旅程とは? わかりやすく解説

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りょ‐てい【旅程】

読み方:りょてい

旅行道程

旅行日程


旅程

作者照子

収載図書作家短編小説集 第5巻
出版社のべる出版
刊行年月2005.6


旅程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/30 07:21 UTC 版)

トゥデラのベンヤミン」の記事における「旅程」の解説

故郷であるトゥデラ出発して最初目的地となったのは、アラゴン地方主都サラゴサである。その後エブロ川谷を下りカタルーニャ地方タラゴナバルセロナジローナ訪れた地中海岸を北上してフランス入りマルセイユの港から船に乗り込んだ今日イタリア相当するジェノヴァルッカピサ続いてローマ訪れた続いてギリシャコリントテーバイサロニカ訪れ海路コンスタンティノープルまで足を運んだ後、サモス島ロードス島キプロス島訪れたベンヤミンローマ以後の各都市ユダヤ人人口記録しており、ローマ200人、テーバイは2,000人、サロニカ500人などとなっている。キプロス島から乗船するパレスチナレバント地方上陸し、アンテオケ、ベイルートシドンティルスアクレハイファ、カイザリア(英語版)、サマリアナブルスの各都市回ったエルサレム到着した正確な年は定かでないが、一般的には第2回十字軍第3回十字軍合間1167年であるとされている。エルサレムでは嘆きの壁シオンの山訪れシオン山にあるダビデその後諸王の墓にまつわる謎について言及している。ベンヤミンは、十字軍支配していたエルサレムについてもっとも詳細な記録残したユダヤ人とされている。 それは小さい町で、三つ城壁要塞化されている。そこには人々いっぱいで、イスラム教徒はそれらの人々ヤコブ派シリア人、ギリシア人グルジア人及びフランク人呼んでいる。そしてあらゆる言語を話す人々がいる。そこには染物工場があり、ユダヤ人年々わずかな賃料を王に払っている。エルサレムでは、ユダヤ人以外にはどの染物職人にもその使用許されないという条件で、町の隅のダビデの塔の下に約200人のユダヤ人住んでいる。ダビデの塔城壁の下の部分の約10キュビト範囲はわれわれの先祖によって建てられ古代基礎部分である。 — 『トゥデラのベンヤミン旅行記エルサレムについて エルサレムの南にあるベツレヘムではラケル廟(英語版)を見学しヘブロン、ベト・ジブリンでも族長らの墓を見学している。ラムラ地中海岸のヤフォ(現・テルアビブ)、ヤブネアシュドッドアシュケロンルッドセフォリス英語版)、ティベリアめぐったその後には北メソポタミアからバグダード達したイラクでは今日モースル郊外にある廃墟訪れているが、ベンヤミン古代都市ニネヴェ遺跡をもっとも早く正確に描写した人物である。ペルシア赴いた後に向き変えてアラビア半島横断エジプト北アフリカ訪れ1173年イベリア半島戻った同年カスティーリャ王国没した。 旅程全体300上の都市訪れており、ユダヤ人の歴史にとって重要な場所である古代ペルシアスーサ古代バビロニアスーラ英語版)、同じくバビロニアのプンベディータ(英語版)なども訪れている。イスラーム大麻喫煙文化シーア派イスマーイール派暗殺教団(Al-Hashishin)などの文化詳細記録しており、西ヨーロッパ持ち込んでからは彼の手を越えて広まった加えて旅行中にはインド中国など情報収集しており、インド南西部マラバール海岸クイロン住んでいた「黒いユダヤ人」、北宋生息していたとされる巨大ななどにも言及している。 ベンヤミン数十年後には、神聖ローマ帝国のラティスボン(現・レーゲンスブルク出身ラビであるラティスボンのペタヒア(英語版)が、ベンヤミン同様に中東旅行した。ペタヒアと同時期にイベリア半島コルドバ出身モーシェ・ベン=マイモーンマイモニデス)もエルサレムなどパレスチナ旅した

