日中戦争
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「日中全面戦争」
第二次上海事変
- 上海での中国側報復と日本軍増派
同8月9日、上海の非武装地帯で日本軍上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が中国保安隊に30発以上の銃撃を受けたあと、顔が潰され、胴体に穴をあけるなどして殺害された (大山事件)[29][30]。当時非武装地帯には保安隊の制服を着せた中国正規軍が投入されており[29][30]、また1932年の休戦協定を無視してライフル、機関銃、カノン砲などを秘密裏に持ち込んでいた[29]。翌8月10日、上海領事は国際委員会で中国の平和維持隊の撤退を要求し、外国人委員はこれに賛成し、O.K.ユイ(兪鴻鈞)中国市長も全力をあげて解決すると述べたが、翌8月11日、O.K.ユイ中国市長は「私は無力で何もできない」と日本側へ通告した[29]。 8月12日、中国軍部隊が上海まで前進し、上海日本人租界区域を包囲した[29]。8月13日早朝、日本海軍陸戦隊へ攻撃をしかけた[29]。8月13日午前9時20分、現地で包囲していた中国軍が機銃掃射攻撃を開始し、日本軍陸戦隊は午後3時55分に応戦を開始した[31]。中国軍はさらに午後5時頃爆破砲撃を開始した[30]。
8月13日、第1次近衛内閣は閣議決定により上海への陸軍派遣を決定[30]。また同8月13日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた[29]。
翌8月14日には中国空軍は上海空爆を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人を含む千数百人の民間人死傷者が出た[30][31]。
第二次上海事変の勃発により日中全面戦争に発展した[注釈 5][33][注釈 6][注釈 7][注釈 8]。日本政府および軍部は上海への戦火波及はのぞんでいなかったとする見解もある[29][31]。近衛内閣は8月15日、「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、戦争目的は排日抗日運動の根絶と日本満洲支那三国の融和にあるとされ、上海派遣軍が編成された[30][37]。一方、同8月15日に中華民国も全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蔣介石が就任、戦時体制を確立し、さらに中国共産党も同8月15日に『抗日救国十大綱領』を発表し、中国全土での日中全面戦争となった[31]。
その後、8月下旬、蔣介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦のゲーペーウー(GPU)による殺戮政治の如き」漢奸狩りを開始した[38]。上海南市老西門広場では、毎日数十人が漢奸として処刑され、総数は4,000名に達し、中には政府官吏も300名以上含まれていた[39]。罪状は井戸、茶壺や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持で、警察官によって裏切り者に対する警告のために処刑された者の首が晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された[40]。
- 渡洋爆撃
同8月15日、日本海軍は渡洋爆撃を開始[31]。15日より16日にかけて、海軍航空隊の96式陸攻38機が、南昌・南京・広徳・杭州を台南の新竹基地と長崎大村基地からの渡洋爆撃を行った[41]。15日より30日にかけて、同軍のべ147機が済州島・台北から出撃。広徳・南昌・南京などを空襲。未帰還機14機、大破13機。
8月17日、日本政府は従来の不拡大方針を放棄し、戦時体制の準備を講ずると閣議決定した[30]。
8月18日、イギリスは日中双方に対して双方の軍の撤退と、租界の日本人保護は外国当局に委任してくれれば責任をもって遂行すると通告、フランスもこれを支持した[29]。しかし日本政府はすでに戦闘が開始しているためこれを丁重に辞退した[29]。
8月20日日本海軍、漢口爆撃[41]。 8月21日、中ソ不可侵条約が締結され、5年間はソ連は日本と不可侵条約を締結せず、また中国は第三国と防共協定を締結しないという約束がなされ、まずは戦闘機50機の空輸が上申された[42]。8月22日には西北地域の共産党軍(紅軍)を国民革命軍第8路軍に改編、総兵力は32000[31][43]。
8月23日、日本陸軍が上海上陸開始[44]。しかし中国軍の抵抗が激しく、一日100mほどしか前進できなかった[44]。
南京駐在英国大使ヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセンが銃撃を受けて重症を負い、同行の大使館職員が日本海軍機の機銃掃射によるものであると主張したが、日本海軍が自軍による機銃掃射を否定したため、イギリスの対日感情が悪化し、約一か月後に解決した。
