旅程
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「トゥデラのベンヤミン」の記事における「旅程」の解説
故郷であるトゥデラを出発して最初の目的地となったのは、アラゴン地方の主都サラゴサである。その後エブロ川谷を下り、カタルーニャ地方のタラゴナ、バルセロナ、ジローナを訪れた。地中海岸を北上してフランスに入り、マルセイユの港から船に乗り込んだ。今日のイタリアに相当するジェノヴァ、ルッカ、ピサに続いて、ローマを訪れた。続いてギリシャのコリント、テーバイ、サロニカを訪れ、海路でコンスタンティノープルまで足を運んだ後、サモス島、ロードス島、キプロス島を訪れた。ベンヤミンはローマ以後の各都市のユダヤ人人口を記録しており、ローマは200人、テーバイは2,000人、サロニカは500人などとなっている。キプロス島から乗船するとパレスチナでレバント地方に上陸し、アンテオケ、ベイルート、シドン、ティルス、アクレ、ハイファ、カイザリア(英語版)、サマリア、ナブルスの各都市を回った。 エルサレムに到着した正確な年は定かでないが、一般的には第2回十字軍と第3回十字軍の合間の1167年であるとされている。エルサレムでは嘆きの壁やシオンの山を訪れ、シオン山にあるダビデやその後の諸王の墓にまつわる謎について言及している。ベンヤミンは、十字軍が支配していたエルサレムについてもっとも詳細な記録を残したユダヤ人とされている。 それは小さい町で、三つの城壁で要塞化されている。そこには人々がいっぱいで、イスラム教徒はそれらの人々をヤコブ派、シリア人、ギリシア人、グルジア人及びフランク人と呼んでいる。そしてあらゆる言語を話す人々がいる。そこには染物工場があり、ユダヤ人は年々わずかな賃料を王に払っている。エルサレムでは、ユダヤ人以外にはどの染物職人にもその使用が許されないという条件で、町の隅のダビデの塔の下に約200人のユダヤ人が住んでいる。ダビデの塔の城壁の下の部分の約10キュビトの範囲はわれわれの先祖によって建てられた古代の基礎の部分である。 — 『トゥデラのベンヤミンの旅行記』エルサレムについて エルサレムの南にあるベツレヘムではラケル廟(英語版)を見学し、ヘブロン、ベト・ジブリンでも族長らの墓を見学している。ラムラ、地中海岸のヤフォ(現・テルアビブ)、ヤブネ、アシュドッド、アシュケロン、ルッド、セフォリス(英語版)、ティベリアとめぐった。その後には北メソポタミアからバグダードに達した。イラクでは今日のモースル郊外にある廃墟を訪れているが、ベンヤミンは古代都市ニネヴェの遺跡をもっとも早く正確に描写した人物である。ペルシアに赴いた後に向きを変えてアラビア半島を横断。エジプトと北アフリカを訪れ、1173年にイベリア半島に戻った。同年にカスティーリャ王国で没した。 旅程全体で300以上の都市を訪れており、ユダヤ人の歴史にとって重要な場所である古代ペルシアのスーサ、古代バビロニアのスーラ(英語版)、同じくバビロニアのプンベディータ(英語版)なども訪れている。イスラームの大麻喫煙文化やシーア派イスマーイール派の暗殺教団(Al-Hashishin)などの文化の詳細を記録しており、西ヨーロッパに持ち込んでからは彼の手を越えて広まった。加えて、旅行中にはインドや中国などの情報を収集しており、インド南西部・マラバール海岸のクイロンに住んでいた「黒いユダヤ人」、北宋に生息していたとされる巨大な鷲などにも言及している。 ベンヤミンの数十年後には、神聖ローマ帝国のラティスボン(現・レーゲンスブルク)出身のラビであるラティスボンのペタヒア(英語版)が、ベンヤミン同様に中東を旅行した。ペタヒアと同時期にはイベリア半島のコルドバ出身のモーシェ・ベン=マイモーン(マイモニデス)もエルサレムなどパレスチナを旅した。
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旅程
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「初の航空機による世界一周」の記事における「旅程」の解説
