開発と設計
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「シコルスキー S-2」の記事における「開発と設計」の解説
S-2はシコルスキーが開発した初の複葉機であるS-1に続き、同年6月に開発された2番目の機体である。S-1は1910年5月上旬に初の離陸試験を行っていたものの、試験が事実上失敗に終わったことから解体されており、S-2は解体されたS-1の主翼を流用して製作された。 S-2の開発に当たっては使用するエンジンや尾翼の形状などに改良が施された。エンジンはS-1と同じくアンザーニ製であるが、より高出力なものが採用され、プロペラのレイアウトも推進式から牽引式に変更された。 1910年6月3日に実施された一度目の飛行試験では地上1.5m程の高さを12秒間で約200m飛行し、7月30日の試験でも600mの距離を42秒間飛行するなど、ある程度飛行には成功していたが、その後の試験で地上約21mを旋回飛行中に失速し墜落した。この際、機体は完全に破損している。
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開発と設計
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「ビーグル B.206 バセット」の記事における「開発と設計」の解説
1960年、ブリストル・エアクラフト社の計画(ブリストル220)としてツインエンジンの小型輸送機計画が始まった。しかし同社の合併が決まったため、社員は計画をビーグル社へ持って行った。1961年8月、最初の試作機(G-ARRM)の初飛行がウェスト・サセックス州のショアハム空港にて行われた。この機体は座席数が5で全金属製の低翼機で、コンチネンタル社製のエンジンを2機積んでいた。この試作機は1990年にサリー州ウェイブリッジ(英語版)にあるブルックランズ博物館(英語版)が取得し、ブリストル航空コレクションに貸し出されていた。また、2011年から17年まではハンプシャー州ファーンボロー(英語版)にあるファーンボロー航空科学基金博物館(FAST博物館)で展示されていた。その後、貸出契約が終了した2017年8月にブルックランズへ戻った。 2機目の試作機(G-ARXM)は1機目よりも少し大きく、座席も7席設置された。さらに航空省の試験のために2機が製造され、その後イギリス空軍から20機の注文が来た。空軍ではバセットCC.1という名称が与えられ、レスターシャー州のリーズビー飛行場内にある工場で生産された。 最初の生産機にはロールス・ロイス社製のエンジンが使用され、1964年7月に初飛行した。第2シリーズにはコンチネンタル社製のターボチャージャー付きエンジンが使用され、65年7月に初飛行した。またこの第2シリーズから大きな貨物扉が取り付けられた。この機体は主にエアタクシー業者に人気であり、オーストラリアのフライングドクター用にも3機が製造された。 第3シリーズでは座席数を10席に増やしたが、飛行したのは2機だけだった。そのうち1機は風洞実験で使用された後に第2シリーズに転用され、もう1機は生産中に設計変更がなされたのちブラジルへ売却された。もう1機が製造途中であったが、模型だけにとどまり実際の飛行はなかった。その後B.121 パップ(英語版)の製造ラインを開けるため、バセットの生産は79機で中止となった。
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開発と設計
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「R-5 (航空機・ソビエト連邦)」の記事における「開発と設計」の解説
R-5は、ソ連空軍の標準的な軽爆撃機兼偵察機として運用されていたR-1(ロシア語版)の後継機として、1928年にニコライ・ニコラエヴィチ・ポリカールポフが率いるポリカールポフ設計局によって設計された。 輸入されたドイツ製BMW VI V-12エンジンを搭載した原型機は、1928年秋に初飛行した。原型機は主に木製で、上翼が下翼よりやや長く、左右各一本の翼間支柱をもつ複葉機だった。 長い評価期間の後、BMW-VIのライセンス生産品ミクーリン M-17を搭載したR-5は偵察爆撃機として1930年に生産に入った。水上機や地上攻撃機、民間輸送機としてさらなる改造型が生産された。 R5-SSS(ССС)は流線型に改良された改良型偵察爆撃機で、R-5に続いて生産されたR-Zの基礎となった。
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開発と設計
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R-Z または R-Zet はモスクワのGAZ No 1(英語版)で、ソ連空軍の標準的な軽爆撃機だったポリカルポフ R-5の改良型、また代替として開発された。R-5の派生型の中で最も先進的だったR-5SSSを基にしたR-Zは新たな、より深いモノコック式の胴体と、操縦士用のスライド式キャノピー、観測員用の窓のついたフェアリングを備えていた。544 kW (730 hp) M-17F エンジン(BMW VIのライセンス生産品)は 611 kW (820 hp) M-34 エンジンに変更された。R-Zは1935年1月に初飛行し、 同じくR-5の派生的なコチェリギン LRとの競争に勝利し、ソ連空軍に採用された。生産の終了した1937年の春までに1,031機のR-Zが製造された。