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初の航空機による世界一周」の記事における「旅程」の解説

航空機による初の世界一周は1924年4月アメリカ起点飛行し9月起点戻り東から西大きく飛行した北西太平洋諸島横切りながら北西飛びヨーロッパ大西洋を横断して日本南アジア続いている。 アメリカ合衆国ワシントン州シアトル 1924年4月6日 カナダ ブリティッシュコロンビア州プリンスルパート アメリカ合衆国アラスカ準州: シトカスワード、チグニク、ポートモラー アリューシャン列島: ケープ・イグバック、カナタク、ダッチハーバーアトカナザン湾)、アッツ ソビエト連邦ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ニコルスコエ 千島列島: 幌筵島 大日本帝国 6ヶ所に着陸 中華民国 上海南部沿岸 仏領インドシナ トンキン湾トゥレーヌフエサイゴン タイ バンコク 英領インド ラングーンアキャブチッタゴンカルカッタカラチ ペルシア チャフバール、バンダレ・アッバース イラク バグダード シリア アレッポ トルコ コンスタンティノープル ルーマニア王国 ブカレスト ハンガリー王国 ブダペスト オーストリア ウィーン フランス共和国 パリストラスブール イギリス ロンドンブラフオークニー諸島カークウォールスカパ・フローアイスランド レイキャヴィーク グリーンランド タシーラク、フレドリクスダル、イギフトット カナダ ニューファンドランド・ラブラドール州ラブラドール地方、アイシー・ティックル、ノバスコシア州ピクトゥー港 アメリカ合衆国メイン州カスコ湾マサチューセッツ州ボストンニューヨーク州ミッチェル空港ワシントンD.C.ボウリング空軍基地ほか9州14都市経てワシントン州シアトル 1924年9月28日

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文久遣欧使節」の記事における「旅程」の解説

万延元年遣米使節見たオールコック駐日英国公使ベルクール駐日仏国公使幕府および本国政府対す画策奏功実現したオールコック当初開港延期交渉に関して反対の立場とっていたが、幕府内情を知るにつれて、これを支援するようになったまた、自身休暇帰国一行日程合せ交渉サポートを行うこととした。 文久元年12月22日、(1862年1月21日)、一行英国海軍蒸気フリゲートオーディン号(HMS Odin)で欧州向かって品川港出発した長崎英領香港英領シンガポール英領セイロン英領イエメン経てエジプト・スエズに上陸鉄道カイロからアレクサンドリア出て、船で地中海渡り英領マルタ経てマルセイユ入った4月3日)。 パリ到着4月7日)、フランス交渉したが、開港延期同意得られなかった。その後カレーから英仏海峡横断文久2年4月2日1862年4月30日)、イギリス・ロンドン到着した。ここで、日本内情を知るオールコック休暇帰国するのを待ちオールコック協力得て同年5月9日6月6日)、日本国内の事情鑑み(すなわち攘夷熱の高まり)、兵庫新潟江戸大坂開港開市5年延期し1868年1月1日とするロンドン覚書調印された。 その後オランダ6月13日 - )、プロイセン・ベルリン(7月18日 - )と他国とも同様の覚書締結したその後、ロシア・サンクトペテルブルクに入る(8月8日 - )。しかし、樺太国画定に関するロシアとの交渉合意に至らなかった。 復路ではカウナスプロイセン王国フランス帝国パリ覚書締結)を経てポルトガル訪れた10月9日 - )。帰路英領ジブラルタル経由往路とほぼ同じ行路をたどり、文久2年12月11日1863年1月30日)、約1年間の旅を終え一行帰国したロンドンには、ロンドン万国博覧会合わせて滞在し何度も会場訪ねて熱心に見学した一行の姿は奇異な目で見られ一方礼儀正しい態度振る舞いは感心された。ロンドン万博日本コーナーには、オールコック収集した品が展示され日本物品展示され最初万博となった日本展示品現地では絶賛されたが、使節団は「骨董品のような雑具ばかりで粗物のみを出品している」と嘆いた。なお、5年後パリ万国博覧会には幕府薩摩藩それぞれ参加することになる。一行ロンドン逗留中、産業革命経験したイギリスの鉄道国会議事堂バッキンガム宮殿大英博物館電信局海軍工廠造船所銃器工場などを訪れた。その中には1860年終結した第二次アヘン戦争活躍したアームストロング砲もあり、一行が製作過程視察した6年後の戊辰戦争使用される至った欧州滞在中の一行の姿は、ナダールによって写真収められている。