ニューヨーク・タイムズの1937年8月30日付記事では「北京での戦闘の責任については見解がわかれるかもしれないが、上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と報道した[29]。
1937年8月31日に日本陸軍支那駐屯軍は廃止され、北支那方面軍・第1軍・第2軍へと編成される[45]。
- 9月2日 - 日本、北支事変を支那事変と改称。
- 9月5日 - 日本海軍、中国大陸沿岸の封鎖を宣言。
- 9月9日 - 山西省の陽高で、関東軍が中国人を虐殺する陽高事件が発生する。
- 9月13日、国民政府、日本軍の行為を国際連盟に提訴。
- 9月14日 - 日本軍(北支那方面軍)、北平・天津より南進を開始。保定攻略。
- 9月15日-22日 - 日本海軍航空隊、広東方面攻撃[41]。22日までに中国空軍、全滅[要出典][注釈 9]。広東空襲に際し国民政府は赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、一週間で100人以上がスパイ容疑で処刑される(漢奸狩り)[46]。
- 9月21日-22日 - 日本陸軍航空部隊、太原飛行場を爆撃。同21日には国際連盟の日中紛争諮問委員会が開催[41]。
- 9月22日、第二次国共合作が成立する[31]。
- 日本海軍航空隊は9月23日に南昌を、翌日の9月24日に漢口を爆撃する[41]。
- 国際連盟の日本空爆への非難決議
1937年9月28日 - 国際連盟の日中紛争諮問委員会、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍による「無差別攻撃」は同年4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲だとされた。
他方、1937年10月、ローマ法王ピオ11世(在位:1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」と声明を出した(バチカン・シチー特電 昭和12年10月14日 発。『東京朝日新聞』夕刊、昭和12年10月16日)。[要検証 ]。東京朝日新聞は「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解するものであり、知己の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と評価した[47]
和平交渉決裂・南京占領
上海攻略後、日本は和平工作を開始し(トラウトマン工作)、1937年11月2日にヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使に内蒙古自治政府の樹立、華北に非武装中立地帯(冀東防共自治政府があった場所)、上海に非武装中立地帯を設置し、国際警察による共同管理、共同防共などを提示し、「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されている和平条件は11月5日にオスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使に示され、「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告したにも関わらず蔣介石はこれを受理しなかった[48]。蔣介石が受理しなかったのは11月3日から開かれていたブリュッセルでの九カ国条約会議で中国に有利な調停を期待していたためとされるが、九カ国条約会議は日本非難声明にとどまった[48]。その後、トラウトマン大使は蔣介石へ「日本の条件は必ずしも過酷のものではない」と説得し、12月2日の軍事会議では「ただこれだけの条件であれば戦争する理由がない」という意見が多かったこともあり、蔣介石は日本案を受け入れる用意があるとトラウトマン大使に語り、これは12月7日に日本へ伝えられた[48]。その後、日本は南京攻略の戦況を背景に要求を増やし、賠償や永久駐留や傀儡化を含む厳しい条件にした。結果、日中和平交渉は決裂した[49]。
- 1937年11月5日 - 日本軍第10軍、杭州湾に上陸。
- 11月7日 - 中支那方面軍編成。
- 11月8日 - 日本軍(北支那方面軍)、太原占領。
- 11月9日 - 蔣介石、上海から撤退命令。
- 11月11日、日本軍、上海の最後の拠点南市を占領する[44]。同日、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンは蔣介石に即時参戦の拒否を伝え、中国が不利になればソ連は日本と開戦すると述べた[42]。
- 11月19日には中支那方面軍が蘇州攻略。
- 11月20日 - 日本、大本営設置。同11月20日、国民政府(蔣介石)、南京より重慶移駐を決定[50]。
- 11月21日、ソ連機が南京で対日戦に参加[42]。12月末までに南京のソ連義勇兵は3665人となった[42]。
- 11月22日 - 日本、内蒙古に蒙疆連合委員会を樹立させる(後に蒙古連合自治政府)。
