全ドイツ労働者大会の開催準備
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「全ドイツ労働者協会」の記事における「全ドイツ労働者大会の開催準備」の解説
1862年8月25日にプロイセン王国・ベルリンで開かれた労働者集会でロンドン万博に派遣された労働者の報告を聞くため「全ドイツ労働者大会」を開催しようという提案がなされた。10月7日の労働者集会で全ドイツ労働者大会準備委員会が設置され、カジミール・アウグスト・アイヒラー(Casimir August Eichler) が委員長に就任した(ベルリン委員会)。同委員会はザクセン王国政府に11月28日にライプツィヒで大会を開くことの許可願を提出して許可を得た。 一方ライプツィヒでもフリードリヒ・ヴィルヘルム・フリッチュ(ドイツ語版)やユリウス・ファールタイヒ(ドイツ語版)を中心に独自の労働者組織が立ち上げられており(ライプツィヒ委員会)、ベルリン委員会のアイヒラーの親ビスマルク的な方針(ブルジョワ的反対派ドイツ進歩党を労働運動から排除してビスマルクの庇護を受ける方針)と対立を深めた。シュルツはベルリン委員会に対して全ドイツ労働者大会の創設準備は徹底的な準備の上で進めるよう要求し、結局ベルリン委員会は11月2日の集会において全ドイツ労働者大会の開催を延期するとともに大会開催準備の仔細をライプツィヒ委員会に委ねることを決議した。ライプツィヒ中央委員会は11月22日にザクセン王国内閣に対して流産した11月大会に与えられていた開催許可の延期を請願した。
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