コロンビア 国名

コロンビア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 13:30 UTC 版)

国名

正式名称は、República de Colombia [reˈpuβlika ðe koˈlombja]. 通称Colombia

公式の英語表記は、Republic of Colombia [rɪˈpʌblɪk əv kəˈlʌmbiə, kəˈlɒmbiə] . 通称Colombia

日本語の表記は、コロンビア共和国。通称コロンビア漢字による当て字は、哥倫比亜、もしくは古倫比亜である。

国名は直接的にはアメリカ大陸の発見クリストーバル・コロン(コロンブス)に由来し、アメリカが「アメリゴの土地」を意味するように、コロンビアは「コロンの土地」を意味する。植民地時代はスペイングラナダに由来したヌエバ・グラナダ(新グラナダ)と呼ばれ、独立後も1858年までこの名称を使用していた。コロンビアの名称を最初に使用したのはベネズエラの独立指導者フランシスコ・デ・ミランダであり、ミランダが新大陸を示す名称としてコロンビアを用いた。1819年に解放者シモン・ボリバルは南米統一国家の国名にこの名称を用い、ベネズエラとヌエバ・グラナダの連合国家の名称としてグラン・コロンビアが採用された。1831年にヌエバ・グラナダ共和国として独立した後、1858年にはグラナダ連合、1863年にはコロンビア合衆国と国名を変え、1886年に現行のコロンビア共和国の名称が最終的に定まった。

歴史

先コロンブス期

エル・ドラード伝説を生み出したムイスカ人の黄金の筏

紀元前1450年頃に、ボゴタ近郊のエル・アブラスペイン語版英語版遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。紀元前1000年インディオのグループは南アメリカでインカ帝国に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケCaciqueCacicazgos)と呼ばれる首長による一種の首長制[要曖昧さ回避]国家群を発展させた。その好例をチブチャスペイン語版[要リンク修正]系 (Chibcha) のムイスカタイロナカリマスペイン語版英語版キンバヤスペイン語版英語版シヌーなどの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年頃、現在のニカラグアに相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシとジャガイモを栽培し、カピバラの一種を家畜化して、生産物を低地民のコカ木綿と交換することにより生計を立てていた。

スペイン植民地時代

西暦1500年に、ロドリーゴ・デ・バスティーダススペイン語版英語版に率いられたスペイン人探検家カリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年クリストーバル・コロンはカリブ海とチョコ (Choco) の西岸を航行する。1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1510年11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン英語版(Santa María la Antigua del Darién) が今のチョコ県に建設され、南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な入植地となった。その地域の先住民族は、チブチャ系 (Chibcha) とカリブ系(Karib)が多数を占めていた。バカタスペイン語版を首都とするムイスカ連邦スペイン語版1450年 - 1537年Bogotá Kingdom - バカタ王国スペイン語版とも)はムイスカ人の最大の王国だったが、征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ英語版により征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降、スペイン人の拠点となった。

スペイン人は16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後、カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足により一旦廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を定めた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍海賊の攻撃は続き、現在[いつ?]も城壁が残っている。

1781年、ソコーロ英語版で増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱英語版を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、最終的には増税の実施が見送られたことによりこの反乱は終結した。

独立戦争とグラン・コロンビアの崩壊

アントニオ・ナリーニョ英語版
ククタ議会スペイン語版英語版でのフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルシモン・ボリバルをはじめとするコロンビア独立の志士たち。

19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。当時のコロンビアの総人口は約130万人と推定されており、うち1割強に当たる約10万~15万人(成人男性の2人に1人が戦死)が死亡する激烈な戦闘が行なわれた。

1806年からフランシスコ・デ・ミランダに率いられた解放軍により、隣のベネズエラ総督領スペイン語版英語版から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダでも独立戦争が始まった。1810年7月、アントニオ・ナリーニョ英語版が副王を追放してボゴタ県スペイン語版サンタフェ・デ・ボゴタを中心)にクンディナマルカ共和国スペイン語版英語版1810年 - 1815年)の独立を宣言した。翌年にカルタヘナ県スペイン語版[要リンク修正]カルタヘナ・デ・インディアスを中心)がカルタヘナ共和国スペイン語版1811年 - 1815年)の独立を宣言し、すぐにボゴタの議会で地方諸州とボゴタはヌエバ・グラナダ連合州英語版1810年 - 1816年)として合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。

ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは、1812年に崩壊したベネズエラ第一共和国英語版1810年 - 1812年)を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリバルも1813年にはベネスエラ第二共和国英語版1813年 - 1814年)を再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増し、連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落した。ボリバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの(カラボボの戦い (1814年)スペイン語版)、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。

再びベネズエラに上陸したボリバルは1818年にジャネーロ英語版Llanero)の頭目だったホセ・アントニオ・パエス英語版の力を借り、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国スペイン語版1817年 - 1819年)が再建され、グラン・コロンビアGran Colombia1819年 - 1831年)が創設された。1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリバルはグラン・コロンビアの建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。

1821年にカラボボの戦い (1821年)英語版での勝利によりカラカスが解放されると、ベネズエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国(República de Colombia)を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在[いつ?]のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルーガイアナブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となって不在の大統領に代わりヌエバ・グラナダを治め、ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に出征した。1824年にスクレ軍がアヤクーチョの戦い英語版で勝利し、全インディアス植民地の独立を勝ち取った。

ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となり、1827年にボリビアから帰還した。コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する ホセ・アントニオ・パエス英語版の不満が高まった。サンタンデル派は1828年にはボリーバルの暗殺を謀り亡命した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起きた(グラン・コロンビア=ペルー戦争英語版)。その後、ベネズエラが独立を要求した。1830年エクアドルキトグアヤキルクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)は独立し、ベネズエラもパエスの指導下で完全独立を果たしたため、ボリバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意の内に病死した。翌1831年ラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国として独立した。

ヌエバ・グラナダの独立からコロンビア共和国の成立まで

首都ボゴタのカテドラル

1832年に亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領に就任した。保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒーが栽培され始めた。この時代にコロンビア時代から続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これにより、コロンビアは現在まで続く二大政党制が確立されたが寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。

1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペス英語版はイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義政策を採り、1880年までコロンビアでは自由主義政権が続いた。1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ英語版将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。自由貿易の導入によりイギリス資本による経済支配が進んだ。

1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲス英語版が大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合1858年 - 1863年)が発足した。ロドリゲスはイエズス会の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラ英語版が蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。

モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦制国家、コロンビア合衆国1863年 - 1886年)が成立した。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ」と呼ばれた。1880年に保守派のラファエル・ヌニェス英語版が自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。

1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛り込んで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。

党派対立の時代

レティシアを巡ってのペルーとの戦争に備えるコロンビア軍(1932年)

1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。ラファエル・ウリベ・ウリベスペイン語版英語版将軍の指導する自由党急進派が蜂起した「千日戦争」(1899年 - 1902年)が勃発した。この内戦ではおよそ10万人の犠牲者が出た。内戦中にかねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国パナマ運河地帯永久租借案をコロンビア上院が拒否すると、アメリカはパナマ地峡の独立派を援助し、1903年に地峡地帯がパナマ共和国として独立した。

内戦終結後、保守党のラファエル・レイェス英語版が大統領に就任した。この時期に独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によってこの路線は続けられた。1921年にパナマ問題が解決するとアメリカ合衆国から膨大な投資が流れ込み、それまでのイギリス資本からアメリカ合衆国資本による経済支配が進んだ。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジンは、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。

1930年エンリケ・エラヤ・エレーラ英語版が労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争に勝利し、南部アマゾン国境のレティシアの領有権を確保した。これ以後1946年まで自由党政権が続いた。

1934年、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホ英語版が大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは1942年に再選されるが、政策に失敗して1945年辞任した。プマレホの政治は農民や労働者の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタンは1928年にユナイテッド・フルーツ社によるバナナ労働者虐殺事件英語版を批判したことからカリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン主義を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。