航空機による初の世界一周は1924年4月にアメリカを起点に飛行し、9月に起点に戻り、東から西へ大きく飛行した。北西太平洋の諸島を横切りながら北西に飛び、ヨーロッパ・大西洋を横断して日本と南アジアに続いている。 アメリカ合衆国ワシントン州シアトル 1924年4月6日 カナダ ブリティッシュコロンビア州プリンスルパート アメリカ合衆国アラスカ準州: シトカ、スワード、チグニク、ポートモラー アリューシャン列島: ケープ・イグバック、カナタク、ダッチハーバー、アトカ(ナザン湾)、アッツ ソビエト連邦ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ニコルスコエ 千島列島: 幌筵島 大日本帝国 6ヶ所に着陸 中華民国 上海、南部の沿岸 仏領インドシナ トンキン湾、トゥレーヌ、フエ、サイゴン タイ バンコク 英領インド ラングーン、アキャブ、チッタゴン、カルカッタ、カラチ ペルシア チャフバール、バンダレ・アッバース イラク バグダード シリア アレッポ トルコ コンスタンティノープル ルーマニア王国 ブカレスト ハンガリー王国 ブダペスト オーストリア ウィーン フランス共和国 パリ、ストラスブール イギリス ロンドン、ブラフ、オークニー諸島カークウォール(スカパ・フロー) アイスランド レイキャヴィーク グリーンランド タシーラク、フレドリクスダル、イギフトット カナダ ニューファンドランド・ラブラドール州ラブラドール地方、アイシー・ティックル、ノバスコシア州ピクトゥー港 アメリカ合衆国メイン州カスコ湾、マサチューセッツ州ボストン、ニューヨーク州ミッチェル空港、ワシントンD.C.ボウリング空軍基地ほか9州14都市を経てワシントン州シアトル 1924年9月28日
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旅程
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万延元年遣米使節を見たオールコック駐日英国公使やベルクール駐日仏国公使の幕府および本国政府に対する画策が奏功し実現した。オールコックは当初開港延期交渉に関しては反対の立場をとっていたが、幕府の内情を知るにつれて、これを支援するようになった。また、自身の休暇帰国を一行の日程と合せ、交渉のサポートを行うこととした。 文久元年12月22日、(1862年1月21日)、一行は英国海軍の蒸気フリゲート、オーディン号(HMS Odin)で欧州に向かって品川港を出発した。長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、英領イエメンを経てエジプト・スエズに上陸、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユに入った(4月3日)。 パリに到着(4月7日)、フランスと交渉したが、開港延期の同意は得られなかった。その後、カレーから英仏海峡を横断、文久2年4月2日(1862年4月30日)、イギリス・ロンドンに到着した。ここで、日本の内情を知るオールコックが休暇帰国するのを待ち、オールコックの協力を得て、同年5月9日(6月6日)、日本国内の事情に鑑み(すなわち攘夷熱の高まり)、兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期し、1868年1月1日とするロンドン覚書が調印された。 その後、オランダ(6月13日 - )、プロイセン・ベルリン(7月18日 - )と他国とも同様の覚書を締結した。 その後、ロシア・サンクトペテルブルクに入る(8月8日 - )。しかし、樺太国境画定に関するロシアとの交渉は合意に至らなかった。 復路ではカウナス、プロイセン王国、フランス帝国(パリ覚書締結)を経てポルトガルを訪れた(10月9日 - )。帰路は英領ジブラルタルを経由、往路とほぼ同じ行路をたどり、文久2年12月11日(1863年1月30日)、約1年間の旅を終え一行は帰国した。 ロンドンには、ロンドン万国博覧会に合わせて滞在し、何度も会場を訪ねて熱心に見学した。一行の姿は奇異な目で見られた一方、礼儀正しい態度振る舞いは感心された。ロンドン万博の日本コーナーには、オールコックが収集した品が展示され、日本の物品が展示された最初の万博となった。日本の展示品は現地では絶賛されたが、使節団は「骨董品のような雑具ばかりで粗物のみを出品している」と嘆いた。なお、5年後のパリ万国博覧会には幕府と薩摩藩がそれぞれ参加することになる。一行はロンドン逗留中、産業革命を経験したイギリスの鉄道や国会議事堂、バッキンガム宮殿、大英博物館、電信局、海軍工廠、造船所、銃器工場などを訪れた。その中には、1860年に終結した第二次アヘン戦争で活躍したアームストロング砲もあり、一行が製作過程を視察した6年後の戊辰戦争で使用されるに至った。 欧州滞在中の一行の姿は、ナダールによって写真に収められている。
