織田信長
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生涯
尾張・美濃の平定
少年期
天文3年(1534年)5月[注釈 2]、尾張国の戦国大名・織田信秀と土田政久の娘の間に嫡男[注釈 12]として誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)[7][8]。
信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった[9]。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである[9]。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う[10]。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた[10]。
なお、生誕地については那古野城・古渡城・勝幡城の3説に分かれる[8]。中でも那古野城説は『国史大辞典』に記されるなど定説となっていたが、山科言継の『言継卿記』の記述などを根拠に天文3年(1534年)時点ではまだ那古野城を奪っていない可能性が高まった(詳細は那古野城#歴史を参照)ことに加え、愛西市所蔵『尾州古城志』などの史料の「勝幡城で生まれた」といった記述をもとに、1992年に発表された論文をきっかけとして近年では勝幡城説が妥当と考えられている[8][11][12][13]。
尾張の大うつけ

信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている[注釈 13]。『信長公記』によれば、信長には奇天烈な行動が多く、周囲から「大うつけ」と呼ばれたという[15]。これをして信長は発達障害を持っていたという解釈もある。なお、人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない[16]。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する[17][8]。
天文16年(1547年)には今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった[18]。
信長結婚(正室)
天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた[注釈 14]。
斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった[18]。そして、おそらく天文21年(1552年)[注釈 15]3月に父・信秀が死去したため、家督を継ぐこととなる[17][18][注釈 16][注釈 17]。信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)[24][注釈 18]。
家督継承から尾張統一
家督継承後の信長は、すぐに困難に直面する。信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった[27]。そして、弾正忠家の外部には清洲城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部には弟・信勝(信行)[注釈 19]などの競争者がいたのである[27]。
一説には信秀の最晩年に行おうとした今川義元との和睦に信長が反対したことなどから信長の後継者としての立場に疑問符が持たれ、信秀も信長と信勝の間で家督の分割する考えに転じたのではないか、という説がある(実際に信秀の死の直後に信長は直ちに和議を破棄している)[28]。ただし、この和平の仲介には信長の舅である斎藤道三を敵視する六角定頼が関与しており、信長の立場からすれば道三に不利となる条件との抱き合わせになる可能性のあるこの和議に賛同できなかったとする見方もある[29]。
天文21年8月、清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とした[27]。信長は萱津の戦いで勝利し、これ以後、清洲方との戦いが続くこととなる[27]。
正徳寺の会見
天文22年(1553年)、信長の宿老である平手政秀が自害している[30][31]。信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った[30]。一方、おそらく同年4月に、信長は正徳寺で道三と会見した[32]。その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある[33]。
天文23年(1554年)、村木城の戦いで今川勢を破った[34]。
この年も、清洲との戦いは、信長に有利に展開していた[35]。同年7月12日[注釈 20]、尾張守護の斯波義統が、清洲方の武将・坂井大膳らに殺害される事件が起きる[35]。これは、斯波義統が信長方についたと思われたためであり、義統の息子の斯波義銀は信長を頼りに落ち延びた[35]。
こうして、信長は、清洲の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れた[35]。そして、数日後には、安食の戦いで長槍を用いる信長方の軍勢が清洲方に圧勝した[35]。
天文23年[注釈 21]、衰弱した清洲の守護代家は、信長とその叔父・織田信光の策略によって清洲城を奪われ、守護代・織田彦五郎[注釈 22]も自害を余儀なくされた[36]。ここに尾張守護代織田大和家は滅亡することとなる[36]。
他方、守護代家打倒に力を貸した信長の叔父・信光も11月26日に死亡している[36]。この死は暗殺によるものであったと考えられる[36]。そして、信長が信光暗殺に関与していたという説もあるという[36][注釈 23]。
義父・斎藤道三の死
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い)[39]。信長は救援のため、木曽川を越えて美濃の大浦まで出陣したものの、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが殿をしつつ退却した[40]。
弟との戦い
最も有力な味方である道三を失った信長に対し、林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは弟・信勝を擁立すべく挙兵する[41]。信勝は、父・信秀から末盛城や柴田勝家ら有力家臣を与えられるとともに、愛知郡内に一定の支配権を有するなど、弾正忠家において以前から強い力を有していた[42]。弘治元年には「弾正忠」を名乗るようにもなっており、弾正忠家の継承者候補として信長と争う立場にあった[43]。
同年8月に両者は稲生で激突するが、結果は信長の勝利に終わった(稲生の戦い)[44]。信長は、末盛城などに籠もった信勝派を包囲したが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した[41]。
永禄元年(1558年)、信勝が再び謀反を企てる[41]。この時、信勝を見限った柴田勝家からの密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した[41]。
同年7月、信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主・織田信賢を浮野の戦いにおいて撃破した[41]。そして、翌年には、信賢の本拠地・岩倉城を陥落させた[41]。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した[45][注釈 24]。村岡幹生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという[45]。しかし、この目的は達成されなかったと考えられる[45]。
一方、天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる[46][注釈 25]。
桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻した[47]。駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった[47][注釈 26]。織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった[48]。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った[48]。
信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣した[49]。信長は今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った[50][注釈 27](桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる[注釈 28]。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる[55]。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた(いわゆる清洲同盟)[55]。
永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す[56]
永禄8年(1565年)[注釈 29]、信長は犬山城の織田信清を下し、ついに尾張統一を達成した[58]。さらに、甲斐国の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた[59]。
美濃斎藤氏と足利義昭
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた[注釈 30]。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。同じ頃[注釈 31]には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している[62]。その際[注釈 31]、信長は妹・お市を輿入れさせた[62]。
一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の三好義継・三好三人衆・松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変)[63][注釈 32]。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた[65]。義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた[66]。
これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭上洛に協力する旨を約束した[67][注釈 33]。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麟」字型の花押を使い始めている[69]。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斎藤氏との停戦を実現させた[67]。こうして、信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった[67]。
ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して、美濃斎藤氏との戦闘を再開する[70]。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、閏8月に河野島の戦いで大敗を喫してしまう[70][注釈 34]。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斎藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる[70]。
そして、永禄9年(1566年)、信長は美濃国有力国人衆である佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)[74]、義弟・斎藤利治を佐藤忠能の養子として加治田城主とする[注釈 35][75]。さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)[注釈 36]、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)[77]。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)[注釈 37]
同年11月、印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている[79][80]。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており[81][82]、室町幕府再興の意志を込めたものであった[82](→#信長の政権構想)。11月9日には、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが[注釈 38]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった[83]。
二重政権
織田信長の上洛戦
一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた[84]。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年(1568年)7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前国に派遣している[85]。義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見した[85]。
永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始した[86]。すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた[87]。一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の観音寺城を放棄せざるを得なくなった[86](観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[注釈 39]。
更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し[90]、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。
もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという[91][92]。
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる[注釈 40]。
幕府再興
永禄12年(1569年)1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した[94](本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた[94]。もっとも、細川藤賢や明智光秀らの奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた[94]。これを機に信長は義昭の為に二条に大規模な御所・二条御所を築いた[95]。
同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭に支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣し、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた[96]。また、(現存する文書では)同年1月以降に南近江に対して出される信長発給文書の書式が尾張・美濃と同一のものが採用され、同地域が織田領国に編入されたことが明確となった[注釈 41][97]。
一方、1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある[98]。
同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した[99]。(代わりに草津と大津と堺の土地を貰った。)
永禄13年(元亀元年・1570年)1月23日、信長は義昭に対して更に5ヶ条の条書を発令して、これも義昭に認めさせた。この条書についてもかつては将軍権力を制約をより強化するものとするのが通説であったが、これと前後して信長の書札礼が関東管領(上杉謙信)と同じ様式に引き上げられていることから、義昭の上洛以来一貫して幕府における役職就任を拒んできた信長が管領に准じる身分(「准官領」)を得て正式に幕府高官の一員として義昭を補佐することに同意してそれに伴う信長側の要望を述べたものに過ぎない(元々、信長が幕府役職に就いてより積極的に「天下静謐」に参画するように求めたのは義昭の方である)と言う、通説とは全く異なる評価も出されている[100][101]。
信長自身の当初の考えでは、幕府再興の実現後も幕府に対する軍事的な奉仕を続けるものの、京都の政務は幕府が行うべきで、自身は領国である美濃に留まって必要があれば京都にいる自己の奉行人を介して関与する方針を取ろうとしたと考えられている[102][103]。山科言継が直接岐阜城を訪れて訴訟の裁許を求めた際には信長からは勅命以外の訴訟は美濃では扱わないことを言明しているが(『言継卿記』永禄12年11月12日条)、その後も同様の申入れが相次いで重ねて美濃では公事訴訟は受け付けず、陣中からの注進以外の話は聞かない旨を制札を立てたという(同元亀2年12月16日条)[104][105]。
しかし、幕府による訴訟の遅延の問題(後述)や軍事的な強制力を持つ織田家の力を借りて訴訟を解決したいと言う考えも強かった[注釈 42][108]。このため、信長が上京するたびに多くの訴訟が持ち込まれる事態となった。また、村井貞勝や明院良政を始めとする京都にいた信長の奉行人[注釈 43]に同様の裁許を求める者もあった[110][111]。
ところが、信長が政務の担い手として期待していた幕臣たちが公家領や寺社領の押領の当事者になることがあり、中には幕府自らが没収して幕臣に所領として与える場合もあった[112][113]。加えて、室町幕府では足利義輝が永禄5年(1562年)に代々政所執事を務めてきた伊勢貞孝を討って側近の摂津晴門を後任として以降、将軍と側近による御前沙汰を強化して将軍の権限を強めていく幕政改革を行い、義昭もこの方針を継承していたが、結果的には政所の弱体化によって大量の事案に対応しきれなくなって訴訟の遅延を招くことになった[114][115]。
そして、何よりも義昭自身が恣意的な裁許[注釈 44]を行ったことによって問題を深刻化させる事態も発生していた[注釈 45]。信長による『殿中御掟』の制定も幕府における訴訟の円滑化と義昭や側近による恣意的な裁許を止めて公正な訴訟が行われることで幕府の安定化を意図したものと考えられている[118]。ただし、幕府再興のために将軍や幕臣の態度に対しても積極的に意見していく信長の姿勢は、義昭や側近の幕臣たちからは義輝時代の三好長慶の再来として警戒の対象になった可能性も指摘されている[115]。
伊勢侵攻
一方、稲葉山城攻略と同じ頃の永禄10年(1567年)、信長は北伊勢に攻め寄せ、滝川一益をその地に配した[120]。さらに。その翌年の永禄11年のより本格的な侵攻により、北伊勢の神戸氏に三男の織田信孝を、長野氏に弟の織田信良(信包)を養子とさせ、北伊勢八郡の支配を固めた[121]。
南伊勢五郡は国司である北畠氏が勢力を誇っていたが[122]、永禄12年(1569年)8月に信長は岐阜を出陣して南伊勢に進攻し、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲した(大河内城の戦い)[123]。信長は強硬策を用いて大河内城の攻撃を図るも失敗し、戦いは長期化した[122]。攻城戦の末、10月に信長は北畠家方と和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ[123]。天正4年(1576年)になると、信長は北畠具教ら北畠家の一族を虐殺させている[122](三瀬の変)。
なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にも関わらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている[124]。
第一次信長包囲網
元亀元年(1570年)4月、信長は自身に従わない朝倉義景を討伐するため、越前国へ進軍する[125][注釈 46]。織田軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、突如として浅井氏離反の報告を受ける[125]。挟撃される危機に陥った織田軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた[125](金ヶ崎の戦い)。
