開催準備
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1965年 10月9日 - 大阪国際博覧会準備委員会解散、財団法人日本万国博覧会協会(万国博協会)発起人会を開催。 10月15日 - 日本万国博覧会協会発足、大阪市東区に事務所を設置。 11月 - 日本国内航空に依頼し、航空写真測量図化の作業を実施。 11月2日 - 万国博協会第1回理事会開催、テーマ基本理念と統一テーマ「人類の進歩と調和」を決定。 11月25日 - 万国博協会会長に石坂泰三が就任。 12月21日 - 万国博協会に会場計画委員会を設置。 1966年 1月 - 大阪府立大学に依頼し、会場計画に関する土地造形基礎調査を実施。 3月23日 - 万国博協会第3回理事会にて一般規則・一般分類表を了承、正式名称を「日本万国博覧会」(略称:JEXPO'70)、会期を1970年3月15日から9月13日に決定。 4月6日 - 西山夘三、丹下健三をトップとする会場計画委員会が会場基本計画第1次案を提示。当初7案を考案、その後4案に絞り込む。 4月12日 - 日本万国博覧会担当大臣の設置を閣議決定、初代大臣に三木武夫通産大臣が兼任で就任。 4月19日 - 日本万国博覧会関係閣僚協議会設置を閣議決定。 4月20日 - 第4回理事会にてシンボルマーク決定、略称を「EXPO'70」に変更。 5月11日 - BIE第59回理事会にて日本万国博覧会の登録と一般規則・一般分類表を承認。宇宙開発・海洋開発・電子機械など最新の技術や公害などの社会問題、東洋文化や社会科学の追加、植民地部門の削除を主とした。 5月23日 - 会場基本計画第2次案を作成。 6月24日 - 万国博協会第7回理事会にてサブテーマ決定。 6月27日 - 日本万国博覧会特別措置法が参院で可決成立、7月1日交付。 9月3日 - 世界123か国21国際機関に招請状を発出。 9月6日 - 会場基本計画第3次案を作成。周辺部へのゲート4か所の追加、施設配置のコンパクト化、中央人工湖周辺へのパビリオン配置と周辺台地上への大規模館配置、中央のシンボルゾーンと東西南北各ゲートへの動脈的な装置道路の設置などとし骨子を整える。 9月30日 - 国内2,498団体に招請状発送を開始。 10月 - 第1次全体資金計画作成。運営費168.5億円、建設費546.65億円とする。 10月7日 - カナダ政府が第一号の海外政府参加表明。 10月15日 - 会場計画最終案を決定。 11月1日 - 1968年9月 日本専売公社が協賛タバコを第一次発売。 11月14日 - 会場基本計画を決定。 12月3日 - 2代目万国博担当大臣に菅野和太郎通産大臣が就任。 1967年 1月13日 - テーマソング「世界の国からこんにちは」発表。 1月25日 - 工事用道路着工。 2月10日 - 基幹施設プロデューサーを丹下健三に委嘱。 3月15日 - 第1回万国博デー、会場起工式を開催。地鎮祭では広大な敷地面積のため通常の形式で対応しきれないことから、泉殿宮の宮司がヘリコプターに乗り会場敷地上空からお祓いを行った。 4月1日 - 国内企業団体の出展参加受付を開始。 4月 - 近畿地区2府4県3政令市により第1回万国博協賛宝くじ発売。その後、全8回にわたり全10億円分発行され、4億円の協賛金を集める。 5月17日 - 敷地造成工事について8業者と請負契約を締結し着工。 7月7日 - テーマ館展示プロデューサーを岡本太郎に委嘱。 7月19日 - 万国博協会新井真一事務総長辞任、後任に鈴木俊一が就任。 8月1日 - 催し物プロデューサーを伊藤邦輔コマ・スタジアム専務取締役に委嘱。 8月22日 - 万国博関係閣僚協議会で関連公共事業を決定。 9月30日 - 国内企業団体の出展参加受付を終了、大阪17件・東京13件の計30件、希望敷地面積15万6,400平米の申し込みを受け付ける。 10月 - 国内参加者の希望敷地面積の予定超過にともない、娯楽地区北部に1万5,000平米、シンボルゾーン北部に1万平米の展示敷地拡張を決定。 11月 - 資料請求や問い合わせの急増にともない大阪・東京の万国博協会事務所にサービスセンターを開設、会場案内・資料配布・講師派遣・寄付受付を担当した。 11月25日 - 3代目万国博担当大臣に椎名悦三郎通産大臣が就任。 12月15日万国博協会に場内輸送委員会を設置。 色彩基本計画を策定。「色彩の時代」にふさわしいものとして、展示館は効果的な色彩かつ基幹施設は無彩色を基調とした。 