「暴力」の時代

コロンビアの首都ボゴタ。標高2600メートルに800万人が住む。

1946年以降の十年間はラ・ビオレンシア英語版(「暴力」の時代、1948年 - 1958年)と言われ、争いが頂点に達した。1946年に保守党政権が誕生すると、保守党政権は徐々に自由党派に対するテロを繰り広げ、1948年にボゴタでのOAS会議中に、自由党党首のガイタンが当選確実といわれた選挙直前に暗殺された。ガイタン暗殺をきっかけに激昂した自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動英語版(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。

1950年に保守党の超保守派ラウレアーノ・ゴメス大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは反共を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを弾圧し、反共政策の下でラテンアメリカ諸国で唯一朝鮮戦争に際して国連軍に軍隊を派遣した。

地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、1953年6月14日、軍事クーデターにより朝鮮戦争派遣コロンビア軍の司令官だったグスタボ・ロハス・ピニージャ英語版将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権が発足した。ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年、ロハスが人民弾圧を行なった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起(ビジャリカ戦争)。1956年、ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「牛の首輪事件スペイン語版」(Incidentes en la plaza de toros)の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。また、ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチンフアン・ペロンのような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、1957年にロハスは辞任に追いやられた。コロンビア軍事政権スペイン語版1957年 - 1958年)。

「国民戦線」体制

1958年、支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「国民戦線スペイン語版英語版」体制(1958年 - 1974年)が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。キューバ革命1953年 - 1959年)の影響を受けて、1961年にアメリカ合衆国のケネディ大統領主導によって進歩のための同盟が発足、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らなかった。同年、国家人民同盟スペイン語版英語版(ANAPO)が発足。

コロンビア内戦

1964年からゲリラ活動は活発化し(コロンビア内戦)、1966年にはコロンビア革命軍 (FARC) が発足した。1968年にメデジン公会議で解放の神学が誕生した。1970年の選挙でANAPO党から出馬した、ロハスが不正選挙で負けると、学生を中心とした左翼ゲリラ4月19日運動 (m - 19) が生まれた。

首都ボゴタは南米有数の世界都市である。

1974年、「国民戦線」体制が終結し、通常選挙が執り行われアルフォンソ・ロペス・ミケルセンが大統領に就任。さらに1978年の選挙では自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領が現職のロペスを破り、新大統領に就任した[7]。トゥルバイ大統領は、反政府運動の高まりに対し戒厳令を布告して弾圧を加えた結果、多くの活動家が秘密警察による拉致拷問を受け、その多くが失踪した。

1982年に就任した保守党のベリサリオ・ベタンクール・クァルタス英語版大統領はFARCなど左翼ゲリラ勢力と和平を実現し、1985年にはFARCが合法政党である愛国同盟英語版 (UP)を創設したが、議員や関係者が次々に暗殺され、1994年には政党資格を喪失した。また85年には左翼ゲリラm - 19によるコロンビア最高裁占拠事件ネバド・デル・ルイス火山の噴火(死者・行方不明者25000人以上)など災難が相次ぎ、ベタンクール大統領は「社会・経済非常事態宣言」を発令した。1986年に就任した自由党のビルヒリオ・バルコ・ヴァルガス英語版大統領により、1989年メデジン・カルテルとの大規模ゲリラ戦闘「麻薬カルテル戦争英語版」(プラン・コロンビアスペイン語版英語版麻薬戦争)が勃発し、大統領選挙中の8月18日ルイス・カルロス・ガラン・サルミエントが暗殺された。麻薬カルテルの本拠地がメデジンからカリに移った。1990年、大統領に就任した自由党のセサル・ガビリア・トルヒージョ野党を含む挙国一致内閣を組閣し、1991年に1886年憲法が全面改正され、施行された。