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土佐日記」の記事における「旅程」の解説

綴られ主な旅程は以下の通り日付原本に記す旧暦日付である。 日付到着地通過地現在の地名12月21日 国府(発) 高知県南国市比江周辺 12月21日 - 26日 大津 高知県高知市大津 12月27日 浦戸 高知県高知市浦戸 12月29日 大湊 高知県南国市前浜 1月9日 宇多松原 高知県香南市岸本周辺 1月10日 奈半の泊 高知県安芸郡奈半利町 1月11日 羽根 高知県室戸市羽根町 1月12日 室津 高知県室戸市室津 1月29日 土佐の泊 徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦 1月30日 阿波水門 鳴門海峡沼島 兵庫県南あわじ市沼島和泉の灘 (大阪府南西部2月1日 黒崎松原 大阪府泉南郡岬町淡輪箱の浦 大阪府阪南市箱作 2月5日 石津 大阪府堺市浜寺住吉 大阪府大阪市住吉区 2月6日 難波 大阪府大阪市 2月8日 鳥飼御牧 大阪府摂津市鳥飼 2月9日 渚の院 大阪府枚方市渚元町鵜殿 大阪府高槻市鵜殿 2月11日 八幡の宮 石清水八幡宮山崎 京都府乙訓郡大山崎町 2月16日 島坂 京都府向日市上植野町御塔道 〃 京(着) 京都府京都市

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フランソワ・ルガ」の記事における「旅程」の解説

1689年8月6日オランダに到着1690年7月10日アムステルダム出発10月31日バラスト調達のためにカーボベルデ諸島上陸1691年1月26日喜望峰近く湾岸投錨4月3日エデン島を発見するも、上陸せず4月30日、ロドリーグ島(ロドリゲス島到着定住1693年4月19日出航試みるも失敗5月21日再び出発5月29日モーリス島(モーリシャス諸島)へ奇跡的に到着。マスカレーニュ島(マスカリン諸島)への逃亡試みるも失敗離れ小屋流刑される。 1696年12月6日バタヴィア到着1698年2月13日、再び喜望峰到着1698年3月8日物資補給のためにセントヘレナ島向かい4月26日出帆1698年6月28日オランダのヴリシンゲンに到着

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ジョン・セーリス」の記事における「旅程」の解説

1611年4月18日クローブ号他2隻の船団長としてイングランド出航マダガスカルイエメンバンタムジャワ)、セイロンスリランカ)ティドレ(インドネシア)、モルッカ諸島などを経てクローブ号にて日本に向かう(他2隻は帰還)。 1613年6月10日肥後天草沖で日本漁船4隻と会い水先案内依頼する二人クローブ号乗り込み平戸まで案内する6月11日平戸着。平戸藩主・松浦隆信その後見人で祖父松浦鎮信2人クローブ船上面会し鉄砲贈呈。肉や果物など食料贈られる8月7日ウィリアム・アダムス伴い平戸藩用意した船で、駿府江戸へ向け平戸出発8月29日下関、堺、大坂経て京都着。 9月6日駿府着。徳川家康謁見ジェームズ1世国書献上品を渡す。家康花火披露したとされる9月12日駿府発。鎌倉では大仏見学し内部の壁にサインをしたと日誌記しているが、発見されていない9月14日江戸到着将軍徳川秀忠謁見9月21日江戸出発9月29日駿府着。 10月9日駿府発。 10月16日京都着。 10月20日京都発(平戸藩用意した船で大阪から海路下関へ、陸路平戸へ向かう)。 11月6日平戸着。中国人貿易商李旦持家借りイギリス商館とする。 12月5日交易を許す旨の家康からの朱印状献上品持ってクローブ号にて日本出航1614年9月イングランドプリマス到着12月ロンドン到着書状献上品国王渡しその他の美術品イギリス初となるオークション売却される春画持ち込んだが、猥褻理由没収破毀される。 (書状献上品についてはクローブ号参照