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旅程
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綴られる主な旅程は以下の通り。日付は原本に記す旧暦の日付である。 日付到着地(通過地)現在の地名12月21日 国府(発) 高知県南国市比江周辺 12月21日 - 26日 大津 高知県高知市大津 12月27日 浦戸 高知県高知市浦戸 12月29日 大湊 高知県南国市前浜 1月9日 宇多の松原 高知県香南市岸本周辺 1月10日 奈半の泊 高知県安芸郡奈半利町 1月11日 羽根 高知県室戸市羽根町 1月12日 室津 高知県室戸市室津 1月29日 土佐の泊 徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦 1月30日 阿波の水門 鳴門海峡 〃 沼島 兵庫県南あわじ市沼島 〃 和泉の灘 (大阪府南西部) 2月1日 黒崎の松原 大阪府泉南郡岬町淡輪 〃 箱の浦 大阪府阪南市箱作 2月5日 石津 大阪府堺市浜寺 〃 住吉 大阪府大阪市住吉区 2月6日 難波 大阪府大阪市 2月8日 鳥飼の御牧 大阪府摂津市鳥飼 2月9日 渚の院 大阪府枚方市渚元町 〃 鵜殿 大阪府高槻市鵜殿 2月11日 八幡の宮 石清水八幡宮 〃 山崎 京都府乙訓郡大山崎町 2月16日 島坂 京都府向日市上植野町御塔道 〃 京(着) 京都府京都市
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旅程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 06:48 UTC 版)
1689年8月6日、オランダに到着。 1690年7月10日、アムステルダムを出発。10月31日、バラストの調達のためにカーボベルデ諸島に上陸。 1691年1月26日、喜望峰近くの湾岸に投錨。4月3日にエデン島を発見するも、上陸せず。4月30日、ロドリーグ島(ロドリゲス島)到着、定住。 1693年4月19日、出航を試みるも失敗。5月21日再び出発。5月29日、モーリス島(モーリシャス諸島)へ奇跡的に到着。マスカレーニュ島(マスカリン諸島)への逃亡を試みるも失敗、離れ小屋へ流刑される。 1696年12月6日、バタヴィアに到着。 1698年2月13日、再び喜望峰に到着。 1698年3月8日、物資補給のためにセントヘレナ島に向かい、4月26日出帆。 1698年6月28日、オランダのヴリシンゲンに到着。
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旅程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 02:30 UTC 版)
1611年4月18日:クローブ号他2隻の船団長としてイングランド出航。マダガスカル、イエメン、バンタム(ジャワ)、セイロン(スリランカ)ティドレ(インドネシア)、モルッカ諸島などを経て、クローブ号にて日本に向かう(他2隻は帰還)。 1613年6月10日:肥後天草沖で日本の漁船4隻と会い、水先案内を依頼する。二人がクローブ号に乗り込み、平戸まで案内する。 6月11日:平戸着。平戸藩主・松浦隆信とその後見人で祖父の松浦鎮信の2人とクローブ船上で面会し、鉄砲を贈呈。肉や魚、果物など食料を贈られる。 8月7日:ウィリアム・アダムスを伴い、平戸藩が用意した船で、駿府と江戸へ向け平戸を出発。 8月29日:下関、堺、大坂を経て京都着。 9月6日:駿府着。徳川家康に謁見。ジェームズ1世の国書と献上品を渡す。家康に花火を披露したとされる。 9月12日:駿府発。鎌倉では大仏を見学し、内部の壁にサインをしたと日誌に記しているが、発見されていない。 9月14日:江戸に到着。将軍・徳川秀忠に謁見。 9月21日:江戸を出発。 9月29日:駿府着。 10月9日:駿府発。 10月16日:京都着。 10月20日:京都発(平戸藩の用意した船で大阪から海路で下関へ、陸路で平戸へ向かう)。 11月6日:平戸着。中国人貿易商李旦の持家を借り、イギリス商館とする。 12月5日:交易を許す旨の家康からの朱印状と献上品を持って、クローブ号にて日本を出航。 1614年9月:イングランド、プリマス到着。 12月:ロンドン到着。書状と献上品を国王に渡し、その他の美術品はイギリス初となるオークションで売却される。春画も持ち込んだが、猥褻を理由に没収、破毀される。 (書状、献上品についてはクローブ号参照)
