驚き、北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討している(『兼香公記』享保6年閏7月20日条)。この議論は10年余り続いた末に、享保16年(1731年)になって現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答を幕府に行った。だが、吉宗は同書を惜しんで3年後に独断で刊行を許可したのである。また、水戸藩も不許可回答の翌年である享保17年(1732年)に江戸下向中の坊城俊清に同書を託して朝廷への取次を要請した。これが嘉納されたのは実に69年後の文化7年(1810年)のことであった。ただし、光圀の南朝正統論は水戸学に継承されるが、細かいところでは議論があった。光圀に仕えていた栗山潜鋒は神器の所在に根拠を求め、同じく三宅観瀾は名分の存在に根拠を求めて対立している。これは三種の神器の所在で正統性を求めた場合、前述の後鳥羽天皇の即位の経緯の問題が発生する上、北朝でも光厳天皇は即位した時に本物の三種の神器を保有していた可能性が高いという問題が発生するためである(これは後醍醐天皇が隠岐島を脱出した際に出雲大社に対し、天叢雲剣の代替品として出雲大社の宝剣を借り受ける綸旨が現存していることからも指摘される)。 徳川光圀と並んで南朝正統論を唱えた人物として山崎闇斎が挙げられる。闇斎も南朝正統論に基づく史書編纂を計画していたが、執筆前に没した。彼の南朝正統論はその独自の尊王論とともに垂加神道を通じて多くの門人に伝えられ、闇斎の系統を引く学者(跡部光海・味池修居ら)の間で行われた。江戸時代後期の頼山陽も『日本外史』などを通じて尊王論を鼓舞したが、彼もまた南朝正統論を採っていた。特に死の間際に書いた絶筆ともされる「南北朝正閏論」は道義に基づいて南朝を正統とし、北朝の後小松天皇は南朝の禅譲によって即位したと主張している。史実ではない禅譲論を採っていることなど内容には問題があるものの、まさに命がけの一文は後世に少なからぬ影響を与えた。 他の代表的な南朝正統論者としては、『続神皇室正統記』に対抗して、南朝を正統とする『改正続神皇正統記』を著した天野信景、『南朝編年記略』や『南朝皇胤紹運録』を著した津久井尚重、『南山巡狩録』を著した大草公弼などがいる。 更に幕末になると、成島司直の『南山史』や鹿持雅澄の『日本外史評』などの両統並立論も出現するようになる。その一方で朝廷では、前述のように永く現皇統につながる北朝を正統とする原則が守られ、祭祀もその方針で行われてきた。だが、『大日本史』の刊行問い合わせ問題以後、公家の間にもわずかながら南朝正統論者(山崎闇斎門人の正親町公通など)が現れるようになり、幕末の南朝正統論を軸とした尊王論の高まりに翻弄されることとなった。
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