日本における評価
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万里集九より:戦国時代の名将太田道灌を讃えるに当たり、その軍略巧者ぶりについて劉裕及び楊素を引き合いとしている。 大塩平八郎より:1837年に勃発した大塩平八郎の乱においては、その檄文中にて「此度の決起は平将門・明智光秀、漢土の劉裕・朱全忠の謀反の類と見られよう」と述べられ、謀反者や簒奪者と同列の扱いとなっている。 田口鼎軒『支那開化小史』:「功を挙げた武閥は帝位を狙う」として王敦・蘇峻・桓温の系譜の末、ついに晋室を覆したものとして劉裕を挙げる。また魏以降天下を取れないにもかかわらず禅譲を繰り返してきた歴代の王朝建立者らはその威徳が代を追うごとに減じた、と評する。 那珂通世『支那通史』:「千人の敵を劉裕がほぼ一人で撃破した」と認識されうる形でその武勇が記されている。その後の論調はほぼ十八史略と同一であるが、ヘビ神の伝説を載せていない分その攻撃性は緩和されている。 松枝茂夫/和田武司『陶淵明全集』:南宋の湯漢『陶靖節先生詩注』が、陶淵明のものした「述酒」の詩意を恭帝を殺害した毒酒に見立てたとを紹介し、あわせて「東晋は酒で滅んだ。その酒を桓玄がつくり、劉裕が潤色した」と紹介する。 吉川幸次郎:『陶淵明伝』:東晋末期の合議政治は是正を要すべき段階に入っており、そのためには素朴な英雄が必要であったとされ、それが劉裕であったとする。無上の博徒であり、劉穆之は劉裕に簒奪の意図ありと気付いたため恥じて死んだと説く。また陶淵明が始皇帝暗殺に失敗した荊軻に大いなる同情心を寄せるのも劉裕への反感のゆえであるとする。 宮崎市定『大唐帝国』:劉裕を擁する北府の台頭に、貴族に頭を押さえつけられたことへの不満があったとした。劉裕の時代に東晋の国威は極大化したが、それはあくまで東晋とは異質な勢力が発生し、東晋の理想を実行したに過ぎない、とした。また禅位後の恭帝殺害を無意味な行いとしたが、その理由を劉裕自身の寿命に求めつつ、その振る舞いを『もと蓋世の英雄が凡夫に成り下がった』と批判した。 川勝義雄:劉裕の属した北府軍は劉牢之の段階から自立的な動きを見せるようになっており、それが桓玄の打倒という大義名分を得て大権を得るに至った、とする。劉裕の台頭は北府軍閥の自己発展の延長上と考える。 劉裕の時代の禅譲劇を「帝位を奪う意図と行為はいよいよいよいよ露骨になりながら、譲り合いの事例と儀式だけがますます美しく飾られてゆく。我々にとって、その虚飾と偽善は嫌味を越えて滑稽な喜劇とすら映る」と語る。しかしそれが求められていたことも検討せねばならない、とする。 吉川忠夫『劉裕 江南の英雄宋の武帝』:一介の匹夫から立ち上がった劉裕は天稟の実行力によって改革を進めたが、ひとたび天子につくとその行動力は色あせ、子々孫々の反映にのみ区々とするようになった、と評する。 川本芳明『中華の崩壊と拡大』:劉裕が権勢を握ったときに司馬國璠や司馬叔道と言った晋の皇族、長江中上流域、西涼の李愔などが劉裕に反発していた事実を挙げ、華北の地域では劉宋の正統性が疑問視されていたことを語る。 劉裕は桓玄こそ打倒したものの、桓温・桓玄と続いた皇帝禅代の流れを汲むものでしかない、ただし即位までの道のりはより慎重であった、とする。 劉裕が南燕を滅ぼし山東の地を獲得することで、倭国と東晋~南朝の通商が147年ぶりに再開された、とする。 藤井律之『失われた古代帝国の秩序』:劉裕は武力を背景に出世街道を突き進んだためその正統性の確立に苦心したが、一方でいち地方政権であることにあまんじたため奪還した旧都である洛陽への還御を必要としなくなり、結果として南朝の安定した統治を招来した、とする。 丸橋充拓『江南の発展 南宋まで』:東晋では貴族が武人として活躍する場面も多かったが、劉裕以後は寒門の武人が軍功を背景に実権を握り政権を樹立、実力主義で上昇を求める寒門層と既得権益を維持しようとする門閥貴族層の緊張関係が生じるようになった、とする。
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日本における評価
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「ジョン・エンブリー」の記事における「日本における評価」の解説