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「La-152 (航空機)」の記事における「開発と設計」の解説
1946年夏、La-150の開発で得た成果を元に、より高い性能と整備性改善のため劇的な変更を加えたジェット戦闘機の開発を開始した。8.8 kN(2000 lbf)の推力のRD-10エンジンは機首まで移動され、胴体前方の底部に位置した。これにより吸気管の長さに起因する推力の低下を最小限に抑え、エンジンの交換を容易にした。コックピットは拡大され、ジェットノズル及び主翼と同じ位置に配置した。座席の後ろに装甲板を装備し、コックピット前方は装甲板と防弾ガラスでパイロットを保護した。3つの燃料タンクをコックピット前方に、もう1つは後ろに設置し、総容量は620 kg(1,370 lb)となった。取り外しの可能な中翼配置の主翼は、スパン方向に渡って異なる層流翼を用いた。各翼は単一のスパーによって支えられ、スロット付きのフラップとエルロンを有した。三輪式の降着装置は胴体に格納される方式を取ったが、これは左右の主脚の間隔が非常に狭くなる事を意味した。武装は当初N-37機関砲を2門装備する予定だったが、設計途中でNS-23機関砲4門に変更され、最終的には機首右側に2門、左側に1門の計3門を各50発で装備する事となった。
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「La-160 (航空機)」の記事における「開発と設計」の解説
1940年代当時のソ連の技術力では、ジェットエンジンを以てしても音速の壁を超えるには不十分であることが設計者によって明らかにされていた。これを克服するにはエンジン推力の向上に加え、主翼を新しい空力学的構成に切り替える必要があった。その最も効率的な手段として、主翼を後退させることにより後退角効果を持たせる事と、より薄い翼型を作る事が挙げられた。しかし後退翼の開発は非常に綿密で多様な研究と実験を必要とし、戦後ソ連とアメリカの設計者はその多くをドイツより持ち寄られた研究結果を参考にしていた。 1946年、S.A.ラヴォーチキンとその設計局は、TsAGIの研究結果を元に開発された主翼が35°の後退角を持つLa-160の開発を開始した。エンジンはアフターバーナー能力を有するRD-10YuF ターボジェットエンジンが使用され、La-152と類似したポッドアンドブーム方式の機体構成を採用した。エンジンにはアフターバーナーを冷却出来る構造が組み込まれており、ノズル部分を外側から流れる空気流により冷却した。後退角の付けられた主翼は後縁の内側半分にフラップ、外側半分にエルロンを装備し、後に翼上面には各2箇所の境界層フェンスが装備された。降着装置は他のラヴォーチキンの開発する戦闘機と同様に3輪式で胴体に格納される方式を取り、これは主翼の薄型化に貢献した。コックピットはLa-156と同様の射出座席を装備した。武装は元々NS-23機関砲を搭載する予定だったが、途中でN-37機関砲を2門、各30発で搭載する事になった。
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「La-174TK (航空機)」の記事における「開発と設計」の解説
1947年、ラヴォーチキン設計局はイギリスより輸入したロールス・ロイス ダーウェントエンジンをコピーしたRD-500を搭載する戦闘機の開発を開始した。La-154の設計を基に、RD-500を搭載するために機首を延長し、主翼は6%程薄くなった翼に再設計され、3門の機関砲はNS-23からNR-23に変更し大きなエンジンとの干渉を避けるため機首の側面から下部に移された。尾翼の面積も拡大された。
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開発と設計
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「La-150 (航空機)」の記事における「開発と設計」の解説
ラヴォーチキン設計局は1945年2月にユンカース ユモ 004ターボジェットエンジンを使用した戦闘機の開発を命じられた。TsAGIによる助言の元、同時期に開発が命じられていたミグ設計局のMiG-9と同様に高翼式の翼を採用し、ポッドアンドブーム(筒状の胴体に細い尾が付く形)のレイアウトとした 。翼は全金属製とし、スロッテッドフラップを装備した。視認性を良くするためコックピットは胴体の前寄りに配置し、パイロットの保護のためヘッドレストは防弾化された。武装はNS-23 20mm機関砲を胴体下側に2門、各75発として装備。エンジンはユンカース ユモ 004をソ連でコピーしたRD-10エンジンに改めコックピット後方に配置し、機首の吸気口から空気を取り込むようにした 。燃料タンクは胴体に5箇所、翼に各1箇所の計7つのタンクとし500kgの燃料を積めるようにした。 1945年6月には第81号工場にてモックアップが完成したが、この工場は他のプログラムでいっぱいであったため、第381号工場で5機のプロトタイプが製作されることとなった。しかし、8月末には設計図が渡されていたが第381号工場は金属製航空機の製造経験が無く、必要な金型も不足していたため開発が遅れ、1945年は年末に静荷重試験のためのモデルが作られるに留まった。