開催決定に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 04:20 UTC 版)
「1940年札幌オリンピック」の記事における「開催決定に至る経緯」の解説
1936年のベルリンで開催された国際オリンピック委員会(IOC)総会で、1940年夏季オリンピックの開催地が日本の東京に決定し、当時のオリンピック憲章では夏季オリンピック開催国が冬季オリンピックの開催地の優先権を認められており、それに向けて全日本スキー連盟は札幌、日本スケート連盟は東京に近い日光を適切地としその後霧ヶ峰、乗鞍、志賀高原、菅平が開催地に立候補し、日本体育協会は1936年3月18日の「冬季競技調査委員会」にて札幌を第一候補に決定した。 しかし、ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックにて、有力なスキー選手が出場不能となった要因であるアルペンスキーのインストラクターをプロ選手としてオリンピック出場資格を与えない方針のIOCと、反対する国際スキー連盟(FIS)の対立や日本の開催能力不足しているのではないかとの懸念、ノルウェーからの強い開催主張により議論となり、1937年ワルシャワでのIOC総会にて以下の条件付きで札幌での開催を仮決定した。 日本の開催困難が来年3月のIOCカイロ総会までに決定的となった場合はノルウェーでの開催とする 副島伯(副島道正)はノルウェーの開催意思を日本へ持ち帰りなるべくノルウェーに開催権を譲るべき事を伝える ノルウェーは夏冬のオリンピックを切り離す(1944年大会以降夏冬の開催国を別々とする)オリンピック憲章改正案をカイロ総会まで保留する その後中島公園への屋外スケートリンク建設や神社山でのボブスレーコース測量、無線電話やテレビ放送の研究等といった準備を進め、1938年1月にはガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックを監督し東京オリンピックの技術顧問を務めるヴェルナー・クリンゲベルクが札幌の準備状況を視察したが問題を指摘する発言は見られなかった。 1938年3月、カイロでのIOC総会ではクリンゲベルクの支持に加え「札幌グランドホテルの100名分増築」「高等小学校を新築し選手村に充当する」「選手待遇費として一人頭500円を外来選手役員に支出する」といった支援策を表明し札幌での開催が正式決定した。
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