ルース・ベネディクトの『菊と刀』が刊行される前年の1945年にエンブリーはThe Japanese Nation(『日本国家』)を著しているが、邦訳されることはなかった。同じアメリカ人による日本論でありながら、1948年に邦訳された『菊と刀』が広く一般に読み継がれているのとは対照的であり、人類学や民俗学の専門家以外でエンブリーを知る人は多くない。その要因の一つとして、戦後の日本における共同体批判の影響を、田中一彦は『忘れられた人類学者 エンブリー夫妻が見た〈日本の村〉』の中で指摘している。欧米の価値観に基づく批判的な眼差しではなく、ムラの日常生活を当時の日本人と同じ目線で観察したエンブリーは、新規性や批判性に欠けるとされ、ベネディクトの影に隠れてしまったという見方である。その一方で、エンブリーは内外の研究者から高い評価を受けており、『須恵村』は日本研究者の必読書とされ、大学の教科書としても使われている。 須恵村での調査前にエンブリーと面会した鈴木栄太郎は、『須恵村』の書評において「假令一年間日本の村に留まっても、どれ程の事が分かり得ようと私は思った」と当時を振り返りながら、「然し私は今彼の研究の結果『スエ村』を見て凡そ外国人としてこれ以上に日本農民の心を読みとる事は望み得ないであろうと思って居る」と、精緻な観察力を高く評価している。しかし他方では、「要之エンブリー氏は『スエ村』に関し多くの事を識っては居る。けれども彼は殆ど其を羅列した丈であり、未だ科学的に処理しては居ない」として、従来の社会学の方法論の有効性を説いた。 生態学者の今西錦司は、奈良県平野村の農村調査をまとめた『村と人間』の序で、「本書は『スエムラ』をモデルにしたものではない」としながらも、同じインテンシヴ・メソッドを用いており、「一村の全貌をつたえるという点で、『スエムラ』の向うを張るようなものは、まだきわめてわずかしかない」と評している。 戦後に須恵村を調査した民俗学者の牛島盛光は、『須恵村』の書評の中で『菊と刀』と比較して「ジックリ腰を日本農家に下され、文献はあく迄も第二義的に取扱われた『須恵村』の中に、より深い日本人への愛情を感得することが出来る」と評し、「訳書出版の順序としては『菊と刀』より先に出るべき名著である」とした。
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日本における評価
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アーリは日本でもよく知られており、たとえば山本哲士は、リュック・ボルタンスキーやスコット・ラッシュとともに、ピエール・ブルデューやアンソニー・ギデンズによる「滞留した社会理論」の次元を超える思考を紡ぐ研究者として高く評価している。北田暁大は『社会を越える社会学』に対して、「具体性と抽象性を往還するなかで理論が生成していく現場を読者は目撃することになる」「スリリングであると同時に論争的でもある」などと論評している。また、地理学やカルチュラル・スタディーズの研究者からもしばしば参照されている。 研究者以外でも、幅広い読者層を得ており、たとえば、小説家の高村薫は、「自動車移動」に焦点を当てたアーリらの共編著書『自動車と移動の社会学』を「人間の未来を垣間見るような、社会学の最前線」として評価している。さらには、2010年の「今年の三点」にも選出しており、「二十世紀を生きた者なら誰でも身体感覚としてもっている感覚を初めて言葉にしてもらった驚き」などと評している。
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日本における評価
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書評は『歩道橋の魔術師』(日本語版改題『眠りの航路』)に越境する文学を、また同作から『自転車泥棒』に至る著作に戦争記憶を読み取った。 『歩道橋の魔術師』を漫画化した作品は、外務省主催の「第14回日本国際漫画賞」優秀賞を受賞(2020年)。
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日本における評価