- 日本軍中支那方面軍、11月27日に無錫、11月29日、常州を攻略。11月28日、日本軍は上海の電信、無線局、中国政府機関を押さえた[29]。
- 南京戦
- 12月1日 - 大本営、中支那方面軍に南京攻略を許可(南京戦)。
- 12月1日 - 蔣介石からの参戦の催促に対してソ連のスターリン共産党書記長は、「日本の挑戦もなく参戦すると侵略行動とみなされ、国際世論で日本が有利になる」と返答し、単独参戦を拒否した[42]。
- 12月10日 - 日本軍(中支那方面軍)、南京攻撃開始。
- 12月12日 - 中華民国(国民党)軍南京防衛司令官の唐生智大将が南京から逃走。同日、パナイ号事件が起きるが、アメリカは日本側の謝罪と賠償を受け入れた。
- 12月13日 - 日本軍が南京を占領した[51]。国府軍捕虜、敗残兵、便衣兵、民間人の大量殺害や強姦を日本軍が行った南京事件が起きたが、事件について論争がある。。
- 12月14日、日本、北京に中華民国臨時政府を樹立。
- 12月17日、中支那方面軍、南京入城式。12月18日、日本の陸海軍合同慰霊祭を南京故宮飛行場において挙行[52]。
- 12月23日、南京で自治委員会が設立、治安が回復する[53][54]。
- 華北
- 華北では12月23日、第十師団が黄河を渡り、12月27日には山東省済南を占領、翌1938年1月11日には山東省済寧を占領する[55]。
- 1938年1月1日、南京自治委員会の発会式が挙行される。
- 1月10日 - 海軍陸戦隊が青島を占領[55]。
- 1月11日 - 御前会議、「支那事変処理根本方針」を決定。
- 1月16日、日本政府は「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)を出し、日中和平工作が打ち切られた[49]。
- 2月7日 - 中ソ航空協定締結。3月1日、中ソ間で3000万米ドルの借款が締結された[42]。1937年9月から1941年6月までの間にソ連は中国に、飛行機924機(爆撃機318、戦闘機562ほか)、戦車82両、大砲1140門、機関銃9720丁、歩兵銃50000丁、弾薬1億8000万発、トラクター602両、自動車1516両であった[42]。
- 2月14日 - 中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍を廃止、中支那派遣軍が編成される[55]。
- 3月28日 - 日本、南京に中華民国維新政府を樹立させる。
- 4月1日 - 日本、国家総動員法公布。
徐州攻略
4月、中国広西軍は山東省台児荘で日本軍部隊5000兵力を包囲し、壊滅させ[要出典]、中国の民衆は非常に喜んだ[56]。日本軍は中国軍主力が徐州に集中していると判断し[56]、1938年4月7日 - 大本営、北支那方面軍・中支那派遣軍に協力して徐州を攻略するよう(徐州会戦)下命した[55]。5月10日、日本軍、廈門を占領。5月15日、中国軍は徐州を放棄し逃走したので中国軍兵力の殲滅には失敗することとなった[55]。5月19日 - 日本軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)、徐州占領[55]。
- 5月20日 - 中国軍機2機が九州へ飛来してビラ散布。
- 5月26日 - 近衛内閣改造によって6月3日には中国戦線の板垣征四郎が陸軍大臣、次官に東条英機関東軍参謀長が起用され、中央政府に関東軍勢力が入った [55]。関東軍は華北分離をめざし、また蔣介石への不信を持っていたが、宇垣一成外務大臣は蔣介石を高く評価しており、対中観が対立していた [55]。宇垣一成外務大臣は香港の中村豊一領事に、国民党孔祥熙の秘書喬輔三との和平工作(宇垣工作)を6月から9月まで進行させた[55]。
漢口・広東攻略
1938年6月、蔣介石ら中国軍による黄河決壊事件により河南、江蘇省、安徽省の3000平方キロメートルの土地が水没し、民間人の被害は数十万人となった[56]。日本は6月15日、御前会議で漢口・広東攻略を決定した[55]。1938年7月4日、中支那派遣軍に第2軍、第11軍が編入され、武漢攻略作戦の態勢がとられた[55]。7月11日〜8月10日の日ソ武力衝突張鼓峰事件が解決したのち、8月22日から日本軍、武漢三鎮を攻略開始する(武漢作戦)[57]。10月12日、第2軍が信陽を占領[57]。
広東攻略を命じられた第21軍(兵力7万)は1938年10月9日、台湾を出発、10月12日にバイアス湾上陸し、10月21日に広東を占領、日本軍の損失は戦死173、戦傷493だった[57]。
- 10月27日 - 日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領。武漢作戦の兵力は35万、第2軍戦死2300、戦傷7300、第11軍戦死4506、戦傷17380人だった[57]。武漢と、広東の占領によって日本の軍事行動は頂点に達した[57]。武漢陥落によって蔣介石は重慶に政府を移した[50]。
- 日本の東亜新秩序宣言