6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙[127]。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した[127](姉川の戦い)。
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、近隣での信長の軍事動員に脅威を感じた石山本願寺が信長に対して挙兵した[128](野田城・福島城の戦い)。さらに、浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻する[128]。
しかし、9月になると、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還する[129]。慌てた朝倉軍は比叡山に立て籠もって抵抗した[129]。信長はこれを受け、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)[129]。しかし、その間に伊勢国の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ[129]。
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した[130]。そして正親町天皇の勅命を仰ぎ、12月13日、浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し、窮地を脱した[注釈 47]。
第二次信長包囲網

元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を味方に引き入れ、佐和山城を得た[133]。
5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に一揆勢に襲撃され、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死した[129]。同月、三好義継・松永久秀が大和や河内の支配を巡って筒井順慶や畠山昭高と対立し、足利義昭が筒井・畠山を支援したことから三好三人衆と結んで義昭から離反して、信長とも対立関係となる[134]。
同年9月、敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)[133]。
一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると、三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。なお、近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている[135][136]。
元亀3年(1572年)3月、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に敵対した[137]。同月、足利義昭が信長に京都における邸宅造営を勧め、義昭は徳大寺公維に替地を与える条件で上京武者小路の屋敷地を信長に譲って貰い、信長はその地に村井貞勝と嶋田秀満に屋敷の造営を命じる。これは単なる義昭の信長へのご機嫌取りではなく、三好・松永軍の北上を警戒して信長を京都に引き留めたいとする意図があったとも考えられる[138]。
7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた[139]。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた[139]。以後の戦況は織田軍有利に展開した。 10月3日、信玄は甲府を出陣、信長はそれを知らず5日付けで信玄に対して武田上杉間での和睦の仲介に骨を折ったとの書状を送った[140]。
11月14日、織田方であった岩村城が開城し、武田方に占拠された(岩村城の戦い)[141]。病死した岩村城主・遠山景任の後家(信長の叔母)は、秋山虎繁(信友)と婚姻し、武田方に転じた[141]。また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に敗退し、さらに遠江国の二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死した[141]。 信長は11月20日付けで上杉謙信に「信玄の所行、まことに前代未聞の無道といえり、侍の義理を知らず、ただ今は都鄙を顧みざるの私大、是非なき題目にて候」「永き儀絶(義絶)たるべき事もちろんに候」「未来永劫を経候といえども、再びあい通じまじく候」と書状を送っている。[142]。 この恨みが忘れられなかったのか長篠後に藤孝に「信玄入道表裏を構え、旧恩を忘れ、恣の働き候いける」と申し送っている[143]。
同年の12月から翌年正月のあいだのいずれかの時点で、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送ったと考えられ、詰問文により信長と義昭の関係は悪化している[144]。この異見書は、従来、『永禄以来年代記』の元亀三年九月条の記述から、元亀3年9月に発給されたものだと考えられてきた[144]。しかし、柴裕之によれば、他の複数の史料の記載や前後の事情から、異見書が元亀3年9月に発給されたとは考え難い[144][注釈 48]。柴は、同年12月の三方ヶ原の戦いの敗戦によって、義昭が従来の信長との協調路線に不安を覚えはじめたと述べる[144]。そして、そのことに対する牽制として、この異見書が出されたものであるとする[144]。
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)[147]。 こうした武田方の進軍を見て、足利義昭が同月に信長との決別を選び、信長と敵対した[148]。
信長は岐阜から京都に向かって進軍し、上京を焼き討ちちしつつ、義昭との和睦を図った[149]。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した[149]。なお、久野雅司は御供衆で武田信玄との外交を担当していた上野秀政[注釈 49]を信玄の上洛や信長の排除を画策して義昭に挙兵を勧めた人物と推測し、信長の上洛も秀政とその同調者の処分を目的としていたが、義昭が和睦に応じて秀政も信長に謝罪をしたことで一応の目的を果たしたとしている[151][152]。一方、武田軍は信玄の病状悪化により撤退を開始し、4月12日には信玄は病死する[153]。
4月末に義昭と信長家臣との間で起請文が交わされた。義昭が宛てた家臣の内訳は佐久間信盛・滝川一益・塙直政で、信長側の発給者は林秀貞・佐久間信盛・柴田勝家・稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全・滝川一益である[154]。
なお、元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている[注釈 50]。
室町幕府の「滅亡」
足利義昭の没落
しかし、その後も義昭は信長に対して抵抗し、元亀4年7月には再び挙兵して、槇島城に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放した[156]。
通説では、この時点をもって室町幕府が滅亡したとされる。このことにより、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている[157][158]。一方、義昭はその後も将軍の地位に留まったまま、各地を経て、備後国鞆へ移り、毛利輝元の庇護を受ける。そして、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出しており、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことでもある[159]。
このことから、歴史学者の藤田達生は、依然として義昭の勢力は幕府としての実態を備えており(鞆幕府論)、義昭の「公儀」信長の「公儀」が並立する状態にあったと論じている[160][161]。この「鞆幕府」という名称が適切かはともかく、藤田の議論の観点は妥当なものであると評価されている[162]。この視点に立てば、これ以後の信長の戦争は、天下統一戦争というよりも、足利氏とそれを支持する他の戦国大名に対する戦いであると考えられる[162]。
幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの100名以上が義昭の鞆下向に同行している[163]。その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた[163]。これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった[163]。
義昭の追放後、元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、7月28日にはこれを実現させた[164][注釈 51]。
朝倉・浅井氏の滅亡
天正元年(1573年)8月8日、浅井家の武将・阿閉貞征が内応したので、急遽、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵。山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、小谷城の包囲の環を縮めた。10日に越前から朝倉軍が救援に出陣してきたが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した。諸城を捨てて一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍は刀根坂の戦いでも敗れ、一乗谷城をも捨てて六坊に逃げたが、平泉寺の僧兵と一族の朝倉景鏡に裏切られ、朝倉義景は自刃した。景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・愛王丸を探して殺害させ、義景の首は長谷川宗仁に命じて京で獄門(梟首)とされた。信長は26日に虎御前山に凱旋した。
翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、翌日に浅井久政が自刃した[167]。28日から9月1日の間に本丸も陥落して、浅井長政も自害した[167]。信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・万福丸を捜し出させ、関ヶ原で磔とした。なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は藤掛永勝によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・織田信包に引き取らせた(当初は叔父の織田信次が預かったという)。
