織田信長 人物

織田信長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 05:32 UTC 版)

人物

織田信長像 (神戸市立博物館蔵、重要文化財)

人物評

歴史学者の池上裕子は、同時代人による信長についての「もっとも的確でまとまった人物評」は、宣教師ルイス・フロイスのものであると述べている[248]。信長について「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない 」[249]とも述べたフロイスによれば、信長は次のような人物であった。

彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。 — 『フロイス日本史』より[250]

フロイスの描くこのような「絶対君主」的な信長像は、信長の実際の言動と矛盾しない適切な描写であると池上裕子は言う[248]。他方、歴史学者の神田千里によれば、こうした信長の人物像は日本の史料で確認できない部分も多く、以下で述べるとおり、このフロイスによる信長の評価を鵜呑みにすることは問題も多い[251]としている。

残虐性

池上裕子によれば、信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った[252]。そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している[252]。そうした事例の一つが、長島一向一揆殲滅における男女2万人の焼殺であり、信長はこの行為によって気を晴らしたのである[253]。また、岩村城への対応などに見られるように、信長は、しばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束しているものの、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行している[254]

もっとも、敵対勢力に対する虐殺行為は、当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない[255][注釈 63]。また、信長の一向一揆殲滅については、江戸時代初期の島原の乱における大虐殺との類似性が指摘されている[256]横田冬彦によれば、このような殺戮行為は近世成立期固有の事象であって、信長の残虐性という「専制者の個性」によって生じたと考えるのは妥当ではない[256]

信長の残虐性を示す逸話としてしばしば触れられるのが、天正2年(1574年)正月の酒宴である[注釈 64]。『信長公記』によれば浅井久政長政父子と朝倉義景の3人の首[注釈 65]薄濃はくだみ[注釈 66]にしたものを「他国衆退出の已後、御馬廻ばかり」の酒宴のとして披露した。信長は非常に上機嫌であったという(『信長公記』巻七[259])。桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している[260]。この桑田の見解に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している[261]

奇行

『信長公記』に記されているように、少年時代の信長は奇行で知られ、「大うつけ」と呼ばれた[21]。異様な見た目の服装で街を歩き、栗や柿、瓜を食べながら歩いたという[21]。さらに父の葬儀の際には、位牌に向かって抹香を投げるという暴挙に出ている[21]。このような奇行はしばしば信長の天才性の象徴とされてきた[262]

しかし、神田千里は、成人した信長については、このような奇行を行う人物ではなかったと述べる[262]。足利義昭に対する十七か条の異見書や佐久間信盛に対する折檻状などに見られるように、信長自身の残した文書からは、信長が世間の評判を非常に重視していたことが伺える[263]。そして、信長はその時代の常識に則った行動を取り、人々からの支持を得ようと努めていたという[262]

家臣の扱い

明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した[注釈 67][264]

これら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している[264]。池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている[264][注釈 68]

また、松永久秀、別所長治荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる[266][267]。前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる[248]

他方で、こうした見方には異論も存在する。神田千里によれば、信長は家臣の意見をある程度までは重んじ[268]、また家臣の取扱いにも慎重だった[269]。前者について神田はいくつかの例を挙げているが、例えば、中国攻略における羽柴秀吉の独断での決定を信長は追認しているし、また、佐久間信盛の異議に従って武将の三ヶ頼連を赦免している[268]。従来は家臣に絶対服従を求めたものだと理解されていた「越前国掟」という文書も、信長の意見が間違っていれば、憚ることなく指摘すべきだという文言がある[268]。そして、家臣の意が妥当なものなら、信長はそれを採用することを約束している[268]。当時の戦国大名は家臣たちの合議を重んじていたが、信長も例外ではなく、家中の合議を必要なものだと考えていたという[270]

信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。この追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている[271]。例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している[216]。しかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与えられていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという[269]。そして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという[269]

信仰

熱田神宮の信長塀(名古屋市熱田区

前述した『フロイス日本史』の記述(→#人物評)から、信長は無神論者であり、神仏を否定していたと一般には考えられている[272]。しかし、実際には、寺社にたびたび戦勝祈願を行っていたことが多数の一次史料から分かり、このフロイスの記述は信憑性が乏しいことが指摘されている[272]

熱田神宮のいわゆる「信長塀」は、信長が桶狭間の戦いの戦勝の礼として奉納したという伝承がある[273]。この熱田神宮や、津島神社織田剣神社といった織田氏と縁の深い神社に対しては、信長は熱心に支援を行っている[273]