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仏国記」の記事における「旅程」の解説

399年長安発。 399年帰国西秦都城西城)で夏坐。その後檀国南涼都城西平越え400年 張掖鎮(現甘粛省張掖市甘州区)で夏坐。その後タクラマカン砂漠越え401年 于麾国(現カルガリク付近)で夏坐。その後パミール高原越え402年 ウジャーナ(ガンダーラ北方)で夏坐。ガンダーラ同行僧のうち2人死亡。3人は中国戻った403年 法顕と道整の2人となり、烏萇国(現パキスタン)で夏坐。 404年 インド、サンカシャで夏坐。その後カピラヴァストゥ釈尊成長地)、クシナガラ釈尊入滅地)などを見学405年-407年 パータリプトラマガダ国マウリア朝グプタ朝時代首都。現パトナ)在。近辺ブッダガヤ釈尊悟った場所)、鹿野苑(現サールナート釈尊最初の5弟子得た場所)などを見学。道整は引き続きインド修行望み中国帰るのは法顕のみとなった408年-409年 タームラリプティ(ガンジス川河口、現タムルク)在。 409年-411年 セイロン島在。 412年 中国への船中で夏坐。 412年7月 青州(現山東省膠州湾)に上陸413年 京口(現江蘇省鎮江市)で夏坐。 413年7月 建康(現南京市)着。

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水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説