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永島広紀は、李は韓国近代経済史研究におけるトップランナーの一人であり、「かつての民族至上主義的な右派とは明確に一線を画する保守論客」と評している。 小倉紀蔵は、李は著名な歴史家の一人であり、「真に勇気のある韓国人がここにいる、という感じだ。これまでは歴史について韓国人がどんなに声高に語っていても、つねに『民族』に遠慮している。『民族』をこわがっている。『民族』の代表者になってしまっている。『個人』の意見を堂々と語っていない。そんな印象を受けていたからだ。もっと自由に語ってもいいはずなのに、できなかった」と評している。 三輪宗弘(九州大学教授)は、李の著書『大韓民国の物語』は高邁かつ知的レベルが高いとしたうえで、「李栄薫の知性と勇気と自由な発想に敬意を払いたかった」「韓国の歴史清算の動きに敢然と立ち向かった知性と勇気」「偽りの歴史で過去を清算し、断罪するようなことがまかり通る国には未来はないという、韓国に対する愛国心が満ち溢れています」「聡明な頭脳」「李栄薫の寸鉄の鋭きを持ち合わせたレーダーは、韓国の病理をスクリーンに鮮やかに映し出してくれます」「李栄薫の保守主義が本物であると私は思いました。錦の御旗の正義感を謳う研究者とは質が違うのです」「日本と韓国の歴史認識が共通の基盤に立てる可能性を引き出した、勇気と知性に満ちた本書に出会え、日韓の歴史認識が怨念から事実に基づいた史実の解明につながる日が近づいたと感じました」「韓国の民族主義を批判するのは李栄薫教授グループの知性にお任せし、いや韓国の良心にゆだね」「素晴らしい歴史家」「江戸時代の天才棋士本因坊秀策の華麗な打ち回し」と称賛している。 鈴木琢磨(『毎日新聞』編集委員)は、これほどの実力を持った知識人が日本では知られておらず、ようやくという感じだという。そして、事実を堂々と開陳され「痛快」の極みであり、委縮していた脳みそが伸びるような、凍っていた歴史が春の日差しに融けだすかのような初めての体験であり、とびきりの上等の教養人であり、専門馬鹿ではなく、知的でユーモラス、同胞を愛しながら溺れず、視野が広く、自らの言葉で歴史を語る感覚は、司馬遼太郎と通じる部分があるという。そして、放っておいたら重症になるかもしれない歴史問題という風邪を退治したい純粋な一念、日本にも広がっているその風邪を翻訳という形で往診に来てくれて慶賀にたえないと評している。 下川正晴は、「いつも本質的な話をする、勇気のある学者」と評し、李の著書『大韓民国の物語』を「韓国に関心のある日本人は、ぜひ読まれた方が良い」と推薦している。なお、永島広紀が翻訳して文藝春秋が出版したのは、下川が韓国外国語大学客員教授を務めていたときに紹介したという。 渡辺利夫は、李栄薫の土地調査事業研究について、「(朝鮮の土地の4割が日本統治時代の土地調査事業を通じて日本に収奪されたとする往時の韓国歴史学界の通説であり、中高生の使う歴史教科書にも書かれているが)土地調査事業は、総督府の土地行政を公正化し所有権を確定するための画期的な試図であったことを立証したのである。真実に徹底的に向き合うことがアカデミズムのすべてだという教授の信条は、日本の温和で穏やかなアカデミズムの世界では想像もできないほどの勇気を要する」「運命の半島という表現が私の頭をよぎる。この半島にあってまっとうな歴史認識にまで到達しようと格闘する知識人の文明批評は実に過酷である」「言説は実に果敢である。フィールドワークによる各地の資料の収集、これにもとづく徹底的な実証が教授の研究の真骨頂である」と評している。
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日本における評価
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「テラビシアにかける橋 (2007年の映画)」の記事における「日本における評価」の解説
2007年10月1日に文部科学省はこの映画を家庭向き選定作品に定めている。 増當竜也はこの映画を『古事記』と照らし合わせたうえで、ファンタジックな描写が弱いものの、必要以上の虚構性におもねない姿勢を評価している。 馬場英美は「無理に泣かせようとしないところに好感を抱いたが、登場する鳥の化け物の連呼する言葉が気になった。」としている。