また、信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、京都では法華宗寺院を宿所に選ぶなど、一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡が伺えるという[274]

このように、信長はごく普通に神仏に対して信仰心を持っていたものの[275]、迷信による弊害を嫌った[276]。このことを示すのが、無辺という旅僧にまつわる天正8年の出来事である[276](『信長公記』巻十三)。無辺は石馬寺の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと人々の間で評判となった[276]。信長は無辺を引見し、出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした[276]。信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺はやむを得ず今度は事実を正直に答えた[276]。無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した[276]。さらに、無辺が迷信を利用して女性に淫らな行いをしていたことが判明したため、信長は無辺を処刑させたという[276]

武芸

前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという[277]。さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法弓術砲術といった事柄を修めた[277]

信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる[278]

天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った[279]。天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。

前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている[280]

足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった[注釈 69]

  • 天正元年(1572年)冬、陸奥の伊達輝宗から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした[283]。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した[284]
  • 天正4年(1576年)4月には毛利氏家臣・小早川隆景が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた[285]
  • 天正8年(1580年)3月9日、北条氏政は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した[286]
  • 天正8年(1580年)6月26日には長宗我部元親が鷹16羽を信長に献上した[287]

このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった[288]

趣味

織田信長公相撲観覧之図(両国国技館展示)

信長は茶の湯に大きな関心を示した。信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった[289]。この名物狩りは、「東山御物」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという[290]

そして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」)[291]。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号[注釈 57]と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある[292]。『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、天正7年(1579年)5月27日には、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に、後醍醐天皇御製の薄茶器「金輪寺」(きんりんじ/こんりんじ)の本歌(原品)を与えたという[293][信頼性要検証]

ただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである[291]

また、相撲見物も好んだ。当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる[294]。しかし、上洛以後は、相撲見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する[295][294]

相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ[295]、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという[296]。具体的な例として、天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという[296]

幸若舞や小歌を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった[297]。その他、天正3年(1575年)3月に京都相国寺今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある[298]

風流の精神

信長は新しいものに好奇心をもち、各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らした[299]。脇田修はこれを信長の「風流の精神」であると位置付けている[299]

例えば、正月に「左義長」として安土の町で爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせたり、お盆に安土城に明かりを灯して楽しむといったことをしている[299]。後者については『フロイス日本史』と『信長公記』の双方に記録があり、城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、安土城の天守のみを提灯でライトアップし、さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、とても鮮やかな様子だったという[300]

信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、他大名の使者など多くの人に黄金を蔵した安土城を見学させた[301]。特に、 天正10年(1582年)の正月には、安土城の内部に大勢の人々を招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたという[301]

異国への関心

イエズス会の献上した地球儀時計など、西洋の科学技術に関心を持った[302]。フロイスから目覚まし時計を献上された際は、興味を持ったものの、扱いや修理が難しかろうという理由で返したという[303]。信長が西洋科学に関心を持っていたことは信長自身の書状からもわかり、病気の松井友閑の治療のためにイエズス会の医師を派遣させている[302]

信長は宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに安土城を描いた屏風絵狩野永徳作「安土城図」)を贈っており、この屏風絵は、信長死後の1585年(天正13年)にローマ教皇グレゴリウス13世に献上されている[304]。ただし、この屏風贈呈は、信長の個性に起因するものというより、中国の皇帝に対して行われていたような異国への屏風絵贈呈の伝統に基づくものであると考えられる[304]。また、ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に興味を示して譲り受け、「弥助」と名付けて側近にしたことも知られる。

南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある[305]宮上茂隆は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味が伺えると主張しているという[305]。信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では唐様建築が採用されたといい[306]、また、信長の建てた摠見寺は中国の山水画の画題・瀟湘八景のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう[307]。ただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている[305]

女性観・男色

信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい[308]。近年では、歴史学者の勝俣鎮夫が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている[309]

なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる[310][311][注釈 70]

信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある[313][314][注釈 71]

しかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる[314]。とはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる男色関係にあった可能性は非常に高い[314]