12月20日 - 万国博協会に財務委員会を設置。 12月21日 - 日本万国博観光宿泊対策協議会設置。 1968年 1月1日 - 万国博協会に美術展示委員会を設置。 1月 - 第2次全体資金計画決定。運営費203.88億円、建設費523.64億円。 1月22日 - 入場券デザイナーを杉浦康平に決定。 1月23日 - 美術展示委員会第1回委員会開催。 3月近畿日本鉄道が場内輸送施設に関する報告書を作成。 GKインダストリアルデザイン研究所・磯崎新・福田繁雄による表示標識・ピクトグラムが完成。 3月12日 - 政府日本万国博覧会推進対策本部の設置を閣議決定。 3月15日 - 第2回万国博デー。皇太子が名誉総裁に就任。 会場立柱式挙行。地鎮祭に引き続いて泉殿宮宮司を斎主に木曽五十年杉の元柱を打ち込んだ。 万国博協会本部ビル着工。 会場南端部の丘陵に会場見学用の展望台を設置。 4月24日 - 万国博協会が全体資金計画を決定。建設費524億円、運営費283億円とする。 5月9日 - 第63回BIE理事会にて発展途上国の参加促進を目的に、モントリオール万博での「アフリカン・プレース」を発展させた万国博協会設計・建設による国際共同館「インターナショナル・プレース」の計画を承認。 5月27日 - 京都国際会館にて第1回参加国政府代表会議開催。 6月15日 - 日本航空をオフィシャルエアラインに指定。 6月18日 - 開幕1000日前に合わせ東京小田急百貨店、大阪近鉄百貨店、名古屋名鉄百貨店に開幕日までの残り日数表示をつけたカウントダウン大時計を設置。 7月1日 - カナダ館・鉄鋼館・古河パビリオン・三菱未来館を皮切りに展示館着工。 7月23日 - 会場用地買収を完了 8月21日 - 海外からの万国博資材海上輸送の第1便として神戸港にカナダ館建築資材が到着。 8月23日 - 第27回理事会で入場料決定。 8月31日 - 敷地造成完了。 10月1日 - 万国博診療所、宿泊インフォメーションセンター設置。 10月31日 - 1969年2月28日 - 第1期入場前売り券発売。 11月12日 - 第2回参加国政府代表会議開催。 11月29日 - BIE第64回理事会にて万国博覧会統一マークの制定を決定。 11月30日 - 4代目万国博担当大臣に菅野和太郎経済企画庁長官が再任。 1969年 1月22日 - 3月31日 - 外国人観客用の民宿家庭提供希望者を募集。 2月28日 - 電気通信館を担当する日本電信電話公社・国際電信電話の契約締結をもって全国内参加者との契約を完了。 3月15日 - 第3回万国博デー。郵政省が寄付金つき記念切手を発売。 - 8月31日 - 第2期前売り入場券発売。 3月31日 - 下水処理施設完成。 4月1日 - 万国博消防署設置。 5月1日 - 会場跡地利用問題懇談会発足。 5月27日 - 第3回参加国政府代表会議開催。 6月9日 - 会場敷地に万国博協会本部ビル完成。 7月15日 - 日本万国博観客輸送対策懇談会発足。 7月末 - 外国人観客用民宿380件(1,200人分)の決定を通知。 8月 - 場内地域冷房工事完成。 8月15日 - 万国博記念100円白銅貨発行決定。 8月22日 - 催し物プログラム・料金を決定。 9月 - 1970年8月 - 協賛タバコ第2回発売。 9月15日 - 1970年2月28日 - 第3期前売り入場券発売。 9月15日 - 記念メダル発売。 9月18日 - 入場者予測を3,000万人から5,000万人に修正。 9月20日イギリス館が展示館初完工。 海外からの万国博資材航空輸送第1便として、オーストラリア館用の花木が大阪国際空港に到着。 9月26日 - アクセス鉄道となる北大阪急行電鉄が試運転開始。 10月1日 - 千里ニュータウン新千里東町地区の26棟878戸を用い外国人要員用宿舎開設。 10月6日 - 万国博郵便局、電報電話局業務開始。 10月25日 - 万国博電報電話局完成。 10月27日 - モノレール全線完成。 10月31日 - 万国博美術館竣工。 11月1日 - 会場警察隊発足。 11月10日 - 阪急千里線臨時駅「万国博西口駅」営業開始。 11月14日 - BIE第66回理事会にて松島正矩デザインによる万国博覧会統一マークを制定。 11月16日 - アイルランドが参加表明、参加国数が万博史上最多の77か国となる。 12月1日 - プレスセンター開館。 12月3日 - 17日 - 第1回プレスプレビュー開催。 12月5日 - 佐藤栄作総理大臣が万博名誉会長に就任。 