- 1938年11月3日 - 近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めないと述べたうえで、日本の目的は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り」、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まないとの東亜新秩序声明(第二次近衛声明)を出した[57]。蔣介石は12月28日、「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図していると批判、アメリカ合衆国も承認できないと日本を批判した[57]。
12月6日決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した[57]。12月16日、中国政策のための国策会社興亜院が成立する[57]。
- 汪兆銘の重慶脱出と日本の対応
12月18日には蔣介石との路線対立で汪兆銘が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう[58]。12月22日、近衛首相が近衛三原則を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった[58]。12月25日、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蔣介石は12月26日に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した[59]。しかし、汪兆銘は12月30日の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した[59]。1939年1月1日、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した[59]。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された[59]。
1939年(昭和14年)1月4日、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる[57]。
1939年の作戦としては1月からの重慶爆撃[50]、2月10日の海南島上陸、3月の海州など江蘇省の要所占領、3月27日の南昌攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった[58]。阿部信行大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた[58]。
- 4月 - 中国軍、南支で春季反撃作戦。
5月3日 (中攻45機)と4日 (中攻27機)に海軍航空隊が焼夷弾爆撃を実施した。重慶防空司令部の調査によると両日で焼死者3991名、負傷者2323名、損壊建物846棟に達し、英大使館、仏領事館、外国教会にも被害が及んだ[60]。
- 5月初め - 日本軍、襄東作戦。
- 5月7日、板垣陸相は、支那事変が解決されないのはソ連とイギリスの援助によるとして、ドイツとイタリアとの軍事同盟が必要と五相会議で述べた[58]。
- 5月11日、ノモンハン事件勃発(日ソ武力衝突)。
- 6月13日 - ソ連、国民政府に対し1億5000万ドルの借款を供与。
6月14日に日本軍は天津のイギリス租界を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった[58]。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした[58]。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた[58]。
- 6月21日 - 日本軍、汕頭占領。
イギリスが日本に一歩後退したのに対してアメリカ合衆国は7月26日、日米通商航海条約の廃棄を突然、日本に通告し、日本側は衝撃をうけた[58]。11月にはグルー駐日アメリカ大使との会談がはじまるが、12月22日、アメリカは中国で日本軍が為替、通貨、貿易など全面的な制限を行っている以上、協定の締結は不可能として拒絶した[58]。
- 8月23日 - 独ソ不可侵条約締結。8月28日、平沼内閣、総辞職、阿部信行内閣となる[58]。
- 9月1日 - 欧州で第二次世界大戦勃発。阿部内閣は不介入を声明する[58]。
- 9月15日 - ノモンハン事件停戦協定成立。
- 9月下旬 - 日本軍、贛湘作戦、(贛は、江西地域のこと)。
- 10月 - 日本軍、翁英作戦。
- 11月7日 - 北支で日本兵捕虜が日本兵士覚醒連盟を結成。
- 11月 - 日本軍、援蔣ルート遮断を目的とする南寧作戦を実施。24日に南寧占領。
- 11月30日 - 日本政府、フランスに仏印経由での援蔣行為の停止を要求。
- 12月 - 中国軍、全戦線で冬季大攻勢を開始。崑崙関の戦い。
- 12月13日 - 日本軍、九宮山作戦。
- 12月 - 日本軍、陸水作戦。
- 12月25日 - 桂林で鹿地亘らが日本人民反戦同盟を結成。
汪兆銘南京政府樹立