政治腐敗

1994年に就任した自由党のエルネスト・サンペール・ピサノ英語版大統領が選挙期間中にカリ・カルテルから選挙資金を受け取っていたことが発覚し、「ナルコ・ゲート事件スペイン語版英語版」(西: Proceso 8.000)に発展した。議会はサンペールを弾劾する構えを見せ、アメリカ合衆国連邦政府もサンペールに入国ビザの発給を拒否するなど外交問題に発展した。1998年に就任した保守党のアンドレス・パストラーナ・アランゴ英語版大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌1999年1月にはFARCとの和平対話を開始するも、2002年初頭のFARCによるテロを受け、和平プロセスを中止。同夏、自由党系の新政党「プリメーロ・コロンビアスペイン語版」から就任したアルバロ・ウリベ大統領は治安回復を重点課題とし、2006年5月、ウリベは大統領に再選した。同年、アルバロ・ウリベ大統領の「パラポリティカ・スキャンダルスペイン語版英語版」(西: Parapolítica)が発覚。2008年3月1日に国境のプトゥマヨ川を越えたエクアドル領内でコロンビア革命軍(FARC)掃討作戦を実施、ラウル・レジェス他23名がコロンビア空軍の空爆で殺害された。エクアドル大統領ラファエル・コレア領空侵犯として抗議(アンデス危機)。同年4月にウリベ大統領の「イディスポリティカ・スキャンダルスペイン語版英語版」(西: Yidispolítica)が発覚した。2010年6月には大統領選挙でウリベ政権下で国防大臣を務めたフアン・マヌエル・サントスが当選し、同年8月7日に大統領に就任した。2010年7月下旬にはボゴタの南方の町マカレナで2000体余りの虐殺されたと思われる遺体が発見された[8]

現在、コロンビアの治安は良くなってきているが、やはり郊外や、観光地が少ない地域に行くとゲリラの集団が活動している場合がある。

左翼ゲリラ(FARC)との和平交渉

コロンビア最大の左翼ゲリラであるコロンビア革命軍(FARC)は最盛期に約2万人の勢力を有したが、ウリベ政権期の対ゲリラ強硬策が奏功し、その勢力は2015年末時点で約6,000人までに減少している。

ウリベ大統領の後継として、2010年に大統領に選出され、2014年に再選されたサントス大統領はウリベ大統領の強硬策から大幅に路線転換し、2012年末からコロンビア革命軍(FARC)とキューバの首都ハバナで和平交渉を開始した。和平交渉自体は、紛争が継続したまま開始されており、FARCは度々一方的停戦を宣言し、双方向停戦を呼び掛けているが、実際には衝突は散発的に起きており、政府側は双方向停戦に応じていない。2015年9月にサントス大統領は、2016年3月23日を期限として和平最終合意に署名することを発表したが、期日までに最終合意には至らず、交渉が継続されている。

期日までに合意されなかったことから世論の批判も高まっており、サントス大統領の支持率も低下した。

2016年8月24日、コロンビア政府とFARCは共同声明で50年以上にわたる内戦の終結に合意したと発表した。9月26日にカルタヘナで署名式典を行った。10月2日の国民投票において和平合意は否決されるが、政府は和平合意の修正協議を行い、11月、新たな和平合意をFARCとの間で署名し、国会で承認された(なお、新和平合意について国民投票は実施されなかった)。和平合意成立後は,合意の実施フェーズに移行し、2017年9月にはFARCの武装放棄プロセスが終了した。また、サントス大統領は、2017年2月に国民解放軍(ELN)との和平交渉も正式に開始した。ノルウェー・ノーベル委員会は、サントス大統領による内戦の終結に導く努力を認め、2016年10月7日にノーベル平和賞を送ると発表した[9]

だが、このような左翼ゲリラとの和解は反発を呼び込み、大統領選では再び強硬派で極右とも言われるイバン・ドゥケが大統領選挙で当選した。再び和平合意の遵守は暗礁に乗り上げとの報道もされた[10]。その後一部の左翼ゲリラの元幹部が、再び武装闘争を行うとの動きもあるが、主流派は和平合意を順守としており政権も、分離派に対する武力掃討作戦を展開しつつ和平合意自体は尊重しており、大きな混乱は生じていない。

