ロンドン万国博覧会
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ロンドン万国博覧会
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ロンドン万博
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)
「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「ロンドン万博」の解説
1851年の第1回ロンドン万国博覧会の準備はアルバートが取り仕切った。ロンドン万博の会場としてハイド・パークにデヴォンシャー公爵所有の豪邸チャッツワース・ハウスの温室をモデルにデザインされた30万枚のガラスで覆われた巨大な水晶宮(クリスタル・パレス))が建設された。 開会宣言はヴィクトリアが行なった。女王暗殺を警戒して開会宣言を内輪で行うべきとの意見もあったが、最終的にはヴィクトリア自身が公開して行うと決めた。世界30カ国以上が参加し、水晶宮には世界各地から集められた10万点の展示物が飾られた。ヴィクトリアは万博開催中の数か月間、気分が高揚してロンドン万博以外のことはほとんど頭になくなっていた。万博のすべてを見学しようと1週間に数回という頻度で水晶宮を訪れている。 ロンドン万博は140日の期間中にのべ600万人(リピーターや外国人も含む)も訪れたという。これは当時のイギリス人の人口の3分の1に相当する。収益も相当な額に上り、その収益と議会の創設した基金とでケンジントン地区再開発を行い、エクサビション・ロード(英語版)やクロムウェル・ロード(英語版)、クイーンズ・ゲート(英語版)などの道路が整備された(道路の名前は全てアルバートが命名した)。さらに1850年代にも万博実行委員会所有の土地を使ってロイヤル・アルバート・ホール、ヴィクトリア&アルバート博物館、ロンドン自然史博物館、サイエンス・ミュージアムなどを続々と創設した。 ヴィクトリアは1851年7月18日付けの日記に「我が愛する夫と我が国の功績に対して寄せられた平和の祈りと親善が大勝利を収めた」と書いている。 ロンドン万国博覧会が開催された水晶宮外観。 水晶宮内部を描いた絵画 水晶宮で万国博覧会の開催宣言を行うヴィクトリア。
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