1946年、静荷重試験の結果、後部胴体、翼及び尾部を強化する必要がある事が判明し、垂直尾翼の拡大などの改修にも伴い最初の試作機が完成するまで6カ月の期間を要した。そこから更に地上試運転と2度のエンジン交換を行い、初飛行は9月11日に行われた。 初飛行の翌日、十月革命を記念して11月7日に行われるパレードにおいて、閣僚理事会は各OKBに対して少数のジェット機を参加させる事を命じた。非常に厳しい期限のため、未完成の試作機2機がヒムキに出来た新しいラヴォーチキン設計局の本社である第301号工場へ送られた。ゴーリキー(ニジニ・ノヴゴロド)にある第21号工場は第301号工場の支援により、記録的な早さで3機の機体を完成させた。工具は5日から10日の期間で揃えられ、最初の機体の組み立てに掛かった期間は1週間半だった。
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開発と設計
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「La-156 (航空機)」の記事における「開発と設計」の解説
1946年、RD-10エンジンにアフターバーナー能力を付与したRD-10YuF(YuMO - forced)エンジンが開発されると、ラヴォーチキンはこれをLa-152に換装した機体の開発を行う事とした。RD-10YuFは従来のエンジンと比較して30%推力が増し、その推力はベンチテストで1,240 kgfに達した。1946年11月22日、La-152D(Izdeliye 152D)として設計を開始し、12月23日にはLa-156(Izdeliye 156)と改めた。La-156は新しいエンジンに加え、翼面積の増大と燃料タンク容積の増大、射出座席の装備とそれに合わせて改良されたキャノピー、追加の防弾装備等いくつかの改修もなされた。La-156は準備の整わないリューリカ TR-1エンジンを積むLa-154の代わりとして独自のイニシアティブを発揮した。
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開発と設計
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「Yak-25 (航空機・初代)」の記事における「開発と設計」の解説
1947年3月11日、ソビエト連邦人民委員会議が下した命令により、ヤコブレフ設計局はYak-19に類似したより高速な直線翼戦闘機を開発する事となり、Yak-23の開発と並行してロールスロイス ダーウェントV ターボジェットエンジンを搭載したYak-25の開発を開始した。Yak-25はソ連の戦闘機として初めて完全な与圧コックピットを持ち、空調や射出座席、胴体の油圧式エアブレーキなどいくつかの技術革新の先駆けとなった。 Yak-25は細密ではないが、Yak-19と非常に近いレイアウトを用いた。主翼である直線翼は平面図ではよく似ているが、部分的に層流を用いた極めて薄く、より大きな翼となっている。CAHIの協力により油圧駆動式のフラップを装備し、Yak-19と比較して垂直尾翼は前縁が40°に引き伸ばされ、水平尾翼は35°の後退角を持たせた。 ダーウェントVエンジンはYak-19と同様に胴体中央に取り付けられた。胴体はYak-19と異なる非円形の断面を持ち、主翼後方の2重隔壁の部分から完全に後部胴体を取り外せるようにした事で、エンジンの取り外しやメンテナンスが行いやすくなった。着陸装置はYak-19とよく似ていた。 コックピットは今までのヤコブレフジェット戦闘機と類似していたが、コンプレッサーブリードエアを使用したエアサイクルシステムによりコックピット内を加圧していた。キャノピーは後方にスライドする開閉方式を採用した。フロント部は厚さ57mmの防弾ガラスと、座席後ろの8mmの防弾板によりパイロットを保護した。射出座席はYak-19のものより改良され、射出時の首への負担が軽減された他、より長い射出距離になった。武装も改善され、NR-23機関砲を3門各75発で搭載した。
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開発と設計
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「モラーヌ・ソルニエ AI」の記事における「開発と設計」の解説
AIは時代遅れとなったモラーヌ・ソルニエ Nの後継機として開発された。エンジンは前方が開いた円形のカウリングで覆われていた。パラソル式の主翼には後退角がつけられていた。胴体の円形断面の部分の縦通材と肋材は木製、後部は羽布張りで、張線で補強されていた。生産型は、機関銃1挺装備のタイプがMoS 27、2挺装備のものがMoS 29と呼ばれた。
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開発と設計