政治

大統領官邸

大統領を元首とする共和制国家であり、上下両院制複数政党制議会を備える。現行憲法は1991年憲法である。

行政権は大統領によって行使される。大統領は直接選挙で選ばれ、任期は4年。連続一度まで再選可。

立法権は上院下院に属し、上院は定数102議席、下院は定数166議席である。いずれも任期は4年、比例代表制により選出される。

司法権は最高裁判所に属し、行政、立法から独立している。

コロンビアの政治における基本的な性格としては、現在まで続くボゴタソ以降の内戦においてもロハス時代を除いて一貫して文民政権が維持されてはきた。イスパノ・アメリカ独立時以来の自由党、保守党両党の枠組みの中で両党派による歴史的な妥協が続き、多くの国でこの自由・保守(ないし中央集権派と連邦派)という枠組みがなし崩し的に崩れていった中で、コロンビアでは両党以外の政治勢力を排除してきたことがその原因である[11]。寡頭支配層が営々と権力独占による金権政治を行ってきた結果、寡頭支配層に対する抵抗という目的を持った左翼ゲリラが跋扈し続ける主な原因ともなっている。

なお、「寡頭政治」という言葉はホルヘ・エリエセル・ガイタンが選挙戦で白人支配層を批判するために初めて用いた演説用語である。自由党の大統領候補ガブリエル・トゥルバイはレバノン移民の子であり、決して支配層出身とは言えない。独立以降の60名の歴代大統領中18名は軍人出身であり、いわゆる支配階級出身ではない大統領も多い。例えば、保守党の支配階級的色彩の強かったマルコ・フィデル・スアレス大統領(任1918年‐1921年)は洗濯屋の従業員であった母親の私生児であり、下層階級出身である。また、自由党のベリサリオ・ベタンクール大統領(任1982年‐1986年)はバスク系貧農の出身で、23人兄弟の末っ子で子供の頃は裸足で歩いていたため足の指が変形しており、無職だった頃は公園のベンチで寝ていたという逸話の持ち主である。他にも保守党のカルロス・レストレポ大統領(任1910年‐1914年)や、自由党のエドゥアルド・サントス大統領(任1938年‐1942年)は中産階級出身で上流階級に属さない大統領も珍しくなく、コロンビアでは「誰でも大統領になれる」という言い方が流行ったこともあるという[12]

かつて左派の主要な政治勢力であった愛国同盟(UP)は1,500人以上の活動家が政府によって暗殺されたために壊滅し[11]、清廉な議員・判事でも麻薬組織による買収工作が行われ、コロンビア革命軍などの左翼ゲリラや右翼民兵による誘拐・暗殺が絶えない。麻薬組織は政権を握る気がないため表立って政治を操るようなことはしていないが、それでもその影響力は非常に大きい[11]など、腐敗と暴力が横行している。

しかし、コロンビアの歴史を遡って検証すると、これらの指摘は誇張されすぎていると言わざるを得ない。政権与党が推薦した候補者選挙で敗北した場合でも概ね平穏に政権交代が行なわれており、1882年1930年1946年の選挙では政治的暴力は発生していない[13]

また、コロンビアでは1853年に憲法で男子の普通選挙権が認められており、世界の憲政史上でも最も古い国の一つである。1856年の普通選挙による初の大統領選では、有権者の投票参加率は40%程度と推計されており、広大な国土(日本の3倍強)と少ない人口(1851年当時で男子人口108万8000人)と投票所までの距離とアクセスの困難さを考えれば驚異的な数字である[13]

奴隷制は独立後の1821年に奴隷から産まれた新生児を一定年齢に達した後に解放するという措置が取られた。これは米国大統領エイブラハム・リンカーンによる奴隷解放宣言より40年も早く、1826年のパナマ会議に米国が出席しなかった理由はコロンビアの奴隷解放が自国に波及することを恐れたためという。1851年に全土の奴隷2万人が全員解放され、1852年1月には奴隷制そのものが全廃された[14]

コロンビア研究者のデイビッド・ブッシュネルは、他のラテンアメリカ諸国と比較して、「コロンビアの場合、政権獲得のために暴力の使用が一般的に欠如していることはすばらしいことである」と高く評価している[15]。ブッシュネルは「仮に最大推計値をとって比較しても、19世紀のコロンビアにおけるすべての内戦は、南北戦争と比較して、絶対数においても相対数においても死者の発生が少ない」と指摘し、他のラテンアメリカ諸国と比較しても決して多くはなかったと指摘している[16]