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日本における評価
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文化大革命が開始された当初、日本には実態がほとんど伝わっていなかったが、1966年(昭和41年)4月14日、全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席上で、郭沫若が「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と、過酷なまでの自己批判をさせられたことが報じられると、川端康成、安部公房、石川淳、三島由紀夫も、連名で抗議声明を発表した。 声明において、 「われわれは、左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものである・・・学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する」 — 「参考作品1」(共同執筆)『三島由紀夫全集』35巻P635(新潮社『三島由紀夫決定版全集36巻』P477) と述べられ、権力の言論への介入を厳しく批判した。 三島の友人の劇作家・評論家の福田恆存も『郭沫若の心中を想ふ』(文藝春秋『福田恆存全集第6巻』に所収)でその言動を「道徳的退廃」として批判したが、郭自身が北京市で行われた文芸会議で「安全地帯にいる者のお気楽な批判だ」と反論している。 1966年に外務省の資料課長(当時)に着任した岡崎久彦によれば、「中国共産党は、ソ連共産党とちがって、革命意識に燃えた同志たちの集まりであり、ソ連型の権力闘争などありえない」と最後の頃まで信じていた外務省の中国専門家たちもついには沈黙せざるをえなくなったといい、当時の中国課長は「毛沢東は、もうわれわれが尊敬していた偉大な毛沢東じゃないんだ」と吐き捨てるように言ったという。北京の通りの名前を「反帝路」、香港を「駆帝城」に変えるなど最初は何のことかさっぱりわからなかったが、1968年10月に劉少奇が失脚したことで毛沢東が復権を画策した権力闘争ではないかとわかったものの、延安時代に結婚を邪魔された旧怨に対する江青の復讐の側面があったことがわかるのには、さらに三年を要したという。 中国国外のメディアがほとんど閉め出される中、朝日新聞社など一部の親中派メディアは、中国国内に残る事が出来た。朝日新聞は、当時の広岡知男社長自らが顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載したが、文化大革命の悲惨な実態は全く伝えられず、むしろ礼賛する内容であった。 その後、文化大革命の実態が明るみに出ると、これらの親中派メディアを除いて全否定的な評価が支配的となった。それまで毛沢東や文化大革命を無条件に礼賛し、論壇や学会を主導してきた安藤彦太郎、新島淳良、菊地昌典、秋岡家栄、菅沼正久、藤村俊郎、西園寺公一らの論者に対し、その責任を問う形で批判が集中している。批判された者はほとんどの場合沈黙を守り、文革終結後も大学教授などの社会的地位を保ち続けた。新島淳良のみ1973年という早い時期に大学を辞任しているが、これは中国から公開しない約束で提供された内部文書を帰国後に公開出版し中国から批判されたからで、文革礼賛の責任をとったのではない。 批判者としては、自由主義の立場に立って、反共産主義、反マルクス主義を唱えた中嶋嶺雄、西義之、辻村明らがおり、中国封じ込め政策にも支持を表明した。一方で、丸山昇、野沢豊らの日本共産党主流派に近いマルクス主義者も「礼賛派」がいかに事実をねじ曲げていたかを厳しく批判した。 評論家の大宅壮一は幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れている様子を「ジャリタレ革命」と批判した。小説家の司馬遼太郎だけは当初文化大革命に肯定的であったが、中華人民共和国を訪れた際、子供に孔子に見立てた人形を破壊させる光景を目の当たりにし転向し反文化大革命、反中国共産党に転じることになる。 