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旅程
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399年春 長安発。 399年 乾帰国(西秦、都城は西城)で夏坐。その後傉檀国(南涼、都城は西平)越え。 400年 張掖鎮(現甘粛省張掖市甘州区)で夏坐。その後タクラマカン砂漠越え。 401年 于麾国(現カルガリク付近)で夏坐。その後パミール高原越え。 402年 ウジャーナ(ガンダーラ北方)で夏坐。ガンダーラで同行僧のうち2人が死亡。3人は中国へ戻った。 403年 法顕と道整の2人となり、烏萇国(現パキスタン)で夏坐。 404年 インド、サンカシャで夏坐。その後カピラヴァストゥ(釈尊の成長地)、クシナガラ(釈尊の入滅地)などを見学。 405年-407年 パータリプトラ(マガダ国・マウリア朝・グプタ朝時代の首都。現パトナ)在。近辺のブッダガヤ(釈尊が悟った場所)、鹿野苑(現サールナート。釈尊が最初の5弟子を得た場所)などを見学。道整は引き続きインドで修行を望み、中国に帰るのは法顕のみとなった。 408年-409年 タームラリプティ(ガンジス川河口、現タムルク)在。 409年-411年 セイロン島在。 412年 中国への船中で夏坐。 412年7月 青州(現山東省膠州湾)に上陸。 413年 京口(現江蘇省鎮江市)で夏坐。 413年7月 建康(現南京市)着。
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旅程
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「水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説
8月22日 日本・ HTB正面玄関→新千歳空港→大韓航空で 韓国・ソウル経由→ フランス・パリからヨーロッパ入り→電車でパリ北駅→地下鉄でレピュブリック駅→ホリデイ・イン泊 8月23日 フランス・パリ凱旋門(スタート)→空港でレンタカーを借りる→カレーからユーロトンネルシャトルで国境越え→ イギリス・フォークストン(英語版)→イースト・グリンステッド→コッツウォルズ→イースト・グリンステッド泊 8月24日 イギリス・イースト・グリンステッド→ フランス・カレー→ブローニュ→ ベルギー・ブルージュ→ オランダ(通過)→ ドイツ・アーヘン泊 8月25日 ドイツ・アーヘン→ケルン→ ルクセンブルク・ルクセンブルク市→ ドイツ・ハイデルベルク泊 8月26日 ドイツ・ネルトリンゲン→フュッセン→ オーストリア・チロル→ リヒテンシュタイン・ファドゥーツ泊 8月27日 リヒテンシュタイン・ファドゥーツ→ スイス・マイエンフェルト→フルカ峠→ブリーク→ザースフェー泊 8月28日 スイス・ザースフェー→ イタリア・サヴォーナ→ フランス→ モナコ→ フランス・エクス=アン=プロヴァンス 8月29日 フランス・エクス=アン=プロヴァンス→ペルピニャンで仮眠→ブール=マダム→ スペイン(プッチサルダーと思われる)→ フランス・ブール=マダム→ アンドラ→ フランス・ポワティエ 8月30日 フランス・ポワティエ→パリ凱旋門(ゴール) 途中、フルカ峠で買ったカセットテープの1曲目を大泉が適当に「甘いスイス」と紹介しているが、実際は「Marmor, Stein und Eisen bricht」という曲で、ドイツの歌手ドラフィ・ドイッチャーの1965年の曲のカバーである。また、場面が代わって2人が飽きた画のバックで流れていたのはレックス・ギルドの「Fiesta Mexicana」をカバーしたもので、サースフェーからイタリアへ向かう途中に流れて大泉に止められたのは「ユベール・ジロー」「ポップ・トップス」などが大ヒットさせた「Mamy Blue」である。 本来は大泉には行き先を当日まで知らせない海外企画だが、この企画では行く前から大泉は行き先を知っている、数少ない企画である。 イギリス滞在時、当初は産業革命以前の景観が残るコッツウォルズ地方を訪れるつもりだったどうでしょう班だったが、ホテルに戻った時点で既に夕方5時過ぎだった事から、コッツウォルズに向かうかどうか悩む事となった。