8月22日 日本HTB正面玄関新千歳空港大韓航空韓国ソウル経由フランス・パリからヨーロッパ入り電車パリ北駅地下鉄レピュブリック駅ホリデイ・イン8月23日 フランス・パリ凱旋門スタート)→空港レンタカー借りる→カレーからユーロトンネルシャトル国境越え→ イギリス・フォークストン(英語版)→イースト・グリンステッドコッツウォルズイースト・グリンステッド8月24日 イギリス・イースト・グリンステッド→ フランス・カレー→ブローニュ→ ベルギー・ブルージュ→ オランダ通過)→ ドイツ・アーヘン泊 8月25日 ドイツ・アーヘン→ケルン→ ルクセンブルク・ルクセンブルク市→ ドイツ・ハイデルベルク泊 8月26日 ドイツ・ネルトリンゲン→フュッセン→ オーストリア・チロル→ リヒテンシュタイン・ファドゥーツ泊 8月27日 リヒテンシュタイン・ファドゥーツ→ スイス・マイエンフェルト→フルカ峠ブリークザースフェー8月28日 スイス・ザースフェー→ イタリア・サヴォーナ→ フランスモナコ→ フランス・エクス=アン=プロヴァンス 8月29日 フランス・エクス=アン=プロヴァンスペルピニャン仮眠ブール=マダムスペインプッチサルダー思われる)→ フランス・ブール=マダムアンドラ→ フランス・ポワティエ 8月30日 フランス・ポワティエ→パリ凱旋門ゴール途中フルカ峠買ったカセットテープの1曲目大泉適当に「甘いスイス」と紹介しているが、実際は「Marmor, Stein und Eisen bricht」という曲で、ドイツの歌手ドラフィ・ドイッチャーの1965年の曲のカバーである。また、場面が代わって2人飽きた画のバック流れていたのはレックス・ギルドの「Fiesta Mexicana」をカバーしたもので、サースフェーからイタリアへ向かう途中流れて大泉止められたのは「ユベール・ジロー」「ポップ・トップス」などが大ヒットさせた「Mamy Blue」である。 本来は大泉には行き先当日まで知らせない海外企画だが、この企画では行く前から大泉行き先知っている数少ない企画である。 イギリス滞在時、当初産業革命以前景観が残るコッツウォルズ地方訪れるつもりだったどうでしょう班だったが、ホテル戻った時点で既に夕方5時過ぎだった事から、コッツウォルズに向かうかどうか悩む事となった。しかし、イギリス日本比べ日没遅く午後9時頃まで明るい事から、順調に走行できれば日没に間に合うと判断して急遽ホテル取ったイースト・グリンステッドから200km離れたコッツウォルズへと向かった。しかし、不幸に高速道路事故による渋滞はまってしまい、到着したのは日没後の午後9時30分で景観を楽しむことができず、更に疲労困憊の中、再び200kmかけてイースト・グリンステッドに戻る事になった。なお、コッツウォルズ観光についてはこの出来事から21年後の2018年どうでしょう班が「21年目のヨーロッパ21ヵ国完全制覇」でアイルランド訪れ為に渡英した際に最初滞在地として選んだ事でリベンジ果たしている。 カレーからブルージュBrugge)に行くはずが、道路看板見間違えてしまい逆方面ブローニュBoulogne)に行ってしまう場面がある。21国中13ヵ国を制覇し走行距離は5200kmに及んだ1999年ロケ放送行った「ヨーロッパ・リベンジ」で、行けなかった国のうち北欧4ヵ国を制覇また、2006年ロケし、2007年放送行ったヨーロッパ20ヵ国完全制覇完結編〜」で、アイルランドを除く残り3ヵ国を制覇した。そして、唯一残されていたアイルランドへは「〜完結編〜」のロケから12年後2018年訪れロケから2年後2020年に「21年目のヨーロッパ21ヵ国完全制覇」として放送レギュラー不定期放送合わせて4回の旅となり、ロケ完結までの総期間21年放送上の完結まで23年という長大企画となった1997年当時、まだユーロ通貨発足していなかったため(ユーロ通貨2002年発足)、国境越える度に通貨変更が必要であった。従って一同国境越える度に幾度か一文無しになっていた。

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水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説