注釈

  1. ^ a b 余語正勝が天正11年6月2日1583年7月20日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。
  2. ^ a b 信長の誕生日は、ルイス・フロイスの言に基づき5月11日ないし12日であるとする説と、天野信景『塩尻』等に準拠して5月28日であるとする二つの説がある[5]
  3. ^ 天正10年9月11日柴田勝家夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
  4. ^ a b 信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[322]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[322]。歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[322]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[322]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[322]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[322]。このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[322]。平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[322]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 詳細は#生涯を参照。
  6. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  7. ^ a b c d 詳細は#人物を参照。
  8. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  9. ^ 詳細は#朝廷政策を参照。
  10. ^ a b 詳細は#「凶逆の人」から勤王家へを参照。
  11. ^ a b 詳細は#革新者か否かを参照。
  12. ^ 異母兄として織田信広がおり[6]、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい[6]。これらは庶流の扱いとなる。
  13. ^ 那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある[12]
  14. ^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を輩出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され(『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条)、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[17]
  15. ^ この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている[18][19]
  16. ^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[20]
  17. ^ 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が記録されている[21]
  18. ^ 信長が上総介を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が上総介を称したことを意識したとも考えられる[23]。信長が上総守を称したのはごく短期間であるものの[24]、これについても今川氏の称する上総介よりも「上総守」が上位であると信長が考えたのではないかと推測する説もある[24]
  19. ^ 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である[25]。以降、本文では「信勝」で統一。
  20. ^ 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという[33]
  21. ^ かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる[34]
  22. ^ このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない[35]。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している[34]。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している[35]
  23. ^ なお、信光と確執のあった林秀貞が信光暗殺に関与していたという説もある[36]
  24. ^ 『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。
  25. ^ 天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている[44]
  26. ^ 池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる[45]
  27. ^ この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた[49]。その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった[49][50]。しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとに黒田日出男が奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている[49]
  28. ^ 松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった[51]。しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている[51]。その一方で、松平元康(徳川家康)の岡崎城帰還は信長による三河侵攻を警戒する今川氏真の方針に沿うものであったが、長尾景虎(上杉謙信)の北条領侵攻をきっかけに氏真の方針が対織田戦から対上杉戦(北条氏救援)に変化したことが松平氏離反のきっかけとなったとする説もある[52]
  29. ^ 犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており[55]、柴裕之もこれを支持している[56]
  30. ^ なお、信長は、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[58]。この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である濃姫養母となり二代目後継者織田信忠付き側近(重臣)ともなっている[59]
  31. ^ a b 浅井長政とお市の婚儀がいつ行われたかは正確には不明であり決定し難いが、2017年時点では永禄4年前後であるとする見解が有力である[60]