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1992年4月にドイツ航空宇宙センター(DLR)は、大気圏内の成層圏と気候を調査する航空機の開発を開始した。航空機製造への複合材料の利用と1996年に運用開始予定だったイーグレット観測機の開発の成功という経験を買われて、これらの要求に合致する航空機の設計と製造にグロプ・アエロスペース社が選定された。 高度24,000 m (78,700 ft)での48時間の飛行運用という要求に応じるためにグロプ社は、スパン56.5 m (185 ft 4½ in)という非常に高いアスペクト比の主翼を持つ双発機を設計した。この主翼はウィングレットを備え、T字型尾翼を持つ胴体の上面に取り付けられていた。2名のパイロットにより操縦されるように設計され、2名の科学者と関連する実験機器が与圧されたキャビン内に搭載された。ギャレー、休憩施設、トイレも備え付けられていた。 単発ターボプロップエンジン機のイーグレットとは異なりG-850は、ターボチャージャー付ピストンエンジンと高高度でそれに常時加圧された空気を送り込むためのガス発生器を稼働させるPW127ターボプロップエンジンを組み合わせた複合エンジンを2組搭載して推進式に配置していた。この方式は高高度でも出力を維持するために有利であった。各々のエンジンは直径6 m (19 ft 8 in)の5枚ブレードプロペラを駆動した。 機体製造のための型の製作は1992年11月半ばに、機体自体の製造は翌年の4月にまず尾翼から始まった。1994年に機体が完成するとエンジンの装着が始められた。
※この「開発と設計」の解説は、「グロプ G-850」の解説の一部です。
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開発と設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 02:50 UTC 版)
「HJ-8 (ミサイル)」の記事における「開発と設計」の解説
1977年に開発計画が正式決定される以前、1970年代初頭より、既に中国はSACLOS方式の対戦車ミサイルの開発に着手していた。ただし、この新世代対戦車ミサイルに対して提示された要求は多くの挑戦を要求したことから、開発は難航した。開発に際しては、フランスより調達されたHOTが参考にされたとされている。 HJ-8は、誘導方式として赤外線による有線式SACLOSを採用している。昼間の射程は、当初は3,000メートルであったが、のちの改良で4,000メートルに延伸された。装甲貫通能力も、当初は均質圧延鋼装甲(RHA)換算で800ミリメートルであったが、のちの改良で1,000ミリメートルとされたほか、爆発反応装甲対策としてタンデム弾頭の採用も行われた。 ミサイルは、円筒型コンテナ内に密封されており、このコンテナごと発射機に装填される。重量上の問題から人力担送は困難で、BGM-71 TOWや79式対舟艇対戦車誘導弾と同様に、軽車両で輸送して軽車両上ないしは地上に降ろして三脚上から射撃されることになる。運用人員は4名。また、85/89式装甲兵員輸送車や92式装輪装甲車に4連装発射機を搭載した対戦車車両型も確認されている他、WZ-9武装ヘリコプターにも8発まで装備可能である。
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開発と設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 01:23 UTC 版)
2018年9月7日、防衛事業庁は現代重工業が大韓民国海軍に宗陽を引き渡したと発表した。
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開発と設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 00:44 UTC 版)
「アーチャー対戦車自走砲」の記事における「開発と設計」の解説
17ポンド砲は優れた能力を有する対戦車砲だった。一方で、サイズ・重量ともにかさんだために戦場での移動には車両による牽引が必要であり、防御戦はともかくとして攻勢の際に真価を発揮させることは難しかった。そのため、17ポンド砲を車両に搭載し機動力を持たせる試みがなされることとなった。台車としては、生産継続中であるにもかかわらず新兵器の登場により急速に旧式化しつつあったバレンタイン歩兵戦車が選ばれた。同時に、チャレンジャーやシャーマン・ファイアフライといった17ポンド砲搭載戦車の開発も急がれた。 バレンタイン歩兵戦車は比較的小型の車両であり、17ポンド砲を砲塔に搭載することは不可能だった。代わりに砲塔のあった部分に背の低い単純な形状のオープントップ式戦闘室が設けられ、車体の後方へ向けて主砲が取り付けられた。この主砲配置のため全長を短く抑えることができた。 当初、主砲を後ろ向きに配したことで運用上の制約が生じると思われていたが、実際には敵に攻撃を加えた後に、車体の向きを変えることなく迅速に別の射撃位置に移動することが可能という長所となり得ることが判明した。その低姿勢と相まってアーチャー対戦車自走砲は優れた待ち伏せ兵器として威力を発揮できた。 なお、本車について「操縦席が砲尾と干渉する位置にあるため、操縦手は射撃時は退避しなくてはならなかった」と解説されていることがあるが、閉鎖器は操縦席の真後ろに位置しているものの、主砲を発射しても砲尾が操縦席部分まで後座することはないため、射撃時に操縦手が車外へと退避する必要はない。
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開発と設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 17:18 UTC 版)