しかし、イギリスは日本に比べ日没が遅く午後9時頃まで明るい事から、順調に走行できれば日没に間に合うと判断して急遽ホテルを取ったイースト・グリンステッドから200km離れたコッツウォルズへと向かった。しかし、不幸にも高速道路で事故による渋滞にはまってしまい、到着したのは日没後の午後9時30分で景観を楽しむことができず、更に疲労困憊の中、再び200kmかけてイースト・グリンステッドに戻る事になった。なお、コッツウォルズ観光についてはこの出来事から21年後の2018年、どうでしょう班が「21年目のヨーロッパ21ヵ国完全制覇」でアイルランドを訪れる為に渡英した際に最初の滞在地として選んだ事でリベンジを果たしている。 カレーからブルージュ(Brugge)に行くはずが、道路看板を見間違えてしまい逆方面のブローニュ(Boulogne)に行ってしまう場面がある。21ヵ国中13ヵ国を制覇し、走行距離は5200kmに及んだ。1999年にロケ・放送を行った「ヨーロッパ・リベンジ」で、行けなかった国のうち北欧4ヵ国を制覇。また、2006年にロケし、2007年に放送を行った「ヨーロッパ20ヵ国完全制覇 〜完結編〜」で、アイルランドを除く残り3ヵ国を制覇した。そして、唯一残されていたアイルランドへは「〜完結編〜」のロケから12年後の2018年に訪れ、ロケから2年後の2020年に「21年目のヨーロッパ21ヵ国完全制覇」として放送。レギュラー・不定期放送合わせて4回の旅となり、ロケ完結までの総期間21年、放送上の完結までは23年という長大な企画となった。 1997年当時、まだユーロ通貨は発足していなかったため(ユーロ通貨は2002年に発足)、国境を越える度に通貨の変更が必要であった。従って一同は国境を越える度に幾度か一文無しになっていた。
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旅程
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「水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説
1日目: 日本・新千歳空港→羽田空港→成田市内のホテル前段として、大泉が大石内蔵助に扮し、『十勝二十番勝負』のリベンジとばかりに北海学園大学アメリカンフットボール部の面々を引き連れてFM北海道(AIR-G')に現れる。鈴井のレギュラー生番組『GO・I・S』の放送終了直後のスタジオに乱入しアメフト部に鈴井の拉致を命じるが、前述の通り実は大泉の拉致が本来の目的であるため、大泉がアメフト部の面々に担ぎ上げられ逆に拉致された(この模様を間近で見ていた『GO・I・S』アシスタントの北川久仁子は大爆笑していた)。 番組中で日付の明示はないが、『GO・I・S』番組中で鈴井が「明日のサッカーのジャマイカ戦」に言及しており、6月26日であることが確認できる。(ただ、映像のスタジオ内カレンダー(大泉拉致時に壁から落ちる)の日は25日とも読める) 2日目: 日本・成田空港→キャセイパシフィック航空CX509便→ 香港・香港国際空港(大泉が利用した空港は九龍にあった旧啓徳空港、取材直後に新界のチェクラップコク(赤鱲角)島へ移転し、現在は再開発中)→グレートイーグルホテル(現:ザ・ランガム香港(朗庭酒店))→香港島、中環(セントラル)の超高層ビル街(一行が見た黄金のビルはファー・イースト・フィナンシャル・センター)→ピークトラム→ヴィクトリア・ピーク→スターフェリー→潮州城酒樓(尖沙咀の潮州料理店)空港からホテルまではベンツSクラスが送迎、大泉はそのワイパーを見て「タラバガニのようだ」と発言した。ホテルから市街への巡回はマイクロバス(トヨタ・コースター、香港ではミニバスなどでよく使用されているタイプ)を利用。サイコロ企画で数々の深夜バスを経験している大泉は「このまま十何時間で北京まで連れて行かれても平気」と豪語した。 ホテルの各部屋に観光協会からの紙袋が置いてあり、その中に香港の絵葉書が100枚ほど入っていた。「この中の一枚を引いてそこへ行ったら」と笑い話になり、これがのちの「絵ハガキの旅」の元となった。 大泉は観光協会のガイドに「ジャッキーに会いたい」と言う要望を出したが、取り合ってもらえなかった。 100万ドルの夜景と謳われる香港の夜景をヴィクトリア・ピークから見た大泉は、柳生博のマネで説明ナレーションを始めたが、最後は『100万円クイズハンター』のタイトルコールになってしまった。 