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊に桑名への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る[168]。
11月に、足利義昭は、三好義継の居城・若江城を離れ、紀伊国へと退去した[169]。同月、佐久間信盛ら信長方の軍勢が、三好義継への攻撃を開始した[169]。義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害する[169]。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した[169]。
天正2年(1574年)の正月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱(越前一向一揆)が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた桂田長俊が一乗谷で殺された[170]。
さらに、同月中には、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる[170]。信長はこれを迎撃しようと3万の兵で出陣したが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した[170]。明知年譜によると、山縣昌景の別動隊6000人の追撃を受け、信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長が瀬戸際まで追い詰められる場面もあったという。
また、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した[170]。
長島一向一揆の制圧
7月、信長・信忠は、織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を含む大軍を率い、伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲した[171]。抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、一揆方は劣勢となる[171]。
9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は鉄砲の一斉射撃を浴びせ掛けた[171]。これは、信長の「不意討ち」[172]と表現される事があるが、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある[173]。一方、この時の一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広ら織田方の有力武将が討ち取られた[171]。
これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた[171]。この戦によって長島を占領した[171]。
長篠の戦い
天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた[174]。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた[174]。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。
その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた[175]。一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した[175]。織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという[175]。
そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)[175]。信長は設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将に多くの火縄銃を用いた射撃を行わせた[176][注釈 52]。この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した[179]。武田方は有力武将の多くを失う[179]。信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている[179]。
6月27日、相国寺に上洛した信長は、常陸国の国人である江戸氏が、本来天台宗の僧侶にしか認められていない絹衣の着用を自己が信奉する真言宗の僧侶にも認めたことで天台宗と真言宗の僧侶の間で相論が続いていることを知り、公家の中から三条西実枝・勧修寺晴右・甘露寺経元・庭田重保・中山孝親の5人を奉行に任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)[180]。なお、老齢である三条西は11月ごろに奉行を辞退し、残りの4名は「四人衆」と呼ばれて本件を含めた朝廷内の訴訟に関する合議を行うようになった[181]。
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た[182]。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた[182]。
一方、前の年に一向一揆支配下となった越前国に対し、8月に信長は行軍して平定し、一揆勢を多数殺害したことを書状に記している[183]。信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた[184]。また、信長は越前国掟九ヵ条を出して、越前の諸将にその遵守を求めた[184]。
この越前一向一揆の殲滅と、これに先立つ長島一向一揆の殲滅は大坂本願寺に対する圧力となり、信長が本願寺を赦免する方針をとったため、10月には信長と本願寺との和議が成立した[185]。これにより、信長は一時的に天下静謐を達成することとなった[185]。
右近衛大将就任
天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる[186]。さらに11月7日には右近衛大将を兼任する[186]。この権大納言・右大将就任は、源頼朝が同じ役職に任じられた先例にならったものであるとも考えられるという[186]。官位就任とともに、信長は公家や寺社に対する知行地の宛行を行い、天皇や朝廷の権威を利用しつつ、その存立基盤を維持することに努めた[186]。以後、信長はしばしば「上様」と称されるようになる[186]。
これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとされる[187]。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・義尋を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「倒幕」)へと転換したとする見方もある[188]。また、義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある[注釈 53][190]。ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた[191]。
信長後継者任命
そして、11月28日、信長は嫡男・信忠に、一大名家としての織田家の家督ならびに岐阜城を中心とした美濃・尾張などの織田家の領国を譲り、斎藤利治・河尻秀隆・林秀貞等を信忠付きの譜代家臣団とした[186]。
天正4年(1576年)1月、交通の要地である近江国安土に安土城を築城することについて、丹羽長秀に奉行を担当させ、同年4月から実際に築城を開始した[192]。安土城が出来るまでは、譜代家老の佐久間信盛の城(屋敷)を在所とした。
天下人として
第三次信長包囲網
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた[193]。しかし、紀州雑賀衆が本願寺勢方に味方しており、5月3日に塙が本願寺勢の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した[193]。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した[193]。5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった[193]。やむなく5月7日早朝には、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった[193]。織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し、これを追撃[193]。2,700人余りを討ち取った[193](天王寺砦の戦い)。
信長は6月6日に一旦京都に戻るが、折しも興福寺において次の別当を巡って尋円と兼深の間で相論が発生して、双方とも朝廷に訴え出ていた。信長の元にも双方から訴えがあったため、信長は前述の四人衆と相談の上で個人名を上げるのを避けたものの藤氏長者である二条晴良が興福寺の伝統に基づいて任命にすべきと晴良に伝え、これを尋円の任命と受け取った晴良はその手続を取った[194]。しかし、兼深は信長の意見は自分を任じる意向なのに晴良がそれを曲げていると主張し、信長の意見が抽象的でその意味を解しかねていた正親町天皇や四人衆はそれを受け入れてしまった[195]。しかし、安土城に帰ってから報告に訪れた四人衆からそれを聞いた信長は自分の意見が否定されたと激怒して、堀秀政らを興福寺に派遣して事実関係を再確認した上で、滝川一益と丹羽長秀を上洛させて改めて朝廷に尋円の任命を奏上して、四人衆をしばらくの間逼塞処分とした[196][注釈 54](天正4年興福寺別当相論)。
この頃、従来は信長と協力関係にあった関東管領の上杉謙信との関係が悪化する[202][注釈 55]。謙信は天正4年4月から石山本願寺との和睦交渉を開始し、5月に講和を成立させ、信長との対立を明らかにした[203]。謙信や石山本願寺に続き、毛利輝元・波多野秀治・雑賀衆などが反信長に同調し、結託した。
