織田信長 後世の評価

織田信長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 23:11 UTC 版)

後世の評価

「凶逆の人」から勤王家へ

織田信長の浮世絵、歌川国芳

江戸時代にあっては、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉らとは異なり、一般的に信長の評価は低かった[435]。儒学者の小瀬甫庵新井白石太田錦城らは、いずれも信長の残虐性を強調し、極めて低く評価した[435]

例えば、新井白石の信長評は、親族を道具のように扱い、主君である足利義昭を裏切り、大功のあった老臣・佐久間信盛らを追放し、言いがかりをつけて他の大名を滅ぼした「凶逆の人」であるというものであった[436]。そして、白石は「すべて此人(信長)天性残忍にして詐力を以て志を得られき。されば、其終を善せられざりしこと、みづから取れる所なり。不幸にあらず」と述べ、信長の死を、残虐性ゆえの自業自得だと位置付けた[436]

ただし、江戸幕府の立場から見た場合、信長は徳川家康の同盟者であり、なおかつ徳川信康を自害に追い込んだ人物である以上、幕府としては信長が「神君」家康さえも従わせる絶対的権力者であったことも示す必要性があり、江戸幕府の正史である『徳川実紀』(「東照宮御実紀」巻2)では家康と共に天下統一を目指す存在としての評価もなされた[437]。民衆のあいだでも信長は不人気であり、歌舞伎浄瑠璃などにおいても、信長は悪役・引き立て役に留まっている[435]

このように信長に対する酷評が広まった状況にあって、信長を再評価したのが、頼山陽である[435]。江戸時代後期の尊王運動に多大な影響力を有したことで知られる[438]頼山陽の『日本外史』は、信長を「超世の才」として高く評価した[439]。『日本外史』は、信長の勤王家としての面を強調する[439]。そして、中国後周の名君・世宗の偉業が趙匡胤北宋樹立に続いたのと同じように、信長の覇業こそが、豊臣・徳川の平和に続く道を作ったのだと述べる[439]

夫れ応仁以還、海内分裂し、輦轂の下、つねに兵馬馳逐の場となる。右府[注釈 91]に非ずして誰か能く草莱を闢除し、以て王室を再造せんや。 — 頼山陽『日本外史』[439]

また国学者からも、日本の統一者として、後醍醐天皇と対立した足利氏への否定的見解と相まって高く評価された。例えば、本居宣長は『玉鉾百首』の中で「しづはたを織田のみことはみかどべをはらひしづめていそしき大臣」という歌を詠み、「此大臣(=織田信長)、正親町天皇の御代永禄のころ、尾張国より出給ひて、京中の騒乱をしづめ、畿内近国を討したがへ、復平の基を開き、内裏を修理し奉りなど、勲功おおひなること、世の人よくしれる事なり」と高く評価した[440]

幕末の志士たちも、御料所回復等を行っていたことなどを評価して、信長を勤王家として尊敬した[441]。明治2年(1869年)になると、明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した[442]。明治3年(1870年)、信長の次男・信雄の末裔である天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が、東京の自邸内と藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した[442]。信長には明治天皇から建勲神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された[442]。その後、明治年間には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている[442]大正6年(1917年)には正一位を追贈された[注釈 92]

こうした傾向は歴史学の分野でも同様であり、当時は信長の勤王的側面を重視する研究が行われた[144]

革新者か否か

岐阜駅北口の黄金の織田信長像。2000年朝日新聞社が実施した識者5人(荒俣宏岸田秀ドナルド・キーン堺屋太一杉本苑子)が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、信長は得票数で徳川家康に次いで2位を獲得した[443]

第二次世界大戦の後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。歴史小説においては、すでに戦中の1944年に坂口安吾が短編小説「鉄砲」を発表し、近代的な合理主義者としての信長像を明確に打ち出した[444]。合理主義者としての信長のイメージは、高度成長期に発表された司馬遼太郎国盗り物語』、バブル期の津本陽下天は夢か』といったベストセラー小説を通して広く浸透することとなった[444]

学術的には、1963年刊行の『岩波講座日本歴史』において、今井林太郎が信長を次のように評価している。信長は、中世の複雑な土地所有構造を清算し「純粋封建制確立への途を切り開いた」[445]人物である。そして今井は、「信長の前には中世以来の宗教的な権威はまったく通用しなかった」[446]と述べ、信長の本質を中世的権威の否定にあると規定した。この頃には信長が天皇制を打倒しようとしていたという安良城盛昭の説も現れ、革新者としての信長像が定着することとなる[447]。信長は、その「革新的」な諸政策から、日本史上、極めて重要な人物であり、「不世出の英雄の一人」[448]と評価されてきた。