例えば、ベネズエラでは大コロンビアからの分離後25年間で11回反乱が起き、アルゼンチンでは1868年までの10年間に117回もの反乱が起きている。また、メキシコや他の中米諸国、アルゼンチン、ペルーボリビアで長期の内戦があり、最も内戦が少なかったチリでさえ1829年1851年1859年1891年に内戦が起き、国境の資源を巡り1879年太平洋戦争が起こり、チリは「戦争の国土」と呼ばれた[16]。これらの諸国と比較してもコロンビアは内戦の規模も犠牲者も少なく、また20世紀前半は戦争のない平和な時代であり、メキシコ革命第一次世界大戦第二次世界大戦の影響もなく、コロンビアは文明国家の中では最も平和な国家であったとされる[17]

政党としては1849年に結成された自由党と保守党・2006年に自由党から別れた全国統一社会党や、リベラル派の「急進的変革」・社会主義勢力が加わっている「オルタナティブ民主投票」が有力である。保守党は独立時のボリバル派(中央集権派)の流れを、自由党はサンタンデル派(連邦派)の流れを受け継いでいる。

なお、死刑制度1991年の新憲法で全面廃止されている。

  • 1991年7月5日、新憲法公布される。新憲法下で初の総選挙が行われ、政教分離や連邦主義を主張する都市工業者に基盤を持つ自由党が勝利した。しかし、左翼ゲリラの攻撃は激化し、石油施設などへの攻撃が相次いでいる。
  • 2006年8月7日、二期目となるアルバロ・ウリベ大統領が就任演説で反政府武装集団との和平への決意を示した。コロンビアでは40年以上内戦が続いている。
  • 2010年6月20日、大統領選の決選投票が行われ、与党・全国統一社会党のフアン・マヌエル・サントス前国防相が当選した。全国登録庁(中央選管)の発表によると、サントス候補が69%、野党・緑の党のモクス候補は27.5%であった。投票率は44%[18]
  • 2014年6月15日、大統領選の決選投票が行われ、和平交渉継続を争点とし、与党・国民統一党のフアン・マヌエル・サントス大統領が僅差で再選した。国民登録局(中央選管)の発表によると、得票率は、サントス候補が50.95%、スルアガ候補が45%であった。
  • 2018年6月17日、大統領選の決選投票が行われ、和平交渉合意を争点とし、合意見直し派の中央民主党のイバン・ドゥケ上院議員が元左翼ゲリラで合意遵守派の前ボゴタ市長のグスタボ・ペトロを破り当選した。国民登録局(中央選管)の発表によると、得票率は、ドゥケ候補が53.98%、ペトロ候補が41.81%であった。右派が圧倒的に強いコロンビアにおいて左派候補が決選投票に残ったのは史上初の事であった。
  • 2022年6月19日、大統領選決選投票で、中道左派で元ボゴタ市長のグスタボ・ペトロが実業家で元ブカラマンガ市長のロドルフォ・エルナンデスを破り当選した。伝統的に右派が政権を担ってきたコロンビアで史上初の左派政権が誕生することになる。南米随一の親米国家で親米路線を堅持してきたコロンビアの外交路線にも影響を与える可能性があり、「米国の裏庭」と揶揄される南米における米国の影響力低下が指摘されている。

注釈

  1. ^ 1990年代、コロンビアでは年間34,000人が殺人事件の犠牲になり、世界の誘拐事件の6割に相当する3600人が誘拐された。
  2. ^ 1990年代のコロンビアの殺人発生率(10万人当たりの殺人件数)は77.5人(1991年は86人で世界最悪)だった。
  3. ^ 2002年に就任したアルバロ・ウリベ大統領の下で極左テロ組織麻薬カルテルへの取り締まりが強化され、全国の自治体警察署が設置された。2017年のコロンビアの殺人発生率は25.2人でラテンアメリカではブラジル(30.74人)やメキシコ(25.71人)より低い。
  4. ^ 1985年の噴火により氷河が溶け出して土石流が生じ、アルメロ市を埋め尽くし、2万人もの犠牲者を出した。
  5. ^ この高原は、氷河が溶けて湖になり、堆積物が沈殿したことによってできたと考えられている。現在でも湿原があちこちにあり、その名残を留めている。
  6. ^ この斜面の北部はクシアナ油田に代表される石油産業も発展している。