1939年5月汪兆銘は来日し、1939年6月に平沼内閣は中国新政府樹立方針、汪工作指導要綱を発表、前年11月30日の日支新関係調整方針を和平条件とした[59]。その後、汪兆銘は中国の各地方政府を周り、意向を打診、11月1日、上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北に防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対して汪側は太原〜石家荘〜滄州のライン以北に限定するよう日本側に大きく譲歩した上で要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求した[59]。12月30日、日華新関係調整要綱が成立[59]。
1940年(昭和15年)1月、阿部内閣から米内内閣に変わった[58]。 1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた[59]。これによって蔣介石の支持層が拡大した[59]。
- 1月下旬 - 日本軍、賓陽作戦。
- 2月2日 - 日本、衆議院で斎藤隆夫議員が対中国政策を批判(反軍演説。3月7日議員除名)。
- 3月30日 - 汪兆銘、南京で親日政府樹立(中華民国南京国民政府)[59]。
三国同盟と英米交渉
1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は6月24日、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蔣行為の停止を要求した[58]。
5月18日より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する一〇一号作戦が10月26日まで実施された[50]。6月12日には宜昌占領[50]。6月24日から6月29日までは連続して猛爆が行われた [50]。
- 1940年7月11日、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と協調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって[59] 倒壊し、7月21日に第二次近衛内閣が成立する[58]。
7月18日、英国、日本の要求に応じ援蔣ルート(ビルマルート)を閉鎖[50]。 7月26日、基本国策要綱で「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神」が唱えられた[50]。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された[50]。8月1日、松岡外相は日本満洲シナを一環とする大東亜共栄圏確立という外交方針を発表した[50]。
- 8月20日〜12月5日 - 20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃し、大攻勢をかけた百団大戦が展開される[61]。日本軍は不意をつかれ、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃によって八路軍の抗日根拠地の掃討作戦を開始し、中国はこれを三光作戦と呼んだ[61]。この掃討作戦では毒ガスも使用されたといわれ、八路軍の抗日根拠地のなかには人口が3分の2になった地区もあった[61]。
- 1940年9月14日、松岡外相は陸海軍首脳会議において「英米との連携は不可能ではないが、しかしそのためには支那事変を処理しなくてはならず」「残された道は独伊との提携」と主張、陸海首脳はこれに同意した[50]。9月23日、日本軍、北部仏印進駐。9月25日、米国、国民政府に対し2500万ドルの借款を供与。9月27日には日独伊三国同盟が締結される[50]。9月30日、米国、鉄鋼・屑鉄の対日輸出を禁止する法令を発布[50]。日本はこれに抗議したが、ハル国務長官は、アメリカの国防上の判断であるとして抗議を拒絶した[50]。
- 9月末 - 日本陸軍今井武夫大佐らの蔣介石夫人宋美齢の弟宋子良への日中和平工作(桐工作)を行っていたが、進展せず、断念(のちに宋子良を称した人物は偽物で、この和平工作は藍衣社の戴笠の指揮下に行われていたことが分かっている)[50]。
- 10月4日、イギリスはビルマルート再開を中国側に通知する[50]。同日、日本軍731部隊が衢県において細菌戦を実行したとされる[62]。
- 10月23日、日本首脳会議で英米依存経済から自給圏確立のために南方問題を武力解決する方針が確認された[50]。
- 11月〜12月 - 日本軍、漢水作戦。11月には支那派遣軍の兵力は20個中隊、総計72万8000人であった[50]。11月23日日本は御前会議で支那事変処理要綱を決定、これは1938年11月30日の日支新関係調整方針と比較すると宥和的なものであった[50]。11月30日、日本は汪兆銘南京政府と日華基本条約に調印し日満華共同宣言を発表、南京政府を中国中央政府として正式承認した[50]。米英は即座に汪兆銘政府を否認、米国は国民政府に対して借款の追加供与1億ドル、12月10日には英国も国民政府に一千万ポンドの借款を供与すると発表した[50]。12月11日、ソ連も国民政府に対し1億元の借款を供与(バーター決済)。12月13日、蔣介石はアメリカに航空機5〜10%の提供、日本本土遠距離爆撃のためにB17戦略爆撃機を要請した[50]。