1952年6月、アメリカ海軍から小型攻撃機XA4D-1の発注を受けたダグラス社は、設計主務者をエド・ハイネマンとして設計を進めた。ハイネマンは「軽量、小型、空力的洗練を追求すれば自ずと高性能が得られる」とのコンセプトに基づき、海軍側の見込んだ機体重量14tの半分に満たない6.7tという小型かつ軽量な機体に仕上げた。1952年10月には前量産型YA4D-1の発注も行われている。 1954年6月22日に初飛行。1955年10月15日には量産3号機が500km周回コースの速度記録を達成している。 A-4はデルタ翼を持つが主翼を折り畳まずに航空母艦のエレベーターに積載できる機体規模で、爆弾倉を省略し外部兵装は翼下パイロンに搭載することとされた。 折り畳み機構や爆弾倉の廃止はそれぞれ主翼部や胴体部の軽量かつ頑丈な設計に貢献した。翼下パイロンに搭載物を外装するには搭載物の抗力(空気抵抗)低減が欠かせないが、搭載するMk.80シリーズのAero 1Aと呼ばれる8:1の全長直径比を持つ低抗力の外形は、本機の主任設計者ハイネマンによる1946年における研究に基づくものである。 その他にも方向舵は1枚の薄板を両面から桁で補強する(A-4B以降)など、構造を簡潔にまとめて小型軽量ながら堅牢な機体に仕上がっており、このクラスの機体としては異例とも言える兵装搭載量を持ち、小型の空母や900~1,200m程度の野戦滑走路でも十分に作戦できる離着陸性能を有していた。 この完成度の高さと簡潔さを併せ持つ機体設計は、信頼性・経済性においても優秀なものであった。たった6本のボルトを外すだけでエンジンを取り出せるなど整備性にも優れ、安価であることから数多くの国で導入された。アメリカ軍で余剰化した機体が再生・改修の上で輸出された例も多い。 1967年にマクドネル・エアクラフト社と合併し社名がマクドネル・ダグラスに変更されて以後もA-4の改良・生産は継続され、1979年の製造終了までの25年間に、各型合計2,960機が製造された。 この間にベトナム戦争に参加し、イスラエルに供与された機体は第四次中東戦争に投入された。また、フォークランド紛争ではアルゼンチン軍の機体としてイギリス軍を攻撃した。さらには1991年の湾岸戦争時にもクウェート空軍のA-4KUがイラク空爆に参加した。 軽量で強靭な機体であったため「ハイネマンのホットロッド」とあだ名され、操縦のしやすさから練習機としても運用された。また、良好な運動性からアメリカ海軍戦闘機兵器学校(通称トップガン)においては仮想敵機役となったり、アメリカ海軍のアクロバット飛行チームであるブルーエンジェルスで使用されたりした。 高い機動性により、空対空戦闘で敵戦闘機を撃墜した事例も存在する。ベトナム戦争中の1967年5月1日、アメリカ海軍の空母ボノム・リシャールから離陸した"VA-76 スピリッツ"攻撃飛行隊のセオドア・R・スワーツ少佐の操縦するA-4Cスカイホークが、北ベトナム軍所属のMiG-17を対地攻撃用のズーニー・ロケット弾で撃墜した。スワーツ少佐はこの功績によりシルバースターを授与された。 1970年5月12日には、イスラエル空軍第109飛行隊の飛行隊長であり、"ミスター・スカイホーク"のニックネームで呼ばれたエズラ・ドタン大佐の操縦するA-4Hスカイホークが、2機のシリア軍所属のMiG-17を、対地攻撃用のロケット弾およびDEFA 30mm機関砲でそれぞれ撃墜した。 アメリカでは退役済みであり、高等練習機としてTA-4を長く使用してきたイスラエル空軍とシンガポール空軍でも、アレーニア・アエルマッキ M-346に更新されて退役した。艦上機としてはAF-1の名称で、ブラジル海軍の空母「サンパウロ」が2017年2月14日に退役するまで運用された。また、各国で退役した機体にはドラケン・インターナショナルなどの民間軍事会社に払い下げられて引き続き飛行しているものもある。
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開発と設計
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「ベル 309 キングコブラ」の記事における「開発と設計」の解説
本機の開発計画は1971年1月にベル社によって発表された。プロトタイプとしてAH-1Jと同様のT400-CP-400を搭載した双発型と、T55-L-7Cを搭載した単発型が製作され、それぞれ1971年9月10日と1972年1月に飛行試験が実施された。この2種類の機体はエンジンを除きほぼ同一の設計であった。なお、単発型は1972年9月に事故で破損したため、その後の単発型の試験は双発型を単発エンジンに換装して続行された。 ベル 309は「ノスリの嘴」と形容される特徴的な長い機首とテールブーム下部にある小型の短翼が特徴であり、その他にもAH-1Gから1.09m延長されたテールブーム、直径15mの新型ローターブレード、M197機関砲の大型ドラム弾倉、16ヶ所のウェイポイントを事前に保存できる慣性航法装置、FLIRやLLTV、レーザー距離計、ミサイル誘導システムを含む戦闘用センサーシステム、および上記のセンサーに対応するヘッドアップディスプレイなど複数の改良が追加されていた。特にベル 309に搭載されたセンサーやアビオニクスの技術は本計画以降のAH-1シリーズの改良にも生かされた。
