関戸吉信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/23 01:25 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 明応7年(1498年) |
官位 | 播磨守 |
主君 | 足利政知、足利茶々丸 |
氏族 | 関戸氏 |
父母 | 関戸宗尚 |
関戸 吉信(せきど よしのぶ)は戦国時代初期(室町時代後期)の武将。伊豆の国衆。堀越公方の家臣。
上田政盛と同様、その存在が『北条記』や『北条五代記』などの軍記物にしか登場せず、存在が疑問視されている[1]。
生涯
関戸氏はもともと山内上杉氏の被官であり、山内上杉氏の直轄領であったとされる深根の代官であったとされ、深根城を拠点としたとされる[2]。永享3年(1431年)、当時の関戸氏当主の関戸宗尚が深根城の対岸に龍巣院を建立したとされる[2]。その後、足利政知が伊豆に入り、堀越公方となると、そのまま堀越公方の家臣となったと思われる[2]。
延徳3年(1491年)、政知が亡くなると足利茶々丸と足利潤童子との間で堀越公方の家督争いがおこり、茶々丸が潤童子とその母の円満院を殺害し、家督を継承した。その後、明応2年(1493年)、今川氏の客将であった伊勢宗瑞が足利茶々丸のいた堀越御所へ攻撃を仕掛け、陥落させた(伊豆討ち入り)[1][2]。この時、多くの軍記物では茶々丸は自刃したとされるが、実際は逃走に成功しており、南・中伊豆で狩野道一、関戸吉道をはじめとする国衆とともに抵抗をつづけた[1][2]。しかし、明応4年(1495年)までに伊東の伊東氏、明応5年(1496年)までには雲見の高橋高種、妻良の村田氏、大見の大見三人衆(佐藤藤左衛門尉、梅原六郎右衛門尉、佐藤七郎左衛門尉)などが宗瑞に臣従し、徐々に茶々丸を支持する勢力がそがれていった。そして、最後まで宗瑞に抵抗し、茶々丸を支援したのが南伊豆の関戸吉道と中伊豆の狩野道一であった[1][2]。
明応7年(1498年)正月、道一が自刃し、狩野氏が宗瑞に臣従したことで、宗瑞は中伊豆の攻略に成功した。その後同年8月に、宗瑞は吉道を攻略するため、軍勢を派遣したとされる[2]。『北条五代記』にはこの時の様子の記述が記されている。宗瑞は500の兵を連れて清水浦から大舟10隻に乗って出発し、松崎・仁科・田子・安良里の港に上陸した。これを見た村人たちは恐れおののいて深根城に逃走し、深根城に籠城した人数が1000人に上った。しかし、この時、風病にかかっていた村人が多く取り残されており、宗瑞は医者に命じてその村人を治療し回復させた。その後、これを知った各地の侍が味方としてはせ参じて2000に軍勢が膨れ上がり、7日後に一気に深根城を攻めて落城させた。宗瑞は吉信父子5人を討ち、敗残兵を追討したうえで、1000余の首を城の周りにかけておいたことで国中の敵対していた諸侍が降伏し、伊豆一国の統一に成功したという[2]。また、吉信は深根城から逃走し、途中の梨本で自刃したともされている。現在、河津町梨本には関戸吉信の墓があり、宝篋印塔が安置されている[3]。
歴史学者の家永遵嗣はこの戦いの前に静岡県の南海トラフを震源とするマグニチュード8.2~8.4の巨大地震が起こったと説いている。実際に、宗瑞にいち早く臣従していた江梨の鈴木氏開基の寺・航浦院の「航浦院縁起」に津波が発生したことが記されている。また、家永氏は上記の「風病」というのはこの津波の被災者であると推測している。また、この地震で多くの港が津波の被害にあっていたが、清水浦の港は前面に三保半島があるため被害が少なく、船を出すことができたとも推測している。さらに、宗瑞はこの地震により、南伊豆が動揺している隙をついて深根城を攻略し、伊豆を平定したと考えられる[1][2]。
関戸吉信の存在とその名について江戸時代初期の他の軍記物と比べ比較的信憑性が高い軍記物である『異本小田原記』ではそもそも存在が書かれておらず、狩野氏が降伏したことで伊豆が統一されたとしている。その後に作られた『北条記』で関戸播磨守という名で出てくるのが初見である。さらに後の『北条五代記』では吉信という名があてられている[1]。
注釈
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