潮州料理店では、韓国食い道楽サイコロの旅で使われた『食事ができる人』カードが登場(パブリシティの要素が強いこの企画では、唯一のどうでしょう的アトラクション)。食事ができなくなる危機を迎えたが、鈴井が「全員食える」カードを引いて難なきを得た。 3日目: 香港・九龍公園で太極拳→尖沙咀の糖朝で朝食→グレートイーグルホテルで朝食→旺角のバードガーデン(雀鳥花園)→花墟道(花屋街)→通菜街(金魚屋街)→通菜街(女人街)→ドラゴンボートレース国際大会を観戦→尖沙咀で足つぼマッサージ3日目の朝食は香港観光協会側が用意した糖朝の粥料理と、ホテル側が用意した朝食を2度食べる羽目になってしまった。ホテルでの食事は朝食というレベルではなく、子豚の丸焼きやフカヒレなどが供される、本格的な高級中華料理だった。 大泉と鈴井は興味がないためか、バードガーデン、花屋街、金魚屋街、女人街の訪問をほぼ無表情で通した。バードガーデン、花屋街、金魚屋街を選んだのは藤村Dの趣味。 大泉と鈴井は女人街でTシャツを購入し、大泉は肌色の『ドリ・カム(ドリームカスタム) 不許複製』、鈴井は紺色の『かとうのいかの北海揚げ 白の戀人』というデザインを着用。大泉によれば、ドリームカスタムは横山ホットブラザーズのような芸人とのこと。 ドラゴンボート観戦に至っては藤村Dも内容を把握しておらず、観光協会が勧めるままノリで決めたと告白。
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旅程
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「水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説
9月10日(金) 日本・新千歳空港→関西空港→ フランス・パリ 9月11日(土) フランス・パリ凱旋門(スタート)→ランス(通過)→ストラスブール(通過)→ ドイツ・フランクフルト(通過)→アルスフェルト→ザバブルク(ドイツ語版)→トレンデルブルク→de:Bundesstraße 83の道ばた(野宿) 9月12日(日) ドイツの道ばた→ハンブルク(通過)→フレンスブルク(通過)→ デンマーク・オーデンセ泊 9月13日(月) デンマーク・オーデンセ→グレートベルト・リンク経由でシェラン島に渡り、コペンハーゲンでレンタカーを返却→高速船で スウェーデンのマルメへ行き再びレンタカーを借りる→ウッデパルラ(英語版)泊 9月14日(火) スウェーデン・ウッデパルラ→ ノルウェー・オスロ(オスロ国立美術館→ムンク美術館)→リレハンメル(通過)→トロンハイム 9月15日(水) ノルウェー・トロンハイム→en:European route E06沿いのキャンプ場のバンガローに宿泊(場所はTømmernesetだと思われる) 9月16日(木) ノルウェー・キャンプ場出発→ナルヴィク→ フィンランド・ロヴァニエミ泊 9月17日(金) フィンランド・ロヴァニエミ→サンタクロース村→ユヴァスキュラ 9月18日(土) フィンランド・ヘルシンキ・ヴァンター国際空港 本来、9月11日はザールブリュッケン経由でドイツに入境するはずだったが、鈴井が道を間違えたことにより、ストラスブール経由となった。藤村Dによると、これにより100kmロスした。 1日目の夜にドイツで野宿した場所はトレンデルブルクの北十数キロのBundesstraße 83沿いだと思われる。 鈴井が各国の童話に因んだ姿に扮する小ネタのうち、フィンランドでのムーミンは、DVDでは削除されている。
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旅程
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「水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説