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開発と設計
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「ライカミング O-145」の記事における「開発と設計」の解説
O-145は大きく分けて出力の異なる3種類のバージョンが設計された。出力55 hp (41 kW)のO-145-A、出力65 hp (48 kW)のO-145-B、出力75 hp (56 kW)のO-145-Cである。実際に生産されたO-145の大部分はO-145-Bであり、「A」バージョンと「C」バージョンの生産数は少数であった。 いずれのバージョンもシリンダーのストローク、ボア、容積は同じで、BバージョンやCバージョンにおける出力の向上は圧縮比を増すこと、回転数を上げることによってなされた。キャブレターにはストロンバーグNA-S2またはNA-S2A、マーベルMA-2またはMA-2-Aが使用された。二重点火方式の後期型では、マグネトー式点火装置としてシンティラSF-4L、SN4LN-20、SN4LN-21、スペリオルSMA-4、エディソン・スプリットドルフRMA-4のいずれかが2個ずつ使用された。 基本となるO-145-Aは回転数2,300 rpmにおいて出力55 hp (41 kW)を発揮した。重量は165.5 lb (75 kg)であった。直後に競合するコンチネンタル・モータースのO-170エンジンが改良され、その出力が65 hp (48 kW)/2,300 rpmに向上すると、ライカミングはこれに対抗してO-145の出力を向上させたO-145-BおよびCを開発した。O-145-Bは回転数を2,550 rpmに上げて最高出力を65 hp (48 kW)とし、O-145-Cでは回転数を3,100 rpmまで引き上げて最高出力を75 hp (56 kW)とした。しかし余裕のない排気量で無理に高出力を狙ったために、出力特性はトルクが急変動するなどかなり神経質なものとなってしまった。 GO-145は減速機を内蔵した姉妹機で、C型系列をベースに1938年に開発された。この減速機の減速比は27:17 (1.59:1) で、出力75 hp (56 kW)時にエンジン回転数が3,200 rpm、プロペラ回転数が2,013 rpmとなる設計であった。減速機はエンジン本体の前面にボルトで取り付けられ、合計重量は193 lb (88 kg) に増加した。スターターやジェネレーターは搭載していない。 GO-145は減速機関連の不調をたびたび起こしたため、ユーザーからは信頼性の低いエンジンであるという評判が立った。パイロットがエンジンの取り扱いを誤ると極端に巡航回転数が落ち、減速ギアの摩滅を招いたのである。 1950年11月2日に、1941年8月1日以来生産されていないO-145-B1、C1、GO-145-C1の型式証明が無効となった。1949年8月24日以降に製造されたO-145-B2、-B3、-C2、GO-145-C2、-C3の型式証明はその後も有効とされた。ライカミングはO-145の製造終了後、後継機種としてO-235を開発した。
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開発と設計
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「シコルスキー S-4」の記事における「開発と設計」の解説
シコルスキーS-4は、1910年12月13日の試験中に墜落したS-3を基に開発した複葉機であり、イーゴリ・シコルスキーが設計した固定翼機としては4番目の機体に相当する。 S-4の製作にあたっては、S-3に搭載されていた40馬力のアンザーニ製3気筒エンジンを初め、複数の部品が流用された。機体の開発は1910年12月下旬から始まり、翌年の春に完成した。 S-4はシコルスキーが開発してきたそれまでの固定翼機とは異なり飛行試験が実施されず、1911年春にハリコフで開催された航空展示会に出品された後に解体された。
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開発と設計
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「シコルスキー S-5」の記事における「開発と設計」の解説
S-5はシコルスキーの開発した5番目の複葉機である。開発はS-4とほぼ同時期に開始され、1911年4月下旬に完成した。 S-5はそれまでシコルスキーが製作した機体よりも多少大型であり、エンジンもアンザーニ製のものからドイツ帝国のアルグス社が製造するエンジンに変更された。このエンジンは水冷式であったことから、空冷式のアンザーニ製W型3気筒エンジンより重量が嵩んだが、その反面信頼性は高く安定した飛行を行うことができた。また、S-5では機体の制御もエルロンやエレベーターを個別のレバーで操作する方式からコントロール・ホイールで操作する方式に変更された。このコントロール・ホイールにはエンジン点火を一時的に停止させ、出力を制御するボタンが装備されている。 完成したS-5は、20秒から30秒間の直線飛行訓練を3週間実施した後、5月17日に本格的な飛行試験を行った。この試験で4分間に渡り飛行したS-5は、シコルスキーの設計した固定翼機としては初めて離陸した地点に帰還し着陸することができた。 1911年8月18日にはシコルスキー自身がS-5を使用してFAI(国際航空連盟)のパイロットライセンスを取得した。また、その夏に実施された試験では30分間の飛行を複数回こなし、高度500m、距離87km、飛行時間52分、対地速度125km/hという4つのロシア記録を獲得した。 シコルスキーは同年9月、ロシア帝国陸軍の軍事訓練に招待され、その場で飛行したS-5は陸軍所有機よりも優れたパフォーマンスを発揮した。 10月にはキエフ近郊のベラヤツェルコフで開催されたカントリーフェアで展覧飛行を行ったが、離陸直後にキャブレター内に蚊が詰まったことによりエンジンが停止しそのまま墜落、機体は完全に破損した。S-5の墜落までの合計飛行時間は9〜10時間程度と見られている。