1日目日本新千歳空港羽田空港成田市内のホテル前段として、大泉大石内蔵助扮し、『十勝二十番勝負』のリベンジとばかり北海学園大学アメリカンフットボール部面々引き連れてFM北海道AIR-G')に現れる鈴井レギュラー生番組GO・I・S』の放送終了直後スタジオ乱入しアメフト部に鈴井拉致命じるが、前述通り実は大泉拉致本来の目的であるため、大泉アメフト部の面々担ぎ上げられ逆に拉致された(この模様間近見ていた『GO・I・Sアシスタント北川久仁子大爆笑していた)。 番組中で日付明示はないが、『GO・I・S番組中で鈴井が「明日サッカージャマイカ戦」に言及しており、6月26日であることが確認できる。(ただ、映像スタジオカレンダー大泉拉致時に壁から落ちる)の日は25日とも読める2日目日本成田空港キャセイパシフィック航空CX509便→ 香港香港国際空港大泉利用した空港九龍にあった啓徳空港取材直後新界のチェクラップコク(赤鱲角島へ移転し、現在は再開発中)→グレートイーグルホテル(現:ザ・ランガム香港(朗庭酒店))→香港島中環セントラル)の超高層ビル街(一行見た黄金ビルファー・イースト・フィナンシャル・センター)→ピークトラムヴィクトリア・ピークスターフェリー潮州酒樓尖沙咀潮州料理店)空港からホテルまではベンツSクラス送迎大泉はそのワイパー見てタラバガニのようだ」と発言したホテルから市街への巡回マイクロバストヨタ・コースター香港ではミニバスなどでよく使用されているタイプ)を利用サイコロ企画数々深夜バス経験している大泉は「このまま何時間で北京まで連れて行かれても平気」と豪語したホテル各部屋に観光協会からの紙袋置いてあり、その中に香港絵葉書100枚ほど入っていた。「この中一枚引いてそこへ行ったら」と笑い話になり、これがのちの「絵ハガキの旅」の元となった大泉観光協会ガイドに「ジャッキー会いたいと言う要望出したが、取り合ってもらえなかった。 100万ドル夜景謳われる香港の夜景をヴィクトリア・ピークから見た大泉は、柳生博マネ説明ナレーション始めたが、最後は『100万円クイズハンター』のタイトルコールになってしまった。 潮州料理店では、韓国食い道楽サイコロの旅使われた『食事ができる人』カード登場パブリシティ要素が強いこの企画では、唯一のどうでしょうアトラクション)。食事ができなくなる危機迎えたが、鈴井が「全員食えるカード引いて難なきを得た3日目香港九龍公園太極拳尖沙咀糖朝朝食→グレートイーグルホテルで朝食旺角のバードガーデン(雀花園)→花墟道(花屋街)→通菜街(金魚屋街)→通菜街(女人街)→ドラゴンボートレース国際大会観戦尖沙咀足つぼマッサージ3日目朝食香港観光協会側が用意した糖朝の粥料理と、ホテル側が用意した朝食2度食べ羽目になってしまった。ホテルでの食事朝食というレベルではなく子豚丸焼きフカヒレなどが供される本格的な高級中華料理だった。 大泉鈴井興味がないためか、バードガーデン、花屋街、金魚屋街、女人街の訪問をほぼ無表情通した。バードガーデン、花屋街、金魚屋街を選んだのは藤村Dの趣味大泉鈴井女人街でTシャツ購入し大泉肌色の『ドリ・カム(ドリームカスタム) 不許複製』、鈴井紺色の『かとうのいかの北海揚げ 白の戀人』というデザイン着用大泉によれば、ドリームカスタムは横山ホットブラザーズのような芸人とのことドラゴンボート観戦至って藤村Dも内容把握しておらず、観光協会勧めるままノリで決めた告白

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水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説

9月10日(金) 日本新千歳空港関西空港フランス・パリ 9月11日(土) フランス・パリ凱旋門スタート)→ランス通過)→ストラスブール通過)→ ドイツ・フランクフルト(通過)→アルスフェルト→ザバブルク(ドイツ語版)→トレンデルブルクde:Bundesstraße 83道ばた野宿9月12日(日) ドイツの道ばた→ハンブルク通過)→フレンスブルク通過)→ デンマーク・オーデンセ泊 9月13日(月) デンマーク・オーデンセ→グレートベルト・リンク経由シェラン島渡りコペンハーゲンレンタカー返却高速船スウェーデンマルメ行き再びレンタカー借りる→ウッデパルラ(英語版)泊 9月14日(火) スウェーデン・ウッデパルラ→ ノルウェー・オスロ(オスロ国立美術館ムンク美術館)→リレハンメル通過)→トロンハイム 9月15日(水) ノルウェー・トロンハイム→en:European route E06沿いのキャンプ場バンガロー宿泊(場所はTømmernesetだと思われる9月16日(木) ノルウェー・キャンプ場出発ナルヴィク→ フィンランド・ロヴァニエミ泊 9月17日(金) フィンランド・ロヴァニエミ→サンタクロース村ユヴァスキュラ 9月18日(土) フィンランド・ヘルシンキ・ヴァンター国際空港 本来、9月11日ザールブリュッケン経由ドイツに入境するはずだったが、鈴井が道を間違えたことにより、ストラスブール経由となった藤村Dによると、これにより100kmロスした1日目夜にドイツ野宿した場所はトレンデルブルクの北十数キロBundesstraße 83沿いだと思われる鈴井各国童話因んだ姿に扮する小ネタのうち、フィンランドでのムーミンは、DVDでは削除されている。