出典

  1. ^ 裁判員制度”. コロンビア共和国基礎データ. 2018年11月5日閲覧。
  2. ^ a b UNdata”. 国連. 2021年11月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f IMF Data and Statistics 2021年11月7日閲覧(World Economic Outlook Database, October 2021
  4. ^ Tovar Pinzón, Hermes (2001-03-03). “Emigración y éxodo en la historia de Colombia” (スペイン語). Amérique Latine Histoire et Mémoire. Les Cahiers ALHIM. Les Cahiers ALHIM (3). doi:10.4000/alhim.522. ISSN 1777-5175. http://journals.openedition.org/alhim/522. 
  5. ^ COLOMBIA JOINS THE OECD AND NATO” (英語). Staff Relocation Services México (2018年7月16日). 2021年7月22日閲覧。
  6. ^ Barrett, William P.. “The Best Places To Retire Abroad In 2020” (英語). Forbes. 2021年7月22日閲覧。
  7. ^ 見えない内戦の傷跡 大統領訪問を歓迎 豊富な商品、物価も平静『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月18日朝刊、13版、7面
  8. ^ http://www.asahi.com/international/update/0807/TKY201008070193.html
  9. ^ The Nobel Peace Prize 2016” (English). Nobel Foundation. 2016年10月7日閲覧。
  10. ^ “コロンビア「ノーベル賞の和平」暗雲 大統領に見直し派”. 朝日新聞. (2018年6月19日). https://www.asahi.com/articles/ASL6L43V0L6LUHBI00Y.html 2019年1月27日閲覧。 
  11. ^ a b c d e f g h i j k l フランシスコ・デ・ルー「コロンビア その社会・経済・政治的変化と障壁」『変動するラテンアメリカ社会 「失われた10年」を再考する』グスタボ・アンドラーデ、堀坂浩太郎:編(彩流社、1999年)
  12. ^ 寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)92-94頁
  13. ^ a b 寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)65頁
  14. ^ 寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)70頁
  15. ^ 寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)66頁
  16. ^ a b 寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)272頁
  17. ^ 寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)273頁
  18. ^ 「コロンビア:サントス氏が決選投票制す 大統領選」[リンク切れ]毎日新聞』2010年6月21日
  19. ^ “ベネズエラがコロンビアと断交 左翼ゲリラの活動めぐり対立”. 47NEWS. (2010年7月23日). http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010072301000016.html 2010年7月23日閲覧。 
  20. ^ 「ベネズエラとコロンビア、国交回復で合意」『読売新聞』2010年8月11日[リンク切れ]
  21. ^ a b “ベネズエラ難民、受け入れ国でトラブル 近隣国、国際会議で有効な対策打てず”. 『日本経済新聞』. (2018年9月5日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35015560V00C18A9FF2000/ 2019年3月2日閲覧。 
  22. ^ “ベネズエラ、コロンビアとの断交を発表 国境で支援物資搬入めぐり衝突”. 日CNN. (2019年2月24日). https://www.cnn.co.jp/world/35133180.html 2019年3月2日閲覧。 
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  25. ^ 寺澤辰麿『コロンビアの素顔』(かまくら春秋社、2016年)29-30頁
  26. ^ a b c 二村久則編集『コロンビアを知るための60章』(明石書店エリアスタディーズ90、2011年)20ページ
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  29. ^ a b c 二村久則編集『コロンビアを知るための60章』(明石書店エリアスタディーズ90、2011年)22ページ
  30. ^ 平成28年度県民経済計算について(内閣府経済社会総合研究所国民経済計算部) (PDF)
  31. ^ 日経ヴェリタス』2020年3月8日50面「Econo Graphics」
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  41. ^ 寺澤辰麿『ビオレンシアの政治社会史―若き国コロンビアの“悪魔払い”』(アジア経済研究所、2011年)225-226頁
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