加々美光行も批判者たちは自由主義と共産主義とで正反対の政治的ないし思想的立場にありながら、そこには毛沢東の政治的保身に発する権力闘争以上のものでないとして歴史的、思想的意義を認めない立場に立っている点で相似していることを指摘したうえで、「文化大革命は、実際に社会主義理念をめぐる対立に由来するものであり、それゆえ、表面的にはともかく深層においては現代中国を呪縛し続けているのであって、文化大革命が提起しながら未決着のまま残された課題は多く、今後、中国の社会主義の動向、とくに民主化をめぐってその課題は再燃するであろう」と予測している。加々美によれば、現在の中国では、文革時の出身による格差と通じる貧富の格差が極大化、汚職も横行しており、中国国民のフラストレーションが充満しており、習近平体制は汚職撲滅の為の取り締まりを強化しているが、「取り締まりの強化に呼応して、民衆の意識が過激化したらどうなるか。私は文革が絶対に再発しないと言い切る自信はない」として、文革の反省を胸に刻まなければ、と述べている。 現在も「文化大革命は世界同時革命の一環であった」として肯定的に評価する少数論者として、新左翼内の文化的過激派であった平岡正明がいる。また民主党の仙谷由人は与党として行った官僚の更迭や事業仕分けについて、「政治の文化大革命が始まった」と発言している。 谷川真一(神戸大学)は、欧米の現代中国研究は文革を契機に近代化論や全体主義モデルなどシステム論的な研究から、利益集団政治と制度論、集合行為などの理論を用いて中国問題の解明を経てパラダイムシフトを遂げたが、日本の文革研究者(或いは現代中国研究者)は、「文革に関する問い」を共有しておらず、独自の文革論を展開しているため、このような欧米の学問発展に無関心であり、その結果、学問的な理論を軽視したが故に無理論化して日本の文革研究の停滞をもたらした、と述べている。 南モンゴル出身の楊海英によると、日本のテレビ局スタッフが楊海英のもとを訪ねて来て文革の番組ができないか話し合い、文革の被害者が最も多かったのは内モンゴル自治区と広西チワン族自治区であったことなどの世界の最新の研究成果を伝えたが、そのテレビ局はこれらを採用せず、ディレクターは「中国人が嫌がるような、日中友好の障害となりそうな番組は作らないほうがいい」と社内外の意見に押された結果だと述べた。これについて楊海英は、「『嫌がる中国人』とは誰のことか。文革の被害者数については諸説あるが、死亡数は2000万人に上るという政府高官の見解が中国国民に共有されている。この膨大な数の被害者家族らは真相の解明を嫌がるどころか、期待している。だが共産党政権は彼らを抑圧して実態解明を嫌がり、その結果真相解明がなされず和解も進まない。内モンゴル自治区での文革により、モンゴル人は日本のスパイや協力者として殺害されたが、日中友好を掲げる日本人は、日中友好の妨げとなる新たな歴史認識問題に飛び火する危険性がある為、中国が満洲やモンゴルを植民地化してきたことへの言及は避けなければならなくなる。中国国民の真相解明への期待を直視することなく、習近平が嫌がる動きを自粛し、抑圧され続けている中国人が覚醒しても日本人は中国を客体化できていないから、文革が歴史にならない」と批判している。また、「過去に文革を称賛した者や日中友好を宗教のように信奉する人たちを、日本では左派や進歩的文化人と表現する。彼らは普段、人権や正義を看板として掲げている。だが文革に関する実証研究に不熱心である事実を見ると、彼らこそが歴史を反省しようとしない修正主義者だ、と指摘しておかねばならない」「日本はまさに思想やイデオロギーの面から中国を直視できない」「自縄自縛の歴史観と狭隘な文革感」と批判している。
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日本における評価