天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し[204]、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。ところが、7月13日、毛利輝元が石山本願寺の要請を受けて派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、本願寺の援軍として大阪湾木津川河口に現れた[204]。この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた[204](第一次木津川口の戦い)。
このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった[205]。これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという[205]。しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった[205]。
織田右府
天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)し、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、紀伊国から撤兵した[206]。
天正5年(1577年)8月、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城した[207]。天正五年十月十一日付の下間頼廉の書状の内容から、この久秀の造反は、足利義昭・本願寺といった反信長勢力の動きに呼応したものだと考えられるという[207]。しかし、織田信忠率いる織田軍に攻撃され、10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害に追い込まれた[207]。
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた[208]。
中国侵攻
天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる[209]。
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した[210]。このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった[210]。
7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により見捨てられた山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)[211]。10月には突如として摂津国の荒木村重が信長から離反し、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する[212]一方、同じく東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重に一時的に同調したものの[212]、まもなく信長に帰順した[213][214][215]。
11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した[216](第二次木津川口の戦い)。12月には、織田軍が、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した(有岡城の戦い)[217]。
天正7年(1579年)5月には、安土城の天守が地上六階・地下一階の建物として完成を見て、信長はここに移り住んだ[192]。これは、坂本城などの先行する天守よりも豪華かつ大規模なものだった[192]。信長は、天守に狩野永徳の手による仏教・儒教・道教の絵画を設け、天守のそばに清涼殿に類似する建物をも造っている[192]。これは天皇権威の克服や東アジア諸国への進出を意図したものだとも評価されるが、柴裕之は、伝統的な社会権威を尊重する信長の姿勢を示したものだとする[192]。
同年6月、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される[218]。光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した[219]。
一方、援軍が得られる見込みが薄くなり、追い詰められた荒木村重は、同年9月、有岡城を出て包囲網を突破し、戦略上の要地である尼崎城に入った[220][注釈 56]。しかし、宇喜多直家の織田方への帰参により毛利氏からの援軍は得られなくなり、有岡城の一部城兵も離反し、有岡城はついに落城した[221]。そして、信長は、荒木氏の妻子や家臣数百人を虐殺した[220]。
翌年の天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城[222]。数カ月後には、播磨国一円を信長方は攻略した[222]。
天正7年の政治状況
11月、信長は織田家の京屋敷を二条新御所として、皇太子である誠仁親王に進上した[223][注釈 57]。
この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる[224]。これは信康の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などを理由としたものであったといわれ、家康は信長の意向に従い、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという[224]。しかし、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとも考えられている[225](松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。
大坂本願寺との講和
天正8年(1580年)3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した[226]。
同年4月には正親町天皇の勅命のもと、本願寺もついに抵抗を断念し、織田家と和睦した(いわゆる勅命講和)[227]。ただし、本願寺側では教如が大坂に踏みとどまり戦闘を継続しようとしている[227][228]。門徒間での和睦への抵抗感が大きかったためだが、やがて教如も籠城継続を諦めざるを得なくなり、8月に大坂を退去している[228]。「天下のため」を標榜して信長が遂行した大坂本願寺戦争は、10年の歳月をかけてようやく決着がついた[227]。
この本願寺打倒の成功は、織田政権の一つの画期とされる[229][230]。なおも各地の一向一揆の抗戦は続くとは言え、大坂本願寺の敗退により、組織的抵抗は下火となっていく[231]。この頃から、「天下」の意味が単なる畿内を超えて日本全土を指すようになり、信長が「天下一統」を目指すようになったという説もある[230]。
その一方で、同年8月、大坂本願寺戦争の司令官だった老臣の佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して、信長は折檻状を送り付けた[232]。そして、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放を命じている[232]。さらに、重臣の林秀貞をはじめ、安藤守就とその子・定治、丹羽氏勝らも追放の憂き目にあった[232][233]。
天下静謐
京都御馬揃えと左大臣推任
天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した[234]。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった[235]。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる[235]。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による[235]。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった[235]。
2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)[235]。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。
3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した[236]。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり[235]、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという[236]。
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任[237]。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した[237]。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の何らかの意向が伝えられた[237]。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足している[237]。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった[237]。ただし、この時に出された陰陽寮(土御門久脩・賀茂在昌)の3月21日付の勘文を正親町天皇が書写したものが東山御文庫に現存しており、その写しには金神のことが記されているため、少なくても21日の段階で朝廷側は金神の年の問題を知っており、譲位と左大臣就任の延期も朝廷側の申入で3月24日の信長の返事は延期の了承であるとする見解もある[238]。
8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった[236]。
高野山包囲
天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる[236]。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した[236]。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した[236]。