  32. ^ この際、義継らは足利義栄の擁立を図ったとも言われるが、実際には、義継らにその意図はなかったと考えられる[61]。義栄擁立を計画したのは、阿波三好家の篠原長房らであった[62]
  33. ^ 浅井長政とお市の婚姻も六角氏や幕臣の和田惟政らによる構想とする説もある[66]
  34. ^ 信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されている(村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年)。これを受けて、信長は足利義栄側に離反した美濃斎藤氏と近江六角氏との対立が避けられなくなり、また大和方面からの迂回も視野に入れて三好三人衆と対立する松永久秀や柳生宗厳などの大和の勢力とも関係を持つようになった[69][70]。ただし、同時に信長が事前に龍興に約束した軍勢通過のための人質の話が纏まらなかったのが衝突の原因とする指摘もある[71]
  35. ^ 新知扶助分 百貫文(関市市平賀)弐捨五貫文(富加町川小牧)四捨八貫文(富加町大山)百四捨参貫文(関市肥田瀬)百貫文(富加町夕田)弐捨貫文(美濃加茂市加茂野町鷹之巣)弐百弐捨貫文(富加町加治田・絹丸)四百七捨貫文(関市吉田)五百弐捨捨貫文(武儀郡上之保村、武儀町)七捨貫文(益田郡金山町)六捨八貫文(加茂郡白川町坂之東)百五捨貫文(関市上下迫間)・梅村良澤二扶助都合弐千百八捨四貫文
  36. ^ 稲葉山城陥落は永禄10年のことであるとする説が有力だが、永禄7年のことであるとする見解もあり、研究者のあいだで議論となっているという[74]
  37. ^ 全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである[76]
  38. ^ これらは綸旨女房奉書およびその添状である万里小路惟任によって伝えられた[81]
  39. ^ 六角氏は過去2度にわたる室町幕府による六角征伐の時も観音寺城を放棄して甲賀郡に後退して、幕府軍の撤退後に観音寺城を取り返しているため、この時も同じ戦略を取ったと言える[86]。だが、京都へ撤退した幕府軍と異なり、京都への通路を必要とした信長は南近江を織田領国に編入・統治を開始した[87]
  40. ^ のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている[91]
  41. ^ これに対して、山城・摂津・大和・河内などに対して出された信長発給文書は将軍である義昭の意を奉じたことを意味する「仍執達如件」の文言が含まれており、織田領国と幕府支配圏は明確に区分されていた。なお、この区分が無くなるのは、信長と義昭の決別が明確になった元亀4年3月以降のことになる[95]
  42. ^ 中には幕府の裁許を得ながら、その内容を承認する朱印状を信長に求める者もいた。久野雅司はその背景として明応の政変以降、京都では度重なる政変や将軍の追放が行われた結果、今後も同様の事態――義昭と信長の決裂によって信長が義昭に追討されたり反対に義昭が信長に追放されたりして排除された側の裁許が無効になる可能性――を予測して両方から裁許を得たいと考える者がいたと指摘する[104][105]
  43. ^ 当初は村井・明院の他に木下秀吉や丹羽長秀、佐久間信盛が京都の奉行を務め、後に中川重政も加わる。永禄年間には秀吉と長秀の発給文書が多いが、戦線の拡大と共に秀吉が近江に派遣されるなどの異動が相次ぎ、元亀年間には村井貞勝・嶋田秀順・原田直政が京都の奉行を務める[107]
  44. ^ 関白二条晴良が勧修寺晴右の加賀国井家荘を押領した際には、非は明らかに晴良にあるために正親町天皇からも押領を止めるように女房奉書が出されていたにも関わらず、義昭は「晴良は越前に下ってまで自分を支持してのに対して晴右は足利義栄に協力的であった」として晴右の訴えを退けた(『言継卿記』元亀元年3月20日条)[114]。また、元亀元年から始まった伊勢神宮禰宜職相論(三の禰宜であった松木房彦死去を受けてその後任として、神宮伝奏の柳原資定が渡会貞幸を、祭主の藤波康忠が松木堯彦を推挙して争った件)においても、朝廷から調停を依頼された義昭が度々意見を変えて議論を長引かせた上、藤波康忠から抗議を受けると一旦出した裁決を取り消して評定を行った政所執事の摂津晴門を処分している[115](これは将軍は奉行の評定による裁決には従うこととした『殿中御掟』にも違反している[116])。
  45. ^ 信長は幕府の訴訟の遅滞や義昭による恣意的な裁許に不満を漏らしていたという(『尋憲記』元亀4年2月29日条)[117]
  46. ^ なお、この出兵について若狭国の武藤友益の討伐を口実としていたが、久野雅司は武藤が若狭武田家中でも反義昭の立場を取っていたために、義昭の命令によって武藤討伐軍を起こされ、信長もその命に従って軍を動員したとする[123]。ただし、若狭は当時は朝倉義景の制圧下にあり、武藤友益も義昭による武田家再興に反対する親朝倉派であったことから、結果的に朝倉勢力と衝突することになったとしている[123]
  47. ^ ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし[129]、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする[130]
  48. ^ 久野雅司もこの柴の説を支持しており、さらに具体的に元亀3年12月に異見書が発給されたと推定している[140]。平井上総も柴の説を肯定的に取り上げている[141]
  49. ^ 『細川家記』によれば、上野秀政は義昭の「出頭第一」の「寵臣」と評価され、比叡山焼き討ちの際にも義昭に信長の排除を進言して、信長を擁護した細川藤孝と義昭の御前において論争をしたとされる。また、先代の上野信孝も足利義輝の側近として三好長慶の排除を計画した人物として知られており、久野は義昭への幕府権力の一本化と幕臣と信長の間で起きていた所領安堵など統治方針を巡る対立の解消を目的として信長の排除を画策したと考えている[145]
  50. ^ 例えば、鴨川達夫『武田信玄と勝頼』[149]、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など。
  51. ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている[159]。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある[160]
  52. ^ この際の火縄銃の数については従来、3,000挺であるとされてきたが、藤本正行が『信長公記』の自筆本の検討をもとに、1,000挺程度が正しいとする説を提唱したことにより、通説には疑問が持たれるようになった[171]。しかし、平山優が『信長公記』の系統研究を通してやはり3,000挺が正しいと主張しており、論争となっている[171]。この鉄砲部隊がいわゆる「三段撃ち」(部隊を3隊に分け、輪番で射撃させることで、火縄銃を連射可能とする手法)についても、実在を否定する見解が有力であったが、この点についても連続射撃を行う試みはあったとする説が提唱され、論争となっている[171]。長屋隆幸によれば、こうした論争の原因は、信頼できる一次史料が不足していることにあり、長篠の戦いの明確な実態は把握し難い[172]
  53. ^ 歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)は将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、後奈良天皇近衛稙家(義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した[181]