新しい時代への道を切り拓いた人物としての信長像は広く受け入れられた一方で、信長の時代はいまだ中世的要素が強く、豊臣秀吉の行った太閤検地こそが近世への転換点だという学説も有力であった[3]朝尾直弘脇田修は、それぞれ20世紀後半の代表的な中近世移行期研究者であるが、両者の信長に対する歴史的評価は正反対である[449]。朝尾が信長を近世の創始者であると理解したのに対し、脇田は信長を中世最後の覇者[注釈 93]であると捉えていた[449]

その後、21世紀の歴史学界では、より実態に即した信長の研究が進み、その評価の見直しが行われている[5][450]。例えば、室町幕府と織田政権の連続性が強調され[369]、信長は天皇とも協調関係にあったと考えられるようになった[388]。「楽市・楽座令」を信長独自の革新的政策とする見方にも否定的な研究が多くなった[451]。また、信長の宗教観も他の戦国大名と比較して特異なものとは言えないという指摘もある[303]。この他、様々な面から特別な存在としての信長像に疑義が呈され、信長に画期性を認めることに慎重な意見の研究者が多くなってきている[450][5]


注釈

  1. ^ a b 余語正勝が天正11年6月2日1583年7月20日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。
  2. ^ a b 信長の誕生日は、ルイス・フロイスの言に基づき5月11日ないし12日であるとする説と、天野信景『塩尻』等に準拠して5月28日であるとする二つの説がある[6]
  3. ^ 天正10年9月11日柴田勝家夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
  4. ^ a b 信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[360]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[360]。歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[360]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[360]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[360]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[360]。このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[360]。平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[360]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 詳細は#生涯を参照。
  6. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  7. ^ a b c d 詳細は#人物を参照。
  8. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  9. ^ 詳細は#朝廷政策を参照。
  10. ^ a b 詳細は#「凶逆の人」から勤王家へを参照。
  11. ^ a b 詳細は#革新者か否かを参照。
  12. ^ 異母兄として織田信広がおり[7]、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい[7]。これらは庶流の扱いとなる。
  13. ^ 那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある[14]
  14. ^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され(『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条)、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[19]
  15. ^ この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている[20][21]
  16. ^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[22]
  17. ^ 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が記録されている[23]
  18. ^ 信長が上総介を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が上総介を称したことを意識したとも考えられる[25]。信長が上総守を称したのはごく短期間であるものの[26]、これについても今川氏の称する上総介よりも「上総守」が上位であると信長が考えたのではないかと推測する説もある[26]
  19. ^ 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である[27]。以降、本文では「信勝」で統一。
  20. ^ 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという[35]
  21. ^ かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる[36]
  22. ^ このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない[37]。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している[36]。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している[37]
  23. ^ なお、信光と確執のあった林秀貞が信光暗殺に関与していたという説もある[38]
  24. ^ 道三残存軍が織田軍へ合流し、美濃国譲り状を末子である斎藤利治により信長へ直接渡したとされる。
  25. ^ 『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。