7月2日(月) 日本・新千歳空港→成田国際空港→ カナダ・ ブリティッシュコロンビア州・バンクーバー→ ユーコン準州・ホワイトホース 7月3日(火) カナダ・ ユーコン準州・ホワイトホース→水上飛行機でレイク・ラバージ(英語版)へ。レイク・ラバージでテント設営、カヌー講習、トイレの仕方などアウトドア訓練。 7月4日(水) カナダ・ ユーコン準州・レイク・ラバージ→カヌーを漕ぎ始め、25km地点まで。 7月5日(木) カナダ・ ユーコン準州・50km地点のフータリンカ(ドイツ語版)まで。 7月6日(金) カナダ・ ユーコン準州・110km地点のビッグ・サーモンまで。 7月7日(土) カナダ・ ユーコン準州・140km地点まで。 7月8日(日) カナダ・ ユーコン準州・ゴールのリトル・サーモン(英語版)へ。 ロケ当時は例年になく蚊が大量発生していたため、鈴井は用を足すために尻を出した途端、蚊に刺されてしまい「帰してくれぇー」とぼやいてしまう(後日、別番組で大泉は「尻がぼこぼこに膨れ上がっていた」と語った)。この事態を受けた大泉は、「塗布しすぎると『プラスチックが溶ける』」と形容されるほど強力な虫除けスプレーを多用して、蚊の攻撃から露出部分を防御しようと試みる。だが、股間の周辺にまで塗布したためにヒリヒリとした痛みを発症する事態を引き起こし、川の中で薬剤を洗い落とさざるを得なくなった。前述のように水温の低さで命に危険を及ぼす可能性が高かったため、この時は熊谷からも短時間で洗うように指示され、藤村Dからは「1分半で洗え」といわれた。 この企画でも「シェフ大泉」が登場し、「グレーリング飯」などの思い付きで作った料理を披露し、どうでしょう班や熊谷・ピートからの顰蹙を買った。食べられないようなレベルに仕上げるという、そのあまりにも低すぎる料理の完成度に危機感を覚えた熊谷は「食材を無駄にするから任せておけない」として、以後の当番ではチャーハンの素などの加工物や、メインで使用しない食材(野菜や余りのご飯等)だけを使用するよう大泉に命じ、メイン食材の調理担当にはピートが任命される事態となった。 なお、四国R-14のエンディングテーマである、In the Soupの「川」が本企画でもテーマソングとして使用された。 2016年にリリースされた本企画を収めたDVDの副音声では、本企画の事実上の続編(再訪)を示唆する発言があった(ただし乗り気ではない大泉は外し、3人だけでいいから行きたいとも語った)。この企画はインターネット放送のインプレスTV(2008年9月30日をもって休止)で無料視聴することができた。
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旅程
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「水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説
7月1日(月) 日本・HTB→千歳→成田→ ベトナム・ハノイ 7月2日(火) ベトナム・ハノイ・ホテル・ニッコー・ハノイ(スタート)→タインホア→ヴィン 7月3日(水) ベトナム・ ヴィン→ドンホイ→フエ 7月4日(木) ベトナム・フエ→ハイヴァン峠→ダナン→ホイアン 7月5日(金) ベトナム・ホイアン→クイニョン 7月6日(土) ベトナム・クイニョン→ニャチャン 7月7日(日) ベトナム・ニャチャン→カムラン国際空港→ファンラン→ダラット(ソフィテル・ダラット・パレス) 7月8日(月) ベトナム・ダラット→ホーチミン(ノボテル・ガーデン・プラザ・ホテル) ※注意・屋久島の第四夜でのベトナムのホテルからのメッセージでは、7月12日収録、「前日に最後の旅が終わった」と話している。
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旅程
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「旅行記 (イブン・バットゥータ)」の記事における「旅程」の解説
1325年 タンジェからメッカ巡礼の旅に出発する。トレムセン、ビジャーヤ、コンスタンティーヌを経てチュニスに到着。チュニスの地方官の娘と結婚する。 1326年 タラーブルス、アレクサンドリア、カイロ、ナーブルス、サイダーなどを経由してダマスカスに到着。メディナ、メッカへ向かい最初のメッカ巡礼を果たす。 1327年 ワースィト、バスラを経てエスファハンに滞在。シーラーズ、バグダードに滞在。タブリーズ、マウスィルへ向かったあとで再びメッカに戻る。 1328年 - 1329年 メッカに滞在。 1330年 巡礼大祭に参加後、紅海を南下してイエメンへ向かう。 1331年 東アフリカ、アラビア半島南部を旅する。 1332年 イラン南部、ハジャル、ヤマーマを経てメッカに戻る。インドへ向け出発。上エジプト、シリアから小アジアへ向かう。アクリードゥールに滞在し、ラーズィクを経てブルサに到着。 1333年 コンスタンティノープルへ出発。ジョチ・ウルス、ロシア南部のヴォルガ・ブルガールを経てコンスタンティノープルに到着。