  54. ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月に信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏に共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
  55. ^ 従来は、『信長公記』の記述を根拠に、村重が妻子を見捨ててひそかに有岡城から逃げ出したものだと考えられてきた[204]。しかし、天野忠幸によれば、乃美宗勝宛の村重の書状から、村重の尼崎城移動には馬廻を伴っており、反撃を期したものであったと考えられるという[204]
  56. ^ なお、多聞院日記によると、信長が御所を進上した当初の相手は誠仁親王ではなく、信長の猶子の邦慶親王の方だったようである[207]
  57. ^ a b 滝川一益の任を“関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『武家事紀』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる[227]
  58. ^ 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条、立花京子『信長権力と朝廷』掲載)
  59. ^ この時の本膳料理献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される[238]
  60. ^ 一般に信長は光秀の接待役の任を解いたと言われる[239]。しかし、金子拓によれば史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる[239]
  61. ^ 本能寺の変の後には、吉田兼見などの公家は、信長の死について日記に冷淡にしか書き残していない[243]。そして、かえって即座に光秀の意を汲んだ行動をとろうともしており、信長の死を悲しんだ様子はほとんどないという[243]
  62. ^ 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された[246]
  63. ^ 例えば、北条早雲は、敵対する関戸吉信方を女性・子供も含めて虐殺した[255]。伊達政宗も同様の行為をしている[255]
  64. ^ なお、信長の残虐性については次の逸話も著名である。天正9年(1581年)4月10日、信長は琵琶湖竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗されたという(『信長公記』巻十四[257])。フロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[258]
  65. ^ 『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話もあるが、俗書にしか伝わらない。
  66. ^ でかためて金泥などを塗ったもの。
  67. ^ 滝川一益は近江出身とはいえ、天文年間という早い時期から信長に従っているため譜代と同一視できる[264]
  68. ^ その一例として、荒木村重は、毛利攻めの司令官の地位を羽柴秀吉に奪われたことに強い不満を持ち、そのため、信長との敵対に踏み切ることとなった[264][265]
  69. ^ 中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった[281]。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた[282]
  70. ^ なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の楠長諳の筆によるものである[312]
  71. ^ なお、後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』には、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている
  72. ^ なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
  73. ^ 竹の紙を彩色画に使った例としては、他に高野山持明院蔵「紙本著色浅井長政像」(重要文化財)がある(毎日新聞2019年5月24日)。
  74. ^ 武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。
  75. ^ 従来、元亀年間の信長と反信長勢力の争い(いわゆる元亀争乱)においては、将軍足利義昭こそが反信長勢力の盟主だと考えられてきた[331]。しかし、実際には三方ヶ原の戦いまでは、義昭は信長を支持していたということを柴裕之が明らかにしている[331]。そのため、信長が「天下人」となったのは、当初からの信長の政権構想によるものではなく、元亀争乱の結果による成り行きであったと考えられる[331]
  76. ^ 今谷明『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社〈講談社現代新書〉、1992年。ISBN 978-4061490963のち講談社学術文庫に再録、2002年 ISBN 978-4061595613
  77. ^ 平井上総は協調説に、谷口克広は対立説に分類している。
  78. ^ 厳密には、朝廷側は信長との協調を図ったが、信長が朝廷との協調を否定したという説として、藤井の説は分類されている[348]
  79. ^ 後土御門天皇以降、正親町天皇まで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。後花園天皇までの中世の歴代天皇は譲位して上皇ないしは法皇となり、治天の君として院政を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。
  80. ^ 研究上、かつては一向一揆との対決こそが近世統一権力を生み出した原動力であるとする説が有力であったが、現在では一向一揆との対立にそれほどの重要性はないとする見解が主流となっている[360]
  81. ^ 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章
  82. ^ 「永禄十二年付上京宛て精銭追加条々」『増訂 織田信長文書の研究』所収。
  83. ^ 池上裕子[388]など。
  84. ^ 信長のこと。
  85. ^ 正一位を贈られたのは現時点では信長が最後となっている
  86. ^ 脇田修、1987、『織田信長 中世最後の覇者』、中央公論社〈中公新書〉 ISBN 9784121008435
  87. ^ 庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。
  88. ^ 秋山は劇中劇「連続時代劇 織田信長」の信長を演じる本人役としての出演だが、クレジットではあくまで「織田信長役」となっている。

出典

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  199. ^ 飛騨国司となった姉小路頼綱は父・姉小路良頼より家督を継ぎ1570年の上洛時より信長と客将・親族、上杉謙信没後の1578年頃より濃姫の姉妹(姉小路頼綱正室)関係の親族・同盟を結んでいる。
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