近代以前の治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 18:28 UTC 版)
松田川の水害対策は平安時代には行われていた。宿毛水田の開発を行った空海は松田川に堤防を築くとともに、決壊防止のため竹を植えたとされる。 江戸時代には、土佐藩家老野中兼山の指導により宿毛総曲輪(すくもそうくるわ)及び河戸堰(こうどぜき)が築かれた。当時の松田川は本流の他に古川・清水川・牛の瀬川といった分流が宿毛の町を貫流しており、氾濫が起きやすかった。宿毛総曲輪はこれらを当時南部を流れていた荒瀬川のルートにまとめて一本化するとともに、宿毛の周囲を堤防で固めるというものである。規模は現在の河戸堰下流及び中新田から貝塚にかけての延長2,800m・幅6 - 10mに及ぶもので、更に河戸から下流300mの間には堤防と川岸の間に竹が植えられた。工事は寒中決行で行われ休むことは許されず、特に荒瀬川の開削拡張にあたってはかなりの苦労があったという。『清文公御一代記』によれば、1654年(承応3年)の洪水の際、宿毛山内家の住む川戸土居の内堤が切れたところに米俵を打ち込み塞いだのを、3代藩主の山内忠豊が称賛したことから構想されたもの。この堤防の最大の特徴は、宿毛側(右岸)の堤防が6m程度であるのに対し、対岸の堤防をそれより2 - 3m程度低くすることで、氾濫の際に対岸の和田地区や坂ノ下地区から水没するようにして宿毛の町を守る構造になっていることである。宿毛側の堤防には「はね」と呼ばれる水の跳ね返し突堤も複数設けられていた。ゆえに以降の和田・坂ノ下両地区では洪水が頻発することとなり、逆らうわけにもいかなかった住民は住居を高台へ移すなどしたが、水田はやはり被害を免れなかった。このことから兼山の事業は一概には評価されていない面がある。一方の河戸堰は、松田川を石畳でせき止めて三方の水路で宿毛水田へ配水し、諸用水や防火対策として使用させるものである。これらの水路は今なお現役で使用されている、また河戸堰は長さ145m・幅23mで、糸流し工法と呼ばれる兼山独特の湾曲構造である。これら2つの治水事業はいずれも1658年(万治元年)に完了し、現在も重要な役割を果たしている。 しかしながら、1920年(大正9年)8月に松田川で大洪水が発生した際に宿毛総曲輪が決壊し、60名の死者を出したこともある。宿毛総曲輪は海面堤防とともに修復作業に追われた。
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