  26. ^ 天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている[45]
  27. ^ 池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる[46]
  28. ^ この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた[50]。その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった[50][51]。しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとに黒田日出男が奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている[50]
  29. ^ 松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった[52]。しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている[52]。その一方で、松平元康(徳川家康)の岡崎城帰還は信長による三河侵攻を警戒する今川氏真の方針に沿うものであったが、長尾景虎(上杉謙信)の北条領侵攻をきっかけに氏真の方針が対織田戦から対上杉戦(北条氏救援)に変化したことが松平氏離反のきっかけとなったとする説もある[53]
  30. ^ 近年、従来の清州同盟の成立とした出来事は織田・松平間の停戦・和睦協定の域を出ず、後世知られる「清州同盟」の成立は信長の娘・五徳と家康の嫡男・信康の婚姻関係が結ばれた永禄10年まで下るとする新説も出されている[55]
  31. ^ 犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており[57]、柴裕之もこれを支持している[58]
  32. ^ なお、信長は、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[60]。この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である濃姫養母となり二代目後継者織田信忠付き側近(重臣)ともなっている[61]
  33. ^ a b 浅井長政とお市の婚儀がいつ行われたかは正確には不明であり決定し難いが、2017年時点では永禄4年前後であるとする見解が有力である[62]
  34. ^ この際、義継らは足利義栄の擁立を図ったとも言われるが、実際には、義継らにその意図はなかったと考えられる[63]。義栄擁立を計画したのは、阿波三好家の篠原長房らであった[64]
  35. ^ 浅井長政とお市の婚姻も六角氏や幕臣の和田惟政らによる構想とする説もある[68]
  36. ^ 信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が、室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されている(村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年)。これを受けて、信長は足利義栄側に離反した美濃斎藤氏と近江六角氏との対立が避けられなくなり、また大和方面からの迂回も視野に入れて三好三人衆と対立する松永久秀や柳生宗厳などの大和の勢力とも関係を持つようになった[71][72]。ただし、同時に信長が事前に龍興に約束した軍勢通過のための人質の話が纏まらなかったのが衝突の原因とする指摘もある[73]
  37. ^ 新知扶助分 百貫文(関市市平賀)弐捨五貫文(富加町川小牧)四捨八貫文(富加町大山)百四捨参貫文(関市肥田瀬)百貫文(富加町夕田)弐捨貫文(美濃加茂市加茂野町鷹之巣)弐百弐捨貫文(富加町加治田・絹丸)四百七捨貫文(関市吉田)五百弐捨捨貫文(武儀郡上之保村、武儀町)七捨貫文(益田郡金山町)六捨八貫文(加茂郡白川町坂之東)百五捨貫文(関市上下迫間)・梅村良澤二扶助都合弐千百八捨四貫文
  38. ^ 信長の命により佐藤忠能の養子とし八重緑亡き次女・正室院を正室とし、二代目加治田城主として親衛隊加治田衆家臣団を率いる美濃斎藤家跡取りとした。
  39. ^ 稲葉山城陥落は永禄10年のことであるとする説が有力だが、永禄7年のことであるとする見解もあり、研究者のあいだで議論となっているという[75]
  40. ^ 全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである[77]
  41. ^ これらは綸旨女房奉書およびその添状である万里小路惟任によって伝えられた[82]
  42. ^ 六角氏は過去2度にわたる室町幕府による六角征伐の時も観音寺城を放棄して甲賀郡に後退して、幕府軍の撤退後に観音寺城を取り返しているため、この時も同じ戦略を取ったと言える[87]。だが、京都へ撤退した幕府軍と異なり、京都への通路を必要とした信長は南近江を織田領国に編入・統治を開始した[88]
  43. ^ のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている[92]
  44. ^ これに対して、山城・摂津・大和・河内などに対して出された信長発給文書は将軍である義昭の意を奉じたことを意味する「仍執達如件」の文言が含まれており、織田領国と幕府支配圏は明確に区分されていた。なお、この区分が無くなるのは、信長と義昭の決別が明確になった元亀4年3月以降のことになる[96]
  45. ^ 中には幕府の裁許を得ながら、その内容を承認する朱印状を信長に求める者もいた。久野雅司はその背景として明応の政変以降、京都では度重なる政変や将軍の追放が行われた結果、今後も同様の事態――義昭と信長の決裂によって信長が義昭に追討されたり反対に義昭が信長に追放されたりして排除された側の裁許が無効になる可能性――を予測して両方から裁許を得たいと考える者がいたと指摘する[105][106]
  46. ^ 当初は村井・明院の他に木下秀吉や丹羽長秀、佐久間信盛が京都の奉行を務め、後に中川重政も加わる。永禄年間には秀吉と長秀の発給文書が多いが、戦線の拡大と共に秀吉が近江に派遣されるなどの異動が相次ぎ、元亀年間には村井貞勝・嶋田秀順・原田直政が京都の奉行を務める[108]