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水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説

7月2日(月) 日本新千歳空港成田国際空港カナダブリティッシュコロンビア州バンクーバーユーコン準州ホワイトホース 7月3日(火) カナダユーコン準州ホワイトホース水上飛行機でレイク・ラバージ(英語版)へ。レイク・ラバージでテント設営カヌー講習トイレ仕方などアウトドア訓練7月4日(水) カナダユーコン準州・レイク・ラバージ→カヌー漕ぎ始め、25km地点まで。 7月5日(木) カナダユーコン準州50km地点のフータリンカ(ドイツ語版)まで。 7月6日(金) カナダユーコン準州・110km地点のビッグ・サーモンまで。 7月7日(土) カナダユーコン準州・140km地点まで。 7月8日(日) カナダユーコン準州ゴールのリトル・サーモン(英語版)へ。 ロケ当時例年になく大量発生していたため、鈴井用を足すために尻を出した途端刺されてしまい「帰してくれぇー」とぼやいてしまう(後日、別番組大泉は「尻がぼこぼこ膨れ上がっていた」と語った)。この事態受けた大泉は、「塗布しすぎると『プラスチック溶ける』」と形容されるほど強力な虫除けスプレー多用して攻撃から露出部分防御しよう試みる。だが、股間周辺にまで塗布したためにヒリヒリとした痛み発症する事態引き起こし、川の中で薬剤洗い落とさざるを得なくなった前述のように水温低さで命に危険を及ぼす可能性高かったため、この時は熊谷からも短時間で洗うように指示され藤村Dからは「1分半で洗え」といわれた。 この企画でも「シェフ大泉」が登場し、「グレーリング飯」などの思い付き作った料理披露しどうでしょう班や熊谷ピートからの顰蹙を買った食べられないようなレベル仕上げるという、そのあまりにも低すぎる料理完成度危機感覚えた熊谷は「食材無駄にするから任せておけない」として、以後当番ではチャーハンの素などの加工物や、メイン使用しない食材野菜余りご飯等)だけを使用するよう大泉命じメイン食材調理担当にはピート任命される事態となった。 なお、四国R-14エンディングテーマである、In the Soupの「川」が本企画でもテーマソングとして使用された。 2016年リリースされた本企画収めたDVD副音声では、本企画事実上続編再訪)を示唆する発言があった(ただし乗り気ではない大泉外し、3人だけでいいから行きたいとも語った)。この企画インターネット放送インプレスTV2008年9月30日をもって休止)で無料視聴することができた。

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水曜どうでしょうの企画 (海外)」の記事における「旅程」の解説

7月1日(月) 日本HTB千歳成田→ ベトナム・ハノイ 7月2日(火) ベトナム・ハノイ・ホテル・ニッコー・ハノイ(スタート)→タインホアヴィン 7月3日(水) ベトナムヴィンドンホイフエ 7月4日(木) ベトナム・フエ→ハイヴァン峠ダナンホイアン 7月5日(金) ベトナム・ホイアン→クイニョン 7月6日(土) ベトナム・クイニョン→ニャチャン 7月7日(日) ベトナム・ニャチャン→カムラン国際空港ファンランダラット(ソフィテル・ダラット・パレス) 7月8日(月) ベトナム・ダラット→ホーチミン(ノボテル・ガーデン・プラザ・ホテル) ※注意屋久島第四夜でのベトナムホテルからのメッセージでは、7月12日収録、「前日最後の旅終わった」と話している。

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旅程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:36 UTC 版)