信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令[236]。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した[236]。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした[236]。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った[236]。
天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した[236]。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した[236]。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた[239]。
甲州征伐
天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田信房(勝長)を返還することで、佐竹義重を通じて信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る[240]。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した[240]。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する[240]。
武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する[240]。さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる[240]。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する[240]。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた[240]。
この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る[240]。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った[240]。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した[240]。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた[241]。
信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する[242]。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国と駿河国の旧領を安堵した[242]。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領[注釈 58]に任命して厩橋城に駐留させた[242]。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた[242]。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている[242]。
4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた[242]。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける[242]。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した[242]。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城[242]。4月21日に安土城へ帰城した[242]。
信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った[244]。また、伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど[245]、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。
三職推任問題
天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある[246]。そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)[246]。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる[246]。
4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた[247](三職推任問題)。このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない[247]。そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある[247]。いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた[247]。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが[注釈 59]、返答の内容は不明である。
堀新は勅使に同行した勧修寺晴豊の日記「天正十年夏記」(晴豊記の断簡)で信長の官職のことを触れていないこと、信長上京の時に朝廷に徐目をめぐる動きがないことをもって就任を断ったのであると断定している[248]。
本能寺の変と最期
こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた[249]。この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという[249]。そして、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた[249]。また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった[249]。そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた[250]。
しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった[249][250]。
5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた[251]。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる[251]。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした[252]。信長の光秀に対する信頼は深かった[253]。一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている[254][注釈 60]。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた[252]。信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた[252][注釈 61]。
5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた[251][257]。
ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する[258]。この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる[259]。わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた[258]。享年49[258][注釈 62]。
信長の遺体は発見されなかったが[261]、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる[262][注釈 63]。
本能寺の変から4ヶ月後、羽柴秀吉の手によって、大徳寺において信長の葬儀が盛大に行われた[264]。
注釈
- ^ a b 余語正勝が天正11年6月2日(1583年7月20日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。
- ^ a b 信長の誕生日は、ルイス・フロイスの言に基づき5月11日ないし12日であるとする説と、天野信景『塩尻』等に準拠して5月28日であるとする二つの説がある[6]。
- ^ 天正10年9月11日柴田勝家、市夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
- ^ a b 信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[345]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[345]。歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[345]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[345]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[345]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[345]。このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[345]。平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[345]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 詳細は#生涯を参照。
- ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
- ^ a b c d 詳細は#人物を参照。
- ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
- ^ 詳細は#朝廷政策を参照。
- ^ a b 詳細は#「凶逆の人」から勤王家へを参照。