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開発と設計
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「IMAM Ro.63」の記事における「開発と設計」の解説
ドイツからフィーゼラー Fi 156 シュトルヒ機を購入したことによりSTOL航空機への関心が高まり、1939年6月にイタリア空軍(Regia Aeronautica)はイタリアの航空機メーカーに類似の機体(下記を参照)の開発を打診した。 IMAM Ro.63は胴体と主翼が木製、羽布、金属の混合構造であった。初飛行は第二次世界大戦勃発直後の1940年6月に行われ、他のイタリア製航空機との比較テストにかけられRo.63は明確な優位性を示した。 Ro.63はFi 156 シュトルヒに似たSTOL性能を持っていたが、より大型の機体は4名を乗せることができ主翼にはより大容量の燃料を搭載できた。280 hpのヒルト製エンジンと定速プロペラで最高速度は240 km/h、航続距離は1,000 kmであった。しかしFi 156 シュトルヒがC型以降に防御武装を持っていたのに対しRo.63は武装を持っていなかった。 ジョヴァンニ・ガラッソ(Giovanni Galasso)設計、アルド・リガボ(Aldo Ligabò)によりテストされたこの機は成功作であり、150機が発注されたが1940年半ばから1941年の間に僅か6機しか製造されなかった。この原因は入手できるエンジンの不足にあり、ドイツ製エンジンは生産中止になりイタリアのエンジン製造業者は十分な数のイソッタ=フラスキーニ製'ベータ'('Beta')エンジンを量産することができなかった。 Ro.63は発展可能性のある機体であり戦争開始前に開発が終了していたにも関わらず限られた機数(実際には前量産型の生産のみ)しか生産されなかった。この機種はイタリア製エンジンの不足により命脈を絶たれた。Ro.63の性能は強力なエンジンと2速プロペラのお陰でFi 156と比較して速度と航続距離で優っていたがSTOL性能のみは幾分劣っていた。
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開発と設計
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「ユンカース ユモ 213」の記事における「開発と設計」の解説
1930年代後半に量産に入ったJumo 211には"open cycle"を基本とした通常の液冷システムが使用されており、冷却水はポンプによってエンジン内を循環し冷却していた。このシステムでは冷却液の沸点は気圧の小さな変化でも大きな影響をうけた。これは航空機が上昇するにしたがって気圧が下がり、冷却液温度が一定でも沸点が下がることを意味する。これはラジエーターの容量増大にもつながり、重量や前面投影面積(空気抵抗)の面でも不利となる。 対照的にダイムラー・ベンツのDB 601は、どの高度でも同じ圧力を維持し冷却水の沸点を110℃に保つ加圧システムを使用していた。これによりDB 601は少ない冷却水で十分な冷却能力を維持し、どの高度でも安定した冷却能力を持っていた。また、DB 601はJumo 211より軽量で小さく、高高度でも高い出力を出すことができ、戦闘機のエンジンとして主流の地位にあった。そのためJumo 211は“2線級”のエンジンとして、爆撃機や輸送機に用いられていた。 ユンカース社はこの状況に満足せず、1938年には加圧冷却方式の開発を始めた。Jumo 211で実験を行い、成功を収め、高出力小型エンジン開発の糸口をつかんだ。さらにクランクシャフトを強化して過給圧を高めるために過給器を完全にシュラウドで覆ったことで、Jumo 211FはJumo 211Aの1000PSから1,340PS(1,322hp、986kW)に向上した。 向上した冷却能力にあわせてシリンダーブロックを小型化し、さらに過給圧を上げた結果、Jumo 213Aは3,250rpmで1,750 PSを発揮するようになった。これは同クラスのエンジンであるDB 601Eの1,350 PSよりはるかに出力が高く、より大型のDB 603に匹敵する出力であった。 ユンカース社はDB 603の市場を狙う事を決め、「"ポン付け(dropped in)"」で換装できるようにJumoエンジンの標準となっていたエンジン右側に位置する過給器用吸気口以外のエンジン・マウントや各種液体配管の取り付け位置をDB 603と同じように配置した。(ダイムラー・ベンツの倒立V12エンジンは基本的に過給機を左側に取り付けていた)Jumo 213Aは完成したのは1940年だが量産に手間取り、まともに量産が始まったのは1943年からだった。生産ラインはJumo 211の生産で手一杯で、Jumo 213Aの量産はなかなか進まなかった。Jumo 213Aは1944年ごろには量産されるようになっていたが、そのころには連合軍の爆撃が始まり、生産ラインは度々停止した。Jumo 213Aは1944年、1945年の間、月産約400 - 500基ほどだった。 Jumo 213はユンカースJu 188/Ju 388、フォッケウルフFw190およびTa152等、第二次世界大戦後期の航空機のエンジンとして重用された。