中央アジアのフワーリズムやカーブルを経てインダス川に到着し、スィンド地方を経てデリーに到着。当地の法官となる。 1334年 - 1340年 デリーに滞在。イブラーヒム・ブン・ジャラール・ウッディーン・アフサーン・シャーの娘と結婚する。 1341年 法官を辞してインダス川流域の町ムルターンのザーウィヤに滞在。 1342年 スルタンから元への使節に任命され、デリーを出発。 1343年 インド洋のマラバール海岸を通過し、シンダーブールに滞在。カーリークートに戻った後にマルディヴへ向かう。 1344年 - 1346年 マルディヴを出発し、スリランカ、南インドを経てマルディヴに戻った後、ベンガル、スマトラを経て泉州に到着。広東と杭州を経て大都へ到着。 1347年 東南アジアを経てカウラム到着。ザファール、マスカト、ホルムズ、イラン、イラクを巡る。 1348年 バグダード到着。ダマスカス、ハマーを経て、アレッポ滞在。イエルサレム、アレクサンドリア、カイロに向かい、ペストの被害を目撃する。カイロ滞在後にメッカへ到着。 1349年 巡礼大祭に参加後、メディナ、ガッザ、カイロへ向かう。アレクサンドリアから船で出発し、ガーベス、チュニス、サルディニア島、トレムセン、ファースに到着。マリーン朝のスルタン、アブー・イナーン・ファーリスと謁見。 1350年 - 1351年 タンジェに戻った後、ジハードのためにジブラルタル海峡を渡ってアンダルスへ向かい、ロンダ、グラナダに到着。イブン・ジュザイイと会う。サラー、マラケシュを経てファースに戻る。 1352年 シジルマーサを出発、サハラ砂漠横断の旅を行い、マーリーに到着。 1353年 マーリーを出発、タカッダー、シジルマーサに到着。 1354年 ダール・アッタマゥ到着。ファースへ向かう。 1355年 巡礼記を終える。
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旅程
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鉄道が敷設される明治時代末期までの出稼ぎの旅路はすべて徒歩によるもので、京街道 を京都までおよそ144キロメートル(36里)を4日間、奈良・大和まではさらに1日を要した。およそ半年分の身の回り品すべてを背負っての旅は楽ではなく、旅路では気晴らしに初めて同道する若者に余興に芸をやらせて笑いに興じた。出稼ぎ道中の逸話では、馴染みの茶屋で休む時は杜氏が蔵人の分も茶代を負担し、茶屋の夫人が不在でも茶代を置いていく律儀な出稼ぎ者の性格や、通りすがりの村の若者に言いがかりをつけられ、大岩を持ち上げて見せて撃退した力自慢の「丹後の仙太郎(丹後仙)」などの逸話が残されている。1日目は加悦に宿をとり、2日目は三俣に常宿があったが不慣れな者は足を引き摺る頃のため旅程を短縮することもあった。3日目は八木か亀岡に泊まったが、疲労度や天候によっては園部に宿をとった。この頃には但馬から女中奉公に出る娘と行き合うこともあり、道中の楽しみのひとつであったという。 1901年(明治34年)に山陰線の園部-京都間で汽車が開通したことにより、旅程は3日間に短縮された。鉄路の開通に伴い、やがて旅のルートは伊根から宮津・宮津から舞鶴まで船に乗り、舞鶴で1泊後、京都・奈良まで汽車旅となった。
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「旅程」の例文・使い方・用例・文例
- 我々の旅程を融通してくれるとは、とても親切ですね。
- 旅程の方が目的地よりもより重要だ。
- 私の旅程はまだ確定していません。
- 私の出張の旅程はまだ確定していません。
- あなたの旅程をお知らせ下さい。
- あなたの旅程を理解したことを伝えたかった。
- 今回ご案内した旅程で問題なければご承認の署名をお願いします。
- 浅草は旅程にははいっていません.
- 目的地に予定通りに着くには 1 日 500 キロの旅程をこなさなくてはいけない.
- ここからどれほどの旅程か
- これは一週間の旅程であった
- 旅程または通路
- 人々の特定のグループが旅行する開催地か出来事の確立した旅程
- ななつ星は博(はか)多(た)駅を出発して,2日または4日間の旅程で九州を回る。
- 江戸への旅程は通常8日かかるが,湯長谷藩には江戸へ行くのに4日しか与えられていない。
旅程と同じ種類の言葉
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