- ^ a b 詳細は#革新者か否かを参照。
- ^ 異母兄として織田信広がおり[7]、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい[7]。これらは庶流の扱いとなる。「#兄弟」も参照
- ^ 那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある[14]。
- ^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され(『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条)、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[19]。
- ^ この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている[20][21]。
- ^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[22]。
- ^ 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が記録されている[23]。
- ^ 信長が上総介を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が上総介を称したことを意識したとも考えられる[25]。信長が上総守を称したのはごく短期間であるものの[26]、これについても今川氏の称する上総介よりも「上総守」が上位であると信長が考えたのではないかと推測する説もある[26]
- ^ 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である[27]。以降、本文では「信勝」で統一。
- ^ 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという[35]。
- ^ かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる[36]。
- ^ このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない[37]。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している[36]。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している[37]。
- ^ なお、信光と確執のあった林秀貞が信光暗殺に関与していたという説もある[38]。
- ^ 『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。
- ^ 天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている[46]。
- ^ 池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる[47]。
- ^ この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた[51]。その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった[51][52]。しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとに黒田日出男が奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている[51]。
- ^ 松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった[53]。しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている[53]。その一方で、松平元康(徳川家康)の岡崎城帰還は信長による三河侵攻を警戒する今川氏真の方針に沿うものであったが、長尾景虎(上杉謙信)の北条領侵攻をきっかけに氏真の方針が対織田戦から対上杉戦(北条氏救援)に変化したことが松平氏離反のきっかけとなったとする説もある[54]。
- ^ 犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており[57]、柴裕之もこれを支持している[58]。
- ^ なお、信長は、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[60]。この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である濃姫が養母となり二代目後継者織田信忠付き側近(重臣)ともなっている[61]。
- ^ a b 浅井長政とお市の婚儀がいつ行われたかは正確には不明であり決定し難いが、2017年時点では永禄4年前後であるとする見解が有力である[62]。
- ^ この際、義継らは足利義栄の擁立を図ったとも言われるが、実際には、義継らにその意図はなかったと考えられる[63]。義栄擁立を計画したのは、阿波三好家の篠原長房らであった[64]。
- ^ 浅井長政とお市の婚姻も六角氏や幕臣の和田惟政らによる構想とする説もある[68]。
- ^ 信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されている(村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年)。これを受けて、信長は足利義栄側に離反した美濃斎藤氏と近江六角氏との対立が避けられなくなり、また大和方面からの迂回も視野に入れて三好三人衆と対立する松永久秀や柳生宗厳などの大和の勢力とも関係を持つようになった[71][72]。ただし、同時に信長が事前に龍興に約束した軍勢通過のための人質の話が纏まらなかったのが衝突の原因とする指摘もある[73]。
- ^ 新知扶助分 百貫文(関市市平賀)弐捨五貫文(富加町川小牧)四捨八貫文(富加町大山)百四捨参貫文(関市肥田瀬)百貫文(富加町夕田)弐捨貫文(美濃加茂市加茂野町鷹之巣)弐百弐捨貫文(富加町加治田・絹丸)四百七捨貫文(関市吉田)五百弐捨捨貫文(武儀郡上之保村、武儀町)七捨貫文(益田郡金山町)六捨八貫文(加茂郡白川町坂之東)百五捨貫文(関市上下迫間)・梅村良澤二扶助都合弐千百八捨四貫文
- ^ 稲葉山城陥落は永禄10年のことであるとする説が有力だが、永禄7年のことであるとする見解もあり、研究者のあいだで議論となっているという[76]。
- ^ 全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである[78]。
- ^ これらは綸旨、女房奉書およびその添状である万里小路惟任によって伝えられた[83]。
- ^ 六角氏は過去2度にわたる室町幕府による六角征伐の時も観音寺城を放棄して甲賀郡に後退して、幕府軍の撤退後に観音寺城を取り返しているため、この時も同じ戦略を取ったと言える[88]。だが、京都へ撤退した幕府軍と異なり、京都への通路を必要とした信長は南近江を織田領国に編入・統治を開始した[89]。
- ^ のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている[93]。
- ^ これに対して、山城・摂津・大和・河内などに対して出された信長発給文書は将軍である義昭の意を奉じたことを意味する「仍執達如件」の文言が含まれており、織田領国と幕府支配圏は明確に区分されていた。なお、この区分が無くなるのは、信長と義昭の決別が明確になった元亀4年3月以降のことになる[97]。
- ^ 中には幕府の裁許を得ながら、その内容を承認する朱印状を信長に求める者もいた。久野雅司はその背景として明応の政変以降、京都では度重なる政変や将軍の追放が行われた結果、今後も同様の事態――義昭と信長の決裂によって信長が義昭に追討されたり反対に義昭が信長に追放されたりして排除された側の裁許が無効になる可能性――を予測して両方から裁許を得たいと考える者がいたと指摘する[106][107]。
- ^ 当初は村井・明院の他に木下秀吉や丹羽長秀、佐久間信盛が京都の奉行を務め、後に中川重政も加わる。永禄年間には秀吉と長秀の発給文書が多いが、戦線の拡大と共に秀吉が近江に派遣されるなどの異動が相次ぎ、元亀年間には村井貞勝・嶋田秀順・原田直政が京都の奉行を務める[109]。
- ^ 関白・二条晴良が勧修寺晴右の加賀国井家荘を押領した際には、非は明らかに晴良にあるために正親町天皇からも押領を止めるように女房奉書が出されていたにも関わらず、義昭は「晴良は越前に下ってまで自分を支持してのに対して晴右は足利義栄に協力的であった」として晴右の訴えを退けた(『言継卿記』元亀元年3月20日条)[116]。また、元亀元年から始まった伊勢神宮禰宜職相論(三の禰宜であった松木房彦死去を受けてその後任として、神宮伝奏の柳原資定が渡会貞幸を、祭主の藤波康忠が松木堯彦を推挙して争った件)においても、朝廷から調停を依頼された義昭が度々意見を変えて議論を長引かせた上、藤波康忠から抗議を受けると一旦出した裁決を取り消して評定を行った政所執事の摂津晴門を処分している[117](これは将軍は奉行の評定による裁決には従うこととした『殿中御掟』にも違反している[118])。
- ^ 信長は幕府の訴訟の遅滞や義昭による恣意的な裁許に不満を漏らしていたという(『尋憲記』元亀4年2月29日条)[119]。
- ^ なお、この出兵について若狭国の武藤友益の討伐を口実としていたが、久野雅司は武藤が若狭武田家中でも反義昭の立場を取っていたために、義昭の命令によって武藤討伐軍を起こされ、信長もその命に従って軍を動員したとする[126]。ただし、若狭は当時は朝倉義景の制圧下にあり、武藤友益も義昭による武田家再興に反対する親朝倉派であったことから、結果的に朝倉勢力と衝突することになったとしている[126]。
- ^ ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし[131]、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする[132]。
- ^ 久野雅司もこの柴の説を支持しており、さらに具体的に元亀3年12月に異見書が発給されたと推定している[145]。平井上総も柴の説を肯定的に取り上げている[146]。