  47. ^ 関白・二条晴良が勧修寺晴右の所領・加賀国井家荘を押領した際には、非は明らかに晴良にあるために正親町天皇からも押領を止めるように女房奉書が出されていたにも関わらず、義昭は「晴良が越前に下ってまで自分を支持してのに対して、晴右は足利義栄に協力的であった」として晴右の訴えを退けた(『言継卿記』元亀元年3月20日条)[115]。また、元亀元年から始まった伊勢神宮禰宜職相論(三の禰宜であった松木房彦死去を受けてその後任として、神宮伝奏の柳原資定が渡会貞幸を、祭主の藤波康忠が松木堯彦を推挙して争った件)においても、朝廷から調停を依頼された義昭が度々意見を変えて議論を長引かせた上、藤波康忠から抗議を受けると一旦出した裁決を取り消して評定を行った政所執事の摂津晴門を処分している[116](これは将軍は奉行の評定による裁決には従うこととした『殿中御掟』にも違反している[117])。
  48. ^ 信長は幕府の訴訟の遅滞や義昭による恣意的な裁許に不満を漏らしていたという(『尋憲記』元亀4年2月29日条)[118]
  49. ^ なお、この出兵について若狭国の武藤友益の討伐を口実としていたが、久野雅司は武藤が若狭武田家中でも反義昭の立場を取っていたために、義昭の命令によって武藤討伐軍を起こされ、信長もその命に従って軍を動員したとする[125]。ただし、若狭は当時は朝倉義景の制圧下にあり、武藤友益も義昭による武田家再興に反対する親朝倉派であったことから、結果的に朝倉勢力と衝突することになったとしている[125]
  50. ^ ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし[130]、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする[131]
  51. ^ 久野雅司もこの柴の説を支持しており、さらに具体的に元亀3年12月に異見書が発給されたと推定している[143]。平井上総も柴の説を肯定的に取り上げている[144]
  52. ^ 『細川家記』によれば、上野秀政は義昭の「出頭第一」の「寵臣」と評価され、比叡山焼き討ちの際にも義昭に信長の排除を進言して、信長を擁護した細川藤孝と義昭の御前において論争をしたとされる。また、先代の上野信孝も足利義輝の側近として三好長慶の排除を計画した人物として知られており、久野は義昭への幕府権力の一本化と幕臣と信長の間で起きていた所領安堵など統治方針を巡る対立の解消を目的として信長の排除を画策したと考えている[148]
  53. ^ 例えば、鴨川達夫『武田信玄と勝頼』[153]、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など。
  54. ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている[163]。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある[164]
  55. ^ この際の火縄銃の数については従来、3,000挺であるとされてきたが、藤本正行が『信長公記』の自筆本の検討をもとに、1,000挺程度が正しいとする説を提唱したことにより、通説には疑問が持たれるようになった[175]。しかし、平山優が『信長公記』の系統研究を通してやはり3,000挺が正しいと主張しており、論争となっている[175]。この鉄砲部隊がいわゆる「三段撃ち」(部隊を3隊に分け、輪番で射撃させることで、火縄銃を連射可能とする手法)についても、実在を否定する見解が有力であったが、この点についても連続射撃を行う試みはあったとする説が提唱され、論争となっている[175]。長屋隆幸によれば、こうした論争の原因は、信頼できる一次史料が不足していることにあり、長篠の戦いの明確な実態は把握し難い[176]
  56. ^ 歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)は将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、後奈良天皇近衛稙家(義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した[187]
  57. ^ 興福寺の別当は家柄と経歴を満たした者の中から藤氏長者が選定し、天皇がそれに従って任命する手続であったが、今回の相論は最初に立候補した兼深の経歴が資格を満たしていないと反発した学侶たちが元別当の尋円を擁立したものであった[195]。信長が晴良に充てた書状では「近代の寺法」に従って任命し、「叡慮を掠め取る」ことの無いように述べて、暗に正親町天皇が資格を満たしていない兼深を任命することを回避することを求めたものであった[196]。しかし、南北朝時代末期の永徳年間(1380年代)に資格を満たさずに任命された先例を見出して朝廷に報告していた[197]兼深は「近代の寺法」に永徳の先例は含まれると解釈していた[198]。更に兼深の姉である広橋国子は後奈良天皇の寵愛を受けて正親町天皇の異母妹である聖秀女王を生んでおり、相論以前より正親町天皇が晴良の相談せずに兼深を将来興福寺の別当にすることを約束していた形跡がある[199]。信長は正親町天皇が藤氏長者に諮ることなく興福寺別当に関する叡慮を示している事態は想定していなかったと思われる。
  58. ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月に信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏に共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
  59. ^ この間に天正6年1578年10月、月岡野の戦いが勝利となり、信長は全国大名へ文を送り、京でも大々的に宣伝し、織田家の強さを知らしめた。
  60. ^ 飛騨国司となった姉小路頼綱は父・姉小路良頼より家督を継ぎ、1570年の上洛時より信長と客将・親族、上杉謙信没後の1578年頃より濃姫の姉妹(姉小路頼綱正室)関係の親族・同盟を結んでいる。
  61. ^ 従来は、『信長公記』の記述を根拠に、村重が妻子を見捨ててひそかに有岡城から逃げ出したものだと考えられてきた[216]。しかし、天野忠幸によれば、乃美宗勝宛の村重の書状から、村重の尼崎城移動には馬廻を伴っており、反撃を期したものであったと考えられるという[216]
  62. ^ なお、多聞院日記によると、信長が御所を進上した当初の相手は誠仁親王ではなく、信長の猶子の邦慶親王の方だったようである[219]