- 12月18日 - 英国、援蔣ルート(ビルマルート)を再開。
- 1941年(昭和16年)1月7日、国民政府の移動命令に応じなかった共産党との間で対立が激化し、国民党軍の包囲作戦によって共産党軍は壊滅的打撃を受けた(皖南事変)[50]。1月25日、蔣介石はスターリンに軍律の問題に過ぎないと答えた[50]。
- 1月〜2月 - 日本軍、予南作戦、3月15日、錦江作戦。
- 4月 - 米国、国民政府に5千万ドル借款成立、中ソ中立条約成立[要出典]。
- 4月13日 - 日ソ中立条約調印。蔣介石は衝撃を受けるが、ソ連は軍事援助はこれまで通り継続するとした[63]。
注釈
- ^ 日支事変 (満洲事変と上海事変の総称として使用された例もある)や日華事変とも呼称される。
- ^ 中国語圏では、抗日戦争[5]、八年抗戰、中日戰爭、中国抗日戦争、中国人民抗日战争、八年抗戦などと呼称される。
- ^ 英語圏では、1894年 - 1895年の日清戦争を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第一次支那日本戦争")」などと称し、1937年 - 1945年の日中戦争は「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第二次支那日本戦争")」などと呼称される。
- ^ 当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了[24]
- ^ 「第2次上海事変はついに日中全面戦争に発展するにいたった。」[32]
- ^ 「第二次上海事変により (中略) 日中戦争は日中全面戦争化、長期戦化する様相となった」[34]
- ^ 「[全面化] 八月一四日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌一五日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。」[35]
- ^ 「八月に入って第二次上海事変が起こり、戦火は華中一帯にひろがった。中国全土を巻きこんだ日本と中国との全面戦争となった。」[36]
- ^ 『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。日置英剛編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005)[要ページ番号]
- ^ 当時、英国は劣勢にあり、戦局打開のため欧州戦線への米国の介入を強く希望していた
- ^ この状況は1939年に作成された日本映画『土と兵隊』(田坂具隆監督)にも描写されている。
- ^ 日本国との平和条約第14条(b)「連合国は、連合国の全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄」
- ^ 「中華民国は日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、日本国が提供すべき役務の利益(賠償)を自発的に放棄する」[94]
- ^ 第174回国会衆議院法務委員会(2010年5月11日)における西村智奈美外務大臣政務官の発言「サンフランシスコ平和条約十四条と日華平和条約の関係からまず申し上げますと、日華平和条約第十一条及びサンフランシスコ平和条約第十四条(b)により、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権は放棄されております。一九七二年の日中共同声明第五項に言うところの戦争賠償の請求は、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権を含むものとして、中華人民共和国政府がその放棄を宣言したものでございます。したがって、さきの大戦に係る日中間における請求権の問題につきましては、個人の請求権の問題も含めて、一九七二年の日中共同声明発出後、存在しておらず、このような認識は中国側も同様であるというふうに認識をしております。」[101]
- ^ 「サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる処理が行われたものと解することはできない」。また条約法に関するウィーン条約34条では第三国の義務や権利を当該国の同意なしに創設できない、35条では当該国が書面により当該義務を明示的に受け入れる場合に限って義務を負うと定めており、中国はサンフランシスコ平和条約と日中共同声明の枠組みを肯定しており、それ以外の義務を書面で確約したことはない。
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