- ^ 『細川家記』によれば、上野秀政は義昭の「出頭第一」の「寵臣」と評価され、比叡山焼き討ちの際にも義昭に信長の排除を進言して、信長を擁護した細川藤孝と義昭の御前において論争をしたとされる。また、先代の上野信孝も足利義輝の側近として三好長慶の排除を計画した人物として知られており、久野は義昭への幕府権力の一本化と幕臣と信長の間で起きていた所領安堵など統治方針を巡る対立の解消を目的として信長の排除を画策したと考えている[150]。
- ^ 例えば、鴨川達夫『武田信玄と勝頼』[155]、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など。
- ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている[165]。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある[166]。
- ^ この際の火縄銃の数については従来、3,000挺であるとされてきたが、藤本正行が『信長公記』の自筆本の検討をもとに、1,000挺程度が正しいとする説を提唱したことにより、通説には疑問が持たれるようになった[177]。しかし、平山優が『信長公記』の系統研究を通してやはり3,000挺が正しいと主張しており、論争となっている[177]。この鉄砲部隊がいわゆる「三段撃ち」(部隊を3隊に分け、輪番で射撃させることで、火縄銃を連射可能とする手法)についても、実在を否定する見解が有力であったが、この点についても連続射撃を行う試みはあったとする説が提唱され、論争となっている[177]。長屋隆幸によれば、こうした論争の原因は、信頼できる一次史料が不足していることにあり、長篠の戦いの明確な実態は把握し難い[178]。
- ^ 歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)は将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、後奈良天皇や近衛稙家(義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した[189]。
- ^ 興福寺の別当は家柄と経歴を満たした者の中から藤氏長者が選定し、天皇がそれに従って任命する手続であったが、今回の相論は最初に立候補した兼深の経歴が資格を満たしていないと反発した学侶たちが元別当の尋円を擁立したものであった[197]。信長が晴良に充てた書状では「近代の寺法」に従って任命し、「叡慮を掠め取る」ことの無いように述べて、暗に正親町天皇が資格を満たしていない兼深を任命することを回避することを求めたものであった[198]。しかし、南北朝時代末期の永徳年間(1380年代)に資格を満たさずに任命された先例を見出して朝廷に報告していた[199]兼深は「近代の寺法」に永徳の先例は含まれると解釈していた[200]。更に兼深の姉である広橋国子は後奈良天皇の寵愛を受けて正親町天皇の異母妹である聖秀女王を生んでおり、相論以前より正親町天皇が晴良の相談せずに兼深を将来興福寺の別当にすることを約束していた形跡がある[201]。信長は正親町天皇が藤氏長者に諮ることなく興福寺別当に関する叡慮を示している事態は想定していなかったと思われる。
- ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月に信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏に共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
- ^ 従来は、『信長公記』の記述を根拠に、村重が妻子を見捨ててひそかに有岡城から逃げ出したものだと考えられてきた[220]。しかし、天野忠幸によれば、乃美宗勝宛の村重の書状から、村重の尼崎城移動には馬廻を伴っており、反撃を期したものであったと考えられるという[220]。
- ^ なお、多聞院日記によると、信長が御所を進上した当初の相手は誠仁親王ではなく、信長の猶子の邦慶親王の方だったようである[223]。
- ^ a b 滝川一益の任を“関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『武家事紀』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる[243]。
- ^ 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条、立花京子『信長権力と朝廷』掲載)
- ^ この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される[255]。
- ^ 一般に信長は光秀の接待役の任を解いたと言われる[256]。しかし、金子拓によれば史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる[256]。
- ^ 本能寺の変の後には、吉田兼見などの公家は、信長の死について日記に冷淡にしか書き残していない[260]。そして、かえって即座に光秀の意を汲んだ行動をとろうともしており、信長の死を悲しんだ様子はほとんどないという[260]。
- ^ 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された[263]。
- ^ 例えば、北条早雲は、敵対する関戸吉信方を女性・子供も含めて虐殺した[272]。伊達政宗も同様の行為をしている[272]。
- ^ なお、信長の残虐性については次の逸話も著名である。天正9年(1581年)4月10日、信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗されたという(『信長公記』巻十四[274])。フロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[275]。
- ^ 『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話もあるが、俗書にしか伝わらない。
- ^ 漆でかためて金泥などを塗ったもの。
- ^ 滝川一益は近江出身とはいえ、天文年間という早い時期から信長に従っているため譜代と同一視できる[281]。
- ^ その一例として、荒木村重は、毛利攻めの司令官の地位を羽柴秀吉に奪われたことに強い不満を持ち、そのため、信長との敵対に踏み切ることとなった[281][282]。
- ^ 中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった[299]。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた[300]。
- ^ なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の楠長諳の筆によるものである[331]
- ^ なお、後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』には、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている
- ^ なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
- ^ 竹の紙を彩色画に使った例としては、他に高野山持明院蔵「紙本著色浅井長政像」(重要文化財)がある(毎日新聞2019年5月24日)。
- ^ 武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。
- ^ 従来、元亀年間の信長と反信長勢力の争い(いわゆる元亀争乱)においては、将軍足利義昭こそが反信長勢力の盟主だと考えられてきた[354]。しかし、実際には三方ヶ原の戦いまでは、義昭は信長を支持していたということを柴裕之が明らかにしている[354]。そのため、信長が「天下人」となったのは、当初からの信長の政権構想によるものではなく、元亀争乱の結果による成り行きであったと考えられる[354]。
- ^ 今谷明 『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社〈講談社現代新書〉、1992年。ISBN 978-4061490963。のち講談社学術文庫に再録、2002年 ISBN 978-4061595613。
- ^ 平井上総は協調説に、谷口克広は対立説に分類している。
- ^ 厳密には、朝廷側は信長との協調を図ったが、信長が朝廷との協調を否定したという説として、藤井の説は分類されている[372]。
- ^ 後土御門天皇以降、正親町天皇まで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。後花園天皇までの中世の歴代天皇は譲位して上皇ないしは法皇となり、治天の君として院政を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。
- ^ 研究上、かつては一向一揆との対決こそが近世統一権力を生み出した原動力であるとする説が有力であったが、現在では一向一揆との対立にそれほどの重要性はないとする見解が主流となっている[385]。
- ^ 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章
- ^ 「永禄十二年付上京宛て精銭追加条々」『増訂 織田信長文書の研究』所収。
- ^ 池上裕子[413]など。
- ^ 信長のこと。
- ^ 正一位に叙された者は贈位も含めて現時点で信長が最後であり、以降は叙位の例がない。
- ^ 脇田修、1987、『織田信長 中世最後の覇者』、中央公論社〈中公新書〉 ISBN 9784121008435。
- ^ 庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。
- ^ 秋山は劇中劇「連続時代劇 織田信長」の信長を演じる本人役としての出演だが、クレジットではあくまで「織田信長役」となっている。
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- ^ 飛騨国司となった姉小路頼綱は父・姉小路良頼より家督を継ぎ、1570年の上洛時より信長と客将・親族、上杉謙信没後の1578年頃より濃姫の姉妹(姉小路頼綱正室)関係の親族・同盟を結んでいる。
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- ^ a b c d 堀新 2014, pp. 27–28.
- ^ 池上裕子 2012, p. はしがき8.
- ^ 番組エピソード 大河ドラマの“信長”-NHKアーカイブス
- ^ 朴順愛 2010, pp. 74–76.
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