開催権返上へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 00:18 UTC 版)
「1940年東京オリンピック」の記事における「開催権返上へ」の解説
このように開催に向けた準備が進む一方で、1937年3月20日の衆議院予算総会では河野一郎(政友会、後に日本陸上競技連盟会長)が「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがと思う」旨を発言。しかし当時これを真剣に受け取る者はいなかった。 カイロ総会前には、日独伊防共協定を巡り日本と対立していたイギリスだけでなく、大会開催権を争って敗北していたフィンランドからも、東京開催の中止と「漁夫の利」を目論んでのヘルシンキでの代替開催を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国も開催都市変更を要望してきた。 イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任する事態となった。また、ド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が約150通寄せられており、ド・バイエ=ラトゥールから日本に対し開催辞退の話が持ちかけられてきた。だが東京大会の委員はこれを一蹴し、ド・バイエ=ラトゥールもこれ以降掘り下げるのはやめた。 しかし、日中戦争の長期化により鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫した為競技施設の建設にも支障が生じ、東京市の起債も困難となってきた。さらに陸軍大臣・杉山元が議会において五輪中止を進言し、陸軍が軍内部からの選手選出に異論を唱えるものもでた。そのうち河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。それまで五輪開催を盛り上げる一翼を担ってきた読売新聞や東京朝日新聞などでは、五輪関係の記事がこの年の半ばから打って変わって縮小している。 その上、5月に東京での開催に大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途、氷川丸船上で病死するに至り、軍部からの圧力を受けた内閣総理大臣の近衛文麿公爵は、同年6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の各資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中に五輪の中止が明記されていたことから、事実上五輪の開催返上が内定した。
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