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日本では、今西錦司の構想に従って、世界に先駆けて霊長類の社会学的研究がすすめられてきた。とくに20世紀後半では、日本の霊長類学の再出発は、欧米の再出発より10年以上も早かった。日本の生物社会の研究は、今西錦司が最初、野生馬社会の研究において適用した命名による個体識別を基礎としている。それによりニホンザルの血縁関係を長期にわたり記録することが可能となり、系統によって文化的能力に差が見られることまで発見された。幸島のサルのイモ洗い行動や麦洗い行動は、年齢や単位集団内の地位により学習速度が異なることのほか、革新的行動をおこす家系までもが発見された。このような発見は、遺伝子中心主義に基づく研究が、個体中心的な行動に偏っていたのに対し、今西錦司は群れ中心的な社会行動の伝承などを強調している。 日本の霊長類学は、その後、アフリカや東南アジアの霊長類の研究にまで拡大されたが、文化(カルチャー)や感情のコミュニケーションなどを排除しない研究に発展した。たとえば、コンゴのワンパでボノボを研究した黒田末寿は、個体間の食物分配に焦点をあて、豊かでダイナミックな社会関係が観察されることを明らかにした。 日本のサル学(霊長類研究)と社会生物学あるいは行動生態学とは、主として視点の違いであり、学問体系として矛盾するものではないが、社会生物学が遺伝子の増殖という観点にこだわりすぎる結果、人間をふくむ霊長類社会を理解する点で、偏った研究と情報を生み出していることに対しては、一般に批判的である。E.O.ウィルソンは、「遺伝子=文化共進化」という概念により、人間を含めた文化的活動を統合しようとしている。しかし、この文化は、ドーキンスが「ミーム」あるいは「延長された表現型」と呼んだものが典型となっており、類人猿とくにチンパンジー属や人間の文化をじゅうぶん捉えきれたものかどうか、大きな疑問がある。とくに生物的能力に支えられてはいるが、文化固有の発展機構については、まったく考察されていない。。
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日本における評価
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太平洋戦争の原因と評価については様々な見解と評価がある。 欧米の帝国主義者と同じくアジア征服を企んだとする見方。 ABCD包囲網やハル・ノートなどによって日本が追いつめられた結果の自衛戦争であったという見方。 自衛戦争と侵略戦争の両面を持つとする見方。 存在意義を必要とした陸海軍の暴走という見方。 ナチス・ドイツの攻勢で空白地帯となった欧米の植民地を狙ったとする見方。 米国は日本に石油・物資を販売しながら、中華民国にも強力な援助を継続しており、日中共に米国と対立して戦争を継続するのは最初から困難であった。米国は日中に対して決定的な影響力を開戦前から持っていたため、太平洋戦争は米国が日本・中国双方を弱体化させる策であったとの見方。 ルーズベルト米国大統領による策略(陰謀)とする見方。 自衛戦争と解放戦争の両方を持つとする見方。 日本陸海軍の戦闘の反省としては、シーレーン確保、補給、護衛という観念が不足、複雑な階級分け、指揮制度の見直しが不十分だったという見方もある。
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日本における評価
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「マリリン・ホーン」の記事における「日本における評価」の解説
以上のような功績にもかかわらず、遅くとも1990年代までの日本におけるホーンの評価は、サザーランドのそれと同じくお世辞にも高いものとは言えなかった。その理由として、ホーンの声が強靭で野太いものだったこと(それこそがロッシーニのオペラの英雄役としての成功を収めた要因であったが)に対する生理的な嫌悪感を日本の評論家たちが抱いていたことが挙げられる。
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日本における評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 00:57 UTC 版)
「本の雑誌が選ぶ SFオールタイムベスト100」第14位 『SF本の雑誌』 本の雑誌社、2009年。
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