旅行記 (イブン・バットゥータ)」の記事における「旅程」の解説

1325年 タンジェからメッカ巡礼の旅に出発するトレムセンビジャーヤコンスタンティーヌ経てチュニス到着チュニス地方官の娘と結婚する1326年 タラーブルスアレクサンドリアカイロナーブルスサイダーなどを経由してダマスカス到着メディナメッカ向かい最初メッカ巡礼を果たす。 1327年 ワースィトバスラ経てエスファハン滞在シーラーズバグダード滞在タブリーズ、マウスィルへ向かったあとで再びメッカに戻る。 1328年 - 1329年 メッカ滞在1330年 巡礼大祭参加後紅海南下してイエメンへ向かう。 1331年 東アフリカアラビア半島南部旅する1332年 イラン南部、ハジャル、ヤマーマを経てメッカに戻る。インドへ向け出発上エジプトシリアから小アジアへ向かう。アクリードゥールに滞在し、ラーズィクを経てブルサ到着1333年 コンスタンティノープルへ出発ジョチ・ウルスロシア南部ヴォルガ・ブルガール経てコンスタンティノープル到着中央アジアのフワーリズムやカーブル経てインダス川到着し、スィンド地方経てデリー到着当地法官となる。 1334年 - 1340年 デリー滞在。イブラーヒム・ブン・ジャラール・ウッディーン・アフサーン・シャーの娘と結婚する1341年 法官辞してインダス川流域の町ムルターンザーウィヤ滞在1342年 スルタンから元へ使節任命されデリー出発1343年 インド洋マラバール海岸通過し、シンダーブールに滞在。カーリークートに戻った後にマルディヴへ向かう。 1344年 - 1346年 マルディヴを出発しスリランカ南インド経てマルディヴに戻った後、ベンガルスマトラ経て泉州到着広東杭州経て大都到着1347年 東南アジア経てカウラム到着。ザファール、マスカトホルムズイランイラクを巡る。 1348年 バグダード到着ダマスカスハマー経てアレッポ滞在イエルサレムアレクサンドリアカイロ向かいペスト被害目撃するカイロ滞在後にメッカ到着1349年 巡礼大祭参加後メディナガッザカイロへ向かう。アレクサンドリアから船で出発しガーベスチュニスサルディニア島トレムセンファース到着マリーン朝スルタンアブー・イナーン・ファーリス謁見1350年 - 1351年 タンジェ戻った後、ジハードのためにジブラルタル海峡渡ってアンダルス向かいロンダグラナダ到着。イブン・ジュザイイと会う。サラーマラケシュ経てファースに戻る。 1352年 シジルマーサ出発サハラ砂漠横断の旅を行いマーリー到着1353年 マーリー出発タカッダーシジルマーサ到着1354年 ダール・アッタマゥ到着ファースへ向かう。 1355年 巡礼記を終える。

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旅程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:33 UTC 版)

丹後杜氏」の記事における「旅程」の解説

鉄道敷設される明治時代末期までの出稼ぎ旅路はすべて徒歩よるもので、京街道京都までおよそ144キロメートル36里)を4日間、奈良・大和まではさらに1日要した。およそ半年分の身の回り品すべてを背負っての旅は楽ではなく旅路では気晴らし初め同道する若者余興に芸をやらせて笑い興じた出稼ぎ道中逸話では、馴染み茶屋で休む時は杜氏蔵人の分も茶代負担し茶屋夫人不在でも茶代置いていく律儀出稼ぎ者の性格や、通りすがり若者言いがかりつけられ大岩持ち上げて見せて撃退した力自慢の「丹後仙太郎丹後仙)」などの逸話残されている。1日目加悦に宿をとり、2日目三俣常宿があったが不慣れな者は足を引き摺る頃のため旅程を短縮することもあった。3日目八木亀岡泊まったが、疲労度天候によっては園部に宿をとった。この頃には但馬から女中奉公に出る娘と行き合うこともあり、道中の楽しみのひとつであったという。 1901年明治34年)に山陰線園部京都間で汽車開通したことにより、旅程は3日間に短縮された。鉄路開通に伴い、やがて旅のルート伊根から宮津宮津から舞鶴まで船に乗り舞鶴で1泊後、京都・奈良まで汽車旅となった

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