1970年 1月1日 - 会場内主要建物番号を発行。 1月14日 - 5代目万国博担当大臣に宮沢喜一通産大臣が就任。 1月21日 - 第4回参加国政府代表会議開催。 1月31日 - 万国博ホール、身体障害者センター竣工。 1月末 - 人工池設備竣工。 2月 - 道路工事、駐車場施設完成。 2月10日 - 3月10日 - 第2回プレスプレビュー開催。 2月21日 - 会場見学展望台を閉鎖。 2月23日 - シエラレオネとの契約締結をもって全外国政府参加者との契約締結が完了。万国博覧会統一マークの原旗が完成、贈呈披露式が行われた。 2月24日 - 北大阪急行電鉄営業開始。全国都道府県から選ばれた通訳ホステス150人と、ミス万国博232人の合同任命式が行われた。 2月28日 - エキスポタワー、中央・東西南北各入場口竣工。 3月1日当日入場券発売開始。 一部展示館に冷水供給を開始。 千里ニュータウン竹見台地区の高層住宅2棟442戸を用い外国人宿舎第2・第3宿舎開設。 3月3日 - 万国博覧会統一マークの原旗がパリのBIEに寄贈された。 3月10日 - 万国博記念100円白銅貨を発行、7月9日にも第2次発行。お祭り広場・テーマ館完成。 3月12日 - 最終プレスプレビュー「グランドプレビュー」開催。会場内小建物への建物番号発行。 3月13日 - ケベック州の契約締結をもって全外国参加者との契約締結が完了。 3月 - 最終全体資金計画として運営費を354.3億円とする。
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開催準備
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「シェルター・アイランド会議」の記事における「開催準備」の解説
会議はロックフェラー医学研究所で電気化学を研究する科学者ダンカン・マッキネスが起案した。嘗てニューヨーク科学アカデミー(英語版)の代表であったマッキネスは、既に多数の小規模な科学会議を主催していた。しかし会議が回を重ねると参加者の肥大化により支障が出てくると考え、この問題で1945年1月にアカデミーを辞任した。この年の秋にマッキネスは、参加者を20人から25人に制限し期間を2、3日とする一連の会議を開催する案を携えて米国科学アカデミー(NAS)に打診した。NASの代表フランク・B・ジュエット(英語版)は、この案に好意を寄せ、「参加者が仲良く滞在できる静かな場所での会合を」、それも可能なら「どこかの宿舎で」開くことを考え、マッキネスにそのための試行的会議を計画するよう促した。マッキネスが最初に選んだ議題案は、自身が関心を寄せていたテーマに近い「生体電位の性質」だった。二番目の案は当初「量子力学の仮説」だったが、後にこれが「量子力学の基礎づけ」となった。 ベル研究所の理論物理学者でアメリカ物理学会の幹事であるカール・K・ダロー(英語版)は、量子力学会議の開催に協力を申し出た。二人はソルベー会議初期の成功例を手本にしようと決め、この分野で経験のあるレオン・ブリルアンに相談した。するとブリルワンはプリンストンのプリンストン高等研究所勤務で、ノーベル賞を受賞して間もないヴォルフガング・パウリに相談するようすすめた。 1946年1月、マッキネス、ダロー、ブリルワン、パウリは、ニューヨークで会い、書簡を交換した。パウリはこの問題に熱心であったが、第一の関心事は戦禍を受けた国際的な物理学界をひとつにまとめることにあった。パウリは多数の古参の外国人物理学者を招く大規模な会議を提案し、これをマッキネスは非常に残念に感じた。ジュエットの激励を受けて、マッキネスはパウリに、ロックフェラー財団は小規模な会議だけを支援するつもりだと説明し、ジョン・ホイーラーのような「若手」の会議とする提案にしてほしいと依頼した。パウリとホイーラーは、マッキネスが提唱する会議は1947年にデンマークで開催される波動力学に関するニールス・ボーアの会議と統合されるかもしれないと答え、いずれにせよニールス・ボーア研究所がロックフェラー財団と近い関係であることを指摘した。ダローはホイーラーへの手紙で、ボーアの会議はアメリカ人学者を殆ど惹きつけず会議の代替として貧弱だと書いた。最終的にシェルター・アイランド会議は明確にアメリカ人学者のための会議とされた。ダローが会議の議長になった。
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