  63. ^ a b 滝川一益の任を“関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『武家事紀』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる[239]
  64. ^ 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条、立花京子『信長権力と朝廷』掲載)
  65. ^ この時の本膳料理献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される[254]
  66. ^ 一般に信長は光秀の接待役の任を解いたと言われる[258]。しかし、金子拓によれば史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる[258]
  67. ^ この少人数での行動は、配下の武将らに出陣を命じていたからであり、信長は完全に油断していたと考えられる[263]。だが、信長が少人数で移動することは珍しくなく、決して油断はしていなかったとする見方もある[264]
  68. ^ 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された[275]
  69. ^ 例えば、北条早雲は、敵対する関戸吉信方を女性・子供も含めて虐殺した[285]。伊達政宗も同様の行為をしている[285]
  70. ^ なお、信長の残虐性については次の逸話も著名である。天正9年(1581年)4月10日、信長は琵琶湖竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗されたという(『信長公記』巻十四[287])。フロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[288]
  71. ^ 『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話もあるが、俗書にしか伝わらない。
  72. ^ でかためて金泥などを塗ったもの。
  73. ^ 滝川一益は近江出身とはいえ、天文年間という早い時期から信長に従っているため譜代と同一視できる[294]
  74. ^ その一例として、荒木村重は、毛利攻めの司令官の地位を羽柴秀吉に奪われたことに強い不満を持ち、そのため、信長との敵対に踏み切ることとなった[294][295]
  75. ^ 中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった[312]。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた[313]
  76. ^ なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の楠長諳の筆によるものである[344]
  77. ^ なお、後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』には、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている
  78. ^ なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
  79. ^ 竹の紙を彩色画に使った例としては、他に高野山持明院蔵「紙本著色浅井長政像」(重要文化財)がある。
  80. ^ 同じ永徳筆の束帯姿の肖像の方に近かった。
  81. ^ 武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。
  82. ^ 従来、元亀年間の信長と反信長勢力の争い(いわゆる元亀争乱)においては、将軍足利義昭こそが反信長勢力の盟主だと考えられてきた[370]。しかし、実際には三方ヶ原の戦いまでは、義昭は信長を支持していたということを柴裕之が明らかにしている[370]。そのため、信長が「天下人」となったのは、当初からの信長の政権構想によるものではなく、元亀争乱の結果による成り行きであったと考えられる[370]
  83. ^ 今谷明『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社〈講談社現代新書〉、1992年。ISBN 978-4061490963 のち講談社学術文庫に再録、2002年 ISBN 978-4061595613
  84. ^ 平井上総は協調説に、谷口克広は対立説に分類している。
  85. ^ 厳密には、朝廷側は信長との協調を図ったが、信長が朝廷との協調を否定したという説として、藤井の説は分類されている[388]
  86. ^ 後土御門天皇以降、正親町天皇まで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。後花園天皇までの中世の歴代天皇は譲位して上皇ないしは法皇となり、治天の君として院政を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。
  87. ^ 研究上、かつては一向一揆との対決こそが近世統一権力を生み出した原動力であるとする説が有力であったが、現在では一向一揆との対立にそれほどの重要性はないとする見解が主流となっている[402]
  88. ^ 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章
  89. ^ 「永禄十二年付上京宛て精銭追加条々」『増訂 織田信長文書の研究』所収。
  90. ^ 池上裕子[430]など。
  91. ^ 信長のこと。
  92. ^ 正一位に叙された者は贈位も含めて現時点で信長が最後であり、以降は叙位の例がない。
  93. ^ 脇田修、1987、『織田信長 中世最後の覇者』、中央公論社〈中公新書〉 ISBN 9784121008435
  94. ^ 庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。
  95. ^ 秋山は劇中劇「連続時代劇 織田信長」の信長を演じる本人役としての出演だが、クレジットではあくまで「織田信長役」となっている。

出典

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