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開発と設計
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「Yak-19 (航空機)」の記事における「開発と設計」の解説
1946年6月、ソビエト連邦人民委員会議はアレクサンドル・ヤコブレフを含むいくつかの設計局に対しリューリカTR-1ターボジェットエンジンを搭載する単座のジェット戦闘機の開発を指示した。要求としては海抜で850km/h、高度5000mで900km/hを発揮し、その高度まで3.8分以内に到達出来、航続距離は700km以上というものだった。ヤコブレフとその開発チームは、以前開発していたYak-15及びYak-17の派生型では厚い翼のために必要な速度に達する事が出来ず、1から開発し直す必要性があると考えた。準備作業ではヤコブレフ設計局が今まで開発してきたジェット戦闘機と同様のポッドアンドブーム式(筒状の胴体に細い尾が付く形)のレイアウトを採用したが、コックピットはエンジンの前に配置する事とした。TR-1エンジンは開発の遅れに悩まされており、ヤコブレフはRD-10エンジンを使用した設計に尽力していた。 6月の下旬にはエンジンを胴体中央に搭載した、より空力的に洗練された「管状」のレイアウトとする事になった。TR-1やロールスロイス ニーン、ロールスロイス ダーウェント等のエンジンが試作機に供給できない事が明らかとなったため、最終的にRD-10のアフターバーナー搭載型を装備する事で落ち着いた。最初の試作機は非常に厳しい期限の中、1946年11月29日に完成した。 Yak-19は金属製のセミモノコック構造で扁平な楕円状の胴体となっており、胴体前方に涙滴型風防で単座のコックピットが設けられた。コックピットの後ろに推力1,100 kgf(2,400 lbf)のRD-10F軸流ターボジェットエンジンを装備した。エアインテークは機首に、排気ノズルは胴体最後方にそれぞれ配置された。三輪式の降着装置を有し、主脚は胴体の内側に、前輪は胴体前方に引き込まれる構造となった。主翼は層流翼型で、2つの翼桁で支えられた直線翼を胴体中央に配置した。主翼にはフリーズ型のエルロンと、ファウラーフラップが装備された。水平尾翼は垂直尾翼の中間に位置し、2つに分けられたラダーを備えた。水平尾翼の上部は布で覆われ、下部は金属で構成された。パイロットはコックピット前方の防弾ガラスと装甲版で保護され、更に射出座席も装備された。Yak-19は合計650 kg(1,430 lb)の燃料を胴体の4つの燃料タンクに分けて搭載した。武装は機首にNS-23機関砲を2門、各70発で装備した。
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開発と設計
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「KLJ-7 (レーダー)」の記事における「開発と設計」の解説
KLJ-7は、機械制御式平面アンテナを採用しており、1990年代に輸入された各種のロシア製レーダーとの共通点がある。ロシア製レーダー設計会社であるファゾトロンとNIIPは、中国のレーダー設計局と緊密な協力関係を築いており、中国企業が独自の設計を行う際のベンチマークとして利用していたロシア製レーダーの運用モデルや技術支援を行った。1990年代半ばには、ファゾトロンのゼムチョーグ(真珠)レーダー最大20基と、ファゾトロン-NIIRのRP-35の2基が導入されて評価された。 KLJ-7V1は、視界外射程(BVR)と近距離空対空モード、地上監視モード、強力な対ジャミング機能など、複数のモードを搭載している。最大40のターゲットを管理し、そのうち10のターゲットを捜索中追尾モードで監視し、2つのBVRターゲットに同時に射撃できると報告されている。3平方メートルのRCSを持つターゲットの検出範囲は、≧75 km (ルックダウンモードで≧35 km)という。海上の目標は最大135kmを検出可能。短距離ミサイルPL-9Cや視界外射程 PL-12(SD-10)空対空ミサイルなど、中国の最新の空中発射兵器のほとんどはKLJ-7に支えられている。また、KLJ-7は NATO兵器にも対応するモードを持つと報告されている。 パキスタン航空コンプレックスのプログラム担当者によると、「このレーダーで飛行した」だけでなく、「タレスRC400のような他のモデル」も飛行し、JF-17軽量戦闘機用に評価した結果、「中国のレーダーは現代の類似品と同等の能力を持っている」ことが判明したという。 KLJ-7V2という、より強力なモデルが製造された。
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